ジャン・コクトー(Jean Cocteau)とマントン(Menton)
またまた遅くなりました。m(_ _;)m12月に突入したら色々忙しくなり、夜はパソコン前で居眠りしてました。コクトーは今回2冊読みなおし、1冊取り寄せ。ちょっと改編を出したかっただけなのに深堀してしまった。専門家がたくさん書いていらっしゃるので、素人の出る幕ではないですが、私なりの感想も入れてみました。フランスの、ど田舎のマントン(Menton)。とは言えそこはカンヌ、ニース、(モナコ)、マントンと続く南仏のコート・ダジュール(Cote d'Azur)に連なる街。地中海性気候で冬でもこそこ温かく陽光の明るい南仏海岸は、高級リゾート地である。以前「マルク・シャガール(Marc Chagall)1~3」の所で、シャガールやピカソがニース(Nice)やヴァンス(Vence・鷲の巣村)で同じ陶芸教室に通っていた事など紹介しましたが、明るい陽光を求めて画家や作家らがこぞって地中海に面した南仏に集まっているのです。シャガールはニースに自分の作品の美術館があったので、その近郊(サン・ポール・ド・ヴァンス)に永住。ジャン・コクトーも1950年以降、ニースのフェラ岬(サン ジャン カップ フェラ・Saint-Jean-Cap-Ferrat)の友人のヴィラを気に入り南仏には度々来ていた中、マントン(Menton)市の仕事やマントン市による要塞の提供で自身の美術館建設をする事になり、コクトーとマントン市の間には強い関係が生まれたのだ。マントン(Menton)にはコクトー自身が生前手掛けた古い要塞をアレンジした美術館の他に、近年造られた新美術館も存在。また、市長舎やヴィラなどの物件にコクトーの手掛けた絵画が存在し、名所となっています。コクトーもマントンに永住し、終の住みかになるのか? と思いきや、拠点(家)は俗にパリ地方と呼ばれるイル・ド・フランスのミリー・ラ・フォレ(Milly-la-Forêt)にあったのです。パリから50km。 コクトー自身の墓はそこにある。今回は、初期に出していたマントンの写真をまとめてジャン・コクトーの章を造り直した感じです。作品は追加していますが、近年できたコクトーの新美術館(2011年11月開館)やお墓の写真は観光局からお借りしました。※ 2011年11月、海沿いにできた新美術館は世界有数のコクトー・コレクターであるゼブラン・ワンダーマンのコレクション寄贈によってできた美術館だそうです。が、災害にあい、現在美術館は復旧工事で閉鎖中らしい。後で詳しく紹介。それにしても、マントンは本当に辺境です。近場の空港はニースですが、列車の場合、一度モナコに入り、再びフランスに入ると言う飛び地。しかもその向こう隣はイタリアの国境です。個人で行くのは便がとても悪いのです。ジャン・コクトー(Jean Cocteau)とマントン(Menton)何者? ジャン・コクトー略歴匿名小説 「白書(La Livre Blanc)」エッセイ? 「 阿片(Opium)」阿片ブーム到来?ジャック・マリタンへの手紙(Lettre à Jacques Maritain)フランスでは合法だった同性愛著作権問題ヴィラ・サント・ソスピール(Villa Santo Sospir)フランシス・パルメロ(Francis Palmero)マントン市長舎(Maire de Menton) 婚礼の間マントン・スタイル(style de Menton)フランス共和国の象徴 マリアンヌ(Marianne)の横顔ル・バスティオン(Le Bastion)(要塞)新 ジャン・コクトー美術館(Musee Jean Cocteau)晩年の恋人と終焉の地ミリー・ラ・フォレジャン・デボルト(Jean Desbordes)ジャン・マレー(Jean Marais)エドゥアール・デルミット(Edouard Dermit)コクトーの終の住みかミリ・ラフォレ(Milly-la-Forêt)コクトーとマントン市の係わりの前に、ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年)は何者か? を先に紹介。何者? ジャン・コクトー略歴正式名 ジャン・モリス・ウジェーヌ・クレマン・コクトー(Jean Maurice Eugène Clément Cocteau) (1889年~1963年10月)父は弁護士で、社会的に裕福な家で生まれたコクトーだが、父は彼が9歳の時にピストル自殺。それでもコクトーの家はブルジョアで、彼は母方の父(祖父)の元で育てられたらしい。1900年~1904年まではパリ9区にあるブルジョワジーの子弟が行く古くからの名門校リセ・コンドルセ(Le lycée Condorcet)(1804 年に開校)に通っていた。※ 金持ち校なのに寮は無い自宅通学の学校。※ 白書から推察するに、この頃学友と娼館通いもしていたようだ。15歳(1904年)で家を出た? 1人暮らしを始めた?19 歳(1909年)で最初の詩集「アラディンのランプ(Aladdin's Lamp)」を自費出版して詩人としてデビュー。1910年、詩集「浮かれ王子(Le Prince Frivole)」を発表。金持ちでイケメン? 社交界でも有名で、タイトルと同じく「浮かれ王子」として知られる事になる。 コクトーは、まず詩人としてデビューしたのである。ウィキメディアから借りました。1910年~1912年 ジャン・コクトーの肖像(Portrait de Jean Cocteau)画家 Federico de Madrazo y Ochoa(フェデリコ・デ・マドラソ・イ・オチョア)(1875年~1934年)※スペインの画家。彼はコクトーと共に1912 年、セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev)のバレエ団、「バレエ・リュス(Ballets Russes)」のバレエ「ル・デュー・ブルー(Le Dieu bleu )青い神(The Blue God)」に携わっている。20歳から22歳くらいの間に描かれた油性のポートレート。「浮かれ王子」の頃ですね。彼のイケメンぶりを示す意味で利用しました。※ この絵は著作権が期限切れであり、また提出者?が匿名であるため、パブリック ドメインとなっているとの事。