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山大新聞会

2016年10月04日
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カテゴリ:山大新聞会
ひとつ、昔話です。初めて生で噺を聴いたのは、我々が主催した落語会だった。

大学時代、新聞会という自治組織に入って新聞をつくっていたというのは、以前書いたことがある。なぜ自治組織(自治会)か。入学当初、まだ右も左もわからない新入生に手紙が行くことになっている。大学には学生の自治組織がある。独立採算制なので、会費が必要だ。引いては、四年間の会費を振り込んでもらいたい。と。ホントは払っても払わなくてもいい。でも多くの学生は払ってしまう。数十年経ったいま、思うのは「完全に騙し討ちだった」。そうやって、文化会・体育会・新聞会・大学祭実行委員会・女子学生の会の「五自治会」は運営していた。もちろん、新聞会は義務として新聞を毎月発行していて全学部に無料で配っていたし、会計報告はしていた。他の自治組織はそんなことさえしていたとは思えない。

話がとんでもないところに行ってしまった。閑話休題、その自治会費還元の一環として毎年大学祭に企画を行う事になっていた。2年の時に、落語会を企画した。「何処かの大学でやったらしんだけど、笑福亭松鶴という落語家はものすごく安い出演料で、貧乏学生のために落語を聴かせてくれるそうだ」当時の大阪出身の先輩がそんなことを言ったのがキッカケだったと思う。

私は新聞会文化部だったので、企画のメンバーになった。上方落語(東京の落語に対してこういう言葉があることさえ、その時に初めて知った)の学習会のレジメをつくった覚えがある。大阪の戦災で、戦後上方落語は壊滅的な状況にあった。その時に、地域で落語会を開きながら上方落語を復興させたのが、若き六代目笑福亭松鶴含めた上方四天王の落語家だった。その経験があるからだろう、当時誰もが認める名人だった松鶴が、学生とは言え、わざわざ山口までやってきて上方落語を広めようとしたのだろう。とは、数十年経ったいま、やっと分かることである。ホントは山口市民に広く知らせて、大講義室に立ち見が出るほどの興行をすべきだったと、たった今、初めて思うところである。果たして、講義室が満員になったかどうかは覚えていない。お礼は、交通費込みで20万円だった覚えがある。チケットは確か500円だった。

私は山口県小郡の新幹線が着くプラットホームに松鶴師匠を待っていた。普通のお年寄りが降りて来た。お弟子さんらしき人が、浴衣で風呂敷包を持って一緒に降りて来たので、初めて師匠だと気がついた。タクシーで山口市の大学まで送ってゆく。世間話なんてできなかった。師匠からいろいろと聞いてきた。「山口の学生がよく飲んでいるお酒は何?」「いつもは角瓶です。でもたまにオールドになるとすげえな、となります」「郷土の日本酒は?」「やっぱり五橋(ごきょう)かなあ。今回は五橋なんだ、となると盛り上がりますね」五橋とは岩国錦帯橋に由来するお酒である。
 
大講義室の高台に座布団を敷いただけの簡単な高座である。師匠は先ず「饅頭こわい」を演った。私はお囃子を準備出来ていないことをうじうじ悩んでいたが、噺を聴き出して、そんなことを全て忘れて観て聴き入った。今さっきまでいたよぼよぼの爺さんが、いま、たった1人で長屋の人物群を苦もなく演じ分けて、しかも私はいつの間にか久しぶりに爆笑している。「生の落語ってすごいんだ」

そのあと、少し漫談に入る。少ない出演料をネタにしたり、五橋の話などを持ち出して、学生になんかメッセージを伝えていたと思うが、ほとんど覚えていない。

演題は一切お任せだった。だから、そのあと「試し酒」を演ると聞いて、二つも演ってくれるんだとビックリした。


実は先日、Eテレで「試し酒」を観て、この日のことを思い出したのである。前名人の跡を継いだのかな、観たこともない顔の桂文楽が演っていた。

ある日、ご隠居たちの世間話の中で付き人の田舎者の男が酒を五升は飲むだろうという話になる。2人は男を呼んでホントに五升飲めるか賭けをする。男は、負ければご主人が散財すると聞いて少し考えさせてくれと外に出て、帰ってきて決心が固まり、一升づつ飲み始める。遂には五升飲み終えて、賭けに勝つ。相手のご隠居が聞く。
「今さっき、外に出たときに、何かおまじないでもやったのかな。後学のために教えておくれ」
「あゝあれはなんでもねえだ。ワシは五升なんて、確かめて飲んだことねえから、外に出て飲み屋に入って、試しに五升飲んで来ただ」

桂文楽の男の飲みっぷりは、上品だった。しかも、五升飲みおわった時に下品に威張り散らした。ダメだ。私はこの30数年間、いろんな人の「試し酒」を観てきたけど、松鶴のそれほど面白かったことはない。

松鶴は、ホントに飲んでいるように飲んだ。しかも、ホントにお酒が好きで好きでたまらない、という風に飲んだ。しかも、あの酔いっぶりの動作のひとつひとつがどうしてあんなに面白いのか、未だに理由が掴めないほどにおもろかった。

