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山大新聞会

2019年09月25日
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カテゴリ:山大新聞会


東に向かう。小京都なので、当然低い山が連なる。




そこに、鴨川のように小川が流れている。一の坂川である。






清流である。しかも、土を残して、蛍が住める様に気をつけている。このまま、街中を横断するこの川は、毎年蛍が飛ぶ。大学時代はその有り難さは分からなかったが、今はとても貴重な川であることが分かる。


この様な小さな森も整備している。


官軍の錦の御旗を作った工房跡もその辺りにあった。


県庁所在地と言いながら、これといった産業もなく、まだ中心部も昔工法の家々が残っている。これは庶民の家。


これは弁護士さんの家のようだ。


明倫館跡に、赤レンガの観光拠点が作られていた。


橋から玄関に入る家。






唯一の商店街、道場門前にたどり着く。ひとつだけだったが、京都にあるクランクの様にZ
字路なっている小径を見つけた。京都では辻子と呼んでいたが、元の意味は厨子だと言う説もある。単に人の流れをまっすぐ通れない様にして関心を持たせただけでなく、この通りに神様を祀っているのが特徴だ。ここにも西向き地蔵が祀られていた。






この道場門前通り。かなり前からの歴史があるらしい。これも初めて知った。


その西端の安部橋のたもと枕流亭跡があり、薩長同盟を相談したところらしい。


この辺りを歩いたのは、ひとつのミッションがあったからだ。新聞会のゆかりの地を訪ねるのが今回の大きなテーマなのだが、この町の一角の何処かに、山大新聞を印刷していた印刷所、俗称「けんしん」(山口県新聞社の略だろうか)があったはずなのだ。当時としても、珍しい活版印刷で、ひとつひとつ文字を拾って作っていた。流石に今は無いはずだ。跡地だけでも特定したかった。住所はわからない。行けば思い出すのでは、と期待したが、ほとんど思い出せなかった。よく門前でトンカツを食べたのだが、当然その店もなくっていた。とうとう諦めた。


もう2時前になっていたので、一の坂川沿いの一柳という食事処で定食を食べた。思いのほか、あら炊きや酢物が豪華で、これで千円弱は安かった。


そのあと、県立博物館に車を取りに行っていると、市役所隣にもしかしてあるかな、と行くと本当にあった、昔初めて「辛いカレー」を食べて感激して数回通った「ぶるうべる」がまだあった。


ご主人に聞くと、40年間やっているらしい。私が食べたのは、開店して間もなくだったのだ。ここは辛みで辛くしているのではなく、香辛料を煮詰めて行ったら、美味しく辛くなったという辛さなのだ。ルーを別に盛っているのも、薬味にらっきょを使っているのも、今では当たり前だけど、あの時は衝撃的だった。


そうそう、こんな感じだった。ご飯の上にうずら卵が載っている。とってもおしゃれで、1食600円近くしたので、特別な時にしか食べなかった。今でも800円だ。信じられない。美味しい。あまり辛く無いが、辛い。定食を食べたあとだったので、食べきれるか不安なほどに腹一杯になった。


県立美術館横にひっそりと説明立て看も立てずに「青春譜」の石碑かあった。明治32年建立と読める。この辺りにあった山大の寮歌だろう。これはもっと注目されていい石碑だ。


コーヒーを飲んでホテルに帰る。夜は軽く、昨日の同窓会の二次会の場所「ROCCA」で、ワインと秋刀魚のアヒージョで終わらした。
13620歩






最終更新日  2019年09月25日 11時48分07秒
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2019年09月24日
カテゴリ:山大新聞会
9月15日 晴れ 2日目


朝の朝食。


車でザビエル聖堂前まで行ってみる。今日はミサがあるということで、駐車場は満杯だった。91年の焼失によって、98年に再建されたというこの記念聖堂を観たのはこれが初めてだった。元のどっしりと構えた茶色い聖堂から一新してモダンな建築に変わっていた。


洞穴の中のマリア像。外なので、焼失からは免れているはず。


最近このような事情で鐘が寄贈されたらしい。


打たせてもらった。余韻の残る見事な鐘だった。


このザビエル聖堂がある亀山記念公園には、思い出がある。あれは80年の12月8日のことだった(と思う)。私たち新聞会は、忘年会を終えてたいていはこの公園に登ることが多い。酔い覚ましの運動である。その日、ジョンレノンが射殺されたという一報が入ってきた。私は、そんなに思い入れはなかったが、相当なショックを受けている先輩の影響もあり、その時のこの階段からの眺めが未だに頭に残っている。平和を願った世界的ミュージシャンの死を、世界的に有名な聖堂が悼んでいる。気がした。


