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カテゴリ:書籍・雑誌
Nゲージの歴史を考える上で,プラレールなどの鉄道玩具や,HOゲージ,Oゲージといった他の鉄道模型と比較することは非常に有益であると思います。そこで,今回は,主に1970年代の玩具雑誌におけるNゲージ関連の記事をいくつかご紹介し,Nゲージの歴史を振り返ってみたいと思います。 これまで当ブログで紹介してきたように,1960年代にはトミーOOOゲージ(1964)や多田製作所のロコメート(1967)といった玩具的なNゲージがありましたが,広く定着するには至らず,玩具店でNゲージが普及するのは,もっと後のことになります。 (日本トイズチェーン「おもちゃ」1967年9月号より,ARNOLD社製Nゲージ。同誌1966年9月号でもARNOLDのNゲージが取り上げられている。) (玩具商報260号(1967年12月1日号)の表紙を飾る,多田製作所のロコメート) まず,トイジャーナル1975年10月号の特集「どこまで伸びるか レール玩具」には,以下の記述があります。 「ひと口に『レール玩具』といっても、マニア向けの本格的なゲージものから、幼児向けのコミカルなものまで、いろいろな種類のものがある(略)対象年齢別に分類するとすれば、大雑把に次の4派に分けられる。 ①本格派・・・本格的なゲージもの。模型的、ホビー的な要素の強いもの。対象は小学校低学年~大人のマニアまで。≪商品例≫『リマ』(朝日通商) 『メルクリン』(不二商)等 ②中間派・・・本格的なものと、幼児向きのコミカルなものとの中間に位置するもので、現在の主流を占めるもの。対象は2歳ぐらい~小学校高学年まで。≪商品例≫『プラレール』(トミー) 『ミニミニレール』(バンダイ) 『マイレール』(米沢玩具)等 ③コミカル派・・・コミカルなアクションをするおもちゃ的要素の強いもの。対象は2歳ぐらい~小学校に入る前ぐらいまで。≪商品例≫『お山のシュッポー』(トイタウン協業) 『回転汽車ポッポ』(米沢玩具)等 ④メルヘン派・・・コミカルな要素の入ったものもあるが、童話(メルヘン)的な要素と夢が前面に打ち出されているもの。対象は1歳ぐらい~4歳ぐらいまで。≪商品例≫『楽しい汽車ポッポ』(バンダイ) 『おとぎのシュポポ』(永大)等 この分類方法には異論もあるだろうが便宜上このようにさせてもらいたい。」 この他,同記事中では,スーパーレール(トミー)やパーコンレールセット(サクラ)など様々な玩具が紹介されていますが,リマ,メルクリンという外国製HOゲージが「本格派」の代表とされる一方で,パーコンレールセット以外にNゲージは一切取り上げられていません。 (1975年にサクラから発売されたパーコンシリーズひかり号) また,トイズマガジン1976年10月号の特集「今月のピックアップアイテム レールもの」には,以下の記述があります。 「どこのおもちゃ売場に行っても必ず数種類の鉄道関係のおもちゃが売場の中心を占めており、実演しているところが少なくないが、いつもそのまわりには人垣ができているくらいである。また、販売する側にとっても、レールをセットし、電源を入れるだけで規則正しくレールの上を走っているので、実演に手間がかからず、しかも売場の目玉として客を呼べ、しかも比較的価格が高いため、効率のよい商品として歓迎されている。昨年暮れはMGRなどといわれて、マスコミもの、ゲームとともに売れ筋の三本柱に数えられたが、今年もまた年末主力商品として期待されている。」 同記事中で取り上げられているのは,主に,プラレール(トミー),スーパーレール(トミー),お山のシュッポー(トイタウン),ミニミニレール(バンダイ),マイレール(ヨネザワ),ナインスケール(トミー),Nゲージ(学研),リマ(朝日通商),メルクリン(不二商)といった製品で,トミーと学研のNゲージが登場しています。両社とも,外国メーカーとの連携の下にNゲージの普及に努めていました。 [追記]さらに,「TOYS READER 玩具商報」1975年10月号の特集「今年も好況路線を走るレール物」でも,「レール物は,レーシング物とともに年末・年始商戦には欠くことの出来ない目玉商品である。それだけに各社各様の新製品を取りそろえ,商戦対策にあの手この手の販促をこらしている。」と記述されています。 