もし、山口の学生ではなく、私が大阪の無職の若者だったら、その場で松鶴師匠への弟子入り志願をしていたかもしれない、と後に思うほど衝撃的だった。

六代目松鶴の高座は、出来不出来の差が激しいことで有名である、と私は学習レジメに書いた。その日のハコは、多く入っても300人ほどだったけど、間違いなく最高の出来だった。






最終更新日  2016年10月04日 10時33分03秒
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2009年10月09日
カテゴリ:山大新聞会
「美人コンクール発言事件」はいまや全学生の知るところとなる。
その後何回か大学祭実行委員会が開かれたが、某サークルは欠席したまま。
それがまた「糾弾」の対象となるであった。

わが大学新聞は沈黙を守っていた。
わたしは女性問題に疎く、付け焼刃の学習では到底歯が立たないことを感じていた。
安易に記事にすると、われわれも「糾弾」の対象になってしまう。
一回だけ、先輩がエッセイの装いを持って、この「現象」にコメントしてくれた。
たぶんそのことを免罪符にして、わたしは編集長の仕事を果たした、と思ったのかもしれない。

わたしはこの糾弾会がどのような決着を持ったのかを覚えていない。
(おそらく某サークルは女子学生の会が望む総括文を嫌々ながら書かされたのだと思う)
ということは、わたしは最後まで「関わらなかった」ということなのだろう。
「それは賢明な判断だった」と誰かは言うかもしれない。
しかし、今だから言うが、あれは間違っていた。

新聞会は何の立場に立って書くのだろうか。
自分たちの思想を広げるためか。違う。(広げる思想もないが)
「当局」(大学経営者=文部省)か。もちろん違う。
自治会である以上、大学の全学生のために、
学生の立場に立った新聞つくりをしていかなければならなかった。
今起こっている糾弾会は本当はどういうことなのか、学生たちは関心を持っていただろうし、新聞会はそのことに応える義務があっただろう。

編集部に、編集長たる私に「勇気」と「覚悟」が足りなかった。

理論的な未熟はあったかもしれないが、「足で書け」ば、
少なくとも事実関係で後ろ指差されることはなかっただろう、
と今になれば思う。
そうはいっても、あらゆる記事には「主張」(事実を選択するものさし)が
あるのだから、そこを突かれたら、後は理論対決になる。

あれは「糾弾」に値する発言ではなかった、と、誠実に言わなければならない。
それはおそらく全学生の支持するところだっただろうと思う。
理論の泥沼に入ることを避けて、世論対決にもっていくという戦略をとれば、
何とかなったかもしれない。

新聞会の「故意の無作為」に
あのときの某サークルに対し、
あのときの全学生に対し、
いまさらながら「ごめんなさい」とわたしは謝るだろう。

時機を逸せず、勇気をもって判断を下す、
それは本当に難しい。
そのとき大事なのは、やはり
われわれはどういう立場に立つか、ということなのだろう。
もうひとつそのいい例がある。
生協設立運動である。

以下次号。
(さすがになんか「総括文書」を書いたような疲れが(^^;)
次号更新は果たしていつになるのか。)






最終更新日  2009年10月09日 22時30分37秒
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2009年10月08日
カテゴリ:山大新聞会
事件は、
「祭り全体を象徴する企画について、何かないか」
と大学祭実行委員会の議長が言ったときに起こった。

ところで、この議長P氏は、どんぶり太って外見はどこかの土建屋のおっさんみたいではあるが、弁は立つ。
5回生だとか、7回生だとかのうわさ。
あるときは実行委員会の議長、ある時は三里塚の集会に行っていたといううわさもある、いわば、大学の主(ぬし)である。

その議長の提案に対して、体育会系のどこかのスポーツサークルの男が、
全く軽い調子で、
「この大学祭はなんか暗いんだよね。もっと一般受けする企画が必要なんではないの。
たとえば美人コンクールなんていいと思うけど。
ミス早稲田とかよく話題になるじゃない。あれと同じように、
優勝者は話題になるんじゃないかな」

と提案した。

最初に発言したのは議長P氏だったと思う。
「つまり君は女性の外見を大学祭の宣伝媒体にしようというんだね。」体育会系の男は真面目な提案をまぜっかえされたと思ったのか、むきになって反論する。
「難しいことは分かんないけど、そういう風に暗く考えるからいけないんじゃないのかな。」
そのとき女性が発言を始めた。
女子学生の会からの発言だった。

今、女子学生の会がどのようなことをいったのかを思い出すことが出来ない。
おそらく当時の私は女性差別のことについて、ほとんど知識を持ち合わせていなかったし、
女子学生の会自体に対する反発もあったのだろう、彼女のいうことが心の中を素通りしていった。
ただ最後のほうになって、
彼女が泣き出したのだけはびっくりしたのを覚えている。
自らの発言に感極まり、泣くとは。

私は、理屈でなく、感情が会議を支配しだしたことに気がついた。

「君たち○○サークルの発言は明白な差別発言である。
きちんとした反省の言葉がない以上、この会議はこれ以上続けることが出来ない。
これ以上の議題は次回に持ち越す。」

P議長はそのように会議を打ち切った。
私はその間、ずっと貝のように押し黙っていた。
私は「たかだか」美人コンテストをしたいといっただけで、ここまで罵声を浴びるこの体育会系のサークルに同情をしていた。
はたして私は援護の発言をしなくて良かったのだろうか。
ただ、大学祭の教室が決まっていなかった。
私は次の会議にも出席しなくてはならないことを知っていた。

