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2009年07月24日
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カテゴリ:歴史の旅

サントリーニ島でギリシャ正教会に触れたので、正教会の成り立ちなどを少し・・。写真は元、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)のギリシャ正教会アヤ・ソフィアから・・。
※ 2020年「アジアと欧州を結ぶ交易路​」の関係で多少書き換えタイトルも変更しました。

​使徒パウロ​の布教とギリシャ正教会

​ローマ帝国下でのキリスト教の布教​
​使徒パウロ​
​ローマ帝国時代のキリスト教の五大中心地
ギリシャ正教会(東方正教会)の成立
​​アヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)聖堂のモザイク壁画​​

ローマ帝国下でのキリスト教の布教
イエスとその弟子、孫弟子が布教していた頃の1~2世紀は、ローマ帝国の黄金期の時代に重なります。
ローマ帝国の威力による安定(パワーバランス)。奇しくもそれは全地中海の平和と安定となり、人の往来も自由にできたらしい。

特にローマ帝国の第14代皇帝ハドリアヌス(76年~138年、在位117年~138年)の治世にローマ帝国の領土は最大となる。
東はシリアから西はイベリア半島まで、人々は何の心配も妨げもなく旅ができたと言う。

​言語もローマ帝国の東半分ではギリシャ語が使われ、西半分はラテン語が公用語として使われ、広い範囲で、民族の壁を乗り越え文化文明は広がった。また伝わったのは文化だけではなく思想も同じ。

このような広域な文化交流はそれ以前には無く、まさにローマ帝国のおかげでその地域は活気づいたのである。ローマ帝国が分裂して無くなるまでの間(安定期)、帝国内の文化は成育され続けた。

星キリスト教は、この好条件のもとで布教活動が行われたので短期間でローマ帝国内に広がったようです。またそれには使徒パウロの存在も大きい
※ 実際、迫害を行ったとするローマ皇帝は少ない。

唯一ラテン語を話しギリシャ語も話せた使徒パウロの参加はキリスト教の世界布教に大きな貢献であった事は確か。
何しろ十二使徒はほとんどが漁師だったのでパウロの学識に寄る布教活動は大きな力となった。
言葉が通じなければ布教はできないのだから・・。
それにパウロは、ユダヤ教の垣根を超えて異邦人にも布教活動を展開。一つ民族の宗教が全ての民族に向けられた宗教に拡大するのはこの時である。
それだけではない。パウロは奴隷と主人の区別も、男と女の区別もなくキリスト教の布教をしてまわったそうだ。

サンパオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(Basilica di San Paolo fuori le mura)ローマの五大バジリカの一つで聖パウロを祀った聖堂。

聖堂の写真はどちらもウィキメディアから借りてきました。
下の写真は像のみ切り取って拡大しています。

聖パウロのアトリビュートは閉じた本と剣
使徒パウロ
※ パウロとはサウロのギリシャ名。聖書ではサウロで示されている。
12使徒には入らないが、新約聖書の著者の一人でもありキリスト教の布教に多大な貢献をした第一任者である。

​パウロはヘブライ人のユダヤ教徒で初期キリスト教の使徒であるが、もとはファイリサイ派の熱烈なユダヤ教徒で当初は敵対意識を持っていた。
ダマスコ途上で天から降りたイエスに出遭った事で回心したとされる。
以降、生涯をかけてイエス・キリストの福音を告げる役を担え事になる。パウロは宣教旅行に3回出かけ、小アジア、ギリシャ、ローマ、コリント、アテネに福音を伝えたた事から「異邦人の使徒」と呼ばれる。

初期キリスト教の様子を書いた「使徒言行録」は「ルカによる福音書」の続編とされ特に2人の使徒ペトロとパウロの活躍が中心に描かれている。
※ 「使徒言行録9 パウロの回心」では「あの者は、異邦人や王達、またイスラエルの子らに私の名を伝える為に私が選んだ器である。」とキリストが言明している。

星パウロ書簡は新約聖書中、著者が明らかである唯一のもの
※ 新約聖書中のパウロによる書簡・・「ローマの信徒への手紙」,「コリントの信徒への手紙一」,「コリントの信徒への手紙二」,「ガラテヤの信徒への手紙」,「フィリピの信徒への手紙」,「テサロニケの信徒への手紙一」,「フィレモンへの手紙」