調べたら1988年にオークションに出され落札されている絵でした。こちらはジャン・コクトーの美術館案内のサイトから借りました。リンク BIOGRAPHIE DE JEAN COCTEAU1929年、40歳? パリで撮影されたポートレート。撮影 ジェルメーヌ・クルル(Germaine Krull)(1897年~1985年)※ 第二次世界大戦前に、ドイツ、オランダ、フランスなどで活動したドイツ出身の女性写真家。写真提供? Germaine Krull Estate, Folkwand Museum下は、現在開催されているコクトー美術館でのイベント・ポスターから借りました。XPOSITION EN COURS - JE RESTE AVEC VOUS現在の展示 -「私はあなたのそばにいます」 2023年11月25日~2024年6月17日ポスターに使用された絵は1961 年 漁師と少女(pêcheur et la jeune fille)ポスターに記される「JE RESTE AVEC VOUS」「Je reste avec vous.(私はあなたのそばにいます)」はコクトーの墓碑に刻まれた彼の言葉らしい。コクトーは、詩人としての作品多数の他、小説や戯曲を書き、また映画の監督、脚本もこなす劇作家。デザイナーとしても活躍。彼の書くシンプルな個性的なイラストは作品の細部を伝えるだけでなく、コクトーらしい魅力ある人物が多い。特にこのマントンで創作されたマントンの恋人たち(les amoureux de Menton)のシリーズと、技法においては、マントンスタイル(style de Menton)を生み出した。※ マントンでコクトーが手掛けた恋人たちシリーズは「インナモラティ(Innamorati)」と呼ばれてもいますが、Innamoratiはイタリア語です。コクトーもマントンの街もフランスなのに・・。※ マントン・スタイルについては後で紹介。わが魂の告白の挿絵からわが魂の告白の挿絵からまた彼の交流、その人脈がすごい。20代前半、コクトーはマルセル・プルースト(Marcel Proust)、アンドレ・ジッド(André Gide)、モーリス・バレス(Maurice Barrès)などの大物作家と交流を持つだけでなく、バレエの関係者(ダンサー含)、印象派の画家らとも幅広く交流。※ 元々金持ち故、若いうちから社交界に出られたので人脈がより早く広がったのかも・・。詩や小説だけでなく、その才はバレエの演出や演劇、また映画などにも多数生かされている。特にバレエの舞台演出は多数の若手アーティストが共演していて、彼らは皆、出世している。先に書いたが、ロシアの興行師セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev)のバレエ団「バレエ・リュス(Ballets Russes)」の為のシナリオを書いてほしいとコクトーにお願い。1917年、「パレード(Parade)」が発表された。この作品はディアギレフがプロデュースし、舞台装置はピカソ(Picasso)、台本はアポリネール(Apollinaire)、音楽はエリック・サティ(Erik Satie)が担当する豪華な顔ぶれ。「バレエ・リュス(Ballets Russes)」に関しては、ココ・シャネル(Coco Chanel)やマリー・ローランサン(Marie Laurencin)、モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)、ジョルジュ・ブラック(Georges Braque)など画家以外の分野でもそうそうたるメンバーが名を連ねている。求龍堂版「阿片」の中のイラストから芸術のデパートと称されるくらいにその活動も才能も多岐にわたっているが、コクトー自身は何よりも、詩人として扱ってほしかったらしい。匿名小説 「白書(La Livre Blanc)」他に彼を特徴づけるのは、1928年、彼が匿名で、出版社さえ隠して出版した小説「白書(Le Livre Blanc)」。自身の性癖について告白するような自伝的な小説を38歳のコクトーが書いた。※ その時、彼の傍らには20歳の恋人ジャン・デボルト(Jean Desbordes)(1906年~1944年)がいた。限定21部? あくまで架空の小説を装っていて本人とは設定が多少異なるが、匿名でもすぐに身バレしたらしい。「白書」は、再販含めて、序文をコクトー自身が書き、コクトーのイラストが多数 使用されているにもかかわらず、どれにもコクトーの名前はサインされていない。つまり、はっきり自分の作品だとは最後まで認めていないらしい。日本では、1994年に山上昌子 氏訳で求龍堂から出版されている。イラストは法的に? ヤバ過ぎてどれも載せられません。エッセイ? 「 阿片(Opium)」また、彼は阿片(あへん)中毒で2度ほど入院している。1度目の入院療養(1925年3月 パリのテルム・ユルバン療養所 2度目の入院療養(1928年12月~1929年4月) サン・クルー療養院2度目の入院時の手慰みに書いたノートとメモしたイラストが「阿片(Opium)」のタイトルで1930年に発行された。告白と異なり、阿片や闘病の事など彼の感想や言いたい事などが単発的に書かれている詩のような、また手紙のような、ある時は日記のような療養所でのエピソードなど短編が集められている。最初はコクトー流の屁理屈が並ぶので頭に入らなったが、入院中の看護士らのエピソードや、また社交界での事なども綴られている。個人的にはコメディー・フランセーズの事、演劇論なども語られているところが興味。コクトー曰く、1909年頃の芸術家は大方が阿片を吸っていた。ただ人に言わなかっただけ。ただ、魂の指揮者なる神経中枢を阿片が犯す時、阿片は初めて悲劇的になる。さもない時、阿片は解毒剤であり、歓楽であり、大げさな午睡(シェスタ)だ。総じて、阿片はそんなに悪いものじゃない。使い方だと言ってるようだ。実際、2度の辛い中毒後、彼は阿片を表向きはやめたが、実は中毒の苦しみには3度会わないよう? 適当に軽微に注意しながら楽しんでいたらしい。1936年、彼が世界一周の旅で日本に来た時も、ホテルのバスルームで密かに慎ましく吸っていたのが、いじらしい。と堀口大學 氏が綴っている。