私は、編集長としてこの事態に判断を下さなくてはならなかったが、
わたしは迷っていた。

よって相談役になっていた、四回生の先輩に聞くと、
彼もことは慎重に対処すべきだということだった。
問題は三つ。
一、体育系サークルの「美人コンクール」発言は、
女性を外見だけで評価し、それを商品的価値にまで定着させてきた現代の女性差別構造に「つながる発言」として「感心できたものではない。」こと。
一、しかしながら、
大学祭を盛り上げようという善意から発言されたことで、「罵声を浴びるほどのことではない」ということ。
一、しかしながら、新聞会として下手に反対などすると、今まで敵対関係にある大学祭実行委員会や女子学生の会から、「いちゃもん」をつけられる可能性が高いこと。

わたしの態度は結局「事態を見守ろう」ということだった。

しかし、事態はしだいと大きくなっていった。
次の大学祭実行委員会はこの体育系サークルの「糾弾会」に性格が一変し、きちんとした「文書」で「総括文」を提出せよ、となり
体育系サークルは多勢に無勢、前回の発言は撤回したにもかかわらず、許してもらえず、何も言えず帰っていったのである。

次の日からは、ほぼ連日女子学生の会からのアジビラ、アジ演説、でこの某サークルはずーと「糾弾」されていった。

わたしはこの事態を記事に出来なかった。
はたしてそれでよかったのだろうか。
以下次号。






最終更新日  2009年10月09日 00時12分37秒
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2009年10月07日
カテゴリ:山大新聞会
前回は、どういう立場に立つのか「選択」するのは、学習によってではなく「決意」によってであると書いた。
少しかっこをつけすぎていたと反省している。
決意というほど決意していなかったと思う。
「感性」という言い方もあったかもしれない。
要はこういう選択の場合、しばしば理屈では決めれないということを言いたかったのだ。
最も適切な言い方をすると(分かりにくいが)その人個人の「倫理観」によって、選択するのである。

どういう立場に立つのか、
非常に難しい例がある。
というか、人生ではそういうことのほうが多いのでは、とその後30年以上たってみて思う。

そういう例の一つ
「美人コンクール糾弾事件」について書こうと思う。

そのとき私は三回生だった。
(すみません、一挙に時間が飛びます)
なんと編集長という位置にいた。
世の中は、つい数年前に明らかになった連合赤軍の影響によって、「学生運動=こわいもの」という定式が根強くあった。
「しらけ世代」という言葉は今はあまり聞かれない。
いまはそれどころではないのである。けれどもそのころは、まだ始まらないバブルの初期、学生は売り手市場であって、大学新聞なんて「かかわらないほうがいい」という種類の「サークル」であった。
よって、人材が不足していた。決定的に。ズルズルと居ついていた人間が編集長になるほどに。
そのようなとき、事件が起きた。
私はその場に居合わせたこと、は不幸であった。
まだ相談できる先輩がいたこと、は救いであった。

時は秋の入り口、教養学部○○番教室において、例年のごとく、大学祭実行委員会が開かれていた。
各サークルが大学祭での企画を持ち寄り、使える教室などを調整したり、補助が必要なサークルはその申請をしたり、大学祭全体を象徴する企画を立てたりする会議なのである。

私たち新聞会は過去において大学祭実行委員会やその他の組織に学外に追い出された経緯があるので、出来ることなら参加したくない会議なのではあるが、毎年、大学祭には記念講演をしているので大きな教室はぜひ確保しなければならない。
お金はあるから補助の申請はしない、また立場上できない。
まあとにかくしぶしぶ出て、早く終わればいいなという会議なのではあった。

そのときは何の記念講演を企画していたのか、覚えていない。前年は鮮明に覚えている。なんと、先代松鶴を呼んだのである。講演と落語をしてもらった。学生ということで、破格の出演料だった。私は文化部部長ということで、駅まで迎えに行き、大学までの車中松鶴の隣に座った。
むすっとしたしわくちゃの小太りのおじさんがシワガレ声で聞いてきた。
「山口ではどんな酒を飲みますんや」
「ぼくらは五橋という酒が大好きです」と答えた。じつはその酒しか飲んだことがなかった。
そしたら、師匠は噺の中でその酒をしっかりと使っていた。
単なるお爺さんが、人の前に出ると「芸人」に変わった。
目の前で初めて落語を見た。
「試し酒」である。
親指を口につけただけなのに、ほんとにそれがお猪口となって、
師匠が本当に旨そうに酒を飲む。
落語が大好きになった瞬間だった。

何が言いたいかというと、大学祭実行委員会に参加するのは嫌だけど、大学祭に「自治会」として企画を出すのは、学生に対する神聖な義務だった、ということを言いたかっただけ(^_^;)。
さて、ここから本題。
事件は、祭り全体を象徴する企画について、
「何かないか」と実行委員会の議長が言ったときに起こった。

以下次号。






最終更新日  2009年10月07日 22時06分17秒
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2009年09月28日
カテゴリ:山大新聞会
私は初めての記事を書いた。
私の大学では1960年の5月から6月にかけて、学生や教授たちは何をしてどのような思いであったのか、説明ではなく、事実でもって表現しなくてはならない。
つまり、インタビューの内容でそれをすべて表現しなくてはならない。

