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「遊び」と「学び」の交差点

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2013年02月12日
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カテゴリ:地域
立春も過ぎ、暖かさを感じる一日、「隅田川」沿いを散策してきました。

隅田川西側から見る東京スカイツリーは、朝日を背に燦然と聳え立っていました。


Skytree1

その天を突く雄姿は、あたかも「東京の未来」を思わせるが如く周囲の高層建物と調和しています。

川の両岸には、有名メーメーカーの本社社屋や高層マンションが建ち並び、高速道や鉄橋など、東京を支える底力を感じさせます。

実は、スカイツリーと隅田川、そして撮っておきたかった橋があります。

こちらです。


Shirahigebashi


西側にある東京ガスのガスタンクが目印となっている「白髭橋」(奥に見える橋)です。


荒川区南千住及び台東区橋場地域と墨田区堤通を結ぶ明治通りにかかる橋です。近くに「言問橋」があり、古くから渡しがあった地とされ、「伊勢物語」東下りで主人公が「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」の歌を詠んだのはこのあたりとされています。


Gastank

(橋の近くにある「ガスタンク」と「白髭神社」)


その「白髭橋」にまつわる「悲しい記憶」を改めて思い出したのでここに書き留めておきます。

東京の重たい「記憶」の日昭和20(1945)年3月10日です。

「東京大空襲」の記憶です。

死亡・行方不明者10万人以上と言われ、一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積(約41km²)が焼失したとされています。

特に、下町地区の被災状況は想像を絶する惨状であったことは今も語り伝えられています。

あの日、この橋の上で時を過ごした方(私の親戚)から聞いた話です。

B29の焼夷弾により既に火の海となった浅草地区の人々は、大川(隅田川)へ避難を始めていました。川の近くには防火帯もあり、少し火の手が少なく見えたと言います。しかし、逃げる橋は限られています。その時に頭をよぎったのは「白髭橋」のガスタンクだった、「あれが爆発したら周囲一帯は全滅する」と。そこで、「白髭橋」を避けて逃げた人が多く見えたそうです。

しかし、その方の家族は運を天に任せて最も近い「白髭橋」へと向かいました。「爆発したら命はないが、今はそこにかけるしかない」と、じっくり考える間もなく、とにかく橋へたどり着きました。

どうにか橋の近くに避難することができ、そこで朝を待って、川と町の惨状に驚かされることとなったそうです。

他の橋は人で溢れ、火の暑さと人の殺到に絶えきれず川へ飛び込んだ人は、溺死または焼死、飛び込まなくても人に押されて圧死した人もいたそうです。

逃げ遅れれば確実に焼け死んでしまう、かといって橋に逃げても人で溢れ、川に入っても生き残れない。助かった人たちは、こんな状況で生き残れたことが奇跡に思えたそうです。

この「白髭橋」と川岸の「ガスタンク」。ここでは、あわや爆発かと命を託した結果、爆発せずにすんだため命をとどめた方が多かったそうです。

空襲の惨状は「東京大空襲」記念館や写真集で見ることが出来ます。江戸東京博物館にも、東京の歴史の一つとして展示され、現代の人々に訴え続けています。

その一端とは言え、「白髭橋」と「ガスタンク」を見ると「忘れ得ぬ悲しい記憶」を思い出します。

こうした歴史の上に今の東京を象徴する「スカイツリー」と東京の未来があることを再確認しつつ隅田川を眺めていました。



さて、その後ぶらりと隅田川沿いを下流に向かって散策しました。

いくつか、目に付いたものを載せておきます。

隅田川は、生活や産業を支える川として今も大活躍しています。大きな船を引いて走る艀(はしけ)や漁師さんの釣船、観光のための屋形船は数え切れないほど目にしました。交通の便としての水上バスの他、観光船もいくつか目にしました。

こんな面白い形の船もありました。


hune1


しばらく下ると、小名木川との合流地点、そこにはあの「松尾芭蕉」の旧跡があります。

「芭蕉記念館」のほか、「芭蕉庵跡地」「芭蕉像」が近くにあります。


Bashouann

(芭蕉庵旧跡)


ここは、大正時代の大津波で発見されたそうですが、その時に出てきた「蛙」があったそうです。もしかして、写真にある碑の下にいる蛙?

「古池や蛙飛び込む水の音」で「蛙」と芭蕉は深い結びつきがあるのです。

旧跡の近くに、隅田川を見下ろす芭蕉像がありました。


Bashouzou

(隅田川を望む芭蕉像)

杉山杉風(すぎやま‐さんぷう)[1647~1732]が描いた原画を模写した資料に基づくもので、かなり「本人」に近いそうです。杉風は江戸中期の俳人で蕉門十哲の一人。江戸の人。深川芭蕉庵の提供など、芭蕉を経済的に援助した人として知られています。

それにしても、気むずかしそうな顔をしている芭蕉ですね。


しばらく下って、今度は東へ「仙台堀川」から「横十間川」へと歩きました。

そこで、「和船」を漕いでいる船頭さんを発見。どうやら観光のための和船のようです。


Wasen


江東区には「和船友の会」があります。

HP→「和船友の会」には

「櫓・櫂による和船の操船技術、並びに和船の維持管理方法を後進に継承し、活動を通じて会員の親睦と地域社会の活性化に資する事を目的として東京都江東区横十間川親水公園をベースに活動しています」

とあります。

「和船を漕ぐ」手こぎ体験もできるそうです。

東京の川で「和船」を楽しむ。「粋」な感じがします。

そういえば、川の北側を見ると番地が「海辺」とあります。

この辺りは海だったのかと思うと、広々とした「江戸前」の海と「和船」が目に浮かびます。

いつの間にか平成、昭和から江戸時代へと時代が遡ってしまう、「東京」「粋」な江戸を感じさせる場所でもあったのです。





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Last updated  2013年02月12日 17時09分06秒
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