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2015.08.19
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カテゴリ:現代史

 去る8月15日は、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏をした日で、日本への空襲もやみ、南方と中国戦線でも戦闘は完全に停止した日だった。

 

◎70年前の昨日、占守島への一方的奇襲攻撃
 しかし日本がポツダム戦争受諾後も、最北端で民間人を含む非道な攻撃、自衛のための戦闘が行われていたことはあまり知られていない。
 例えば千島列島最北端の占守島(写真)では、70年前の昨日、停戦していた日本軍守備隊に、上陸してきたソ連赤軍が一方的に奇襲攻撃を仕掛けてきて、日本軍守備隊は攻撃に応戦し、21日まで激戦が行われた。

占守島

 占守島での戦闘は、日本軍守備隊の優勢な展開で進み、攻撃して来たソ連赤軍は甚大な損害を被った(日本軍の被害が死傷者約600人に対し、攻撃して来たソ連赤軍の死傷は約3000人に達した)。

 

◎勇敢に戦った日本軍守備隊はシベリア抑留へ
 補給は続かなかったから、いずれは赤軍に制圧されたとしても、短期的には赤軍を撃退できたが、ポツダム宣言受諾後とあって軍命で日本軍守備隊は21日に赤軍に降伏し、武装解除を受けた。
 その後の日本軍守備隊は悲惨を極めた。ほぼ全員がシベリアに拉致され、強制労働に就かされるのである(シベリア抑留)。

 

◎南樺太にも攻撃、民間人にも無差別攻撃で多数の死者
 一方で、南樺太でも非道な攻撃は行われた。
 8月9日に日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州への攻撃を開始したソ連赤軍は、同11日に南樺太への占領作戦を開始した。
 ここでも赤軍は、応戦する日本軍歩兵1個師団に苦戦している。
 15日のポツダム宣言受諾後も、南樺太での赤軍の攻撃はやまず、自衛戦闘の日本軍との戦闘が続いた。南樺太での停戦は8月19日以降に徐々に進んだものの、避難する南樺太在住の民間人への無差別攻撃は続いた。3000人以上の民間人が死亡したという。

 

◎真岡郵便電信局事件と避難船3隻撃沈
 攻撃してくる赤軍に凌辱されることを潔しとしなかった西海岸の真岡郵便電信局では、8月20日に郵便局の女性職員12人が集団自決した(真岡郵便電信局事件、9人死亡)。彼女たちへの鎮魂の碑は、今、樺太を眺められる稚内に立つ(「乙女の碑」=写真)。

乙女の碑

 ほかに赤軍の塔路上陸時には、大平炭鉱病院の看護婦23人の集団自決(6人死亡)も発生している。
 ソ連赤軍の暴虐は、さらに続く。8月22日、南樺太から避難するすし詰めとなった民間人満載の避難船「小笠原丸」、「泰東丸」、「第二号新興丸」の3隻を北海道沿岸で、民間船と知ったうえで赤軍潜水艦が攻撃し、撃沈している。1708人が遭難死する3船殉難事件である。

 

◎ポツダム宣言受諾後の占守島と南樺太で赤軍の攻撃の理由は
 前述の占守島でも父の代から移民し定住していた別所二郎蔵氏一家(写真)ら数家族の民間人、さらに夏期のみにやってきて缶詰工場で働いていた女性工員ら数百人の民間人がいたが、在島者の少なかったことも幸いして、守備隊の応戦中にぶじに北海道に脱出でき、「南樺太の悲劇」は避けられた。

別所一家

 終戦後の占守島へのソ連赤軍の奇襲攻撃や南樺太での終戦後の執拗な攻撃を思うと、スターリン・ソ連への激しい憎しみを抑えきれないが、スターリンが降伏した日本に対し、占守島と南樺太で赤軍に武力攻撃を命じた理由は何だったのだろうか。

 

◎北海道占領のスターリンの野望は日本軍の予想外の抵抗で頓挫
 1つには日露戦争に対する復讐、そしてもう1つは対日占領に出てくるアメリカを見据えた示威行動だった。
 スターリンの腹は、ヤルタ会談の合意にもなかった北海道占領であった。千島と南樺太を武力で制圧し、余勢をかって北海道に上陸し、武力制圧して傀儡政権を樹立することであったろう。しかし占守島の予想外の苦戦と南樺太での日本軍の抵抗で、北海道占領の困難が予想され、占領を断念、一部の歯舞諸島、色丹島の奪取で思い留まった。
 日本が韓半島のように南北に分断されておらず、また僕も一時住んだ北海道がスターリン支配下になかったのは、占守島と南樺太の日本軍守備隊と民間人の尊い犠牲のおかげなのである。

 一方的な日本の戦争責任を糾弾するマスメディアは、このことを全く報じないのは、明らかに均衡を欠くだろう。

 

◎スターリンを除けなかったレーニンの無念
 なおスターリン自身は、ロシア人ではなく、ジョージア人(グルジア人)だったが、ロシアで革命家として活動するうちにロシア人以上にロシア的ショービニズムにかぶれた。自分が書記長に就くと、かつての同僚のジョージア人ボリシェヴィキを次々に粛清していったほどだ。
 あまりに粗暴で、大ロシアショービニズムを露わにしたスターリンに対して、晩年のレーニンはスターリンを書記長の職から罷免するよう、党中央に要求したほどである(「レーニン最後の闘争」と呼ばれる)。それがかなわなかったのは、レーニンが3度目の発作を起こし、寝たきりの失語症になって党活動から退いたからである。

 

昨年の今日の日記:「ポーランド紀行:クラクフ旧ユダヤ人街のカジミエシュ地区とヘレナ・ルビンスタイン」






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Last updated  2015.08.19 06:40:14



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