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2019年10月01日
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Break Time(一休み)とは言えない長さですぽっ

今回は交易の話しから離れるので単独にしました。
「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ」でご近所まで来たのでキリスト教発祥の地となった死海周辺を紹介しておく事にしました。
リンク ​アジアと欧州を結ぶ交易路​ 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ​​

死海の北西岸にあるクムラン(Qumran)はキリスト教の発祥に起源する場所でもあります。
世界人口の33%にも及ぶと言われるキリスト教徒。まだ全容は解明されていませんが、クムラン(Qumran)で発見された貴重な文書は紀元前の激動するパレスチナ情勢の中でそこにいたユダヤ人によって残された聖典や典礼、規律や記録などからなった文献です
時代もちょうどキリスト教が登場する前の時期。つまりその時代の背景があってのキリスト教の誕生につながる貴重な資料として解釈されています。

しかし、1947年に文書が発見されてから、パレスチナでは1967年に第三次中東戦争が勃発。
貴重なそれらお宝は周辺国の思惑で動き解明の為の研究は実質ストップ状態。
写本の全容が公開されたのは1991年公開、出版、現代語訳による解釈などおよその完結がみられたのは2011年
死海文書の内容次第では、キリスト教の今後、バチカンをも震撼させる自体になるのでは? と言う不安材料もあっての研究だったようです。

因みに「死海文書」と言うと日本ではアニメの「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年~1996年テレビ放映)を想像する人が多いかもしれません。
「エヴァンゲリオン(Evangelion)」自体が、ラテン語で「福音の伝道」を意味する言葉。
他にも使徒や、マギやエヴァなどキリスト教関連の用語が多く使われているので惑わされてしまいますが、本来の「死海文書」の意味するものとは全く別物です。
でも、「新世紀エヴァンゲリオン」人気でマニアが「死海文書」関連の本を買って読んだので放映当時「死海文書」関連本は結構売れたようです。



クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)

地の裂け目​、地溝帯
クムラン洞窟(Qumran Caves)
死海文書(Dead Sea Scrolls)の発見
​一般公開まで時間がかかった理由
誰がこれらの文書を残したのか?
何でこんな荒野に彼らはいたのか?
​​荒野の修道士バプテスマのヨハネとキリスト​​
クムラン宗団はエッセネ派(Essenes)?
​マサダ(Masada)​の悲劇
​​
​地の裂け目​、地溝帯​​
そのクムランに入る前に、前回「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ」の中、「海抜の低いガリラヤ湖、ヨルダン川、死海」ですでに紹介しましたが​、​ガリラヤ湖の北、フラ渓谷(Hula Valley)から、ガリラヤ湖(海抜 -213m)、ヨルダン川、死海(海抜 -422m)を経て、アカバ湾までに達するラインはアフリカ大地溝帯の北端に当たるヨルダン地溝帯(Jordan valley)のラインです。
すでに海となっているアカバ湾と異なり、ヨルダン地溝帯は陥没地となっていて実際パレスチナを分断しています。

※ そのラインは現在イスラエル・ヨルダン川西岸とヨルダンの国境になっている。

この偶然にしても不思議な地形的問題はユダヤ教、キリスト教に少なからぬ影響を及ぼしたのではないか? と考が及ぶ・・。

​リンク​
 ​​アジアと欧州を結ぶ交易路​ 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ​​


死海西岸(イスラエル東)のマサダ(要塞)からの死海南側方面
見える線はロープウェイのケーブル



星​大地溝帯、グレート・リフト・バレー(Great Rift Valley)とは、地がマグマ上昇により左右に避けて谷状になっていく場所(現象)の事​です。
これは地球の球体の上で起きているマントルの対流によるプレート・テクトニクス(plate tectonics)と言う現象によるものの一つです。
それは正断層で地面が割れ避けて離れて行くので大陸の割れ目と言えます。

グレート・リフト・バレー(Great Rift Valley)は、アフリカとアラビア半島を分ける紅海からエチオピアの高原地帯を南北に走り、タンザニアへ至る。
巨大な谷の総延長は7000 km​
にのぼる。(幅35 ~100 km)

同じマントル上昇でも、海の中に山を造り山脈を形成するように避けて行く(海の割れ目)が海嶺(かいれい・ridge)です。
因みに、それらと反対に古いプレートを飲み込みマグマの中に引き込む地の口が海溝(かいこう・trench)です。

同じくマサダ要塞からの死海北側方面
死海を挟むように山脈が通っている。とは言え、海抜がもともとマイナスの422mの死海であるから周囲の山も海抜で言えば足し引き数十メートル。
マサダ(要塞)は400mの高さの岩山の上にあるが(マサダの麓で海抜マイナス300m)海抜で考えれば20~30mの山と言う事になる。
※ 死海の海抜は湖面の高さ(湖の水量)により異なる?