私は何度も書き直しを命じられたはずだ。
しかしすでにインタビューは終わっている。
新入生に再インタビューの申し込みは酷だと先輩は判断したのであろう、文章的な誤りは直しが何回も出たが、文化部のOKは出た。しかし、編集会議でのOKが必要である。

編集長K氏や次期編集長H氏はやはり根本的なところを突いてきた。
「安保とはどういうものかなのか、これでは分からない」
K氏は三回生経済学部の先輩。実に温厚な人だった。少しのミスにはこだわらない、親分型の人で、どれくらい助けられたか分らない。H氏は同じ人文学部でやがて研究室まで一緒になる二回生だった。非常に鋭い人で、この人だけが卒業後記者になった。
「安保がどういうものかわからない」書いている本人が分かっていないのだから当然といえば当然であろう。しかし、それを地の文で説明しようとすると、半分くらい説明だけの記事になることを先輩たちは分かったのであろう、私は本来聞くべきだったそのあたりのことは何一つ取材ノートに書き留めていなかった。一言二言の直しが入って、
結局、強行採決をした政府に対し、「このままでは日本の民主主義がだめになる」という危機感で、安保反対のデモの波が広がった、
というような「歴史発掘」になったのである。

私はそれはそれで大切な事実だと今でも思っている。
しかし「本質」はそれだけではなかったろう。
安保自体が持つ危険性に対して、戦後初めてそして最大の民衆エネルギーが対峙した、それは歴史的な瞬間だったのではある。

事実でもって本質を描く、それは
取材しているときにすでに本質を掴んでいなければ、描き得ないものなのである。
私は闇雲に突っ込んで「本質」の端を少しかすっただけなのである。

この場合、「支配する側」に立つのか、
「支配される側」に立つのか、
それが問われていたある意味「分かりやすい例」であった。
もちろん記事の内容は支配される側に立たなくてはならない。
そういう広い観点で現代史を見なくてはならない、新入生には「難しい例」ではあったが、自分はこっちの側に立つのだと「選択」すれば、後は学習すれば書く事のできる記事ではあった。しかしその「選択」は学習によってなされるのではない。決意、によってなされるのである。

ちなみに記事の第二段はがらりと変わって吉田キャンパスのグランド隅になぜか建っている山口大学埋蔵文化財センターの取材になった。山口大学は遺跡の上に大学移転したのである。今の私が取材したならば、大好きな考古学のこと、非常に充実した記事になっただろうが、このころの私は何の関心も無かった。たんに「キャンパスは遺跡の上に建っている」ということを伝えただけの記事になった。これぞ「歴史発掘」だとO先輩は慰めてくれた。

以下次号。






最終更新日  2009年09月28日 22時36分03秒
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2009年09月27日
カテゴリ:山大新聞会
「エー!僕だけで取材に行くんですか。ムリです。」
などというような口答えはしなかった。
私は素直な新入生だった。

私は県庁に赴いた。
そのころ、山口県の県庁はまだ全体が木造の平屋であった。戦災を免れていたたためか、いくつもの建物が長い廊下で繋がれて、非常に広い迷いそうなところであった。
反対に言えば、歴史的な由緒ある建物であった。
一般的には産業の中心に県庁はあるものであるが、山口県はその役割は宇部市や徳山市にふられていた。なぜか県庁所在地には文化的な建物しかなかった。伊藤博文や山県有朋、或いは岸信介を生んだ山口県、歴代の政治家たちに何らかのこだわりがあったのかも知れない。

複雑な木造の廊下を歩いて、何も知らない新入生の私は、受付でB氏を呼んでもらったのであるが、電話に出たB氏は突然やってきた得体の知れない学生を訝しがり、今忙しいので後で連絡するといって、私たちの連絡先を聞いただけて会ってくれなかった。(今から考えると当然といえば当然であろう。)
私はすごすごと戻っていったのであるが、やがて会ってもいいという連絡が来る。
もしかしらA教授に私たちの新聞会が怪しいものではないと聞いたのかかも知れない。

20年前の学生で当時学生自治会委員長だったというB氏は、いまはスーツを着たただの中年のおじさんに見えた。私はおそらく用意してきた質問を機械的にしていったのだろうと思う。中年おじさんは当時を懐かしむようにいろいろと話してくれたのだと思うが、今ではほとんど覚えていない。ただ「なぜ60年安保闘争を始めたのか」と聞いたとき、次のように言ったことは、私が書いた記事の中心的な言葉になったし、生涯忘れることの出来ないものでもあった。
「私は安保問題の難しいことは良く分からなかった。けれどもあの国会の強行採決を知って、このままでは、日本の民主主義はだめになるかもしれない。ただ、その危機感だけで、集会を準備したし、デモもやっていったんだと思う。」
突然目の前の中年おじさんが、私たち学生の仲間に見えた。

それは当時の自覚的な学生たちの正直な言葉だっただろう。
そしてそれは当時としてはすでに(そして今も)失われつつある言葉だったろう。
私はそのインタビューという「事実」を採取することに成功したのである。

