|
カテゴリ:建造物・教会・墓地・墓石・遺物
夜景の写真追加しました。
どうしても今回で終わらせたくて写真を50枚ほど入れ込みました(;^_^A これで行かなくとも、行った気になれると思います。 修道士とは、英語でmonk 、ラテン語でmonachus。 語源は「独身」に由来し、「独身で暮らすとか、 生きる。」と言う意味から発したそうだ。 つまり当初は、人々から離れて生きる世捨て人的な隠遁者(いんとんしゃ)的イメージだったのだろう。 修道制の起源は欧州に先立ち、3世紀のエジプトで共同生活を始めた聖パコミウス(Pachomius)(292年?~346年?)に始まるらしい。 彼はルール(規則)を作り当初は主の祈りから、共同体が発展するにつれ、規則は聖書から取られた教訓で作り上げられ、個人の能力に合わせて調整されていたので極端な禁欲主義ではなく、祈りと仕事、共同生活と孤独のバランスをとることを目指した修道制を敷いている。 欧州修道制の父、聖ベネディクトゥスの制度に似ている? のではない。 聖パコミウスのルールはラテン語に翻訳され、それを後にモンテ・カッシーノ(Monte Cassino)で開いた修道会(529年)の規則にベネディクトゥス(Benedictus) (480年頃~547年)が組み込んでいるのだ。 パコミオスが死ぬまでに、8つの修道院と数百人の僧侶が彼の指導に従いエジプトからパレスチナ、ユダヤ、シリア、北アフリカ、最終的には西ヨーロッパに伝わるのである。 つまり、聖ベネディクトゥスの戒律(Rule of Saint Benedict)には、お手本があったと言う事だ。ところで、キリスト教の公認された当時でさえ、キリストの福音に従い真剣に神を探求して親兄弟と別れ、結婚もせず世俗を棄て、自己の信仰のみに生きた人達は文化に逆らう極端な個人主義者として、意外にも変人扱いされ嫌われていたらしい。 しかし、聖ベネディクトゥスの戒律の元に彼らが集団で規則正しい共同生活を始める頃、世俗を棄て神の元に近づこうとする彼らは隠修士から修道士になった。※ 当初はベネディクト会の戒律にのっとって修道生活をする者(ベネディクト会、クリュニー会、シトー会、カルトゥジオ会)に対して用いられるものであり、司教座聖堂参事会員など司祭らは別であったし、後に現れる托鉢修道会士(ドミニコ会、フランシスコ会、聖アウグスチノ修道会、カルメル会)は修道士とは認められていなかったらしい。 だが、聖ベネディクトゥスが戒律を造って整備した修道院での修道士の育成により、修道士の社会的地位は上ったと言える。 なぜなら、戒律には地域への奉仕も職務として入っているので必然的に地域の人々と接触し、時に師となり助けとなる彼らは隠遁者ではなくなったからだ。 実際、彼らの活動で中世の人々はかなり救われたはず。 また、そんな彼らを援助する事で徳が得られると考えられ、王族始め諸侯らはこぞって領地を寄進したから富める所は富めた。 領地が寄進されれば、領地からの収益が確保できる。教会や修道院にも貧富の差が生まれたのである。 ところで、中世においては全ての者が好んで修道士になったわけでもなかった。 前に騎士の所で紹介しているが、家督相続の問題により僧になるしかなかった者もたくさんいたからだ。 南フランスでは財産は子に均等に相続されたが、北フランス、イングランド、ドイツでは長子のみが総取りの「長子相続」と言う制度がとられていた。 だから家督を継げなかった次男坊以下が多くが騎士や聖職の道に進んでいる。 リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント) モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部 修道士 城塞化 聖ミッシェル騎士団(Ordre de Saint-Michel) 難攻不落の修道院 石工mason(メイスン) 屋根 修道院建築(monastic architecture) 交差ヴォールト(Groin vault) 聖堂、食堂、 貴賓室、騎士の間 礼拝堂、地下クリプト 城塞化 前回、ノルマンディー公、リシャール1世(Richard I)(933年~996年)(在位:942年~996年)の肝入リで966年、ベネディクト会派の修道院をモンサンミッシェルに招聘(しょうへい)した事を紹介。 それ故、モンサンミッシェルにはノルマンディー公や他の諸侯から寄進された広大な領地を持っていた。 ※ この修道院は本土側に広大な領地を持ていて、その富強ぶりは世俗の領主と変わらなかったと言う。 修道院は領主所領であり、大修道院長は領主でもあったのだ。 モンサンミッシェルは、どちらかと言えば裕福な修道院であったので、修道院の警備の為に防備が強化され、警護の兵隊(騎士)も置かれていた。 