亀山記念公園の頂上からは、龍泉寺方向の市街などがよく見える。


これは、県庁方向。かつて、新聞会で、​60年安保の体験者の話を聞くために、私がインタビューをしに行った木造の県庁​はもはやない。


これは湯田温泉方面。ずっと向こうに山口大学があるはずだが、見えない。




そのあと、山口市歴史民俗資料館に向かう。博物館フェチとしては、空いているところは一応チェックしておかないと、という気持ちだったのだが、実は今日最大の収穫だった。企画展は「信仰でたどる江戸時代」だったのだけど、常設の考古遺物がとても充実していたのである。県立博物館の比ではなかった。こういうことはよくある。


私の関心事、弥生後期の遺跡は、ここにもあった。赤妻遺跡(山口市内付近)、上東遺跡、下東遺跡(湯田温泉東あたり)と、弥生から古墳時代にかけて、やはり住居などが発掘されていたのである。弥生終末期、山口県空白説は、これにより先ずは宙に浮いたと思う。


しかも、この遺跡からは下関の綾羅木郷遺跡に特有な木の葉紋の土器も出土していた。自然模様のようで、幾何学模様のよう。この紋様の変遷はとても興味があるのだが、いま私はそこまで手が伸ばせない。誰かやってもらえないかしら。


いちおう、県立博物館に行く。


まあ、総合博物館なので、地学とか生物とか理系の展示が多い。秋吉台を形成している石灰石は、もともとはサンゴ礁だったかららしい。つまり、あの山は元々は海の底だったのだ。ところが、すぐそばにはジャングルもあり、それが積もって泥炭層になっていたりするから、数億年前の山口県は、海やら森やらあるグズグズの浅瀬だったわけだ。




県立博物館なのに、あまり質のいい土器は置いていなかった。考古学コーナーは申し訳程度にしか無い。全ては下関市の考古学博物館にあると言う事なのだろう。しかし、県教育委員会の力の入れようの無さには呆れた。


県立博物館に車を止めて長いお散歩。瑠璃光寺隣の洞春寺に行く。毛利元就の菩提寺。そこにある美術館に寄るためである。


そこにある「のむら美術館」という小さな美術館。観覧料200円。割と良かった。なんでこんなものがここに、というものがたくさんあった。


我が郷土備前国の江戸時代の画家、岡本豊彦の絵もあった。差し障りがあるので、絵は見せれない。


なんと、伊藤若冲の絵もあった。鶏がビックリ顔をしている。ほとんどマンガである。この革新性は正に若冲!でも、なんでここに?間違いなくホンモノらしい。雪舟の絵もあったが、こちらは管理人の方は「多分」と歯切れは悪かった。


一つの目玉として、桂小五郎(木戸孝允)が、桜田門外の変の時に、たまたま隣の長州藩屋敷に居て、(どの時点でかは不明だが)事の次第を見て、水戸藩士の「快挙」に共感して、各地の同志に決起の檄を飛ばした文章が昭和の時代に発見されて、(何故か)この美術館に展示されていた。桂小五郎の文章は達筆である。勢いは、そのまま桂小五郎の心情を表しているのかもしれない。それにしても、何故こんなものがここに?


隣の瑠璃光寺五重塔に行く。近影。


亀山公園から見た五重塔。


そして近づいて見た近影。


日本三大五重塔の一つらしい。全部で41基が作られて、現存している。(現在は67塔)瑠璃光寺資料館には、その全国の五重塔模型が全て展示されていた。


この日は暑かった。久しぶりにかき氷を食べた。


瑠璃光寺には、実は初めて来た(と思う)。もしかしたら、入学式の時に母親と来たかもしれない。どちらにせよ、山口市最大の観光地なのだが、大学時代一切興味がなかった。今回は湯田温泉といい、瑠璃光寺といい、40年経って、やっと山口を観光した。


そうは言っても、普通の観光とは少し違う。五重塔を見た司馬遼太郎の碑があった。まぁ私もそう思う。小京都といいながら、都会には無い、優しさがある。ところが、田舎とも言えない。雅なところはある。面白い。


若山牧水歌碑もあった。
はつ夏の  山のなかなる  ふる寺の  古塔のもとに  立てる旅人
明治40年6月に中国地方を旅した時にここに寄り詠んだらしい。岩越しに塔を見る。






最終更新日  2019年09月24日 14時03分48秒
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2019年09月22日
カテゴリ:山大新聞会


いつも大学前の長門館で夕食や夜食を取っていた。ないと思っていたが奇跡的にあった!