そもそも彼が阿片中毒にまで陥った原因は、恋人レーモン・ラディゲ(Raymond Radiguet)(1903年~1923年)の急死が原因であった。1918年、コクトー(29歳)はレーモン・ラディゲ(15歳)と出会う。コクトーは彼の才能を見い出し売る為の努力をおしまずラディゲの才能は開花を始めていた。しかし、ラディゲはあまりにも早い死を迎える事になる。1923年享年20歳。腸チフスで闘病中に急死短い人生の中でレイモン・ラディゲは作品を残している。18歳で小説「肉体の悪魔(Le Diable au corps)」20歳で長編小説「ドルジェル伯の舞踏会(Le Bal du comte d'Orgel)」※ 三島由紀夫は「少年時代の私の聖書」だったと言ったと言う。日本訳はやはり堀口大學 氏がおこなっているが、「ドルジェル伯の舞踏会(Le Bal du comte d'Orgel)」はそもそも構成中に亡くなっているので、普及版はコクトーらの手が加わった初版に基づいたものが発行されているそうだ。コクトーは恋人レーモン・ラディゲ(Raymond Radiguet)(1903年~1923年)の死に耐え切れなくて苦しむので、見かねた友人が南仏の阿片窟に彼を連れて行ったらしい。レーモン・ラディゲ(Raymond Radiguet)のポートレート?わが魂の告白の挿絵からMarcelle Meyer amb el jove poeta Raymond Radiguet (1921)マルセル・メイエと若い詩人レーモン・ラディゲこの写真はMarcelle Meyerのウィキメディアの方からお借りしました。18歳のレーモン・ラディゲ。※ マルセル・メイエ(Marcelle Meyer)(1897年~1958年)フランスのピアニスト。「悪魔のパンが差し出された。平生(へいぜい)なら東洋趣味を退ける僕なのに、この時は阿片と言う名の飛行絨毯(ひこう・じゅうたん)を選んだのだ。」コクトーはコクトーの言葉を借りると「眠りの世界に慰安を求めた」のだ。(ジャック・マリタンへの手紙から)こちらの日本訳は、コクトーと親しかった? 堀口大學 氏が訳を行っている。近々では改訂版を1994年に白書と同じ求龍堂から出版されている。そこには同じくサン・クルー療養院に入院中に書きなぐったデッサンとを集成した本となっている。ところで、二度目の中毒の時はすでに新しい恋人ジャン・デボルト(Jean Desbordes)(1906年~1944年)と同棲中である。1926年、コクトーはジャン・デボルト(20歳)を見た時、レーモン・ラディゲの再来を見たと言う。先にも書いたが、「白書」を執筆しながら、デボルトの推敲を手伝っている。つまり、彼は阿片により現実から逃避をしていただけ。本当にコクトーを救ったのは新恋人ジャン・デボルト(Jean Desbordes)の出現であったのだろう。彼は決心して? 自分の性の告白を綴る前出の白書(La Livre Blanc)を書き、匿名にせよ世に出した。が、彼を心配して見守り、かつコクトーを信仰で救おうとしていたジャック・マリタン(Jacques Maritain)(1882年~1973年)は神に反する行動に「悪魔の契約」と非難したと言う。タイトルや解説は一切ないのですが、阿片(あへん)を吸う中毒者を描いた挿絵を「阿片(Opium)」の本からお借りしました。コクトーが自身2度の阿片中毒で療養を余儀なくされていた時の作品。阿片を吸う時、コクトーは古びた竹筒のようなものを自ら用意して阿片を吸っていたと言うので、そのパイプを象徴として描いた作品のようです。パイプシリーズは阿片がテーマとなっているという事です。阿片の本からまさにこのように横になって吸引するようです。阿片の本から阿片中毒の親子?阿片の本からアヘン・阿片(opium)言うと私も阿片戦争くらいしか浮かびませんが、ケシの実から抽出するアルカロイド系の麻薬の一種で、医療や娯楽目的で古代から(紀元3000年前)利用されローマ帝国時代は鎮痛剤や睡眠剤としてすでに使用されていた薬用植物らしいです。ガンの鎮痛や麻酔などに使われるモルヒネ(morphine)がまさにケシからの抽出です。阿片の本から普通にハイになっているうちは良いが・・。中毒になると体中の関節に激痛、悪寒、嘔吐、失神を伴い、そんな禁断症状が続くと正常な精神活動を保てなくなり、やがて人格崩壊。 ショック状態から、こん睡状態、呼吸停止に至るらしい。阿片の本から末期のアヘン中毒患者がよく表されていまね。阿片ブーム到来?ローマの滅亡と共に一度すたれた阿片は十字軍時代に再び欧州に上陸。大航海時代にハーブ・スパイスだけでなく、阿片は重要な交易品だったそうです。インドを植民していた英国は阿片を中国(清国)に広めた元凶だ。皆が阿片に溺れ、その危機感から清国政府は英国の阿片を焼却。阿片戦争が勃発した。中国人に広められた阿片は、逆輸入? 三度欧州に戻り広まり始める。中国人らのコミュニティーから阿片窟(あへんくつ)が国内に誕生したらしい。彼は阿片と麻薬を分けていて「阿片は崇高な物」、「阿片は宗教にも似ている。」「阿片はその使用法の機微さえよろしきを得たら多くの霊魂に高翔の素地を準備する。」とまで言っている。ジャック・マリタンへの手紙(Lettre à Jacques Maritain)阿片中毒から退院した後に同性愛の事とか、阿片の事とか、心を入れ替え、キリストに帰依しようと心が揺れたらしい。同郷の友人でありキリスト教哲学者(神学者)ジャック・マリタン(Jacques Maritain)(1882年~1973年)は彼を心配して見守りつつ、信仰への道へ彼を導いていた。※ ジャック・マリタンはトマス・アクナイス哲学を復興させようとする中心人物。1913年、パリ・カトリック大学教授。1945年、バチカン市国大使。1925年、コクトーは心情を語り、ジャック・マリタンはそれに返答した。コクトーは「告解者」だ。マリタンは「聖体のパン」をアスピリンとして使うよう」コクトーに薦める。ジャック・マリタンとのやり取りは、「告解者」と「教夫」の関係だ。さながら手紙は、自らの罪を司祭に告白して神のゆるしを得る「告解(Confession)」の部屋の中のやりとりのようだ。コクトーは屁理屈屋だ。そしてうまい言葉で表現してはジャック・マリタンに自分を擁護する。