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カテゴリ:旅行けば
車の助手席に座るのが好きで、今のバイトもまさにそれなので願ったり叶ったりなのだが、それなりに大変だった助手席体験となると、四半世紀近く前の中国のウルムチ-カシュガル間の3泊4日バスと、20年ほど前のインドのレー-スリナガル間の1泊2日トラックか。
ウルムチ-カシュガル間のバス。 乗車券売り場では翌朝行けばバスのチケットが取れるという話だったのに、当時の中国とて朝行ってみると案の定「没有」と言われ、しかしそこで引き下がっていては先に進めないので散々ごねた末、ガラスで客席と仕切られた運転手席の工具箱の上に座布団を置いてそこに座っていけることになった。 客席は満員で、座席が無く通路に立っている人も大勢いたことを思えば座って行けるだけ遥かに上等ではあったが、やはり急ごしらえの座席なので座り心地が良いとはお世辞にも言えない。まあ客席の座席もビニール張りの2列と3列のベンチシートなので、そちらに首尾よく席を取っていたとしても苦痛はさして変わらなかったのだろうが。 運転手は気の良い漢民族のおっちゃんで、道中雑談もしたし何くれと無く親切にしてもらえたので、座りっ放しと乾燥地帯の暑さを除けば結構楽しかった。とはいえ、道中何度かパンクや故障でその都度修理に数時間かかったり、宿泊しながらの移動とはいえさすがに4日目ともなると皆疲労の色が濃くなり、一刻も早くカシュガルに着きたい、と乗客もぴりぴりしていて、やっぱり総合的に見ると大変だったんだろうなあ。 レー-スリナガル間のトラック。 レーに外出禁止令が出て、スリナガルからのバスが来なくなった。朝宿を出てバスターミナルに行き、バスが来ないと聞いて宿に戻る、を数日間繰り返し、ある朝とうとう業を煮やした外国人バックパッカーたちがスリナガル行きのトラックを数台捕まえ、分乗してスリナガルへ行くことになった。レーからの脱出を試みていた7人の日本人が同じトラックの荷台に乗り込んでレーを出た。 とはいえ、途中5千m近い峠があったり、道路っぷちの崖の遥か下には転落したトラックか何かの残骸が光っていたり、崖崩れでしょっちゅう通行止めになったりするようななかなかハードな道。かてて加えてカシミール紛争エリアなので、インド軍の兵士を乗せたトラック(とすれ違いざまに、軍人さんから枝についた杏をもらったりした)がしょっちゅう行き来してるし、「パキスタンのスパイは罰せられる」などと書かれた看板が村の中に立ってたりして、いやがうえにも緊張は高まる。 しかし、一番辛かったのは実は夜の寒さ。運転手は夜っぴてトラックを走らせるのだが、暗くなると山は一気に冷え込んでくる。 トラックの運転手が「女は助手席に入れ」と言う。おかげで私を含めて女性3人は助手席に入れてもらえた。しかし、夫を含む男性4人は荷台に残っている。高山病上がりの夫は相当寒いはずだが、防寒は十分ではないので気が気ではない。 トラックの運転席はさすがに人が4人も乗っているので暖かいが、窮屈で体が伸ばせず身動きもとりにくい。トラックは氷河の脇をすり抜け、夜の峠を何度も越える。途中片側通行で1時間以上対抗車待ちがあったりして、早くスリナガルに着かないかと思いながらうとうと浅い眠りに落ちては目が覚めた。 空が微かに青くなり始めた頃には植物の生えているところまで高度が下がっていることに気づいた。 空がすっかり明るくなり、人家があちこちに見えるようになった頃、トラックはようやく小さな食堂の前に停まった。 夫がふらふらと荷台から降りてきた。だいぶ消耗しているようだが、トラックに乗りっ放しで夕方からほとんど飲まず食わずだったこともあり、とにかく寒かったらしい。 食堂で熱いチャイとサモサ(プリーだったか?)の簡単な朝食を取ったが、考えてみると食事らしい食事は丸一日ぶりかそれ以上か。 幸い夫はその後風邪も引かずに済んだし、その日の朝スリナガルにたどり着いた後、荷台の仲間7人全員でチェックインした安ボートハウスの部屋でアヒルの鳴き声を聞きながらたっぷり昼寝して、私もようやくばりばりの体が生き返った気分になった。 あれはハードだった、寒かったし本当に辛かった、と夫は今も言う。 って、スリナガル行きのトラックの助手席に乗ってたのは夜の間だけか(笑 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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