なんか半分はジーンズ屋になっていたがやっていた。

ところが、中は真っ黒。ジーンズ屋のいうには、いつもはやっているけど、お昼お休みかもしれないとのこと。ここでも昼食を食べれなかった。ここの中華丼がたまらなく安く大盛りで、野菜もとれてみんなの栄養素になっていた。今はどうなっているのか知りたかったが、仕方ない。



前に書いた通り、新聞会の部屋は大学外のアパートにあった。今はなくっているが、その場所を確認した。こんなところだったっけ。なんか、あまり感慨が湧かなかった。一回一番左側の部屋だったはずだ。


前に神社がある。それも思い出せない。この前の小川は、椹野川の支流で、毎年蛍が見えた。そのことだけはよく覚えている。
その日のホテルに入って遅い昼食をとった。


そのあとホテルに入り、大学入試の際に泊まった旅館で入って以来40年間、おそらく1-2回しか入っていない(大学時代には一度も入っていない)湯田温泉のお湯に入った。単純アルカリ泉。大学時代には、いつでも(外湯に)入れると思ってとうとう入らなかったのだ。お金がもったいなかった。同じ理由で、成人式にも行ってはいない。‥‥それはそうと、さっぱりしてホテルのすぐそばにあるとある磯くらという料理屋に向かうと、新聞会OB会と言いながら、私の先輩しかいなかった。総勢19名。同期も後輩もいなかった。ほとんどが連絡が取れない状態らしい。私も、先輩がFacebookで検索して連絡してきたのだ。ちょっと怯む。
そうは言っても、私の先輩の4ー5年上までが上限までの先輩たちばかりなので、一度はお目にかかった方達が多い。しかも、席は1−2年先輩の人たちの所に紛らせてもらったので、なんとか楽しく過ごさせてもらった。ここでは紹介出来ないが、当時の写真や当時の思い出話に花が咲いた。新聞会は、私のすぐ後輩の代で消滅したようだが、誰一人としてその真相はわかっていない。
「おまえは時間があるんだから、この連絡先の空白を埋めろ」と先輩が命令してきた。
「いや、無理です。それに、最近は忙しい。手がかりもない」
しかし、まるきりないことはない。僅かな手がかりは、久しぶりにもらった連絡先一覧に少しある。少しはやってみようとも思った。
次回は2年後に決まった。しかし、東京在住の方も多いのに、よく集まったものだ。






最終更新日  2019年09月22日 12時10分06秒
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2019年09月21日
カテゴリ:山大新聞会
9月14日、おそらく20数年振、卒業して36年ぶりの新聞会同窓会で、山口に行きました。同窓会レポートをするつもりだったのですが、やはり何処に行っても遺跡めぐりはやめられません。どっちつかずのレポートになりました。3日分を3回で終わらそうと思ったけど、無理みたいなので、6回連載になります。前半4回は、古代レポートが含まれているけど、山大新聞会にカテゴリーさせます。


新聞会メンバーの詳しい紹介は出来ないけど、例によって旅レポートだけはしておこうと思う。今回は軽四を飛ばして、4時間半かけて来た。小郡インターで降りて、先ずは向かったのは朝田遺跡(どうしても古代レポートになる)。ところが、住所を調べて地図アプリに入力しても一向に場所を示さない(どうやら遠に消滅した住所だったのかもしれない)。朝田のコンビニで、ダメ元でで朝田遺跡の場所を聴くと、なんと教えてくれた。これは遺跡巡らーにとってはとっても珍しいことです。どうやら維新公園の中にあるらしい。「20年前のことだから」とオーナーは詳しい場所は、わからないようだったが、それなりにこの遺跡の発掘は大きな出来事だったようだ。少し迷ってたどり着く。



どうやら小山の上にあるらしい。国道9号線を作るにあたって、発掘された遺跡であり、国道のトンネルの上にあった。国指定になっている。道理で綺麗に復元されてあるわけだ。






私はメインは古墳時代で、弥生がかすっているのかと思いきや、そうではなくて、弥生から古墳にかけてずっと続いていて、しかも大きくはないが、土壙墓や周溝墓、壺棺墓や石棺墓などあらゆる弥生墳墓が集合している、墳墓群だった。これだけ多くの墓がいっぺんに集まっているのは、珍しい。




しかも、山口県には、後期弥生遺跡が無いと聞いていたので、「あるじゃないか!」と思った。


そのあと、実は大学時代下宿していたところへあいさつに向かった。既に住所も名前も忘れていたので、たどり着くだろうかと心配していたが、もしおられた時のことを考えて倉敷名物「むらすずめ」の5個入り1番安いやつ(おられたら夫婦2人暮らしなのでそれで十分)は買っておいた。なんと一度も迷わずにたどり着いた。自分でもびっくり。25年ぐらい前に一度あいさつに伺ったことがあるのだが、よく考えたらあの時はバスで行ったのだ。