時代は北欧からのゲルマン人の襲来で乱れていた時代で、海賊となったノルマン人は金品目的で村々の修道院を襲っていたから防衛設備が整えられたのは不思議ではない。 しかし、海と絶壁に加え、驚異の干満差を誇るこの小山の修道院は当初から攻めにくかったのは確か。 海上の岩島に位置していると言う地の利を生かして修道院を中心に島全体を城壁で囲んでいる。 もともと海と絶壁に囲まれ、道は干潮時にだけ現れる砂州だけと言う天然の要塞でもあったが、本格的に城塞化したのは13世紀らしい。 13世紀と言う時代は十字軍の時代であり、修道騎士が活躍していた時代である。 ※ 彼らは修道院付きの職業を騎士とする身分。故に正確には彼らは僧では無い。 聖ミッシェル騎士団(Ordre de Saint-Michel) ここモンサンミッシェルでも1469年、ルイ11世(Louis XI)(1423年~1483年)により聖ミッシェル騎士団(Ordre de Saint-Michel)が創設されている。 王政の権威を打ち出す為に創設されたと言われているが、プランタジネット家エドワード3世が創設したガーター騎士団(Knights of the Garter)(1348年)と以前紹介した事があるブルゴーニュ公国で創設された金羊毛騎士団(Toison d'or)(1430年)が意識され対抗して造られた騎士団だと言われている。 ※ ガーター騎士団が百年戦争(1339年~1453年)中に設立されているのに対して、聖ミッシェル騎士団は、百年戦争終結後に設立されている。 因みに1450年にはデンマークのクリスチャン1世によりエレファント勲章勲騎士団( Knights of the Order of the Elephant)の前身が設立されているのでフランスでの騎士団の設立はかなり遅い。 また、現在もガーター騎士団と金羊毛騎士団とエレファント勲章勲騎士団は勲章と共に存在している。 聖ミッシェル騎士団は、騎士の王への忠誠を確認する事が目的でもありフランスで最高の騎士団であったが「王朝騎士団」の要素が強かった為にフランス革命後に一度廃止。王政復古で復活したが再び王政が倒れると1830年に公式に政府により廃止された。 最初の防護壁はベネディクト会修道院を置いた時10世紀末にはすでに存在していたらしいが、本格的に城壁が築かれたのは13世紀末。 14世紀末のピエール・ル・ロワ大修道院長の時に強化され城塞化を始めた。 1417年には当初の城壁の大規模拡張が行われ、王の門(Porte du Roi)が置かれ村の通りは閉ざされた。 王の門(Porte du Roi) 王の騎士が守ったので王の門と呼ばれる。 つり上げ式の架橋で門は閉じられる。 百年戦争の時にイギリスが10年に渡って水陸からこの修道院を攻めたが難攻不落。陥落する事は無かったという。 ※ 百年戦争(Hundred Years' War)(1339年~1453年)は1337年、イギリス国王エドワード3世が、フランス王位の継承権を主張して争いが始まる。英プランタジネット家vs仏ヴァロワ家によるフランス王位争奪の戦いが本筋であったがフランス国内を戦場に、諸侯の領地争いもからみ長い戦いが始まった。 この戦争では女戦士ジャンヌ=ダルク(Jehanne Darc)(1412年頃~1431年)も登場してフランス王シャルル7世の戴冠に貢献。 百年戦争後にモンサンミッシェルはさらにパワーアップ。 砲撃できるよう砲撃の際の死角を無くした稜堡(りょうほ)が組み込まれた建築は、伝統的な要塞建築の原型となる。 稜堡(りょうほ) 稜堡(りょうほ)は大砲による攻撃の死角をなくすために考案されたもの。 位置的に本土と繋ぐ砂州が現れる位置にある。 下は入口のコーナーにおかれていた物。 石の玉? どうやって飛ばすのでしょうね? モン・サン・ミッシェルの裾のを取り囲む城壁には、中世期の要塞建築の全てが集約されていると言う。 難攻不落の修道院 何しろ先の百年戦争(Hundred Years' War)(1339年~1453年)の時は、この辺り一帯をイギリス軍が占領していた。イギリス海峡(English Channel)をはさみ目と鼻の先の対岸がイギリスだ。 その中で10年に渡りモンサンミッシェルは包囲されたが修道院長であり、ノルマンデイーの知事でもあったルイ・デストゥートヴィル(Louis d’Estouteville)(1400年頃~1464年)が断固として抗戦し死守した。 食糧は船で運べたので籠城(ろうじょう)が可能だった? イギリス側も船で海から攻めたが、大天使ミカエルの加護(かご) ? 「嵐が起きて多数の船が岩礁にたたきつけられ沈没した」と伝えられている。 でも、岩礁はまわりに無い。干満の早さで船を持って行かれ沈没したか? 