星すでに渓谷から巨大な谷間となり、さらに地割れ続けて広がっている様がみえる。パレスチナはキリストが洗礼を受けたまさにヨルダン川のラインで亀裂しているのである
やがてアカバ湾も北に延伸してつながると想像できます。(前回紹介したペトラもライン上)
つまり、シナイ半島とイスラエル、そしてレバノンに及ぶパレスチナは将来完全に海に包囲され、一つの大陸になるかもしれないと考えられるのです。
それは人の生死では計れないほどの年月を経た先だと思いますが・・。
※ 5000万年単位で大陸の位置は大きく変わっている。

下はシナイ半島を挟んだ地溝帯をピンクで表示

いつか海となるだろう場所。

※ 地球の大陸移動と生成について細かく紹介した事があります。「​​​地球生成の地質年表  」もオリジナルで造っています。興味のある方は見てね。
2018年05月「ナミビア・コーリシャス石化の森と地球の大陸移動」
リンク ​ナミビア・コーリシャス石化の森と地球の大陸移動

​死海とクムラン(Qumran)とマサダ(Masada)の位置

死海の左上の青の円で印たのががおよそのクムラン洞窟の位置。
クムランの西、黄の円で記したのがキリスト時代ベタニヤの街があった所
さらに西隣、ピンクの円がエルサレムの街が広がる。
死海左下の赤の円で印たのがおよそのマサダ要塞の位置。
ウィキメディアの死海の写真に書き込みました。

ベタニヤとエルサレムを書き込んだ理由は、辺境地に思えるクムランが、実は神殿のあるエルサレムから割と近い位置にある事を紹介する為です。

クムラン(Qumran)からの死海
マサダと異なりこのあたりはすでに風化を始めた石灰岩の丘です。
青銅器時代に人工的にくりぬいて造られたと言う岩山に洞穴が多数。
それらの中で旧約時代のユダヤ教の巻物が次々発見された。実はBC31年には巨大地震が起きて住居は損壊。人は住めなくなったらしい。AD4年頃ヘロデ王の死後に住居の遺構は再建。

クムラン洞窟(Qumran Caves)洞窟番号は不明

死海文書の発見
1947年に死海の北西(ヨルダン川西岸地区)の荒野、クムランにある洞窟で獣皮紙に書かれた古文書が発見された。
偶然の発見であったが、1956年までに11の洞窟から断片的な文書など800点が見つかる。また近くから廃墟の遺構も見つかっている。
それは「二十世紀最大の考古学的発見」と​​されるセンセーショナルな発見とされた。

発見場所からそれら文書は「死海文書(しかいもんじょ)」とか「クムラン写本(しゃほん)」と呼ばれる。
※ 死海文書の発見場所については実は真実は解っていない。ベドゥィンが偶然発見したとか、もともと密売やトレジャーハンティングしていたベドウィンがどこかで発見してから持ち歩いていたとか、洞窟に隠していた等諸説ある。

文書はクムランに点在するあちこちの洞穴から発見されているのは確かであるが、実際複数の洞穴の文書がシャッフルされたものもある。
また、
2000年前から本当にその場所にあったのかはもはや定かでないだろう。
いずれにせよこれら文書の価値が見いだされ世に出るまでには少し時間がかかっている。


写本はヘブル語とアラム語で記された旧約聖書の写本(最も古い写本)や外典の他「安息日の犠牲の唄」などの断片。
※ エステル記とネヘミア書を除くすべての旧約聖書の全文が見つかった。

これは単純に言えば、
ユダヤ教研究やキリスト教研究における重要なファクター(factor)となる文献で、今までの研究が180℃変わるかもしれない衝撃をも持っていた。

 今にも崩れそうで危ない。2000年前はまだ人が住めたのか? それとも巻物を隠しただけ?

一般公開まで時間がかかった理由
ところがこれらの研究は全く進まなかった。
発見当時のパレスチナはイギリスの委任統治下。さらに1967年に起きたの第三次中東戦争の影響で、そのあたりの支配が一変したからだ。

電撃的なイスラエル軍の攻撃で東エルサレム、死海北西岸一帯を含むヨルダンカワ西岸地区全域(ゴラン高原、シナイ半島)が制圧されイスラエル領となり、写本も、最初に出土した7つは、フランス・アメリカ・イギリスの各国政府が共同で運営した博物館に保管されていたが1967年、第三次中東戦争以降は、イスラエル博物館内の聖書館 (Shrine of the Book) に移された。
※ 1961年からヨルダンが自分の国の財産だと主張。​

​イスラエルの占領に国際研究チームの抗議もあったようだが、イスラエルは早い全文の解読と公開を希望し研究に対する援助は惜しまなかったらしい。
出​
版の再開は1973年。