家は空き家みたいになっていた。あの時は離れを利用して2部屋だけを下宿にしていた。四畳半一間一か月1万円という破格の下宿代だった。二人だけの共同でトイレ風呂が付いていた。これなしでは、奨学金5万、仕送り3万、アルバイトもせずの生活はできなかっただろう(食費は外食ばかりで4万、部屋代1万、あと3万円で本や諸経費を作っていた)。それなのに私は卒業時、軽く荷物をまとめて、掃除もせずに、バタバタと出て行った。確かまだまだ小さな荷物もあり、風呂やトイレはかなり汚かった筈だ。あとで、なんと失礼なことをしたのかと思った。25年前に一度詫びて許してもらっているのだが、思い出すたびに恥ずかしい。この一部屋から田んぼの風景がいつも見えた。冬は必ず雪で真っ白になった。盆地の山口は必ず雪が深く積もるのである。ここから見える風景は、なんと36年前と少しもかわっていない。ここは、町から遥か離れた郊外の下宿宿だったのである。最初の1年は自転車で通っていた筈だ。でも、高校の延長だから、なんとも思わなかったようだ。この日は離れに甥が一人で住んでいた。家の売れるまでの管理として住んでいるらしい。叔母夫婦は3年前に亡くなったらしい。手土産を置いてお礼を言って帰った。


山口大学に行ってみた。


教養学部、1番2番教室。ここで大学祭の講演をやった。


この前で、いろんなチラシを撒いていた。今日は土曜日で人っ子ひとりいない。昔は土曜日は休みじゃなかった気がする。


人文学部。そうだった。こんな建物だった。不思議なことに何一つ思い出がない。何処に自転車やカブを止めていたのか、一切思い出せない。それほどまでにここで学問をした覚えがない。






新しく学生施設を立てるにあたって発掘したらしい。ここへ来た目的の一つは、ここの遺跡を見るためだ。


山口大学埋蔵文化センター。




その前に、遺跡から移設した墓石があった。


ここも、遺跡跡。


もう一つの目的は、ここの学食で昼食をとること。ところが、土曜日は休みだって?なんてこった。






最終更新日  2019年09月21日 14時11分11秒
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2016年10月04日
カテゴリ:山大新聞会
ひとつ、昔話です。初めて生で噺を聴いたのは、我々が主催した落語会だった。

大学時代、新聞会という自治組織に入って新聞をつくっていたというのは、以前書いたことがある。なぜ自治組織(自治会)か。入学当初、まだ右も左もわからない新入生に手紙が行くことになっている。大学には学生の自治組織がある。独立採算制なので、会費が必要だ。引いては、四年間の会費を振り込んでもらいたい。と。ホントは払っても払わなくてもいい。でも多くの学生は払ってしまう。数十年経ったいま、思うのは「完全に騙し討ちだった」。そうやって、文化会・体育会・新聞会・大学祭実行委員会・女子学生の会の「五自治会」は運営していた。もちろん、新聞会は義務として新聞を毎月発行していて全学部に無料で配っていたし、会計報告はしていた。他の自治組織はそんなことさえしていたとは思えない。

話がとんでもないところに行ってしまった。閑話休題、その自治会費還元の一環として毎年大学祭に企画を行う事になっていた。2年の時に、落語会を企画した。「何処かの大学でやったらしんだけど、笑福亭松鶴という落語家はものすごく安い出演料で、貧乏学生のために落語を聴かせてくれるそうだ」当時の大阪出身の先輩がそんなことを言ったのがキッカケだったと思う。

私は新聞会文化部だったので、企画のメンバーになった。上方落語(東京の落語に対してこういう言葉があることさえ、その時に初めて知った)の学習会のレジメをつくった覚えがある。大阪の戦災で、戦後上方落語は壊滅的な状況にあった。その時に、地域で落語会を開きながら上方落語を復興させたのが、若き六代目笑福亭松鶴含めた上方四天王の落語家だった。その経験があるからだろう、当時誰もが認める名人だった松鶴が、学生とは言え、わざわざ山口までやってきて上方落語を広めようとしたのだろう。とは、数十年経ったいま、やっと分かることである。ホントは山口市民に広く知らせて、大講義室に立ち見が出るほどの興行をすべきだったと、たった今、初めて思うところである。果たして、講義室が満員になったかどうかは覚えていない。お礼は、交通費込みで20万円だった覚えがある。チケットは確か500円だった。

私は山口県小郡の新幹線が着くプラットホームに松鶴師匠を待っていた。普通のお年寄りが降りて来た。お弟子さんらしき人が、浴衣で風呂敷包を持って一緒に降りて来たので、初めて師匠だと気がついた。タクシーで山口市の大学まで送ってゆく。世間話なんてできなかった。師匠からいろいろと聞いてきた。「山口の学生がよく飲んでいるお酒は何?」「いつもは角瓶です。でもたまにオールドになるとすげえな、となります」「郷土の日本酒は?」「やっぱり五橋(ごきょう)かなあ。今回は五橋なんだ、となると盛り上がりますね」五橋とは岩国錦帯橋に由来するお酒である。
 
