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2015年06月13日
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カテゴリ:神社仏閣

​​星​​​​茶道の完成に至る重要な位置を占めている大徳寺です。改めて目次も追加し加筆もしています。​
写真も追加しました。

「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」の紹介の前に先に大徳寺の紹介を簡単に挟みます。
大徳寺は茶人、千利休との関係から当時の戦国大名にとって重要な寺でした。


大徳寺と茶人千利休と戦国大名 (茶道の完成)

大徳寺と一休さんと茶人
大徳寺を救った一休さん
茶の道を造った村田珠光(むらたしゅこう)
わび・さびを造った武野紹鴎(たけのじょうおう)
大徳寺と千利休と戦国大名
禅僧の茶人に習った千利休
大徳寺と戦国大名の係わり
三門(金毛閣)と利休の切腹
秀吉と利休の関係
聚楽第の破壊の真相?
利休との関係あり?

開山、開堂は鎌倉末期1315年(正和4年)
開山禅師は大燈国師(だいとうこくし)宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師。
​臨済宗大徳寺派の大本山​である。(広い寺域に、別院2ヵ寺。塔頭21を有している。)

勅使門(ちょくしもん)  重要文化財
pict-大徳寺 7.jpg
前後唐破風、左右切妻、屋根檜皮茸の四脚門。


大徳寺と一休さんと茶人
大徳寺を救った一休さん
創建当初は、後​醍醐、花園両天皇からの帰依を受けるも、足利幕府の時代は幕府との折り合い芳しくなく、これと言ったスポンサーもなく、在野(ざいや)の禅院となっていた。

1467年~1477年に勃発した応仁の乱の時はすでに大徳寺もほとんど灰と化していたようだが、その​再建を担った住持が誰もが知っている大徳寺47世(1474年)、一休宗純和尚である。
トンチで有名な「一休さん」ですよ。スマイル

※ 休宗純(いっきゅうそうじゅん)和尚 1394年2月1日(明徳5年1月1日)~1481年12月12日(文明13年11月21日)

仏殿 重要文化財
pict-大徳寺 4.jpg
一休さんの人脈により堺の豪商から資金を調達。1479年には仏殿を再建。
現在の仏殿は1665年に再度再建されたもの。
pict-大徳寺 5.jpg

pict-大徳寺 6.jpg

茶の道を造った村田珠光(むらたしゅこう)​​​​​

​​​​この一休和尚の元に参禅したのが「侘び茶の開祖」村田珠光(むらたしゅこう)だそうです。
​※ 村田珠光(むらたしゅこう)(1422年or23年~1502年)

もともと連歌をたしなむ茶人​​だった珠光が30歳になって禅僧になったのである。
それにより高級な唐物道具を必要とする従来の茶のスタイルとは全く違う簡素ながら精神的な深みを追求する茶禅一味の精神を追求した茶道ができた

星これが後に利休が言​う「道は珠光」である。​​​


以降、大徳寺はもとより禅僧と茶人の深い関わりが寺に人を呼ぶ事になります。

わび・さびを造った武野紹鴎(たけのじょうおう)
そしてつづく​大徳寺90世、大林宗套(だいりんそうとう)に参禅したのが茶人、武野紹鴎(たけのじょうおう)​です。
 武野紹鴎(たけのじょうおう) (1502年~1555年)

もとは堺の豪商の肩書きを持つ茶人で、若い頃に連歌を習っていた事が、奇しくも茶道の新たな道の提案に繋がったようだ。

星わび・さびの原義は武野紹鴎の考案した茶室のサイズ​から由来する​​​

4畳半以上の茶室を「寂敷(さひしき)」
3畳半や2畳半の茶室を考案して「侘敷(わひしき)」と称したらしい。

※ 千利休(1522年~1591年)は17歳の時に武野紹鴎に師事していたらしい。


​​​​​大徳寺と千利休と戦国大名
星「術は紹鴎、道は珠光より」  by千利休​

禅僧の茶人に習った千利休
先輩茶人武野紹鴎(たけのじょうおう)と村田珠光(むらたしゅこう)の茶湯の術と道を極め完成させたのが千利休である
※ 千利休(せんのりきゅう) 1522年(大永2年)~1591年4月21日(天正19年2月28日)

彼もまた堺の商家出身。若い頃から茶の湯に親しみ、先に述べた師、武野紹鴎(たけのじょうおう)と共に茶の湯を改革。
もともと堺の南宗寺に参禅していたようで、その本山が大徳寺​なのであった​​。​​​​

​​
大徳寺と戦国大名の係わり
千利休は大徳寺111世、春屋宗園(しゅんおくそうえん)や大徳寺117世、古渓宗陳(こけいそうちん)に帰依。
​時を同じく古渓宗陳と豊臣秀吉の信望は厚くそこに大徳寺和尚と秀吉と千利休の密接な関係が生まれたようだ。​

もっとも秀吉より先に利休に関わっているのは親方である織田信長である。
織田信長が堺を直轄地にした時より親交を持つ。
​1575年10月(天正3年)信長は堺の茶人17人を招き、妙覚寺で茶の湯の会を催している。
その時の茶頭が千宗易(せんそうえき)。後の千利休居士(せんのりきゅうこじ)である。​

​​
白天目茶碗、九十九髪の茶入れ、乙御前の釜、三日月の茶壺、煙寺晩鐘の掛け軸など名品にかこまれたこの茶会は「それぞれ一生の思い出となるありがたい茶会であった
と太田牛一は信長公記で語っている。
※ 信長公記(しんちょうこうき)とは、信長旧臣の太田牛一が記していた織田信長の記録。