同記事中では,プラレール(トミー),スーパーレール(トミー),お山のシュッポー(トイタウン),ミニミニレール(バンダイ),マイレール(ヨネザワ),ダイヤブロックの機関車(河田),レゴの汽車セット(不二商),メルクリン(不二商),レーマン(不二商)等々の製品が取り上げられており,Nゲージでは,学研のNゲージ(ミニトリックス製品。新幹線と月光型の製品化を予告)とサクラのパーコンレールセットが紹介されています。 これらの記事にいう「レール玩具」「レールもの」の代表格が当時も今も,トミーのプラレールであることはあらためて述べるまでもありません(注1)。 そして,これらの記事からは,プラレールを「卒業」してから移行する玩具/模型として,1970年代後半には,バンダイのミニミニレールやトミーのスーパーレール,リマやメルクリンのHOゲージといったアイテムが一定の地位を築いていたことがうかがわれます。 特に,リマやメルクリンは,輸入商社の積極的な販売戦略がみられます。 例えば,トイジャーナルやトイズマガジンに1974年から1975年にかけて連載された不二商の記事風広告「メルクリンコーナーを取材して」では,渋谷・レオトイセンター,横浜・高島屋,日本橋・高島屋,池袋・西武,原宿・キディランド,いせや永山店・経堂店・新宿店・八重洲店・玉川店,なかじま町田店,自由ヶ丘・ゑびすや,浦和市・岡田屋,市川市・ワカヤギといった百貨店や玩具店のコメント,ディスプレイ方法や販売戦略が紹介されました。 また,小学館「マンガくん」1977年9月25日号では,朝日通商の協力により,「HOゲージを楽しもう!」を掲載。岡崎ひとみさんをモデルに起用し,リマ製品を用いたレイアウトの作り方等が紹介されています。また,リマのHOゲージが読者プレゼントとされました。同誌1977年3月25日号でも,リマのHOゲージ,Oゲージが,1978年7月10日号ではリマのNゲージが読者プレゼントとされています。 さらに,同誌1977年11月10日号では,不二商の協力により,「チーコの楽しいメルクリン教室」として,松本ちえこさんがモデル,監修・イラストは水野良太郎氏により,メルクリンのHOゲージの魅力を紹介する以下のような記事が掲載されました。もちろん,メルクリンのHOゲージが読者プレゼントとなっています(注2)。 「ブルー・トレインや月光号の編成を楽しむためには、大きな部屋いっぱいにレールを敷かなければなりません。つまり、大型電車の模型が通過できるカーブは、半径が6百ミリ以上も必要で、小さなカーブでは曲り切れません。メルクリンの車両は、どんな大型車でも1メートル×2メートル内でのレイアウトをスムーズに走らせることができます。」 「大きすぎるフランジは脱線を防ぎ、広くあいた連結面はどんなに急なカーブでも、スムーズに通ることができるという利点があるのです。いくら車両に細かなディテールをつけたところで、列車が動き出せば、まったく無意味であることをメルクリンは知っています。」 「本物の蒸気機関車(SL)のように煙を出す装置がメルクリンにはあります。また、メルクリンの電気機関車はみんなパンタグラフからの集電もできるようになっています。そのために架線集電のできる電気機関車(EL)とSLをいっしょに走らせる、なんてことが、メルクリンではできるのです。」 (TOY・PRセンター「よいこの太陽」1974年9月号より。リマとメルクリンの取扱方法の解説。「ケンちゃん」でおなじみの宮脇康之氏が登場している。) [追記]なお,玩具商報311号(1969年7月1日号)には,「不二商は昭和三十九年,朝日通商の国内販売会社として独立,加藤守社長の令兄で,当時専務取締役にあった加藤信氏を,社長にいただく文字どおりの兄弟会社である。」と記載されています。 一方,バンダイのミニミニレールやトミーのスーパーレールも,メーカーの技術力に支えられ,様々な車両や情景部品が揃えられた魅力的な製品となっていました(注3)。 しかし,1980年代以降の日本型Nゲージの急速な発展に伴い,プラレール→Nゲージのルートが確立されていった結果,プラレールより上級の鉄道玩具というものは,中途半端な存在とならざるを得なかったと思われます(スーパーレールは1970年代初頭から1990年代初頭まで続いたので,かなり頑張った方だとは思いますが・・・)。 