大講義室の高台に座布団を敷いただけの簡単な高座である。師匠は先ず「饅頭こわい」を演った。私はお囃子を準備出来ていないことをうじうじ悩んでいたが、噺を聴き出して、そんなことを全て忘れて観て聴き入った。今さっきまでいたよぼよぼの爺さんが、いま、たった1人で長屋の人物群を苦もなく演じ分けて、しかも私はいつの間にか久しぶりに爆笑している。「生の落語ってすごいんだ」

そのあと、少し漫談に入る。少ない出演料をネタにしたり、五橋の話などを持ち出して、学生になんかメッセージを伝えていたと思うが、ほとんど覚えていない。

演題は一切お任せだった。だから、そのあと「試し酒」を演ると聞いて、二つも演ってくれるんだとビックリした。


実は先日、Eテレで「試し酒」を観て、この日のことを思い出したのである。前名人の跡を継いだのかな、観たこともない顔の桂文楽が演っていた。

ある日、ご隠居たちの世間話の中で付き人の田舎者の男が酒を五升は飲むだろうという話になる。2人は男を呼んでホントに五升飲めるか賭けをする。男は、負ければご主人が散財すると聞いて少し考えさせてくれと外に出て、帰ってきて決心が固まり、一升づつ飲み始める。遂には五升飲み終えて、賭けに勝つ。相手のご隠居が聞く。
「今さっき、外に出たときに、何かおまじないでもやったのかな。後学のために教えておくれ」
「あゝあれはなんでもねえだ。ワシは五升なんて、確かめて飲んだことねえから、外に出て飲み屋に入って、試しに五升飲んで来ただ」

桂文楽の男の飲みっぷりは、上品だった。しかも、五升飲みおわった時に下品に威張り散らした。ダメだ。私はこの30数年間、いろんな人の「試し酒」を観てきたけど、松鶴のそれほど面白かったことはない。

松鶴は、ホントに飲んでいるように飲んだ。しかも、ホントにお酒が好きで好きでたまらない、という風に飲んだ。しかも、あの酔いっぶりの動作のひとつひとつがどうしてあんなに面白いのか、未だに理由が掴めないほどにおもろかった。

もし、山口の学生ではなく、私が大阪の無職の若者だったら、その場で松鶴師匠への弟子入り志願をしていたかもしれない、と後に思うほど衝撃的だった。

六代目松鶴の高座は、出来不出来の差が激しいことで有名である、と私は学習レジメに書いた。その日のハコは、多く入っても300人ほどだったけど、間違いなく最高の出来だった。






最終更新日  2016年10月04日 10時33分03秒
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2009年10月09日
カテゴリ:山大新聞会
「美人コンクール発言事件」はいまや全学生の知るところとなる。
その後何回か大学祭実行委員会が開かれたが、某サークルは欠席したまま。
それがまた「糾弾」の対象となるであった。

わが大学新聞は沈黙を守っていた。
わたしは女性問題に疎く、付け焼刃の学習では到底歯が立たないことを感じていた。
安易に記事にすると、われわれも「糾弾」の対象になってしまう。
一回だけ、先輩がエッセイの装いを持って、この「現象」にコメントしてくれた。
たぶんそのことを免罪符にして、わたしは編集長の仕事を果たした、と思ったのかもしれない。

わたしはこの糾弾会がどのような決着を持ったのかを覚えていない。
(おそらく某サークルは女子学生の会が望む総括文を嫌々ながら書かされたのだと思う)
ということは、わたしは最後まで「関わらなかった」ということなのだろう。
「それは賢明な判断だった」と誰かは言うかもしれない。
しかし、今だから言うが、あれは間違っていた。

新聞会は何の立場に立って書くのだろうか。
自分たちの思想を広げるためか。違う。(広げる思想もないが)
「当局」(大学経営者=文部省)か。もちろん違う。
自治会である以上、大学の全学生のために、
学生の立場に立った新聞つくりをしていかなければならなかった。
今起こっている糾弾会は本当はどういうことなのか、学生たちは関心を持っていただろうし、新聞会はそのことに応える義務があっただろう。

編集部に、編集長たる私に「勇気」と「覚悟」が足りなかった。

理論的な未熟はあったかもしれないが、「足で書け」ば、
少なくとも事実関係で後ろ指差されることはなかっただろう、
と今になれば思う。
そうはいっても、あらゆる記事には「主張」(事実を選択するものさし)が
あるのだから、そこを突かれたら、後は理論対決になる。