全国闘争と組織の関係、集会とデモの関係、そんなことのイメージをぜんぜん持っていなかった私は、聴くべき言葉をずいぶん逃していたと思う。私はもう少し突っ込んで、たとえば次のような質問もしてみるべきだったかもしれない。
「あの当時のことを思い出してみて、
現在の日本や学生に対して、何か思うことはありますか。」

過去の歴史から現代を照射する、そういう試みも面白かったかもしれない。

しかし、まあ何とか私の「初めての取材」は終わった。
次は私の「初めての記事」である。






最終更新日  2009年09月27日 23時30分47秒
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2009年09月26日
カテゴリ:山大新聞会
初めての取材、そして記事を書いたときのことを書こうと思う。

私は新聞会では最初文化部に所属した。
文化部の企画会議でのこと。大学から五分ほど離れたところにあるアパートの部室での会議である。先輩は二人。新入生は私とあともう一人ほどいたか。

先輩Оさん(♂)はは国文学二回生で、文学青年で、文章を書きたいということだけで、新聞会に入ってきていた。中原中也の生まれた湯田温泉に下宿していて、可愛い彼女がいた。ちゃらんぽらん青年のように見えて真面目に文学研究にいそしんでいる部分があった。「透徹」という言葉があることをこの先輩から初めて教わった(後に大学講師に)。先輩Sさん(♀)は国史三回生。非常にかわいらしい人で、入学式のときに新聞会の説明会があることを宣伝していたのが彼女である。この女性の存在がなかったら、私がこの妖しげな部屋に入っていったかどうか心許無い。「○○くぅん」と泣きそうな感じで人の名前をよぶのが特徴的であった。もっとも最初の新歓コンパの中で、すでに彼氏がいることが判明するのではあったが。(後にその人と結婚)

「くまくぅん、何かやりたい企画ある?」
「別にないです。」
「じゃあ、この前から始まった新企画「歴史発掘」をすればいい。」
「……」
「それがいいわ。くまくぅん、歴史好きだといっていたし」
「次はわが大学の60年安保をするのでよろしく
「はあ。60年安保で何を取材するんですか」
「60年安保で、うちの大学ではどういう動きがあったか、当時の関係者から話を聞くんだよ」
「……」
「大丈夫。足で書けば何とかなるって。」

まあ、だいたい企画会議というのはこんな風に強権的に決まっていくものなのであった。
しかし、大学入りたての私にいくら文化的な記事とはいえ、「60年安保」とは。

「足で書く」とはジャーナリズム用語である。今でもそうであるが、記者クラブで発表された情報をそのまま記事にする記者が多い。それに対して、真のジャーナリストは、自ら足を運び、たくさん事実を掴んで、その中からどれだけ本質に関係することを選び取って記事にするのかが「よい記事」の基準なのだと、私は一応「学習会」で学んでいたのではあった。記事は机の上で生まれるのではない。現場をどれだけ歩くか、にかかっている。

しかし、はたして60年安保とは何か、その本質も知らないような男に、「よい記事」は書けるのであろうか。

最初の取材だけはOさんがついて来てくれた。

60年安保のころのことを知っている人でまだ大学に残っている人は限られている。私たちは経済学部の名物教授、A氏のところに赴いた。

その取材の前に私は60年安保のことを少しは学習して行ったのであろうか。今思い出して、どうしても何か本を読んだという記憶がない。高校生のときに松本清張のノンフィクション『昭和史発掘』を読んだ記憶があった。その本の中では、安保条約を強行採決する国会議事録が採録してあった。それを読むと採決の瞬間は議場が騒然として、議事録にも載っていないのであった。果たしてこれで採決といえるのか、高校生の私は日本の最高議決機関である国会というものに初めて不信感を覚えたのではあった。しかしそれ以上のことを私は知らない。

A教授はマルクス経済学の雄であった。
A教授は、珍しくも60年安保を取材しに来た大学新聞の記者に対して、今から思うとアポなしの突撃取材だったのにもかかわらず、非常に丁寧に応じてくれた。おそらく、当時どれだけ学習会がどのくらいの頻度で開かれたか、デモ行進がどれくらい行われたか、特に強行採決のあとでは、学生と労働者が共同でデモを行って画期的であった、というようなことを話されたのだと思う。安保自体の危険性の説明もあったかもしれないが、私の頭を素通りしていっただろう。

私は安保反対のデモ行進は国会周辺だけで行われていたと思っていた。こんな田舎(失礼)でも、そんな動きがあり、学生と大人が共同してそういうことをしていたということにまず驚いた。当時はまだ、浅間山荘事件や、内ゲバの記憶が生々しいときであった。学生運動というのは「怖く、世間から孤立している」というイメージが一般的であった。

「当時の安保闘争は、本当に国民的な大闘争だった。」とA教授は言った。

Oさんは「当時学生だった人で今もこの町に住んでいる人はいないか」教授に聞いた。
今から思うと最も適切な人にその質問をしたのだろうと思う。A氏は明らかに当時の反対闘争にかかわっていた人なので、反対闘争の学生の中心人物の動向をちゃんと把握していた。
「今県庁に勤めているB君は当時の学生自治会の委員長だった人で、当時のことを話せると思うよ。」