ジャック・マリタンもそれを心得ているからコクトーの心は揺れたのだろう。ついにジャック・マリタンは奧の手、シャルル教夫をつかわした。・・とっさに僕は、シャルル教夫に備わるあの美しさの秘密を理解し、同時に「神様は永遠だから我慢強くいつまでもお待ちくださる。」との言葉を思い出した。・・・・・・僕があの時見たのは、人間の形をした祈りだった。生命や死後の生命に対する彼の意欲は、バラモンの苦行僧の無我の眠りを眠っていた。・・・・・一人の教夫が、ストラヴィンスキーやピカソと同じショックを僕に与えたのだった。こうして彼は、僕に神の存在を立証して見せた。ピカソとストラヴィンスキーは紙上にいろいろの傑作を誌す(しるす)ことはできるが、聖体のパンのみがシャルル教夫が僕に差し出す唯一の傑作だった。コクトーはキリスト聖心祭の日の朝、ジャック・マリタンの家の礼拝堂で、数人の親しい人々に見守られてシャルル・アンリオン教父によって聖体拝受を受けたのだ。その時、シャルル・アンリオン教父はコクトーに「自由になりなさい(Soyez libre)」と、言ったらしい。※ シャルル・アンリオン(Charles Henrion)(1887年~1969年) 1924年にチュニジアに向けて出発し、司祭に叙階。36年間砂漠にいて活動したらしい。この書の中ではレーモン・ラディゲ(Raymond Radiguet)の事も書かれている。僕はあらかじめ十分用心していた。初めから僕にはラディゲは借り物なので。やがては返さなければならないとわかっていた。・・・都会で暮らしたその冬は悲惨だった。なぜ僕は、あんなに彼に嘆願したりしたのだろうか?なぜ僕は、自分の生活を変えたり彼に範を示そうとしたりしたのだろうか?借金、強い酒、不眠症、堆い汚れもの、ホテルからホテルへ犯罪の部屋から犯罪の部屋へのあわただしい生活。それらがみんな一緒になってラディゲの転身の原因になった。悲しい転身は1923年12月12日。ビキニ街の病院で行われた。レーモン・ラディゲは治療の甲斐なく、腸チフスで亡くなった。・・・ラディゲの死は、麻酔をかけずに僕を手術した。「天使がとって置いてくれた」教会の席に戻った・・と手紙に書き、1925年6月にはジャック・マリタンの勧めで前出、シャルル・アンリオン教父によって聖体拝受を受けた。一時は修道院にも入ろうとさえ考えた? 「白書」のラストでは修道院に入る予定で行ったのに、主人公は決別して帰っている。コクトーの教会への接近と離反。ジャック・マリタンを慕い、シャルル・アンリオン教父には確かに崇敬さえ感じたのは確かだろう。前出、シャルル・アンリオン教父はコクトーに「自由になりなさい(Soyez libre)」と言った。多分これは「魂の解放」が真意だったのではないか? と思われるが、コクトーはそうとらなかったのかもしれない。コクトーは欲望と言うよりは、自身の直観を運命として、自由に生きる事にしたのかもしれない。そもそも彼は芸術家だからね。自分を制御して信仰に生きるだけなんて、とうてい彼にはできなかったろう。刺激に満ちた人生こそが彼のインスピレーションの源だったと思えるし・・。神に背いたわけではないが、彼の自由は神の世界と相反する。でも、神はきっと許してくれる。と思ったのかもしれない。二人のやり取りは「ジャック・マクリタンへの手紙」として1926年発行されている。ジャック・マリタン(Jacques Maritain)に宛てた「芸術と信仰」についての手紙。英語版のタイトル「Art and Faith: Letters between Jacques Maritain and Jean Cocteau」日本訳のタイトル「ジャック・マリタンへの手紙」。同時期に出されたデッサン集「療養所」を加え、「ジャック・マリタンへの手紙」の改定版は「わが魂の告白」とタイトルされている。いずれも堀口大學 氏が訳している。フランスでは合法だった同性愛ところで、小説「白書(Le Livre Blanc)」で明らかになったのが、彼が同性愛嗜好であると言う事実。若い頃に娼館通いもしているので女性が全くダメだったわけではないだろうが、彼は自分に素直に生きた。葛藤があったのも確かだが・・。以前、ビアズリーとサロメ(Salomé)の時に紹介したオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)(1854年~1900年)は、同性愛ゆえに転落した。相手の親に訴訟を起こされ敗訴したのだ。英国とフランスは法律が違う。英国では同性愛は法的に犯罪であったが、フランスではラッキーな事に「ナポレオン法典」が同性愛を認めていたのだ。つまり、ナポレオン以降、フランスにおいては、英国のような犯罪として扱われる事はなかった。コクトー自身が、ナポレオン法典が長命な為に「この悪徳によって処刑場送りになる事はない。」と言っている。※ 今のフランスの民法は1804年にできた「ナポレオン法典」がほぼそのまま使われているらしい。「ナポレオン法典」を造った法律家が同性愛者だった事から? フランスでは犯罪にはされなかったようだ。※ 英国が「同性愛禁止を撤廃」するのは1967年。フランスから160年も遅れた。それにしてもカトリックでは、そもそも「子をなさない性交」は認められなかったから、カトリック一色の欧州では同性愛は表だっては難しかったはず。にもかかわらず、フランスでは1804年と言う早い時期に自由恋愛に踏み切っていたというのが凄すぎる。「白書(Le Livre Blanc)」の人物の恋愛模様を見ると、それが実際か? はわからないが、主人公が女性と恋人の取り合い? 複雑な三角関係が多い。実際のコクトーもそうだった? と読者が思っても不思議ではない。出会いも軽いし、かなりハチャメチャな性ライフが行われている。付属のイラスト描写は文章以上である。告白のラストで三角関係の末に恋人が自殺。(姉弟を相手にしての三角関係)主人公は、自身の罪ゆえに修道院に行く決心をしたが、主人公は案内の修道僧に、最初の性の目覚めから行為を寄せた男たちの顏が走馬灯のように映り替わり見えてしまい、気が失せて断念する。実際の登場人物の名前も出ているので、どこまでが創作なのか?著作権問題ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年10月)は現在、没後60年。