あれは「糾弾」に値する発言ではなかった、と、誠実に言わなければならない。
それはおそらく全学生の支持するところだっただろうと思う。
理論の泥沼に入ることを避けて、世論対決にもっていくという戦略をとれば、
何とかなったかもしれない。

新聞会の「故意の無作為」に
あのときの某サークルに対し、
あのときの全学生に対し、
いまさらながら「ごめんなさい」とわたしは謝るだろう。

時機を逸せず、勇気をもって判断を下す、
それは本当に難しい。
そのとき大事なのは、やはり
われわれはどういう立場に立つか、ということなのだろう。
もうひとつそのいい例がある。
生協設立運動である。

以下次号。
(さすがになんか「総括文書」を書いたような疲れが(^^;)
次号更新は果たしていつになるのか。)






最終更新日  2009年10月09日 22時30分37秒
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2009年10月08日
カテゴリ:山大新聞会
事件は、
「祭り全体を象徴する企画について、何かないか」
と大学祭実行委員会の議長が言ったときに起こった。

ところで、この議長P氏は、どんぶり太って外見はどこかの土建屋のおっさんみたいではあるが、弁は立つ。
5回生だとか、7回生だとかのうわさ。
あるときは実行委員会の議長、ある時は三里塚の集会に行っていたといううわさもある、いわば、大学の主(ぬし)である。

その議長の提案に対して、体育会系のどこかのスポーツサークルの男が、
全く軽い調子で、
「この大学祭はなんか暗いんだよね。もっと一般受けする企画が必要なんではないの。
たとえば美人コンクールなんていいと思うけど。
ミス早稲田とかよく話題になるじゃない。あれと同じように、
優勝者は話題になるんじゃないかな」

と提案した。

最初に発言したのは議長P氏だったと思う。
「つまり君は女性の外見を大学祭の宣伝媒体にしようというんだね。」体育会系の男は真面目な提案をまぜっかえされたと思ったのか、むきになって反論する。
「難しいことは分かんないけど、そういう風に暗く考えるからいけないんじゃないのかな。」
そのとき女性が発言を始めた。
女子学生の会からの発言だった。

今、女子学生の会がどのようなことをいったのかを思い出すことが出来ない。
おそらく当時の私は女性差別のことについて、ほとんど知識を持ち合わせていなかったし、
女子学生の会自体に対する反発もあったのだろう、彼女のいうことが心の中を素通りしていった。
ただ最後のほうになって、
彼女が泣き出したのだけはびっくりしたのを覚えている。
自らの発言に感極まり、泣くとは。

私は、理屈でなく、感情が会議を支配しだしたことに気がついた。

「君たち○○サークルの発言は明白な差別発言である。
きちんとした反省の言葉がない以上、この会議はこれ以上続けることが出来ない。
これ以上の議題は次回に持ち越す。」

P議長はそのように会議を打ち切った。
私はその間、ずっと貝のように押し黙っていた。
私は「たかだか」美人コンテストをしたいといっただけで、ここまで罵声を浴びるこの体育会系のサークルに同情をしていた。
はたして私は援護の発言をしなくて良かったのだろうか。
ただ、大学祭の教室が決まっていなかった。
私は次の会議にも出席しなくてはならないことを知っていた。

私は、編集長としてこの事態に判断を下さなくてはならなかったが、
わたしは迷っていた。

よって相談役になっていた、四回生の先輩に聞くと、
彼もことは慎重に対処すべきだということだった。
問題は三つ。
一、体育系サークルの「美人コンクール」発言は、
女性を外見だけで評価し、それを商品的価値にまで定着させてきた現代の女性差別構造に「つながる発言」として「感心できたものではない。」こと。
一、しかしながら、
大学祭を盛り上げようという善意から発言されたことで、「罵声を浴びるほどのことではない」ということ。
一、しかしながら、新聞会として下手に反対などすると、今まで敵対関係にある大学祭実行委員会や女子学生の会から、「いちゃもん」をつけられる可能性が高いこと。

わたしの態度は結局「事態を見守ろう」ということだった。

しかし、事態はしだいと大きくなっていった。
次の大学祭実行委員会はこの体育系サークルの「糾弾会」に性格が一変し、きちんとした「文書」で「総括文」を提出せよ、となり
体育系サークルは多勢に無勢、前回の発言は撤回したにもかかわらず、許してもらえず、何も言えず帰っていったのである。