私たちは教授に感謝して、研究室を離れた。O先輩は次は私だけで取材を命じた。
以下次号。






最終更新日  2009年09月26日 21時36分16秒
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2009年09月19日
カテゴリ:山大新聞会
大学の授業の内容など、今では覚えているはずもないが、いくつかは鮮明に覚えている言葉があるものだ。

本多勝一の「事実とは何か」の関連で興味深い話を聞いた。けれども誰が話したのかは覚えていない。先生すみません。

教養学部、日本史の授業だったと思う。
「私は漫画はあまり読まないが、白土三平の「カムイ伝」だけは面白いと思う。この漫画は江戸時代初期の身分の構造が非常によく描かれている。物事というのは上から見るよりも下から見たほうが、その全体像が良く分かるものだ。武士の側から見た歴史は型にはまって、整然としているように見えるけど、これを支配されている側から見ると、その悲惨さやダイナミックな動きが良くつかめる。白土三平は、それを百姓から見るのではなく、それよりも更に差別されている「えた・非人」から見たところに独創性があった。
支配されている側から物事を見ると、その世界の本質がつかめる、ということはジャーナリストの本多勝一も言っている。」


ここの話には本多勝一だけでなく、私の大好きな白土三平の「カムイ伝」まで出てくる。だからいまだにこの話を覚えているのである。当時大学生になって初めてカムイ伝に出会った。あの二十一巻の大長編を何度読んだか覚えていない。

非人の身分から実力による飛躍を求めて忍者になり、そこでも絶望して抜け人になったカムイと、百姓の身分からよりよき生活を求めて苦戦を強いられる庄助と、武士同士の権力争いから剣の道を学び、やがて庄助たちに共感して城の城主までなるが、江戸幕府という大きな政府に敗北してしまう竜の進と、商売の才覚によって身分を越えた力をもとうとする夢屋と、その他女性、子供、動物さまざまな人間たちが入り乱れる大河ドラマである。
大学の講師がこの漫画の魅力をアカデミズムの面から証明してくれたような気がして大変嬉しかった覚えがある。そして本多勝一の説も歴史家が評価してくれていた、と嬉しかった。

そうなのだ。だから「支配される側に立つ」ということは、「本質を掴む」ということなのだ。

しかし「現場」では、そうそう理屈通りにはいかない。

ちなみに今日は映画「カムイ外伝」初日。楽しみだけど、こういう構造までは描けていないだろうなあ。

以下次号。(しばらく連載は飛びます)






最終更新日  2009年09月19日 07時52分05秒
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2009年09月18日
カテゴリ:山大新聞会
続きを書く前に、
なぜ大学新聞を作るところが、「新聞部」ではなくて、「新聞会」なのかを説明したいと思います。

新聞会は自治組織だったのです。そのころ私の大学には教養学部などの学部自治会のほかに、五大自治会というものがありました。文化会と体育会。(役割は分かりますね。文科系サークル、体育系サークルを統括する役割です。)そして我らが新聞会。そして、大学祭実行委員会と女子学生の会です。新聞会は大学新聞を発行します。大学祭実行委員会は、年一回の大学祭を統括し、補助金を与えます。女子学生の会は……うーむ、どうしてこれが全学生に責任を持つ自治組織になったのか私にはわかりません。今で言うジェンダーをテーマにやっていたとは思うのですが……。これらの運営はすべて学生が行います。これは学生が当局から勝ち取った成果なのでしょう。それはそれでいいのです。自治組織という錦の御旗があるとどういうことができるか。新入生が入学する前に、自治会の会費を請求する手紙を送ることができるのです。つまりこれらの自治会は新入生たちが何やなんやら分からんうちに金をふんだくり、財政基盤を持った団体なのです。よって新聞会は新聞を作って「売りつけ」なくても良かったのです。新聞ができたら教養学部の前で配りまくっていました。年間100万近くはお金が入ってきていたような気がします。年11回ほど発行し、アパートの部屋代を払うとそれは飛んでいく金ではありました。不思議なことに誰も、金を横領しようなどとは考えなかったし、疑われたこともなかったのです。それは他団体に対しても同じでした。そういう意味ではあのころどの学生も清らかでした。もちろん私たちは新聞上で、会計報告はしましたし、年間方針も出しました。しかし非常にいい加減だったのは、私がいた四年間のうち、一度も外部監査は導入しませんでしたし、やろうやろうといいながら、大会を開くことができませんでした。あれで果たして自治組織だといえたのかどうかは今でも大きな疑問です。そのあたりの事情は他の五大自治会も同じでした。

そんな「自治組織」だったのです。学生らしい自主性と潔癖さ、そしていい加減なところが混じった組織でした。

新聞会は当初文化サークル棟の中に部室があったそうです。しかし、先輩の言うにはそこを暴力でもって追われたとのことでした。当時文化会の中には大学祭実行委員会の部室もあり、女子学生の会の部屋もあり、彼らが「一定の学生たち」の影響を受けていく中で、新聞会は独自の財政基盤もあることだし、「イデオロギー的に対立」していたのです。そういう意味では新聞会が追われるのは必然だったのでしょう。構外のアパートに部室を構えたのはそういうことです。