船の精度も良くはなかったのだろうが、いずれにせよ、特殊な引き潮や満ち潮について(干満時間など)知識が無ければ近づいたとしても上陸前に溺れたのかもしれない。 また、16世紀の宗教戦争の時もモンサンミッシェルはびくともしなかったと言う。 だから「難攻不落」と言う称号はフランスにおいて象徴的な意義を持っていた。 上が城壁の内側 下が外側からの城壁 銃眼(じゅうがん)が無数に備えられている。縦に長いのはボウガン用かも。 船を持っていたとの記述は見ないが、ノルマン公国によるイングランド征服戦争の時は軍船6艘(そう)を兵隊付きで修道院が提供している。諸侯以上に裕福だったのかも。 モンサンミッシェルの教会自体はこの小さな山の島に集約されているが、寄進された広大な領地は本土に持っていた。 その領地では農民から年貢を取り立てていたのであるが、その取り立てはキツく世俗の領主以上に苛酷(かこく)であったと、非常に評判が悪かったそうだ。 そもそも領地を持つ大聖堂や修道院はフランス革命の時に民衆の襲撃の対象になっていた。どこも酷かったのだろう。革命のどさくさに襲われ、フランスの修道院はほぼ解体された。 だからフランス革命の時、ここモンサンミッシェルも農民が大挙して押し寄せ、事もあろうに、難攻不落を誇った要塞はあっさりと陥落したのである。 そしてモンサンミッシェルの修道院はすぐに解体。革命政府の元で監獄として利用された。 まず先に牢屋に入れられたのが、ここにいた修道士ら約300人だったと言うのだから、聖職者としては情けない最後である。 2014年以前の陸橋の頃のモンサンミッシェル ゴールデンブックシリーズの案内本から(地図は上層階から載せています。) ※ 着色加工しています。 上の写真と聖堂の向きが一致しています。 紫・・僧坊 ベージュ・・テラス ピンク・・礼拝堂 ブルー・・貯水槽 上階テラスからの聖堂入り口 聖堂前の西側オープンテラスから 1144年にノルマンディー・ロマネスク様式のラテン十字をした聖堂が建立。 その後2世紀、ベネディクト会派の宗規により権勢を得、ロマネスクの聖堂は絶頂期を迎えた。 その後13世紀に火災があったとされる。それが原因なのか? あるいはクリプト(いわゆる地下室)の強度に問題があったのか? 亀裂が生じたらしい。 15世紀に前部(身廊一部)、と内陣を取り壊し1446年~1521年にフランボワイヤン・ゴシック様式で内陣を造営し再建している。 それ故、既存のノルマンディー・ロマネスク様式と混在している。 主要部だけ聖堂の名称を入れました。参考にしてね。 聖堂内部 側廊 このあたりはロマスク様式。 身廊 内陣クワイヤ、アプス以降はゴシック様式 アプス 石工mason(メイスン) 下は前回紹介したラ・メルヴェイユ(La Merveille)の屋上にある回廊の柱の彫刻。 これこそが石工mason(メイスン)の技術です。 石工達は聖堂が完成すれば、次の聖堂建設の為に土地を移動。 唯一土地に縛りの無いギルドでした。 彼らは土地に関してfree lance(フリーランス)の職業集団だったのです。 中世は、ドラクエみたいに一般人が生まれた土地を出て冒険するなんて事は簡単にできなかったのです。 国を出るには、王なり、街の上層部の許可が必要であった。それなりの理由が必要。 唯一出られたのが巡礼であったり、十字軍などの公式の遠征だったのではないでしょうか? ここ、モンサンミッシェルも聖ミカエルの巡礼コースに入っています。 ラ・メルヴェイユ(La Merveille)の屋上にある食堂 屋根 中世、早い時期の聖堂の屋根はたいてい木造であったそうです。 本来、石の屋根の方が、火災の心配もないので理想。しかし石は高価だし、重いし、工事期間もかかる上に、重さで壁が外側に湾曲するからバットレス(控え壁)の必要も生じる。 さらに材料費と専門職人の費用が発生するので経費が非常にかかったらしい。 (大修道院教会の聖堂の内陣の壁はバットレス(控え壁)で支えられている。身廊の天井は木造。) 中世、落雷による火災も多かったので、屋根に火が付けば大きな惨事となる。 素早く屋根に上って消火活動ができるような隠し階段が壁の間に造られる事もあったと言う。 木枠で組んだ屋根の骨に雨漏りしないように、鉛をシート状に薄くしたものを溶接して雨水がしみこまないようにしたなど工夫が。しかし、この屋根も高価なので、瓦や天然スレートが代用されたようです。 (鉛は案外重いので、屋根の傾斜角度によってはくるくる巻いて落ちて来る事もあったとか。) 修道院建築(monastic architecture) 通常の教会であれば、聖堂と教父らの執務室や寝所くらいのところ、修道会では共同生活を営む修道士の為に大人数分の寝所、集会室、大食堂、大厨房など必要となる。規模が大きくなれば客室も多数用意されていた事だろう。時に身分の高い客人も来るのだから・・。 