例えば,岡本憲之氏は『鉄道玩具大全』(JTB,2002)で,以下のように指摘されています。 「トミーでは昭和40年代にプラレールの上位製品として『スーパーレール』というシリーズも出している。これは、車両と線路のリアルさへの追求、さらには往復運転などのギミック的な楽しさの追及(原文ママ)を狙ったものだ。しかし、このコンセプトを突き詰めていくと、そこにはすでに鉄道模型がある。結局、スーパーレールは玩具と模型の狭間から抜け出せないままユーザーの支持を得られず、短期間で姿を消した。」 プラレールアドバンスが6年ほどで終わったのも,結局,すでにNゲージのトミックスがある中で,プラレールより上級の鉄道玩具の地位の確立が難しかったということを物語っているのでしょう(注4)。 逆に,プラレールとNゲージとの間に,かつてのOゲージやHOゲージにおけるショーティモデルのような入門用のNゲージを展開することも考えられますが,カトーのポケットライン(1982),バンダイのBトレインショーティ(2002)があるとはいえ,かつての電関のような,玩具から模型への入り口で必ず通るモデルとまではいえないでしょう。さらに,トミーテックのはこてつ(2015)は,究極の簡略化を施したモデルですが,2015年を最後に新製品が出ていないようです(注5)。 松本吉之氏は『鉄道模型考古学N』(ネコ・パブリッシング,1995)でNゲージにおけるショーティなどフリー製品の位置づけについて,以下のように指摘されています。 「16番ではフリーの社会的地位は確立された感がありますが,それは製品自体が古くて価値(希少性)がでている事や,急カーブ対応から生まれたその個性といっても良い独特のデフォルメと旧型機関車を題材にした物が多かったところに理由があります。しかしNゲージでは短縮化によるメリットは少なく,値段的にもスケール製品とあまり差はなく,どちらかと言うとファンタジー・レイアウトを作るためのアイテム,またはデフォルメ自体を遊ぶ企画という感じがします。16番時代では,スケール機を買えないのでフリーをまず購入してみるとかプレゼントされた・・・・・・ということが出会いになりましたが,Nゲージではスケール機を買うのが優先なのでなかなかフリーまでは・・・・・・という時代になり,その存在意義も薄くなってしまったのです。従って黎明期の製品を含めてもその生産数は多くなく,次の世代のNゲージ・コレクターには頭の痛いジャンルとなるのではないでしょうか?」 Nゲージでは,むしろ,トミックスの3両セットやカトーの4両セットといった,通常の車両を短編成でパッケージした商品が入門用の役割を担っているといえそうです。 他には,カトーの103系,キハ20系といった古典的傑作が,「KOKUDEN」「LOCAL-SEN」の名の下,廉価なモデルとして販売されていますが,さすがに題材が今日の年少者には馴染みが薄いのではないでしょうか? さて,1978年にはエンドウ,しなのマイクロがNゲージに参入,「日本模型新聞 鉄道模型版」,「プレイモデル」創刊,Nゲージ工業会設立と,Nゲージをめぐる動きが非常に活発になり,翌1979年には第1回鉄道模型ショウ開催,エーダイのNゲージ参入と続きます。そのような中で,プラモデルやラジコンなど模型の記事にも力を入れていたトイズマガジンでは,以下のような記事が掲載されました。 トイズマガジン1979年5月号では,「躍進するNゲージ鉄道模型」を掲載。以下,抜粋します。 「昭和三十九年、東京オリンピックの最中、HOゲージ鉄道模型のパーツ・メーカーだった関水金属の加藤祐治社長が、当時西ドイツのアーノルト社が開発したNゲージ鉄道模型に着目し…翌四十年発売に踏み切ったのが、日本における国産Nゲージ鉄道模型のはじまりである。…しかし、『発売の当初は日本では相手にされず、むしろアメリカのバイヤーが目をつけたので、アメリカ・タイプの車輌の生産が主となり、多いときには全生産の九五%を輸出した』と加藤社長は語っている。この輸出主体ということが、早い時期に世界のNゲージの連結機の統一ということをもたらしたのである。昭和四十三年二月、ニュールンベルクのトイショウに世界中のNゲージメーカーが集まり、連結機の統一について話し合いが持たれ先発メーカー・アーノルトの連結機を採用しようということに決まった。それが今日に続いているのである。