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2014年07月28日
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食堂の「最後の晩餐」の絵ばかり騒がれて、肝心の教会が忘れられている感がある。(v_v`)

ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部)

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会((Chiesa di Santa Maria delle Grazie) 内陣
ダ・ヴィンチの初期のパトロン、「イル・モーロ」

前回紹介した通り、ミラノにおけるルネッサンス様式の代表と言える教会の内部は、ゴシックの教会とは少し雰囲気が違った。
pict-サンタマリア 13.jpg
その一つはたぶん身廊の天井が低い事かもしれない。
そんなに広い教会ではないが、天井が低いと幾分見晴らしが悪くなる。

至聖所がのクロッシングの真下に来ていて、柵でかこまれている。pict-サンタマリア 14.jpg
シンプルすぎ? とりたてて何かあるわけではない教会だ。
なぜなら装飾のほとんどはフレスコ画であったようで、今はほとんど跡形もなく消えているせいもある。

爆撃による破損だけではなく、教会ができた15世紀以降、もと絵が普通に消されて塗り替えられていた経緯もある。(近年の修復は元に戻す事)
かの食堂のダ・ヴンチの「最後の晩餐」にしても、壁をぶち破って戸口を付ける為にキリストの足の部分を破壊してドアを取り付けているのだから、他のフレスコ画にしてもそんなに大事にされてこなかったようだ

至聖所の後方、後陣が、ブラマンテがつけ足した後陣である。
pict-サンタマリア 15.jpg
付け足した部分があるので、なんとなくラテン十字に近づいているが、クーポラの延長であって、特に翼廊と言うほどの袖もない。
だからなんとなく至聖所まわりも拍子抜けするほどシンプル。

写真上の部分が至聖所の真上(クロッシング部分)ソラーリの設計で完成した最初のクーポラ
pict-サンタマリア 19.jpg
写真下が身廊で、左右が所謂翼廊になる部分。
ロマネスク様式なので、クーポラ自体が、袖のアーチによって支えられている構造であるからだ。
それにしても従来は聖人像など描かれる天井画がデザイン性のある幾何学的なシンプルな文様になっているので非常にスッキリしていて明るい。
そもそもルネッサンスて何か? と思うが、このモダン・・こそがルネッサンス的なデザインなのかもしれない。
従来を考えればこれはかなりの革新である。

ブラマンテの付け足した後陣は現在はクワイヤ(聖歌隊席)として利用されている。
pict-サンタマリア 27.jpg
当初は前回紹介したようにスフォルツァ家の霊廟として加えられたものらしいが、そうはならなかった
もし、ルドヴィコ・マリア・スフォルツァ(通称イル・モーロ) がもう少し長生きしていたら彼と妻の豪華な柩が置かれていたであろう。

ダ・ヴィンチの初期のパトロン、「イル・モーロ」
ルドヴィコ・マリア・スフォルツァ(通称イル・モーロ) (1452年~1508年)
ダ・ヴィンチの初期のパトロンとして知られる「イル・モーロ」は当時のミラノを統治していたスフォルツァ家の当主であるが、本来は相続権は無かった。
地黒でムーア人に見えた事から「イル・モーロ」と呼ばれたらしい。

美しいミラノをのぞんだイル・モーロは宮廷芸術家を集めていた。
1482年、30歳でミラノに辿りついたダ・ヴィンチはイル・モーロの目にとまり、彼のかかえていた芸術家の一団に入り、庇護を受ける事になる

1回目はミラノに17年滞在し、その時(1492年)僧院の食堂に「最後の晩餐」を描いたようだ

ところで、後陣の霊廟の話に戻るが、
イル・モーロは23歳の若さで亡くなった妻ベアトリーチェの為にソラーリに横たわる二人の石像も製作させている。(しかしそれはあと少しで完成を見なかったどころか、現在他の教会に渡っている。)

政変により、度重なる戦争に巻き込まれたにイル・モーロはフランス軍に捕らえられ長い幽閉生活を送る。
身代金と引き替えにこのグラッツィェ教会に戻る途中彼は暗殺され、彼自身この教会に戻れる事はなかった。
その為に、墓碑ができるまで一時的にベアトリーチェはこの後陣のどこかに埋葬されていたが、イル・モーロも帰らぬ人になり、ベアトリーチェの柩はそのままどこに埋葬されたかもわからなくなったと言う。

後陣上部にもブラマンテの新たなクーポラが付いている。
pict-サンタマリア 20.jpg

至聖所から身廊をみた所
pict-サンタマリア 16.jpg
1対2の古典的釣り合いをもった3身廊からなっている。

ソラーリの設計したこの教会は、ソラーリ自身の作品としては、最高傑作だったようだが、造りとしては1300年代のロマネスク風。バシリカはゴシックの構造で、柱はコリント風。そもそものソラーリのデザインが、いろいろ合わさったチャンポンであったようだ。
イル・モーロはこれに古くささを感じていたようだ。
だから完成2年後に今度はブラマンテに一新を頼んだらしい。

pict-サンタマリア 17.jpg
身廊の柱は花崗岩らしい。

写真奧側廊脇)が個別の礼拝所。
pict-サンタマリア 18.jpg
確かに至聖所から後陣は垢抜けているけど・・。こちらは古くさいかも・・。

身廊をささえるリブ
pict-サンタマリア 24.jpg
リブの張り出しは、当時流行していた装飾としてで構造上つけたものではないらしい。それにしてもリブにまで細かい絵柄がつけられていて絵柄は全て異なっていた。

さらに気になったのは文様である。
pict-サンタマリア 25.jpg
真ん中の文様はスフォルツァ家の紋章だった。
ロゴの写真はウィキペディアから借りてきました
ヘビが人を飲み込んでいるところが非常に変わっているかもしれない。
pict-サンタマリア 26 .jpg
こちらのリブはウロコ模様である。

IHS紋章
この印はギリシャ語でΙησούς(イエス)の最初の3文字。
ラテン語の「In hoc signo(この印にによりて)」の頭文字。などイエスを象徴する文字であるが、この印が太陽の中に入るとシェナの聖ベルナルディーノの紋章になると言う
なぜ、フランシスコ会の司祭が出てくるのか不明。

聖母聖堂入り口の中央身廊にあるルネッタ「ロザリオの聖母」
pict-サンタマリア 21.jpg

聖母礼拝堂・・・至聖所手前左
pict-サンタマリア 22.jpg
この教会の最初のパトロンであったガスパル・ヴィメルカーティ伯爵が、ヴィメルカーティ家の為に建てた礼拝堂だそうだ。
僅かに残る漆喰は1632年のものとか・・。
pict-サンタマリア 23.jpg
聖母がマントの下に支えるのはヴィメルカーティ家の人々。

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会、おわり。ミラノ続は以下
リンク ​ミラノ(Milano) 3  (ミラノ大聖堂 1)

次回「最後の晩餐」見学の予約のしかたについて少々・・。
リンク ​「最後の晩餐」見学の為の予約 2-1 (会員登録と仮予約)
リンク ​最後の晩餐」見学の為の予約 2-2 (仮予約と支払い)
リンク ​修復の概念を変えた「最後の晩餐」の修復






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Last updated  2020年10月22日 06時32分07秒
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