また、勉強の為の大きな図書室、また写本の為の作業場など複数の施設が必要であったはずだ。 そしてそれらは回廊で繋がれた構造になっている。 修道院建築(monastic architecture)と言う修道会独特の建築スタイルがあるが、回廊は修道院の代名詞とも言える存在だ。 スクエア型の中庭を回りが寝殿造りの回廊が繋ぐ、それら外側はたいてい建物で部屋が付随している。 そこは完全なる修道僧だけが立ち入れる俗界とは隔てられた領域。つまり回廊自体が建築的な障壁として存在しているそうだ。 そう言えば、最後の晩餐が描かれているミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie)も複数のスクエア型した中庭で構成されていた。 教会に付随する中庭の回廊は自由に見てまわれたが、最後の晩餐が描かれている食堂は僧院の中庭なのでガラスで仕切られ庭には出られないようになっていた。そこは俗人が立ち入れない領域だからなのか? 入れたのは唯一、絵が描かれた元食堂の一室のみ。 リンク ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1) リンク ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部) でも、モンサンミッシェルは土地が無いから縦に積み重ねられた。食堂こそ回廊の脇にあるが、僧坊などは違う階層にある。ここは全てが例外的です。 次は騎士の間と客間である。 メルヴェイユ東棟、地階、修道士の食堂の下の階にある貴賓室(きひんしつ) 天井はゴシックの交差ヴォールト 食堂の階下にある客間は高貴な来客者用なので煖炉などの設備が整っている。 この部屋は「修道院の友」と呼ばれる。いわゆる巨額な寄進をした王族や諸侯などの寄進者を迎え入れる為の部屋だったそうです。 つまり聖王ルイしかり、歴代のフランスの王が滞在した部屋でもあると言う事です。 ※ ルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年) 下の写真は2つの煖炉。上の写真にも煖炉の跡が見えます。 部屋を暖める目的以外に、暖炉で客人が自由に調理できる設備として造られた物らしい。 非常にめずらしいもので、この修道院に暖炉があるのは他には次に紹介する騎士の間くらい。 一般の修道僧達は寒い中生活していた。 ノルマンデイーだし、石組みの堂だから夏は良いけど冬は恐ろしく冷えたであろう。 だから彼らの寿命も短かったと聞く。 交差ヴォールト(Groin vault) ヴォールトはアーチ状の石造り天井。 建築技術が進んで来ると、バレル・ヴォールト(半円筒形のアーチ状の石造り天井)が用いられるようになる。これは、かまぼこ型のトンネルのようなもので、アーチが延長されたロマネスクの様式。 このトンネル型のヴォールトに直角に交わってくると、継ぎ目が交差。それが交差ヴォールト。下図の1 しかし、ロマネスク式の円頭アーチには問題点があった。 柱の間隔で天井の高さが決まる。だから柱を等間隔にすれば高さは揃うが中世の聖堂建築は継ぎ足しの増築となるのでそうは行かない。 特にこのモン・サン・ミッシェルは立地が限られているので柱の等間隔は保てない。加えて広く高い建築空間を造るのには限界があった。 そこで考案されたのがゴシック式の尖塔アーチと言う技法。尖塔アーチでは柱の位置に関係なく、高さをいかようにも調整できた。 1.ロマネスクの交差ヴォールト 2.ゴシックの交差ヴォールト ゴシックの交差ヴォールトの天井の作り方(上図) 木枠を組み、そこに石を骨組みから積み上げて行く。 骨以外の場所は軽いレンガや漆喰で埋められ完成したら、木枠は外される。 モン・サン・ミッシェルはロマネスクの様式とゴシック様式が入り交じっている。天井に注意して見れば何んとなく解ります。 ここは、13世紀以降修道士が写本と細密画の制作に従事した部屋でもあった。 ギリシャ、ローマの古典、哲学や芸術、薬学や神学書の保存と研究も彼ら修道会の仕事だった。 後年大学付属の写本工房が増えてくると、修道院では主に外部工房への写本貸し付けや、逆に写本購入したりする管理の立場として事務作業の方が増えたと言う。 が、1469年フランス王ルイ11世が聖ミッシェル騎士団を創設してから騎士の大広間と呼ばれるようになった。 この部屋にも大きな暖炉が2つ据えられている。修道士が唯一暖をとれた部屋であったろうが、騎士が常駐して騎士の間になってからはどうだったのだろう? 聖堂の南の翼廊地下・・聖マルティネス礼拝堂 この礼拝堂は、非常に分厚い壁でできています。(くぼんだ窓)その意味が私も今わかりました。壁で上部階の翼廊を支えていたからのようです。 