その後、昭和四十三年、プラレールとスーパーレールなどレール玩具を開発・販売していたトミーが、その卒業生を吸収することを狙って、アメリカのバックマンの輸入販売を開始し、さらに学習研究社でも西ドイツのミニトリックスを扱いはじめ、先発の国際貿易のアーノルトを加えた四大商品が出揃った。」 [追記:上記記事では,トミーによるバックマンの輸入販売開始を,学研によるミニトリックスの輸入販売開始と同じ1968年としています。しかし,学研によるミニトリックス製品の広告は1968年のTMSで確認できますが,今のところトミーナインスケールの広告は,1969年秋以降の日本模型新聞や,トイジャーナル1969年12月号に掲載されたものが,確認できるもっとも古いものであり,輸入販売開始を1968年とすることには疑問があります。] トイズマガジン1979年8月号では,「明日へのホビー Nゲージ鉄道模型」として,加藤祐治・関水金属社長へのインタビューが掲載されており,加藤社長は1979年の第1回鉄道模型ショウについて以下のように述べられています(注6)。 「いままではメーカーが集まってこういうショウを開いたことが一回もないのです。問屋さんとの見本市しかなかったのです。しかし、最後にお金を出して買うのはユーザーであり、メーカーとしてPRするのはユーザーでなければならないわけです。大勢の人にみてもらって、鉄道模型の楽しさを理解してもらい、買っていただくためには、こういうショウを開くことしかないというところに意見が一致したわけです。」 このように,1970年代末からの急速なNゲージの発展により,Nゲージは,年少者も含めた幅広いユーザーをもつこととなりました。 その発展には,1976年に登場したトミックスを中心とする,Nゲージのシステム化という要素が見逃せません。この点は次回記したいと思います。 (注1)後年登場するサクラ(トレーン)の「Nゲージダイキャストモデル」シリーズ等は,重量感とコレクションを楽しむ要素が強く,ここで取り上げられた,レールを組んで,その上での走行を楽しむ玩具よりは,ミニカーに近い性質と考えられます。 (注2)メルクリンが紹介された「マンガくん」1977年11月10日号では,「特急なんでも事典」として,「本誌記者『富士』同乗記」など,ブルートレインや国鉄特急,私鉄特急に関する記事が実に7ページにわたって掲載されています。 同誌の実車系の記事としては,この他に,1978年9月25日号に掲載された「これがナロー・ゲージだ!!」があります。「今も、走り続ける日本のナロー・ゲージ4社6路線を完全ガイド!!」として,西武鉄道山口線,黒部峡谷鉄道,近鉄北勢線,近鉄内部線,近鉄八王子線,下津井電鉄が5ページにわたってカラーで紹介されており,撮影に加えて,「生ロク」のポイントが書かれているのが,時代を感じさせます。 また,リマやメルクリン以外では,1978年5月25日号で,ジーマークのちんちん電車シリーズ(1/45のプラモデル)が読者プレゼントとされています。 「マンガくん」を改題した「少年ビッグコミック」でも,1980年7月25日号ではリマのHOゲージが懸賞商品とされたほか,同年7月11日号では「夏休み旅行大作戦第1弾 13種類の乗り物が乗り継げる,秘密の一筆がきをみつけた!!」として,東京から箱根,伊豆大島をまわる旅行の記事が,同年8月8日号では「夏休み旅行大作戦第2弾 日本最長距離鈍行824列車」として,山陰本線の列車旅行の記事が掲載されました。 (注3)スーパーレールの一部のセットには,なんとリレーラーまで含まれていました。 (注4)プラレールアドバンスの特徴である,普通のプラレールの線路を複線として利用するというアイデアは,プラレールからの移行を容易にする,巧みに考えられたものだったと思います。なお,同じ方法は食玩のぷちプラレールやミニミニプラレール(いずれも無動力)でも採用されていました。 (注5)この他,Nゲージとの互換性を有する玩具として,ナノゲージ(2014)がありますが,入門用とは違う位置づけでしょう。
(注6)トイズマガジン1990年9月号にも加藤社長のインタビューが掲載されています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.03.23 00:11:28
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