以前シャガールでも触れましたが、画家の死後70年が経過すると著作権が消滅するので、世界の大方でジャン・コクトーにはまだ著作権の壁が存在します。ただし、日本の場合、2018年12月30日に改正著作権法が施行されるまで、著作権の保護期間は死後50年間だったのです。つまり、ジャン・コクトーの著作権は10年前に一度撤廃されていたので、日本の関連では改定後の死後70年の壁は無いようです。ヴィラ・サント・ソスピール(Villa Santo Sospir)1950年、ジャン・コクトーが「恐るべき子供たち(Les Enfants Terribles)」の撮影を終えたばかりの頃、友人のフランシーヌ・ヴァイスヴァイラー(Francine Weisweiller)に、ニース近郊のフェラ岬(サン ジャン カップ フェラ・Saint-Jean-Cap-Ferrat)の屋敷ヴィラ・サント・ソスピール(Villa Santo Sospir)に誘われたそうだ。※「恐るべき子供たち(Les Enfants Terribles)」の原作は1929年。映化は1950年。コクトーは南仏も、彼女の別荘も気にいり、数か月間滞在したばかりか、以降、定期的に訪れるようになったと言う。そして別荘に来ては、ヴイラの白い壁に彼はイレズミ(壁画)を施した。「壁を飾るのではなく、彼らの肌にタトゥーを描くのだ。」彼はタトゥーを際立たせるために最小限の線を用いたフレスコ画を残したのである。写真はニース観光局サン ジャン カップ フェラ観光案内所のものをお借りしました。リンク先も添付します。リンク Welcome to Nice Côte d'Azur2007 年より歴史記念碑(Monument Historique )として国家遺産(national heritage site) に登録されたそうです。※ 現在、ヴイラはガイド付きツアーがあり公開されている。住所14 avenue Jean Cocteauジャン・コクトー通り14番地06230 Saint-Jean-Cap-Ferrat06230 サン・ジャン・カップ・フェラFRANCEヴイラを気に入ったコクトーは映像作品でもこのヴイラを使用している。ヴィラ・サント・ソスピール(La Villa Santo-Sospir)(1952年) 監督オルフェの遺言(Le testament d'Orphée) -私に何故と問い給うな(ou ne me demandez pas pourquoi!)(1960年) 監督・脚本・出演ヴイラ自体はニースのはずれ? です。この時にコートダジュールを気に入った? コクトーはマントンの街に「一目惚れ」したと伝えられるが、何きっかけか? はわからない。ただ、当時のマントンの市長フランシス・パルメロ(Francis Palmero)(1917年~1985年)との出会いから全てが始まった気がする。フランシス・パルメロ(Francis Palmero)今、マントンの観光の目玉となっているマントン市役所の婚礼の間の絵画やコクトーの要塞美術館も、フランシス・パルメロの提案から始まっている。彼の方の経歴から探ると、マントンの市長フランシス・パルメロがコクトーに出会うのは1955年8月、マントン音楽祭である。実はこの市長はただ者ではなかった。フランシス・パルメロ(Francis Palmero)(1917年~1985年)1954年2月~1977年3月 マントン市長※ 1977年、マントン市選挙で敗退。1958年~1968年 アルプ・マリティーム県議員(4期)1971年~1985年 アルプ・マリティーム県上院議員マントン市議会 議員(1958年→1985年) 市議会議長(1961年→1964年、1967年→1973年) どうもフランスでは市長と国会議員が兼任できるらしい。フランシス・パルメロは政治家になった。1954年2月~1977年3月 マントン市長となったフランシス・パルメロ(Francis Palmero)(1917年~1985年)は1958年には県議、1971年には上院議員となり国会議員となって行く政治家。しかも非常にアクティブで南仏にフランス版のシリコンバレー、ソフィア・アンティポリス(Sophia Antipolis)を創設した功労者でもある。南仏にあっては、かなりの影響力のある実力者だったようだ。亡くなる1985年まで県上院議員をしている。マントン市長舎(Maire de Menton) 婚礼の間欧州では市役所や街役場で結婚届を出すので、まさにウエディングドレスを着て役所から出て来るパターンに遭遇する事が多々ある。1955年、マントン市では、使われなくなった裁判所を結婚式場に変えようと言う案が出されていた。当時のマントン市長であったフランシス・パルメロ(Francis Palmero)は音楽祭で知り合ったジャン・コクトーに装飾を依頼することを思いついた。彼はヴィルフランシュ・シュル・メール礼拝堂(la chapelle de Villefranche-sur-Mer)の装飾と並行して取り組み、 1956年4月、 婚礼の間(ウエディング・サロン)の為の最初の絵を描いた。※ 同年のマントン音楽祭(Festival de musique de Mento)のポスターも制作。マントン市長舎マントン市長舎の婚礼の間(ウェディング・サロン)部屋は今よりも薄暗かったので写真はかなり明るくしています。また、カメラの性能もよくなかったので綺麗な写真とは言えませんが・・。部屋はコクトーが全てデザインしたので当時のままのようです。コクトーは装飾の細部にまで注意を払っている。壁画は側面、天井にも及ぶ。スペイン・スタイルの椅子や錬鉄製の照明器具など調度品のデザインはもちろん、バージン・ロードにヒョウ柄のカーペットを指示した。式場なのに、バージン・ロードなのに・・。ヒョウ柄なんて非常に珍しい。どう言う意図だったのか?現在はわかりませんが、これを撮影した当時、写真撮影に制限が無かったのでほぼ全部撮っています。反対入口側マントン市長舎の婚礼の間のコクトーの壁画から LE COUPLE MENTONNAIS マントンのカップル 恋人たちから夫婦へ。マントン・スタイル(style de Menton)1950 年代、コクトーはカラーチョークなどの新しい技法に取り組んでいた時?