今から考えるとそういう「対立」の中に自分を置くというのは非常にしんどいことだったはずです。そういう事情がはっきり分からなくても、空気を察して、だんだんと敬遠していく手もあったのではないか。今になって思うとそんなことも思うのですが、どうも当時はそういうことはぜんぜん考えなかったみたいです。

これを書いて初めて分かったのですが、
私はいろいろ悩みながら新聞会に残ることをその一年後二年後に決めたと思っていたのですが、どうやら

最初の日にすでに「選択」していたみたいです。

本多勝一の言う「支配される側に立つ」ということが「真実」なのかどうか私には今も分かりません。ただ、私は明らかに1979年4月のこの日、「ある立場」を選んだのです。

私の大学生活四年間は「新聞」にどっぷり使った四年間でした。私がこの大学に入学したのは西の小京都といわれる山口市の町から吉田へ大学移転したすぐあとで、周りは田んぼだらけでした。私の交通手段は最初の一年間は自転車。その後はカブという安いバイクでした。カブで10分くらい走らせた更に田舎に私の下宿(下宿代一万円)はあり、その下宿と大学構内と新聞会部室と活版印刷所(この印刷所は今では文化遺跡とでもいえる活字を組んで印刷をするところでした。「銀河鉄道の夜」で放課後ジョバンニが活版所で活字拾いのアルバイトをしていたあれです)それと時々本屋と喫茶店。それの往復が私の四年間でした。

しかし私はその中で、何かを選択し、何かを表現し、そして失敗していったのです。ジャーナリストとして、そして社会に生きるものとして大切なことは、その閉じられた世界でも充分に学んだはずです。そのことをもしかしたら振り返ることができるかもしれない。

いまさっき「真実」という言葉を使いました。この「真実」という言葉を厳密に使ったのは、本多勝一でした。
学習会のレポートの二編目のことを書いておきたいと思います。

「事実と『真実』と心理と本質」
真実とは何か。
ベトナム戦争での例。取材中に記者が殺された。生き残った記者は解放戦線(北ベトナム)がやったのだという。ハノイ放送は「サイゴン政府軍(南ベトナム)がやった」のだという。こういうとき「真実はどちらか」という表現がとられることが多い。
真実とは「正確な事実」に過ぎないのではないか。
以下、いろんな辞典を調べてみて、真実は他国の言葉には存在しない。真理ならある。哲学辞典によると真理はそれぞれの立場により違う。キリスト教の真理、スコラ哲学の真理、佐藤栄作の真理、殺し屋の真理、殺される側の真理……。
そうか!「真実」は必ず「事実」または「真理」に分解してしまうのだ。
ただ、どういうときに真実を使うのだろうか。
「真実」とは、事実または真理を、より情緒的に訴えるときに有効な単語なのである。
ベトナムの事件はある記者が「正確な事実」を調べ上げた結果、解放戦線が記者を誤って(米兵と思って)攻撃したと分かったとする。この事実を、記者が「ベトコンの無差別攻撃」と書いた場合、この記者は「事実」を書いたとしても、大きな過ちを犯していることになる。一方で米軍が意図的な無差別攻撃を連日限りなく続けている事実との比重から考えても誤っているが、それ以上に、ベトナムの国土を米軍が侵略しているという「本質」の上に立った記事ではないから。
真実という日本語はルポから避けたほうが良い。
ルポに関しては次のように言うことができます。
「事実によって本質を描く。」

この文章は1969年のものですが、「ベトナム」を「イラク」に置き換えることも出来るでしょう。
日本のジャーナリストは、日本の青年やジャーナリストがイラクで殺されたとき、果たして「事実によって本質を描いた」でしょうか。

以下次号

追記 ところで、今日無事に70万アクセスを超えることができました。踏んだ方はいつものように「名無しの権兵衛」さんだったようです。始めて四年と四ヶ月、こんなにも早くここまで来たのは、読者の皆さんのおかげです。なぜならば、これだけの読者がいなければ、めんどくさがり屋の私がこんなにもコンスタントに記事が書けている筈が無い。本当にありがとうございます。






最終更新日  2009年09月18日 22時32分19秒
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2009年09月17日
カテゴリ:山大新聞会
70万アクセス記念大型連載始まる
ついに明かされる「再出発日記」ブロガーの過去
30年前の地方国立大学の実態

三流雑誌並みのあおり見出しを作ってみました。明日ぐらいに70万アクセスを達成すると思いますが、今回は踏んだ方には別に「記念品」はありません。ご了承ください。その替わりと言ってはなんですが、めったに「自分のこと」を語らない私が赤裸々に過去を語りたいと思います。とはいっても、私の大学時代の思い出です。しかも四年前に書いた文章を加筆訂正して紹介するので、あまりすごいということでもないのですが‥‥‥。
一部差しさわりのある人も出でくるかなと思い、あまり公にしていない文章なのですが、良く考えたら30年前のことです。大学名も、団体名も出してももういいでしょう、と思ったのです。もちろん文責は私にあります。

まえに50万アクセスだったかな、記念に私の過去を書いたときに、大学時代に新聞会に入ったことが大きな転機だったこと、本多勝一「事実とはなにか」に大きく影響されたことを書きました。そのことを今回(おそらく)数回に分けて全面的に展開したいと思います。同時に私の過去の失敗に付いて懺悔と反省をしたい。飛び飛び連載になると思いますが、左のカテゴリー「山大新聞会」を設けますので、まとめて読むときはそこをクリックしてください。(出来るだけ集中連載にしたいと思います)

