「あの世 この世」「あの世 この世」瀬戸内寂聴、玄侑宗久対談集、新潮社共に僧侶であり作家であるお二人のお話は、とても面白いし説得力もある。 私は玄侑宗久氏の著作はまだ読んでいないのだが、読んでみたいと思った。 人生半ばで思い立ったように(失礼!)出家された瀬戸内氏とは違い、 玄侑氏はお寺に生まれて様々な葛藤を経て住職になっているということからだろうか、 私には仏教へのまなざしというか、その解釈についてもとても深く温かく広がりを感じてしまった。 私は特定の宗教に所属してはいないが、宗教的な感覚は人間には必要だと思っている。 そして、宗教を生き方の軸にしている人の多くに、とても善いものを感じる時がある。 宗教を名乗っていてもうさんくさいものは一杯あるし、 僧侶にしたって「なまぐさ坊主」と陰口を叩きたくなる人も実際にいる。 というか、身近な僧侶、あるいは神職者で心から尊敬できる人は少ないくらいである。 それでもなお、私の心には宗教的なものに憧れ続けるものがあり、 それなのに関わらず「これだ!」と思えて 理屈ぬきにどっぷり漬かってみようと思う宗教に出会っていないことが残念でもある。 40代まではウロウロと色々な宗教を求めてもみたが、次第に諦めの境地に近づき、 私の場合、自分で求めているうちは出会いはないのだろうと思うようになった。 そんな私の目に飛び込んできたのが、お釈迦様が最後に言ったという 「自らを拠りどころとし、法を拠りどころとせよ、それ以外は拠りどころとしてはいけない」という言葉である。 「自分の教えを守れ」ではなくて、「自らを燈明としなさい」と言っているのだ。 私が何かの宗教に導かれるとしたら、やっぱり仏教系だな・・と思った。 お釈迦様のその言葉だけでも、何だか信じられるように思う。 そして、多くの弟子に慕われても、孤独に生き続けて死んでいったお釈迦様は、 悟りを開いたとはいえ人間だったと思う。 きっと、ご自分では悟ったとは思っていなかったのじゃないか・・。 その時のご自分が感じたり考えていることを、誠実に語り続けていただけではないかと。 あがめられ慕われてもなお、孤独で苦難の道を歩き続けていたから釈迦は偉大なのであり、 権威の上に胡坐をかくようなことをする宗教者は、本物ではないと思う。 自分の食欲すらもコントロールしようともせずブクブク太っていたり、 勝手に「自分が解脱した」なんて言う人は、それだけでも疑った方が良いと思うのだが・・。 2004年03月07日 |