マントン市の結婚式の間の仕事中、彼は紙に習作を記入し、次に壁の絵にカラフルな曲がりくねった線を描き始めた。迷路のようなイレズミのような特徴的な文様。そう、やはりクレタ(Crete)島のクノッソス(Knossos)の迷宮(ラビリンス・labyrinth)からインスピレーションを経てマントンスタイル(style de Menton)は考案されたらしい。1956 年 4 月 8 日に最初の絵を描き、婚礼の間は 1958 年 3 月 22 日に落成。完成時、コクトーは69歳である。ほぼ丸2年かかっている。天井画 天使たち正面右壁から作業するコクトーの写真。こちらはジャン・コクトーの美術館案内のサイトから借りました。リンク BIOGRAPHIE DE JEAN COCTEAU1957 年~1958 年にかけて描かれたこの作品のテーマは、「マントンの恋人たち(les amoureux de Menton)」正面左壁からエウリュディケ(Eurydice)エウリュディケが黄泉の国に連れていかれる所?オルフェウス(Orphée)オルフェウスやエウリディケのバックには大量のケンタウロス(Centaurus)。ケンタウロスが、なぜ射られているのかは謎。結婚式にはふさわしく無い絵の気もするが・・。コクトーの真意は?コクトーは今までのウエディング・サロンでは華やかさに欠けると考えたらしい。独特の演劇性を持たせることで面白さを加えたのかもしれないが・・。「野蛮な結婚」がタイトル? らしい。・・・なるほどフランス共和国の象徴 マリアンヌ(Marianne)の横顔ところで、部屋の端に置かれた鏡にサンドブラストで刻まれた謎めいた女性の顏が左右対称に 2 つ。フリジア帽を被るマリアンヌ(Marianne)像だと思われる。マリアンヌ(Marianne)像は、フランスを擬人化した女性であり、フランス共和国の象徴なのである。フランスの国旗のトリコロールは自由(青)、平等(白)、博愛(赤)。政府広報では、平等(白)の部分にマリアンヌの横顔が置かれている。フランスの市庁舎には、フランス共和国の象徴としてマリアンヌの胸像がたいてい設置されるものらしい。その時代のフランスの顔となる女性(女優、モデル、歌手など)が選ばれて、彫像のモデルとなるらしい。コクトーはそれを彫像でなく鏡に刻んだのだ。ただ、コクトーが誰をイメージして描いたか? はわからない。ル・バスティオン(Le Bastion)(要塞)要塞美術館(Musee du Bastion)マントンには現在ジャン・コクトーの美術館が2つある。近年、新しい美術館がバスティオン美術館近くに開館したらしい。新しい美術館がジャン・コクトー美術館(Musee Jean Cocteau)で、古くからの美術館がジャン・コクトー・バスティオン美術館 (Musée du Bastion Jean Cocteau)と仕分けされている。ジャン・コクトー・バスティオン美術館は、その名の通り要塞美術館(Musee du Bastion)。それは海に突出した17世紀の砦を改築して造られたものだからである。※ その昔は海賊監視の為のサラセンの塔(トッレサラチェーノ・Torre Saracena)があったのではないか? 最初に話が出たのは1957年、彼がマントン(Menton)市役所の婚礼の間の装飾に取り組んでいた時。当時の市長フランシス・パルメロ(Francis Palmero)(1917年~1985年)から提案があったそうだ。この要塞は当時放置されていたもの。市が場所を提供するので、ここにコクトー自身がデザインして自分の美術館を造ればどうか? コクトー曰く、「私の作品の美術館なんて、邪悪なものでしょう。」 当初、彼は自身の美術館と言うものに否定的だったらしいが、コクトーも68歳。自身のキャリアを象徴する作品を置いて形に残そうと考えたのかもしれない。「コクトーの美術館」ではなく、「要塞、ジャンコトー」? ル・バスティオン・ジャン・コトー(Le Bastion Jean Coteau)」はどうか? と本人が提案。マントン市はル・バスティオン(Le Bastion)で紹介している。それだけでコクトーの美術館だと誰もが認識しているからだ。結婚の間が終わった1958年から作業が始まる。建物の改築も、内装も、作品の配置も、どんな作品を展示するかまで細部に並々ならぬこだわりを持ってコクトー自身が指揮をとり造り始めたそうだ。※ コクトーがかかわるのは1958年~1963年。色とりどりのパステル画、記念碑的なタペストリー、驚くべき絵画、大胆な陶磁器などがこの美術館の展示品として飾られる。しかも作品は定期的に入れ替え。コクトーのこだわりの美術館は、まさしく遺言博物館となった。ジャン・コクトー(Jean Cocteau) (1889年~1963年10月)は完成前の1963年に74歳で亡くなった。ル・バスティオン(Le Bastion)は1966 年に開館。下は全景が撮影できなかった為に部分で撮影したものを順番にくっつけました。壁画はビーチで採集した玉砂利で出来ている。近くで見ると玉砂利が飛び出しているので写真よりは感動があります。残念ながら、館内の撮影は禁止されていたので内部の写真は一切ありません。美術館の中はタペストリーや陶芸作品や絵画が展示されていましたが、そもそも要塞内部を改築しての美術館と言うよりは、コクトーのこだわりが詰まったアトリエのような所です。今は大きなコクトー作品の展示は新コクトー美術館の方にもって行かれた感じ? こちらはテーマを取り入れた展示室の一室として展示されていたようです。そもそもこちらの所蔵は当初コクトー自身の持っていた作品だったと思われる。コクトー美術館のチケットで「こちらも見られます。」扱い。が、新美術館の方で災害によるトラブル? 現在ほぼ機能不全の状態ようです。正面の全景が無かったので、ル・バスティオンの写真はマントン市のコクトーのサイトからお借りしました。リンク MUSÉE JEAN COCTEAU LE BASTION新 ジャン・コクトー美術館(Musee Jean Cocteau)こちらは2011年11月に開館した新たなコクトー美術館なのであるが、ここの所蔵品のほとんどがセヴラン・ワンダーマン(Severin Wunderman)氏による寄贈で成り立っている。