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EU離脱投票の直前に「ポンド買いに走るミセス渡辺」の動向が取りざたされていましたが・・。 予想がはずれEU離脱となり結果「ミセス渡辺」は大損して追い証が発生していると聞きました。 今や世界で注視されるようになった「ミセス渡辺」とはFXのトレーダーで、しかも個人でなく日本の主婦層のトレーダーに付けられたニックネームです。 そもそもFXとは「Foreign Exchange(外国為替証拠金取引)」の事で外貨の日々のレートの差で儲ける投資法の一つです。 株のトレードと異なり少額で、またそれほど経済の知識がなくても手が出せるお手軽さと、一般家庭へのインターネットの普及により急速に人気の出て来たジャンルです。 それにうまくヒットしたのが育児の片手間にお小遣いかせぎ・・と言う日本の主婦層です。 個の取引は少額ながら日本の主婦のトレーダーの数が今や世界に少なからぬ影響を与える動きをしていると言う意味で時々「ミセス渡辺」の活躍が取りざたされるようになりました。 ただ、FXが怖いのは少ない資金で何倍ものお金を投資できるレバレッジと言うシステムです。 自己資金の最大25倍までの取引が可能な美味しさ。 反面、失敗すればそのお金をすみやかに返金しなければならないと言う失敗時の大きなリスク。 (リーマンショック前は100~500倍の取引ができた。現在は金融庁の指示で2011年から25倍に下げられた。) そう言う意味も含めて、金融商品としてのFXはかなりギャンブル性が強い取引の一つだと思います。 離脱直後にポンドが160円から130円に・・と私も書きましたが、お金をかき集めてポンドを買っていた「ミセス渡辺」は今とんでもない自体に陥っている・・と言う事です。 しかし、今は鳴りを潜めても再び別の「ミセス渡辺」の一群が世界に出てくるのだろうな・・。 「日本の主婦パワーを嘗めるなよ。」・・と、ちょっと楽しみです シュテファン寺院(Stephansdom) 3 (北側塔のテラス) ミセス渡辺 北側塔のテラス 今回はシュテファン寺院に建つ二つの塔の一つ、北側の塔の紹介です。 「シュテファン寺院(Stephansdom) 1 (大聖堂の教会史)」でも少し紹介していますが、通常同じ高さになるべき尖塔が、諸事情によりシュテファン寺院の場合は高さが異なっているのが特徴です。 とは言え、現在その性格がうまく生かされて見所となっています。 シュテファン寺院を北側から撮影 正面入り口は写真右方面。見える塔が北側の塔(68m)。奧のとがっているのが南塔(137m)。 北側の塔正面から撮影。こちらからも入れるようです。 最初に南塔が礎石され完成(南の尖塔は1433年完成)。その後に北塔の建設が始まる。 1450年に礎石されたが最初から建築にトラブルが続いた。途中で建築が中断され1511年ほぼ現在の高さ(68m)で建築はストップ。 その事情は度重なる戦争や資金不足などが大きな要因。 わずかにフェンスが囲われているのが見える。 飾りが加えられるべきスペースが今は展望テラスとして利用されているのだ。 ある意味良かったのかもしれない。もし南塔のように完成していたら展望テラスは造れなかったからだ。 プンマリン(Pummerin) 1578年に現在のルネッサンス様式の天蓋が加えられ、鐘は近年その下に据えられた。 プンマリン(Pummerin)・・・吊り下げの鐘。と呼ばれるシュテファン寺院最大の鐘。 現在の鐘は1951年にリンツ近郊セイント・フロリアで鋳造されたもの。重さ21110kg。3.14m。 最初の鐘は南塔の方に1711年から1945年まで下げられていたもので、材料は1683年2回目のオスマントルコ帝国の包囲網の時に残された大砲化から鋳造されたものらしい。(18.317kg) 西ヨーロッパで2番目か3番目に大きいらしい。 Pummerin(吊り下げの鐘)が下げられている尖塔部は、実はガラス貼りになっている。 低い北側の塔はエレベーターでの昇降ができる。(南側の高い方は徒歩のみ) エレベター降り口からは鉄柵とステップが組まれている。高所恐怖症の人はどうかな? 北塔の上部。もとは南塔と同じ高さになる設計だったようだ。 北塔は1450年8月、前回紹介したフリードリッヒ3世(Friedrich III)(1415年~1493年)により礎石された。 北塔の基礎は捨てるほどにまずかったと言うブドウ酒を石灰に混ぜて使用したらしく、その後基礎を強固にする為に17年間も放置したと言われている。 実はフリードリッヒ3世はものすごい倹約家。戴冠式と結婚式をローマで同時に行い旅費も無心すると言うドケチ。「ストレートでワインを飲んだ妻を怒った」とウワサも流れたとか・・。あまりにも酸っぱくて捨てるべきワインを利用した・・と言う話もまんざらウソではなさそうだ。 しかし、工期のスタートが遅延した理由はコンスタンチノープルの陥落、オスマントルコによりウイーン占領など現実的に工事ができなかった当時の社会情勢などが直接の要因かも・・。 塔は何度が後世その高さへの継続が試みられたらしいが、お金もかかるし、人々の関心が薄れた事にもあるようだ。 北側の塔なので東、北北西までしか見渡せないが、展望デッキとしては素晴らしい眺めである。 何にしても旧市街には大きなビルが無いので絶景である。 北塔からの見所は、景色だけではない。 実は寺院を被う屋根が素晴らしい。そしてその高さは場所により北塔を越えている。 勾配は64度。場所により80度。 1945年の火災で旧木造から鋼鉄に移行。技術革新された屋根となっている。 現在の屋根は605トンの鋼鉄と1個2.5kgの屋根瓦230000個でなっている。 恐ろしい勢いで雨が落ちるので瓦の掃除が一気にできてしまうらしい その独特な幾何学模様の柄はサラセン人(中世のイスラム教徒の総称)の絨毯を模してデザインされたと言われている。確かにアルカサルにこんなデザインのタイルがあった気がする。 北側の屋根にはカラー瓦で1950の年号入りのウイーン市と第二共和国の紋章が入っている。 反対側には1831の年号入りで、フランツ1世を示す「F・I」の入ったオーストリア帝国紋章(双頭の鷲)があるが、写真は撮っていませんでした。 南塔は開口部が少ないのでかなり意識して無理しないと撮影できない場所なのです。 1950とは、大聖堂修復で新たな屋根瓦をふいた年号らしい。 聖堂内陣裏側からの北塔。下はカタコンベ入り口 「モーツァルトの墓地がうやむやになった諸事情」で触れたシュテファン寺院のカタコンベとクロスチャペル(Kreuzkapelle)の入り口。 大聖堂真下の旧墓所。マリア・テレジアが1754年~55年にかけて拡張。 カタコンベの中央にはルドルフ4世の石棺他15の棺が置かれているそうだ。 日に1度ツアーがあるらしいが、今回入っていないのです 因みにマリア・テレジアの墓所はここではありません。 以前紹介している「カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)1~3」を見てね。 カタコンベに隣接するカピストラーノ説教壇との間にバロック様式の彫像。 1738年フランシスコ会修道士が造らせたもので、1456年にオスマン軍との戦いで殉教したフランシスコ会の聖人を神聖化した像だそうだ。 オーストリアがプロテスタントに侵されていたらこの像は破壊されていた事だろう。 聖堂側真裏から 次回、南塔を紹介 リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 4 (南塔)
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