次の日からは、ほぼ連日女子学生の会からのアジビラ、アジ演説、でこの某サークルはずーと「糾弾」されていった。

わたしはこの事態を記事に出来なかった。
はたしてそれでよかったのだろうか。
以下次号。






最終更新日  2009年10月09日 00時12分37秒
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2009年10月07日
カテゴリ:山大新聞会
前回は、どういう立場に立つのか「選択」するのは、学習によってではなく「決意」によってであると書いた。
少しかっこをつけすぎていたと反省している。
決意というほど決意していなかったと思う。
「感性」という言い方もあったかもしれない。
要はこういう選択の場合、しばしば理屈では決めれないということを言いたかったのだ。
最も適切な言い方をすると(分かりにくいが)その人個人の「倫理観」によって、選択するのである。

どういう立場に立つのか、
非常に難しい例がある。
というか、人生ではそういうことのほうが多いのでは、とその後30年以上たってみて思う。

そういう例の一つ
「美人コンクール糾弾事件」について書こうと思う。

そのとき私は三回生だった。
(すみません、一挙に時間が飛びます)
なんと編集長という位置にいた。
世の中は、つい数年前に明らかになった連合赤軍の影響によって、「学生運動=こわいもの」という定式が根強くあった。
「しらけ世代」という言葉は今はあまり聞かれない。
いまはそれどころではないのである。けれどもそのころは、まだ始まらないバブルの初期、学生は売り手市場であって、大学新聞なんて「かかわらないほうがいい」という種類の「サークル」であった。
よって、人材が不足していた。決定的に。ズルズルと居ついていた人間が編集長になるほどに。
そのようなとき、事件が起きた。
私はその場に居合わせたこと、は不幸であった。
まだ相談できる先輩がいたこと、は救いであった。

時は秋の入り口、教養学部○○番教室において、例年のごとく、大学祭実行委員会が開かれていた。
各サークルが大学祭での企画を持ち寄り、使える教室などを調整したり、補助が必要なサークルはその申請をしたり、大学祭全体を象徴する企画を立てたりする会議なのである。

私たち新聞会は過去において大学祭実行委員会やその他の組織に学外に追い出された経緯があるので、出来ることなら参加したくない会議なのではあるが、毎年、大学祭には記念講演をしているので大きな教室はぜひ確保しなければならない。
お金はあるから補助の申請はしない、また立場上できない。
まあとにかくしぶしぶ出て、早く終わればいいなという会議なのではあった。

そのときは何の記念講演を企画していたのか、覚えていない。前年は鮮明に覚えている。なんと、先代松鶴を呼んだのである。講演と落語をしてもらった。学生ということで、破格の出演料だった。私は文化部部長ということで、駅まで迎えに行き、大学までの車中松鶴の隣に座った。
むすっとしたしわくちゃの小太りのおじさんがシワガレ声で聞いてきた。
「山口ではどんな酒を飲みますんや」
「ぼくらは五橋という酒が大好きです」と答えた。じつはその酒しか飲んだことがなかった。
そしたら、師匠は噺の中でその酒をしっかりと使っていた。
単なるお爺さんが、人の前に出ると「芸人」に変わった。
目の前で初めて落語を見た。
「試し酒」である。
親指を口につけただけなのに、ほんとにそれがお猪口となって、
師匠が本当に旨そうに酒を飲む。
落語が大好きになった瞬間だった。

何が言いたいかというと、大学祭実行委員会に参加するのは嫌だけど、大学祭に「自治会」として企画を出すのは、学生に対する神聖な義務だった、ということを言いたかっただけ(^_^;)。
さて、ここから本題。
事件は、祭り全体を象徴する企画について、
「何かないか」と実行委員会の議長が言ったときに起こった。

以下次号。






最終更新日  2009年10月07日 22時06分17秒
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2009年09月28日
カテゴリ:山大新聞会
私は初めての記事を書いた。
私の大学では1960年の5月から6月にかけて、学生や教授たちは何をしてどのような思いであったのか、説明ではなく、事実でもって表現しなくてはならない。
つまり、インタビューの内容でそれをすべて表現しなくてはならない。

私は何度も書き直しを命じられたはずだ。
しかしすでにインタビューは終わっている。
新入生に再インタビューの申し込みは酷だと先輩は判断したのであろう、文章的な誤りは直しが何回も出たが、文化部のOKは出た。しかし、編集会議でのOKが必要である。

編集長K氏や次期編集長H氏はやはり根本的なところを突いてきた。
「安保とはどういうものかなのか、これでは分からない」
K氏は三回生経済学部の先輩。実に温厚な人だった。少しのミスにはこだわらない、親分型の人で、どれくらい助けられたか分らない。H氏は同じ人文学部でやがて研究室まで一緒になる二回生だった。非常に鋭い人で、この人だけが卒業後記者になった。
「安保がどういうものかわからない」書いている本人が分かっていないのだから当然といえば当然であろう。しかし、それを地の文で説明しようとすると、半分くらい説明だけの記事になることを先輩たちは分かったのであろう、私は本来聞くべきだったそのあたりのことは何一つ取材ノートに書き留めていなかった。一言二言の直しが入って、
結局、強行採決をした政府に対し、「このままでは日本の民主主義がだめになる」という危機感で、安保反対のデモの波が広がった、
というような「歴史発掘」になったのである。