それ故、2005年9月、フランス文化通信省は寄贈者の名を加える事を許可。ジャン コクトー美術館 セヴラン ワンダーマン コレクション(Jean Cocteau Museum Severin Wunderman Collection)と呼ばれるのである。スイスの腕時計ブランド、コルム(Corum)社の会長兼オーナーであるセヴラン・ワンダーマン氏(Severin Wunderman)(1939年~2008年)。時計製造業界で最も大胆な人物の一人とされただけでなく、人道主義者であり、アートシーンの熱心な後援者でもあった。1910年代から1950年代までのコクトー作品の多数のコレクションがあり、フランス文化省の後押しを得て2005年に990点のコクトー作品と、840点の関連作品の寄贈がされている。新美術館の開館は、そのコレクションを公開する為の建築であった。残念ながら美術館開館前にセヴラン・ワンダーマン氏(Severin Wunderman)氏は2008年、69歳で亡くなった。新美術館は2011年11月に開館にこぎつけだが・・。しかし、現在閉鎖中です。オープンして丸7年。2018年10月29日から30日の夜に発生した大雨? 大嵐? 高潮? により美術館地下は大量の海水が入り込み、ほぼ水没。コレクションの所蔵室も地下にあったようで、ほとんどのコレクションが被害を受けたようです。建物自体の問題だけでなく、作品の修復も大量に発生しているようなのです。一説には保険でも、もめているとか・・。作品が蘇れる事を祈るばかりです。下の写真はウィキメディアから借りました。 海からの美術館。非常に海が近い。1 April 2012 2700 ㎡の敷地に 2 つの展示スペース、特別展示エリア、教育ワークショップ、アート グラフィック、資料資料エリア、カフェ、ブティック、本屋が設置。元のバスティオンがそもそも要塞を利用したアトリエのような美術館であったので、こちらは一般の美術館としての最新の設備も諸々備えている。近年は、外からの訪問者はむしろこちらメインでバスティオンはオマケ的な扱いになっていたのかもしれない。新たな美術館の建設は 2003年12月にマントン市議会で決まり、2007年に市議会によって国際コンペが開催。2008 年 6 月、設計コンペでは、フランスの建築家ルディ・リッチョッティ(Rudy Ricciotti)が優勝。リッチョッティのデザインはコクトーの人生と作品から(詩人の個性、光と闇のゾーン、コントラストによって支えられた謎めいた自己神話など)直接インスピレーションを得たものと言われる。公式の美術館のサイトから写真をお借りしました。公式リンク MUSÉE JEAN COCTEAU COLLECTION SÉVERIN WUNDERMANでも、本当に海岸へりです。ちょっと高潮になれば被害が及ぶ事を考えなかったのだろうか?これはデザイナーの問題ではなく、デザインを現実に建築する施工の問題です。地下に排水施設も無かった? みたいですね。建物が戻っても、今後も同じ事が起きる可能性はあるわけで、建物の構造も変えざる負えない。しかも、肝心の作品のほとんどが大なり小なりの被害を受けているようだから、いつ再開できるのか? 海外の美術館は、その休館などの情報をほとんど表立って出しません。かつて、ハーグの美術館での事、行ったら長期工事で閉まっていたのです。目当ての絵画は海外ドサ周り中。全く意味の無い訪問になりました。何重にも調べて情報を確認しないとムダ足になります。晩年の恋人と終焉の地ミリー・ラ・フォレジャン・デボルト(Jean Desbordes)1926年、コクトー(37歳)はレーモン・ラディゲの再来を見て、ジャン・デボルト(Jean Desbordes)(1906年~1944年)(20歳)と同棲。(1933年)、7年間コクトーと一緒に暮らした後、彼は(27歳)コクトー(44歳)と別れた?母親と妹と一緒に引っ越し1937 年に結婚。1936年にコクトーが世界一周で日本に着た時は、若い友人? マルセル・キルを同伴していたと堀口大學 氏は書いている。ジャン・マレー(Jean Marais)1937年、 シェルブール出身の俳優ジャン・マレー(Jean Marais)(1913年~1998年)(24歳)と出会う。彼は俳優。コクトーの舞台「恐るべき親達(Les Parents terribles)」(1938年)(25歳)で主演に抜擢。※ 「恐るべき親達」の映画は1948年。1942年のジャン・マレー(Jean Marais) 29歳。写真はウィキメディアから借りました。Studio Harcourtによるブロマイドかと思います。29歳でもさすが役者さん。美しいです。第二次世界大戦では出征するも、復員後は舞台と映画で活躍。戦後はほとんどのコクトー作品に出演。映画「美女と野獣(La Belle et la Bête)」(1946年)、映画「双頭の鷲(L'Aigle à deux têtes)」(1948年)、戯曲(1946年)映画「オルフェ(Orphée)」(1950年)ジャン・マレー(Jean Marais) はコクトー作品のほとんどに出演したと同時に長くコクトーの愛人であったとされる。エドゥアール・デルミット(Edouard Dermit)1947年、コクトーは後に養子となるエドゥアール・デルミット(Edouard Dermit) (1925年~1995年)(22歳)に出会う。 彼が、コクトーの最後を看取った恋人となる。※ 実はエドゥアール・デルミット(Edouard Dermit)は本名ではない。正式な洗礼名はアントワーヌ・デルミット(Antoine Dermit)なのである。なぜか? 母がエドゥアール(Edouard)と呼んでいたらしい。ロレーヌで鉱夫として働いていた彼はポール・モリヒアン(Paul Morihien)の書店で偶然、ジャン・コクトーに出会う。彼の容姿はコクトーの美の理想に一致したらしい。最初は庭師になり、その後運転手にもなった。優しい性格から「ドゥドゥ(Doudou)」というあだ名がつけられたと言う。コクトーは彼を役者としても採用。双頭の鷲(L'Aigle à deux têtes)(1948年)以降の映画すべてに彼を登場させていたそうだ。映画「双頭の鷲(L'Aigle à deux têtes)」(1948年)※ エドゥアール・デルミット23歳の時。