太い柱の地下礼拝堂 「縁の下の力持ち」と言う言葉がありますが、本当に縁の下の力持ちがこの太柱の礼拝堂です。 ここは、本丸の教会聖堂内陣を地下でささえる土台として、15世紀半ばに建設。 ※ 身廊の部分には元の岩盤があるので必要無いが、内陣部分にあたる所は基板が無く低くなっている。 大人が3人で手をつないだくらいの太さと言うので、直径1.5~1.6mくらい? 聖堂内陣の重量をここで支えているので、無数に、場所によっては密集して柱が立ち並ぶ。 聖ステパノ礼拝堂(11世紀頃造られ、13世紀には改修) 医務室と修道士の納骨堂の脇にもうけられたこの礼拝堂は、かつて修道僧の遺体安置所だったらしい。 写真中央の十字架の台座には「A.Ω」刻まれ、生まれてから死ぬまでを示しているそうだ。 そしてその壁の向こう、物資輸送用の大滑車部屋です。 かつては納骨堂だった所に大きな滑車が据え付けられた。 納骨堂はフランス革命の時に山のようにあった亡骸を窓から放り出して捨てられてから牢獄となっている。 その後、反革命派の修道士達がそこに閉じ込められ、革命後は政治犯等も収容され、牢獄としてしばらく使われていた。(1793年~1863年まで) 滑車は囚人の為の食事を運ぶ荷物昇降機として19世紀に牢獄になってから設置されたもの。 直径6mの滑車は、中に人が入って人夫の重量で回して動力にしていたとか 6人で2トンの重さを運びあげられたそうです。この人動力(ひとどうりょく)方式は古代ローマ時代からあり、建築現場で使用されていたらしい。すごく危険そうですが・・。 下は外から見た位置と昇降の石のレール荷台? 小さな礼拝堂の窓のステンドグラス。ホタテ貝が目にとまった。 ホタテは聖ヤコブのアトリビュートである。 つまりこれはサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼を示唆するマークなのだろうか? 実際、1998年に、「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」は途上の主要な建築物と共に世界文化遺産に登録された。 うちフランスではパリ、ヴェズレー、ル・ピュイ、アルルの4つの都市を起点としたルートである。 パリとボルドーを結ぶ巡礼路の枝にモンサンミッシェルも入っているようだが、これがサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼に入っていると言う証明を見つける事ができなかった。 むしろ、本来モンサンミッシェルは聖ミッシェルの巡礼路の起点の一つである。 イタリアのモンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)を今はめざさないのだろうか? そもそも公式にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼に含まれる場所にはホタテの標識があるはず。モンサンミッシェルでは見ていない。 解ったら書き加えますね。 因みにサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼は過去に扱っています。1~14まであります。 リンク先は一部のみ リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1 (巡礼) リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地) リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼) さて、これでモンサンミッシェルの書き換えは終了です。古いのは削除しました。 今回のback number リンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞 リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエル リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人 リンク モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユ モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部 次回こそ? 「アジアと欧州を結ぶ交易路12」の予定。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021年05月30日 17時46分16秒
コメント(0) | コメントを書く
[建造物・教会・墓地・墓石・遺物] カテゴリの最新記事
|