5545094 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

わたしのこだわりブログ(仮)

わたしのこだわりブログ(仮)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Archives

Category

Freepage List

2016年10月28日
XML

鎖国時代の日本でも長崎の出島でオランダとの交易が行われていた事は学校で習ったが・・。
実は長崎の出島は最初ポルトガルの為に造られた場所だった
それがいつ? なぜ? オランダに取って代わったのか?

簡単に言えばボルトガルはカトリック国で、オランダはプロテスタント国だったと言う理由だ。
カトリックの浸透により国勢に影響が出始めた事を幕府が嫌いオランダの甘言にのって交易相手を乗り替えたと言う事だ。
まとめてもけっこう長くなったので詳細は次回にまわします。
リンク ​デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)

デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓

旧教会(Oude Kerk)
宗教改革(Protestant Reformation)における因習破壊主義者(iconoclast)
​ヨハネス・フェルメールの墓碑(Johannes Vermeer gravestone)​​

創設は1246年頃、デルフト(Delft)最古の教会である。
pict-デルフト 84.jpg
教会のアドレスがHeilige Geestkerkhof 25(精霊の墓地25)

前回触れたゴシックの塔は高さは75m。それは1325年~1350年の間に建造されたようだ。pict-デルフト 85.jpg
実はこの塔は斜塔と呼ばれている。実際運河沿いの地盤の悪い所に建てられた塔は当初から傾きがあったようだ。それ故1843年には屋根を外して修復された経緯もあるようだが、この斜塔現在登る事が可能なのである。

確かに写真見てわかるよう斜めっていますね ぽっ
pict-デルフト 100.jpg
新教会の所で紹介したが、階段は煙突の中を上るように非常に狭く、圧迫感すら感じる狭さ。すれ違いも気持ち広めの所までどちらかが後退しないとすれちがえない。とにかく厳しい狭さですしょんぼり
斜めっていたとは気付かなかったです。
眺望はたいした事なかったような・・。(写真撮ってませんでした)

前に紹介した写真であるが、新教会からのみ旧教会の全景が見える
pict-デルフト 72.jpg
隣接してネーデルランド連邦共和国の初代君主となったオラニエ公ウィレム1世(Willem I)の宮殿がある。(写真では塔の後ろ)
※ 宮殿は現在プリンセンホフ博物館(Municipal Museum Het Prinsenhof)として公開されている。

pict-デルフト 83.jpg
教会は何度か増改築されている。薄いブルーのラインは教会が最大に大きかった時のライン。

下方グリーンの円・・・塔
下方オレンジ・・・・・・・メイン・パイプオルガン
下方ブルーの四角・・・トイレ
左中ピンクの星・・・・フェルメールの墓碑
右中六角紫・・・説教壇

1949年~1961年と1997年~2000年、20世紀に入り2度復元。ステンドグラスの窓もその時に復元されているようだ。
pict-デルフト 89.jpg

pict-デルフト 86.jpg
図面で見れば元は三廊式教会であり写真は身廊。
ところがここには祭壇が無い。

宗教改革(Protestant Reformation)における因習破壊主義者(iconoclast)
1566年と1572年のプロテスタント改革派の因習破壊主義者ら(iconoclasts)によってステンドグラス含む美しい教会内部の装飾は破壊された

ブロテスタントの教義の中(十戒)に偶像崇拝禁止の項があり、宗教改革(Protestant Reformation)の時、強い因習破壊主義者(iconoclast)は欧州のいくつかの都市で過激な破壊運動を行っている

以前ゲントの時も修道院の貴重な蔵書が何万冊も川に投げ込まれたと書いたが、特にオランダ、ベルギー、北フランスは1566年夏に広範囲に渡り教会や修道院が襲撃され文化遺産ともなる貴重な名画や彫刻、聖書などが焼かれたりうち捨てられている。

以前紹介した新教会の入り口のティンパヌム(tympanum)が削られたのもこの理由だろう。

かろうじて生き残ったのは1548年製の説教壇だけ。
pict-デルフト 87.jpg

pict-デルフト 92.jpg

身廊の先にあるのは(図A)Piet Hein tomb
pict-デルフト 88.jpg
Pieter Pietersen Hein(1577年~1629年)オランダの海軍提督で西インド会社司令官
写真がボケていたので拡大は無しです しょんぼり


左の聖堂(図B)にはElisabeth Morgan tomb
pict-デルフト 90.jpg

 → D 方面  奧がかつての右の側廊
pict-デルフト 91.jpg

↓ P 方面
pict-デルフト 93.jpg
パイプオルガンの裏側が塔であり入り口方面
pict-デルフト 94.jpg

    右の側廊・・先が減築されている。
pict-デルフト 95.jpg
下はもちろん墓石の床である。

←C 方面
pict-デルフト 96.jpg
左の翼側   ピンクの ↓ がJohannes Vermeer gravestone(ヨハネス・フェルメールの墓石)位置

ヨハネス・フェルメールの墓碑(Johannes Vermeer gravestone)
※ ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)(1632年~1675年)

実は現在ヨハネス・フェルメールの墓碑は2箇所にある。
1975年300回目の命日で作られた簡素な墓碑(墓石1)と2007年1月26日に置かれた西の通用口の近くの新しい墓碑(墓石2)である

ヨハネス・フェルメールの墓石1 ・・・1975年製
pict-デルフト 98.jpg

ヨハネス・フェルメールの墓石2  ・・・2007年製
pict-デルフト 99.jpg
フェルメールは旧教会(Oude Kerk)内の床の下に埋葬されたのは間違いない。
そこはフェルメールの義母が1661年に権利を購入していた場所だ。

しかし彼が亡くなった時にフェルメール家はお金がなくて墓石は造られなかったのである。
だから実は正確な墓の場所は特定できていない。
墓石1も2も「およそそこら辺」と言う場所に据え置かれているにすぎない。

※ フェルメールの生家にいては、「デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)」の中、

「空飛ぶキツネ亭(De Vliegende Vos)とメッヘレン(Mechelen)」「義母と同居した家」で書いています。

リンク ​デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)
※ デルフト全般にフェルメールとなっています。

プリンセンホフ博物館の絵画より
pict-デルフト 97.jpg
旧教会内部を描いたもので、製作した画家はフェルメールと同じ年に亡くなっている。
墓は石のプレートをはずして埋めるだけのシンプルそのもの。

入場口の付近にトイレが増設されている。
教会内にプレハブの小屋を置いてあるような感じだ。
教会内、しかも聖堂内にトイレが設置された教会は知る限りここくらいだろう。
墓石をはがして設置されたトイレにものすごく恐縮したものだ しょんぼり


旧教会(Oude Kerk)おわり
リンク ​デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020年11月07日 18時38分58秒
コメント(0) | コメントを書く
[建造物・教会・墓地・墓石・遺物] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.