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「自民党憲法草案の条文解説 前文~40条」 を参考にして、各条文の細部を検討してみたいと思う。最初は前文を読んでいこう。まず目につく変更点は現行憲法が「日本国民は」と国民を主語にしているのに対して、改正草案では「日本国は」と国家が主語になっている点だ。これはどのような内容の変更だと解釈すればいいだろうか。 これはどのような述語につながっているかを見ると予想できる。 ・現行憲法「日本国民は」…「行動し」「確保し」「決意し」「確定する」 ・改正草案「日本国は」……「持ち」「国家であって」「統治される」 現行憲法では、国民の意識の方を重視し、その意識は「民主主義」「平和協調主義」「自由の尊重」「戦争否定」などをその意識の内容とすることを主張している。これこそが憲法の主題だと宣言している。一方改正草案では、「固有の歴史と文化」が価値あるものとされ、「天皇を戴く」と言うことに国家の重要性を見ている。国民主権という言葉が入っているが、どのような主権が確定されているかの言及はない。むしろ「統治される」と言うことの方が強調され、これは後の内容である、「国民主権」の制限につながっていくのではないかという懸念をもたらす。 現行憲法は、民主主義の理想を実現させるためにアメリカが日本に押しつけたと言われている。ここに語られているのは理想であり、残念ながら日本では実現されていないことの方が多いように見える。だが、理想は現実離れしているからという理由でこれを棄てることの正当性が出てくるだろうか?理想は掲げることに意味がある。それが今は実現されていなくても、理想として持ち続けることに価値があるなら、理想以外のすべての面では妥協をしても、ここでは妥協を許さないという項目として掲げておく価値がある。 一方の改正草案の方は、内容的には現実の日本社会がそのような面を持っているという現実性を帯びているものだ。だがその現実は無批判に肯定できるようなものではない。国家と国民が対立することが現実にあろうとも、制限を受けるべきは国家の方であって、国民を制限する根拠として憲法が利用されてはいけない。それは憲法の基本思想に反するものだ。憲法は国家の暴走に歯止めをかけると言うことが基本原則であって、国家の暴走を助長するような国民への制限を許してはいけない。改正草案は、前文の段階から早くもその反民主制という本質を露呈している。 現行憲法は「人類普遍の原理」という崇高な理想からその存在意義を主張している。前文はそのような思想が盛り込まれている。「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」とこの原理は説明されている。そして「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と言う言葉で、国家に対する制限を語っている。 現行憲法が語る事は崇高な理想であり普遍的真理なのである。これを書き換えると言うことは、この真理を否定するか、あるいは実現できないと言うことで理想を棄てると言うことしか考えられない。改正憲法は、言葉の上では同じ単語を使っているので、真理の否定は出来ないのだと考えられる。だから理想が空想であり実現できないと解釈しているのではないかと考えられる。そのため限りなく現実に実現できていることに近づけて表現がとられているのではないか。 改正憲法は「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」と主張する。ここには「基本的人権を尊重する」という言葉が入ってはいるが、それが「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」という思想と対立するという考えは見られない。だが実際には両者が対立し、和を尊ぶ(全体の利益を第一にする)為には、人権を制限しなければならないときが出てくる。その場合に、現行憲法であれば国家を制限し人権を優先するという指針が出てくるが、改正憲法ではその方向が取られるかどうかは、文章だけでは分からない。 「我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる」という改正憲法の文章は、一見いい言葉が並んでいるように見えるが、何が基本原則として大事かという言及がないため、ご都合主義的に解釈される恐れがある。 「自由と規律」を重んじるという言葉は、自由が行き過ぎた場合には規律でそれを制限すると言うことが隠されているのを感じる。だが行き過ぎたかどうかという判断がこれでは分からないので恣意的に判断される恐れが大きい。人類普遍の原理から言えば、自由がもたらす主体性によって確立された規律こそが優先されるべきであって、国家が制定するような道徳的な規律が自由に優先されるような事態が起これば、基本的人権が制限される恐れがあることを戦争の歴史が教えている。 軍国主義下における規律の優先と自由の制限は、今の学校に見られるような全体主義的な雰囲気を蔓延させる。日本社会全体を学校化させる恐れがこの改正憲法にはある。学校の弊害がすべて社会全域に行き渡る恐れがあるのを感じる。 改正憲法が「良き伝統」としているのは、支配する側が国民を押さえつけるのに都合のいい「伝統」だ。この「伝統」がある限り、支配者の恣意的な命令が社会に行き渡ることになる。体罰によって支配される思考停止状態の学校と同じものが改正憲法後の日本社会に蔓延する恐れを強く感じるものだ。自由を尊ぶすべての人々はこの改正憲法案の危険性を告発しなければならない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.01.20 12:50:47
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