‥‥‥と前置きが長くなりました。
先ずは私が1979年春、第一回目の共通一時を終えて国立の山口大学に入学して、(今まで部活動は柔道ばかりだったので、今度こそは文科系のサークルに入ろう、一番候補は新聞部だ)と思って新聞会の説明会に顔を出したところから始めます。

そのとき、教養学部の一室を借りた説明会に顔を出したのは、私を含めて初々しい顔が四人でした。編集長だと名乗った三回生のK氏は一通りの説明を終えた後、「実は部室はここから少し離れたところにあるんよ。今日はそこでちょうど新聞理論の学習会をしているんだけど、ちょっとだけ覗いてみないか」と言うわけです。もうまるきり学生だけで、立派な新聞を作っているというだけで興味しんしんだった私はいちもにも無く付いていったわけです。

新聞会の部室は大学の中にはありませんでした。(もう30年前の話です。今はどうなっているのかぜんぜん知りません。)大学から五分くらい歩いたところの普通のアパートの一室に部室はあったのです。あまり違和感を覚えなかったはずです。それまでにすでに「大学とは変なところだ」というカルチャーショックを充分受けていたせいかもしれません。緑色の鉄製の扉を開けて入るとそこは「部室」そのものでした。一部屋六畳の空間の中、左脇には本棚があり、いろんな本とともに、「78年総括」やら、「文化部」やら背表紙のあるファイルがはみ出しながら雑然と並べてあり、長机をはさんで、先輩の編集部員たち6人ほどがニコニコしながら座っていました。そいう雰囲気の中でおもむろに「定例の学習会」が始まり、その日はジャーナリズム論のバイブルというべき(私はもちろん知らなかった)本多勝一の本を読んでいたというわけです。

本多勝一著「事実とは何か」でした。

この本はジャーナリスト論の短文を集めたものです。私が最初に接したのは未来社刊の単行本です。しかし、学習会のレポートに出てきたのはそのうちの二編だったと思う。この本と同名の「事実とは何か」(「読書の友」1968)と「事実と『真実』と心理と本質」(日本機関紙協会『機関紙と宣伝』1969)。話の筋上、この二編の内容をまず詳しく紹介します。

「事実とは何か」
新聞社に就職して教えられたことに「報道に主観を入れるな」「客観的事実だけを報道せよ」がある。そのことは「その通り」ではあるが、本多勝一はベトナム戦争の取材で、そのことに違和感を抱くようになる。「客観的事実などというものは仮にあったとしても無意味な存在である。」「主観的事実こそ本当の事実である」。
つまり戦場には、無限の事実がある。砲弾の飛ぶ様子、兵士の戦う様子、その服装の色、顔の表情、草や木の土の色、土の粒子の大きさや層の様子、昆虫がいればその形態や生態、……私たちはこの中から選択をしなければならない。選択をすればすでに客観性は失われてしまいます。
そして、そうした主観的選択はより大きな主観を出すために、狭い主観を越えてなされるべきです。米兵が何か「良いこと」をしたとする。それは書いてもいい。それは巨大な悪の中の小善に過ぎないこと。小善のばからしさによって、むしろ巨大な悪を強く認識させることができます。警戒すべきは「無意味な事実」を並べることです。戦場で自分の近くに落ちた砲弾の爆発の仕方よりも、嘆き叫ぶ民衆の声を記録するほうが意味ある事実の選択だと思う。
そしてその主観的事実を選ぶ目を支えるものは、やはり記者の広い意味でのイデオロギーであり、世界観である。
「ジャーナリストは、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、ほとんどそれのみが本来の仕事だといえるかもしれません」

この最後の言葉にジャーナリスト論の「ジ」の字もかじったこのない私は痺れました。

その意見に私は「反論する余地」を持ちませんでした。彼の文章のどこに反論できるというのでしょう。そうやって見ると初めて、そのころ起こっていた中越紛争、あるいは世の中の対立の「謎解き」ができるような気がしたのです。私は大学に「何か真実みたいなもの」を求めて入っていったのだろうと思います。研究室は「国史」にはいるつもりでした。歴史が好きでしたし、歴史的事実を探し出すことで真実に近づける、そんな期待を抱いていたのかもしれません。しかし、私はこの学習会でそういうものは幻想であることを突きつけられたのです。

ここにあるのは「偏見のすすめ」です。でもそういう風に世界を見ることで初めて私は「世界」を見る目を「開いた」ような気がしていました。「客観的事実というのは無いんだ」。「支配される側に立つ」とはどういうことなのか。私は「ワクワク」していました。

なぜ新聞会の部室が大学の構外にあったのでしょうか。それこそ、世の中の「対立」のひとつの例がそこにありました。

私は本多勝一の言葉に感動したのですが、大学の中では「支配される側に立つ」というような抽象的な言葉では片が付かない様な事が山ほどありました。

私はどういう立場に立てばいいのか。
そのことが私の前に立ちはだかっていました。
疾風怒濤の四年間が始まろうとしていました。

以下次号。






最終更新日  2009年09月17日 23時47分08秒
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