​しかし、遅々として進まない研究の中で1991年2人のアメリカ人によりコンピューターで復元された写本の原文が非公式に公開された。
これに続き南カリフォルニアの図書館でもマイクロフィルムに起こしていた写本の原本を公開。
別ルートからは写本のフアクシミリ版も漏洩。

もはやイスラエル政府も写本写真の自由な閲覧を許可するしかなく、1993年にはイスラエル古物管理省による正規のマイクロフィッシュが公刊。​

冒頭触れた通り1991年以降、公開、出版が相次ぎ、現代語訳による解釈本なども刊行。
国際チームDJDも2011年に全44巻を刊行して完結にいたっている。

下の写真はウィキメディアから借りてきました。クムランの第4洞窟クムランの第4洞窟からは15000の断片が発見され500の写本が再構成されたそうだ。

誰がこれらの文書を残したのか?
クムランでは共同体の遺構も発掘されている。
遺構の最初はBC8世紀~BC7世紀頃らしいが、文書を残したクムランの人々が住んだのはBC130年頃からのおよそ200年
途中BC31年には地震で損壊。AD4年頃ヘロデ王の死後に再建。
※ AD68年そこに住んでいたユダヤ人が反乱を起こしローマ兵が鎮圧すると以降はローマ兵の駐屯地となっている。​

下はクムラン地区で写本が発見された洞窟

写本はこれら洞窟に隠されていた。隠した理由はローマ軍から守る為だったと考えられている。

クムランで写本を残した人々は何者か?   間違いないのは彼らがユダヤ人であり、共同体ので規律を守って暮らしていた人々であったと言う事
敢えて彼ら(Qumran Community)を「クムラン宗団」とか「クムラン教団」と和訳している。

発見された文書には共同体の規則があり、彼らは厳しい戒律の中で修道士のような生活をしていた事が解っている。「宗団」と呼ばれるのはそれ故だ。
まだ正式な解明はされていないが、彼らはユダヤ教の一派であるエッセネ派 (Essenes)に俗する集団だった可能性が高い

マサダ要塞からクムラン方面の景色

地面に亀裂が・・。山は風化してくずれやがて砂地に変わり広がっているのがよくわかる。


何でこんな荒野に彼らはいたのか?

結論から言えば、おそらくエルサレムからの都落ちの可能性が高い。それはユダヤ教の共同体の中での意見の対立が考えられる

文書の中「悪しき祭司」と「義の教師」と名詞が出てくる。
「悪しき祭司」がユダヤ人を間違った方に導いている・・と言う事に反旗したグループを率いたのが「義の教師」と考えられ、両者による対立が考えられる。
※ 反旗した者達がそれぞれグループを作ったとも考えられる。

星ユダヤ教と言うのは意外にも血統が重視される。司祭は代々、正当な血筋を持つ家から出なければならず、ほぼ例外は無い。
ところがこの時期、ちょっと例外があった。温和なユダヤ人の中に戦う司祭の一家が現れたのだ。
それはアレクサンドロス以降の近隣諸国の動きに関係している。

パレスチナは常にどこかの大国が支配し、ユダヤ人はその中で自由な信仰を認められて生活していたのだが、それが侵略される事態が起きた
増税や神殿の侮辱。いつもなら仕方無く従がっていたユダヤ人の中に安息日に戦う司祭が現れたのだ。
BC167年に起きたマカベア戦争(Maccabean revolt)の英雄、ユダ・マカベアが新しい司祭となりハスモン家が誕生する

ユダヤ教徒は強いハスモン家に率いられる形となった。しかし安定後も必要の無い侵略を繰り返しユダヤ内部の反発が起きる。(ユダヤ教徒の考方の違いによる分裂)
​パリサイ派やエッセネ派が生まれたのはこうした背景があったと考えられる。​

BC152年ハスモン家のヨナタンが大祭司になると、さらに調子よくローマやエジプトとも同盟を組みユダヤの領土は拡大したが、ユダヤ社会の分裂はいっそう進んだらしい。


​荒野の修道士バプテスマのヨハネとキリスト​
以前「世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)」の所、「サロメと首の主」の所で紹介したヨカナーンこと、バプテスマのヨハネ(John the Baptist)(BC2年頃 ~36年頃)もその一団であったと考えられる。

厳しい環境の中で終末思想を抱え、己と戦い、修行僧のように暮らしていた彼はヨルダン川でキリストに洗礼をほどこした先輩修道士である。
それ故、キリストもまたクムラン共同体の一員であった可能性が高いのだ


キリストに水の洗礼を施す洗礼者ヨハネ
ノートルダム大聖堂のシュベ(Chevet)にある木彫として一度紹介した写真です。
リンク ​ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠


ところでハスモン家の没落の後にローマ元老院によって選ばれユダヤ王国を統治したのがヘロデ(Herod)王なのである。
バプテスマのヨハネは、その娘サロメによって首を落とされ殉教する。
その話については「世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)」の中で紹介しています。
リンク ​世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)


※ ヘロデ王(Herod)(BC73年頃 ~BC4年)(在位BC37年~BC4年)は、共和政ローマから帝政ローマ時代にユダヤの王として統治を任された部将
ユダヤをまとめるのは代々司祭であったのに、部将出身のヘロデ王が(在位BC37年~BC4年)王位に就いた。しかもユダヤ人によって選ばれた王ではない。
ヘロデはローマを伺いながら統治。気性にも問題のある王であったが彼の治世に始められた公共設備やエルサレム神殿の大改築により評価もある

クムラン宗団はエッセネ派(Essenes)?
写本はヘブル語やアラム語で書かれた旧約聖書の写し。それも最古とされるもの。
他に旧約聖書外典、儀典の一部や集団独自の共同体の規律や規則を記した巻物もある。

共同体の信仰や慣習などから彼らはユダヤ教徒で、宗教的意味で硬派の宗団、エッセネ派(Essenes)だったのではないか? と当初から考えられていた。
とは言え、後々発見される巻物から一派と考えるより複数のユダヤ教徒のグループ? との説も今は出ている

因みにヘロデ(Herod)王はエッセネ派を高く評価し、尊重していたらししい。実際後々考えれば、彼の統治時代はユダヤ民族にとっては良かった方である。

マサダ(Masada)の悲劇
マサダ(Masada)はヘブライ語で「要塞(ようさい)」を示す語。見て解るよう難攻不落(なんこうふらく)の要塞としてローマ兵を悩ませた。


こちらの写真はウィキメディアから借りてきました。
マサダ(Masada)は集団自決もあったユダヤ戦争の悲劇の砦となった場所。
マサダ要塞の麓
先にも紹介したが、岩山の高さは400m。しかしマサダの麓の海抜はそもそもマイナス300mなのである。

岩山へはヘビの道と呼ばれるルートがあるそうだが、今はロープウェイで一気に上れる。





今は崩れかけたキャニオンであるが、ヘロデ王の時代にこの見晴らしのいい岩山の砦は整備され、砂漠に降る雨を引き込み飲料を確保。
4トンもの水を蓄えられる巨大な貯水槽にローマ風呂まであるヘロデの豪華な宮殿まで建設。まさに天空の街があったそうだ。

下はマサダ要塞の想像模型

山の西の崖はこの模型の右側。



ヘロデ王らによる統治時代が終わり、ユダヤが帝政ローマの直轄の属州になるとユダヤ人の状況は変わる。ユダヤ教徒に対する思いやりがなくなったのだろう。
しかも宗教的にローマは多神教文化である。

​AD66年~AD73年、ついにユダヤ人が決起し対ローマとユダヤ戦争が勃発​する。
クムランの居住地はあっと言うまに破壊される。
しかし、同じく死海の淵に有りながら、マサダは立地も高い岩山の上。マサダ攻略には流石のローマ軍も苦戦した。​ユダヤ人およそ1000人が2年立てこもって籠城(ろうじょう)​

苦肉の策? ローマ軍は捕虜と奴隷を動員して攻略しやすいよう山の西の崖を埋めてから攻め上ったらしい。

しかし、上られたら最後、抵抗する事なく彼らは先に死を選んで集団自決。(残ったのは女性と子供7人)

星このユダヤ戦争はユダヤ教とユダヤ民族の大きな転換点となる戦闘であった。
この戦いに負けたマサダの住人は集団自決したが、残された他のユダヤ人らはエルサレムの神殿をローマ神に明け渡す変わりにユダヤ教信仰の自由を残してもらったらしい。
が、1948年にイスラエル建国するまで彼らユダヤ人は国を無くし世界に離散。

その教訓から?  イスラエル軍の入隊宣誓式ではマサダに登り「マサダは二度と陥落しない」という宣言をする習わしがあるそうだ。

1948年のイスラエル建国についてはまた別の問題があるけどね。ぽっ


マサダ要塞からの山々。

これらが風化して砂になり地が広がる。そして海抜の低いこの地はいつか海の底に沈む。


最後に・・。

神がアブラハムの子孫に与えると約束したカナン(Canaan)の地、それにこだわったイスラエルの民(ユダヤ人)。
歴史を顧みてもそれがいつの時代もトラブルの元になっている。
パレスチナ紛争は起こるべくして起きているのである。


関係リンク先 Back number
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路​ 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
リンク ​ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
リンク ​聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂







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Last updated  2022年11月21日 14時46分41秒
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