映画「恐るべき親達(Les Parents terribles)」(1948年)映画「オルフェ(Orphée)」(1950年)映画「恐るべき子供たち(Les Enfants Terribles)」(1950年)※ ポール役映画「サント・ソスピール荘(La Villa Santo-Sospir)」(1952年)映画「オルフェの遺言 ―私に何故と問い給うな―(Le testament d'Orphée, ou ne me demandez pas pourquoi!) 」(1960年) 独学で画家となった彼はパリで数回個展も開いている。その事が突然ジャン・コクトーが死去して、仕事半ばで止まった仕事の後処理を彼が行えたと言える。※ 1965年にフレジュスのノートルダム・ド・エルサレム礼拝堂を完成。※ メスのサン・マクシマン教会のステンドグラスプロジェクト。先に紹介した要塞美術館、ル・バスティオン(Le Bastion)もコクトーは仕事半ば1963年で亡くなっている。コクトーは亡くなる直前まで作品リストや美術館にこだわりを持って改変を続けていたらしい。3年後、それに終了(完成)の許可を出したのは芸術家であり、コクトーの養子となり、相続人となったエドゥアール・デルミットなのだ。フランス・アカデミーのアンドレ・モーロワ(André Maurois)フランシーヌ・ヴァイスヴァイラー(Francine Weisweiller)エドゥアール・デルミット(Edouard Dermit)の立会いのもとル・バスティオン(Le Bastion)美術館は 1966 年開館した。また、彼は1989年、モンペリエ(Montpellier)のポール ヴァレリー(Paul-Valéry)大学でコクトー基金の設立に貢献している。エドゥアール・デルミット(Edouard Dermit)は、1995年5月、パリで亡くなった。コクトーの死(1963年)よりも32年も後になるが、その亡骸はコクトーと同じ場所、ミリー・ラ・フォレ(Milly-la-Forêt)のサン・ブレーズ・デ・シンプル(Saint-Blaise-des-Simples)礼拝堂に埋葬された。コクトーの終の住みかミリ・ラフォレ(Milly-la-Forêt)冒頭ふれたが、ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年)の住まいは、イル・ド・フランスのミリー・ラ・フォレ(Milly-la-Forêt)にあった。パリから南に50km。田舎ではあるが都会の喧騒から逃れるにはうってつけ? 環境も、利便も良かった?ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年)は1947年から亡くなる1963年までの16年間、そこを住まいとし、実は亡くなった場所もミリー・ラ・フォレ(Milly-la-Forêt)の寝室だった。1947年、最初にここを居に求めたのは、実はコクトーとジャン・マレー(Jean Marais)だったらしい。1946年、映画「美女と野獣(La Belle et la Bête)」の後、二人はここで同棲していたのかもしれない。同年、知り合うエドゥアール・デルミットは、最初コクトーの運転手となるので、途中からここに住み始めたのかもしれない。1958 年3 月 にマントンの婚礼の間が落成した後、彼はバスティオン修復プロジェクトに取り組んでいるが、その翌年(1959年)、住まいのミリ・ラフォレ(Milly-la-Forêt)市の依頼でサン・ブレーズ・デ・シンプル礼拝堂(Chapelle Saint-Blaise-des-Simples)の修復を手掛けている。下は、Milly-la-Forêt の観光局の写真をお借りしました。リンク Milly-la-Forêt観光局サン・ブレーズ・デ・シンプル礼拝堂(Chapelle Saint-Blaise-des-Simples)と薬草畑コクトーが内装の修復を頼まれ、かつね自身も眠る事になった古いチャペルです。12 世紀に建てられた古い礼拝堂は、ハンセン病患者達の祈りの場であった。周りの薬草畑は、ハンセン病患者の為の薬として栽培されていたらしい。コクトーは1959年に市から要請を受けて、内部をデザイン装飾する事になったのだ。彼が装飾したこの小さなチャペルに、コクトー自身が眠る事になるとは、彼は想像していただろうか?1963年10月10日、コクトーの友人のシャンソン歌手エディット・ピアフ(Édith Piaf)(1915年~1963年)(47歳)が癌(ガン)の為に亡くなった。コクトーはその知らせをミリー・ラ・フォレで聞いてショックを受けて寝室に向かったらしい。翌日、1963年10月11日ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年)は寝室で亡くなっていた。突然の心臓発作だったらしい。享年74歳。前出イベントポスターの事ですでに触れたが、コクトーの名前が刻まれた大きな石板には「Je reste avec vous(私はあなたのそばにいます)」という彼のシンプルな忠誠の言葉が刻まれていると言う。これは同じ墓に眠るエドゥアール・デルミットの気持ちなのか? と一瞬思ったが、どうもコクトーの神への懺悔(ざんげ)? 今まで散々神に対する罪を重ねて来てはいるが、「私はいつも貴方(キリスト)に忠誠を誓っています。」と言う意味のようです。下は私がプライベートで持っているコクトーのリトグラフ(lithograph)です。反射があるので少し斜め撮りしてますが・・。マントン・スタイルで描かれている作品です。「ヨハネによる福音書」ではイエスが十字架にかけられた時、弟子としてただ一人、十字架の下にいたのがヨハネとされるので、祈っているのはヨハネなのかもしれない。それとも、コクトーは自身の姿を投影させたか?こちらもプライベートで持っているコクトーです。星座シリーズの一枚かもしれません。これらを購入した後にマントンのコクトー美術館に行ったのです。お土産で、コクトー美術館でコクトー・デザインの素敵なブローチを購入したのですが、最終国コペンハーゲンのホテルで消えてしまいました。ガックリです。古いコクトー関係は削除しました。これにて終わります。