私はそれはそれで大切な事実だと今でも思っている。
しかし「本質」はそれだけではなかったろう。
安保自体が持つ危険性に対して、戦後初めてそして最大の民衆エネルギーが対峙した、それは歴史的な瞬間だったのではある。

事実でもって本質を描く、それは
取材しているときにすでに本質を掴んでいなければ、描き得ないものなのである。
私は闇雲に突っ込んで「本質」の端を少しかすっただけなのである。

この場合、「支配する側」に立つのか、
「支配される側」に立つのか、
それが問われていたある意味「分かりやすい例」であった。
もちろん記事の内容は支配される側に立たなくてはならない。
そういう広い観点で現代史を見なくてはならない、新入生には「難しい例」ではあったが、自分はこっちの側に立つのだと「選択」すれば、後は学習すれば書く事のできる記事ではあった。しかしその「選択」は学習によってなされるのではない。決意、によってなされるのである。

ちなみに記事の第二段はがらりと変わって吉田キャンパスのグランド隅になぜか建っている山口大学埋蔵文化財センターの取材になった。山口大学は遺跡の上に大学移転したのである。今の私が取材したならば、大好きな考古学のこと、非常に充実した記事になっただろうが、このころの私は何の関心も無かった。たんに「キャンパスは遺跡の上に建っている」ということを伝えただけの記事になった。これぞ「歴史発掘」だとO先輩は慰めてくれた。

以下次号。






最終更新日  2009年09月28日 22時36分03秒
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2009年09月27日
カテゴリ:山大新聞会
「エー!僕だけで取材に行くんですか。ムリです。」
などというような口答えはしなかった。
私は素直な新入生だった。

私は県庁に赴いた。
そのころ、山口県の県庁はまだ全体が木造の平屋であった。戦災を免れていたたためか、いくつもの建物が長い廊下で繋がれて、非常に広い迷いそうなところであった。
反対に言えば、歴史的な由緒ある建物であった。
一般的には産業の中心に県庁はあるものであるが、山口県はその役割は宇部市や徳山市にふられていた。なぜか県庁所在地には文化的な建物しかなかった。伊藤博文や山県有朋、或いは岸信介を生んだ山口県、歴代の政治家たちに何らかのこだわりがあったのかも知れない。

複雑な木造の廊下を歩いて、何も知らない新入生の私は、受付でB氏を呼んでもらったのであるが、電話に出たB氏は突然やってきた得体の知れない学生を訝しがり、今忙しいので後で連絡するといって、私たちの連絡先を聞いただけて会ってくれなかった。(今から考えると当然といえば当然であろう。)
私はすごすごと戻っていったのであるが、やがて会ってもいいという連絡が来る。
もしかしらA教授に私たちの新聞会が怪しいものではないと聞いたのかかも知れない。

20年前の学生で当時学生自治会委員長だったというB氏は、いまはスーツを着たただの中年のおじさんに見えた。私はおそらく用意してきた質問を機械的にしていったのだろうと思う。中年おじさんは当時を懐かしむようにいろいろと話してくれたのだと思うが、今ではほとんど覚えていない。ただ「なぜ60年安保闘争を始めたのか」と聞いたとき、次のように言ったことは、私が書いた記事の中心的な言葉になったし、生涯忘れることの出来ないものでもあった。
「私は安保問題の難しいことは良く分からなかった。けれどもあの国会の強行採決を知って、このままでは、日本の民主主義はだめになるかもしれない。ただ、その危機感だけで、集会を準備したし、デモもやっていったんだと思う。」
突然目の前の中年おじさんが、私たち学生の仲間に見えた。

それは当時の自覚的な学生たちの正直な言葉だっただろう。
そしてそれは当時としてはすでに(そして今も)失われつつある言葉だったろう。
私はそのインタビューという「事実」を採取することに成功したのである。

全国闘争と組織の関係、集会とデモの関係、そんなことのイメージをぜんぜん持っていなかった私は、聴くべき言葉をずいぶん逃していたと思う。私はもう少し突っ込んで、たとえば次のような質問もしてみるべきだったかもしれない。
「あの当時のことを思い出してみて、
現在の日本や学生に対して、何か思うことはありますか。」

過去の歴史から現代を照射する、そういう試みも面白かったかもしれない。

しかし、まあ何とか私の「初めての取材」は終わった。
次は私の「初めての記事」である。






最終更新日  2009年09月27日 23時30分47秒
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