星茶の湯は戦国期に武士のみならず富裕な商人にまで波及。その中から茶人が排出されたわけだが、
​もともと公家の嗜みであった茶の湯。それを楽しむ事自体がステータスだったと言える。​

このように利休と関係の深い大徳寺に戦国大名がこぞって寄進し塔頭を建立。大徳寺は潤ったのである。


三門(金毛閣)と利休の切腹

大徳寺 三門(金毛閣)  重要文化財
pict-大徳寺 2.jpg
千利休が秀吉により切腹させられる要因の一つになった三門or山門or金毛閣。

もとは応仁の乱後に一休宗純の参徒、連歌師宗長などが一階を寄進。後に利休が2階増築分を寄進して金毛閣と名付けられた
山門・・龍宝山の門
三門(三解脱門)・・空門、無相門、無作門


「なぜ利休のまたの下を通らなければならないのか?」
完成記念に楼上に等身大の利休像が設置された事が秀吉の怒りをかった発端と言われている。

かくして茶人 千利休は1591年4月21日(天正19年2月28日)、聚楽第にて切腹させられるのである。
その首はさらしものにされ、利休の木彫で踏みつぶされたと言われている。


※ 切腹の裏話として「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」の冒頭でも書いています。
リンク ​信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)

裏側の仏殿前から撮影。
pict-大徳寺 3.jpg

秀吉と利休の関係
1582年(天正10年6月)、天王山の戦いにおいて秀吉が勝利すると利休はねぎらいの茶を天王山麓の「妙喜庵・・茶室(待庵)」でたてている。

1587年天正15年には秀吉の主催した
​北野大茶湯で主管を勤め、聚楽第の作庭にも参加。
一説には
千利休も政治に携わるなど二人の密月は続いていた​はずだった。

​​それが突然の謹慎からの死罪宣告

しかも世に代表する茶人である。戦国大名らもこぞって恩赦に走り回ったが結局刑は執行されてしまった。
秀吉との間にどんな確執が生まれたと言うのだろう?


聚楽第の破壊の真相? 利休との関係あり?
以前​​​聚楽第について少し触れてますが聚楽第は秀吉が政務と居城をかねて京都の町に築いた平城です。
1586年(天正14年)2月に着工~翌1587年(天正15年)9月完成。

作庭には利休があたり、茶室を造り、聚楽第内に利休の居もあったと言う。

秀吉自身が彼を気に入り公儀以外の一切をまかせていた関係がくずれるのは、淀殿に鶴松が生まれた事(1589年 天正17年)からではないだろうか?
鶴松は1591年(天正19年)8月に短い生涯を送っているのであるが、利休が切腹させられたのが天正19年2月。それは鶴松が病に倒れて秀吉が病気平癒の為に神社仏閣に加持祈祷を連発していた頃の事だ。

もしかしたら利休は親ばかになってメチャクチャやっている秀吉に何か諫める事でも言ったのではないか? 

​鶴松は利休の切腹後に結局亡くなり、その年1591年(天正19年)12月に甥の豊臣秀次に家督を譲ると同時に聚楽第を手放している。​
利休の亡くなった聚楽第に居すのが嫌だったのではないか?

1593年8月29日(文禄2年8月3日)​​​
淀殿が第二子、秀頼を出産すると秀吉は甥の秀次を追放(1595年7月)して切腹させた。そして翌月8月に聚楽第を徹底的に破壊している。

竣工してたった8年で消えた幻の館、聚楽第。
なぜか? それが疑問だったが、聚楽第自体が利休の作品だったのでは?
と言う気がしてきた。
利休の面影ある(存在を感じる)聚楽第が嫌で消し去るようにメチャクチャに破壊してしまったのではないか?

この理論、当たらずとも遠からず・・と言う気がする。聚楽第に関する資料が無いのも秀吉が抹消したからなのではないか?



当時の聚楽第と周辺の様子を伝える貴重な資料として桃山当時、描かれた六曲一隻(ろっきょくいっそう)の屏風。(作者不明)をウィキメディアから借りてきました。

三井記念美術館所蔵 聚樂第屏風圖 
部分のさらに部分拡大

聚楽第の場所は御所より西、現在の堀川通りより西あたり。
聚楽第の推定場所


2018年01月、陰陽師(おんみょうじ)阿倍晴明(あべのせいめい)を祀る晴明神社(せいめいじんじゃ)を紹介した事がある。

晴明神社の二の鳥居をくぐった所にある晴明井は、かつての聚楽第で千利休も茶の湯に利用していた水と言われている。

かつて聚楽第内にあった千利休の屋敷跡の碑


リンク ​陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)


大徳寺唐門 撮影禁止の為に大徳寺の本から借りてきました。 国宝
pict-大徳寺唐門.jpg
「桃山の三唐門」として前に紹介した京都の国宝三大唐門の一つで、聚楽第にあった門だと伝えられている。
前の唐門は明智光秀の寄進した門であったらしい。それも本能寺の変の直後に白銀千両が届けられたと言う・・。

次回、「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」
リンク ​信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)

リンク ​豊国神社(とよくにじんじゃ) 1
リンク ​豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)
リンク ​秀吉の墓所(豊国廟)
リンク ​秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転
リンク ​秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)

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Last updated  2023年02月04日 20時24分13秒
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