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Back numberと関連カ所のリンク先をラストに載せました。 今回は建築に興味のある方でないと楽しくない写真かもしれません アントニ・ガウディ カサ・ミラ 5 (屋根裏の梁) 悲劇の週間(Semana Trágica) カサ・ミラは材料の強度を建築構造で合理的にカバーしたので案外安く建築できたそうです。 とは言えカサ・バトリョの10倍かかり、カサ・カルベットの4倍の200万ペセタだったと言い他の物件より高額だったようですが、ちょっと現在の金額がわかりません 柱梁(ちゅうりよう)構造で、柱はレンガ造、硬質石灰岩円柱、鉄柱の3つ。 床組は桁(けた)、梁(はり)、小梁、梁止めともに鉄骨でそれらの間にレンガ造薄板小ヴォールト架け。 柱と梁や桁でもたせているカサ・バトリョでは居住区の間取りはいくらでも壁を移動して造りを変える事ができるカーテン・ウォール・システムとなっている。 カサ・ミラ屋上屋根の構造模型 屋上の天井は、多数のアーチによって支えられています。 その姿はまるで何か生物(鯨の背骨をモチーフにした?)のあばら骨の内部のよう。 この屋根裏階はレンガ造白大理石貼り。 階段塔、煙突ともにレンガ造りのモルタル塗り。 アーチの厚さは5cm。荷重の特にかかる起供部では15cm~25cm。 リブ上のアーチ間はレンガ版。 円筒の柱内部が前回紹介した屋上に繋がる階段 実はこの屋根裏は1954年にアパートに改造されたそうです。現在はガウディの建築の展示場になっています。 今まで紹介してきたカサ・ミラの模型もここのものです。 シュールレアリスム(Surréalisme)と言う芸術運動があります。 定義的には1924年アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」の起草によって始まった運動とされていますが、実はそれより十数年前に建てられたこのアントニオ・ガウディ(Antoni Gaudí)のカサ・ミラ(Casa Mila)が「建築のシュールレアリスム」として、後にシュールレアリストと名乗る者達は魅了されたと言います。 ガウディ自体が、モデルニスモ(Modernisme)(カタルーニャ版アール・ヌーボー)の建築家として分類されているけれど、このカサ・ミラはすでに次の時代に進んでいたのでしょう。 しかし、ガウディはこれを自分の手で完成させる事はありませんでした。 最初に「カサ・ミラの建築工期を着工は1906年~1910年くらいまで続き公式な完成は1912年」と書きましたが、ガウディがかかわったのは1910年まで、それ以降はジョゼップ・マリア・ジョルジュ(Josep Maria Jujol)に室内装飾等を一任しています。 ガウディはこの助手を信頼していたので、好きにやらせたといいますが、ガウディが退いた為に室内造形についてはカサ・バトリョよりも遙かに劣る物になったといわれています。 もっとも予算的な物もあったかもしれませんが・・。 中庭の窓の手すりのアイアンワークも予算の関係でチープに切り替えざるおえなかったらしいし・・・。 確かに載せる程でもない室内装飾なので下の居住区の写真は今回見送ります。 さて、ガウディがここから手を引いた理由は「悲劇の週間」と呼ばれる1909年にバルセロナで起きた市民(労働者階級)によるクーデターに起因しています。 悲劇の週間(Semana Trágica) 1909年7月26日から30日、バルセロナで起きた暴動で、大きな解釈では長く続いたスペイン・モロッコ戦争(1859年~2002年)の余波による市内暴動です。 太陽の沈まない国と呼ばれたスペイン帝国は19世紀後半までにほとんどの植民地を失っていました。 残ったのは太平洋、アフリカ、西インド諸島など散在した植民地です。 しかし、1898年にはアメリカ合衆国とスペインの間で起きた米西戦争で敗退してカリブ海および太平洋のスペインの植民地も没収。 失った威厳を取り戻す為にスペイン王国は北アフリカでの支配を拡大しようと画策しますすが、これによりベルベル人部族のリーフ人とスペイン王国との間に新たな火種が1908年8月発生したのです。 この戦いはスペイン・モロッコ戦争(第2次リーフ戦争)と呼ばれますが、 翌年1909年7月9日にリーフ人は二度目の襲撃を開始。 この攻撃により殖民地の鉄道に勤務する6人のスペイン人が死亡したのです。 このアフリカでの出来事に対して軍に抗議した労働者のデモがバルセロナの街で暴徒となり、ついでに80軒以上の教区建築が放火され軍隊が出動したのが悲劇の週間(Semana Trágica) です。 軍はこれを鎮圧したものの、数千人が逮捕。軍事裁判が行われ、処刑された者も出たと言います。 しかし事件の根底にあったのは劣悪な労働環境で安く働かせられていた労働者が支配階級である資本家や政府に対して、キレタ事件だったのです。 この暴動ではサグラダファミリアも大被害を受けたそうで、グエル公園の丘の上から「私のサグラダ・ファミリアが燃えてしまう。」とガウディは叫んだと言われています。 ガウディ自身もマタロの労働者組合の仕事を請け負っていたし、すでにサグラダファミリアなど教会の仕事も受けていたので難しい立場だったのでしょうが、ガウディの依頼主たちであるブルジョアの資本家達はこの事件で自分達が標的になるかも・・と恐れをなし仕事の依頼も無くなったようです。 実際こんなエピソードがあります。 実はカサ・ミラの正面にはガウディのたっての希望で聖母マリアの像が据え付けられる予定だったそうですが、オーナーの婦人は、昨今の世相から過激派の標的になる事を恐れて設計変更をガウディに迫ったと言います。 これら事件がガウディが完成間近のカサ・ミラから手を引いた理由だったと言われています。(やる気も無くなってしまったのでしょう。) 聖母像の代わりに、今そこにはガウディ自身が刻んだ聖母マリアのシンボルであるバラの花がついています。 悲劇の週間のように労働者が暴挙に出る事がなければ、ガウディに仕事がもっと来て、バルセロナにもっとガウディの作品が建っていたかもしれない。 ガウデイの可愛がっていたジョゼップ・マリア・ジョルジュの大型作品もバルセロナに建築されていたかもしれない。 とても残念だと言う事です。 今回でカサ・ミラは終わります。 Back number リンク アントニ・ガウディ カサ・ミラ 1 (外観) リンク アントニ・ガウディ カサ・ミラ 2 (パティオ) リンク アントニ・ガウディ カサ・ミラ 3 (屋上1) リンク アントニ・ガウディ カサ・ミラ 4 (屋上2) アントニ・ガウディ カサ・ミラ 5 (屋根裏の梁) リンク ガウディ博物館 1 (グエル公園) リンク ガウディ博物館 2 (ラ・トーレ・ローザ・la Torre Rosa) リンク ガウディ博物館 3 (ガウディ家の人々) リンク ガウディ博物館 4 (ガウディの病気) リンク グエル公園(Parc Guell) 1 (2つのパビリオン) リンク グエル公園(Parc Guell) 2 (ファサードのサラマンダー) リンク グエル公園(Parc Guell) 3 (大階段のタイル) リンク グエル公園(Parc Guell) 4 (列柱ホール) リンク グエル公園(Parc Guell) 5 (ギリシャ劇場) リンク グエル公園(Parc Guell) 6 (擁壁と柱廊) リンク グエル公園(Parc Guell) 7 (テクスチャーにこだわった柱廊と陸橋) 関連 リンク コミーリャス(Comillas)エル・カプリーチョ(El Capricho) リンク ガウディの椅子 リンク モンセラート(Montserrat)
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