ルターはパウロ書簡を極めて高く評価している。
実はパウロにキリスト教における神学論で中心的な地位を与えたのは宗教改革以降らしい。

アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)による4使徒
左から「ヨハネ、ペテロ、」「マルコ、パウロ」ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)から
以前「アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラー」でも紹介しています。
リンク ​アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラー


​ローマ帝国時代のキリスト教の五大中心地​

エルサレム(発祥の地)、

アレキサンドリア(プトレマイオス朝の首都)、

アンティオキア(セレウコス朝の首都)、

コンスタンチノープル(東ローマ帝国の首都)、

ローマ(西ローマ帝国首都)です。
アレキサンドリとアンティオキアは、ローマ帝国時代に入っても有力な都市だったようですが、7世紀にアラブ人により領土が奪われ、ローマとコンスタンチノープルだけが残りました。

下は、コンスタンテチノープル(現イスタンブール)アヤ・ソフィア聖堂
アヤソフィア 4
最初の聖堂は360年コンスタンティヌス大帝の子コンスタンティウス2世によって建立。
二度の焼失を経た後、ユスティニアヌス帝が537年に再建。
現在はアヤ・ソフィア博物館となっています。

ギリシャ正教会(東方正教会)の成立
ローマ帝国のを再統一したコンスタンティヌス1世(Constantinus I)(272年~337年)(在位:306年~337年)は313年にキリスト教を公認。(古カトリック教会)
テオドシウス1世(Theodosius  I)(347年~395年)は392年にキリスト教を東ローマ帝国の国教に制定
ローマ帝国はテオドシウスの統治下、比較的安定していたが「蛮族移住政策」もテオドシウスの死後破綻。
星395年、テオドシウス1世の治世が終わるとローマ帝国は東西に分けられる事になる。

 長男に東を次男に西を与え、分割統治する予定だったが、帝国は二度と合体することなく分裂する。
​その時、宗教も東と西に分裂​

西ローマ帝国(ラテン帝国)は、バチカンを総本山とするローマ・カトリック教会となり。
東ローマ帝国(ビザンティン帝国)が、ビュザンティオン(コンスタンテチノープル)を主教庁とする東方正教会(ギリシャ正教会)となる。

※ 以前「ベネチアのサンマルコ寺院とビザンティン帝国」でも紹介済み。
リンク ​ベネチアのサンマルコ寺院とビザンティン帝国

東西に分裂したキリスト教は、その時より、互いに「正統」を主張する確執が生まれたようだ。

アヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)聖堂のモザイク壁画
「聖なる叡知」の教会アヤ・ソフィアは建立されて以来360年~1453年までほぼ1000年間、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の宗教の中心地となるのです。
しかし1453年ビュザンティオン(コンスタンテチノープル)はオスマン・トルコに征服さる。教会はそれからの500年間、「アヤ・ソフィア・モスク」としてイスラム教徒の祈りのに改変されていた。
しかし、アヤソフィアは1453年からイスラム教のモスクとなったが、オスマン帝国はモザイクを破壊することはせず、漆喰で塗りつぶしていた為に、当時の壁画が今も美しい状態で残されていたようです。
下は、アヤ・ソフィア聖堂南入口とモザイク壁画
アヤソフィア 1
10世紀末のモザイク、聖母の右はコンスタンチノープルを捧げるコンスタンチヌス帝。
左は、アヤ・ソフィア聖堂を捧げるユスティニアヌス帝。
アヤソフィア 2

下は、聖母左が、ヨアンネス2世右が皇后エレーヌ。
アヤソフィア 3
献金袋と巻物をもっている。信仰深い彼らはパントクラトール修道院を建立。

下は、南廻廊の東端にあるモザイク。右は皇后ゾエ、左は、コンスタンチヌス9世。
アヤソフィア 6
こちらも献金袋と巻物を持っている。中央、福音を持つイエス・キリストが祝福を与えている図なのだそうです。

このアヤ・ソフィアを建立したり、改修したり、修復したり、献金したりした歴代の東ローマ帝国の皇帝達が、祝福を受け、名誉を刻んだ図のモザイクが多いようです。確かに、一番の寄付者は皇帝でしょうから・・。

ギリシャ正教とアヤ・ソフィアはつづく・・。
明日も1日外出です。続きは夜遅くになると思います。






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Last updated  2020年07月19日 18時38分00秒
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