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2016.12.03
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カテゴリ:現代史

 キューバのかつての独裁者が死去した。フィデル・カストロである。90歳の死の一報は、先月26日夜の緊急日記に述べた。
 本日は、もう少し深堀りし、フィデルの影とともに光にも評価しておこう。でなければ不公正の誹りを免れまいから。

 

◎ブルジョワ階層の生まれながら革命運動に身を投じる
 フィデルは裕福の大農場主の家に生まれ、名門ハバナ大を卒業し、弁護士となっている。絵に描いたようなブルジョワ人生の青年である。しかし彼が非凡だったのは、ここで冷徹に国内の悲惨な農民生活を直視したことだ。弁護士として極貧の民衆の側に付いた。
 青年の彼の目に映ったのは、病気になっても医療も受けられず日々の食べ物にも事欠く民衆の悲惨な暮らしだった。それなのに政権に群れ集う一部の富裕層は、夜ごと、豪奢なパーティーにうつつをぬかしていた。それは、彼が育った階層でもあった。
 ここに、彼の革命家としての起点があった。彼が異色なのは、そうした一握りの青年が身を投じた共産党(キューバの場合は人民社会党)ではなく、独自の革命運動を始めたことだ。

 

◎亡命先のメキシコでゲバラと出会う
 26歳の1953年7月26日、フィデルは自らが組織した少数の青年武装部隊を率い、サンティアーゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃し、バティスタ独裁政権武力打倒に立ち上がった(この日は、キューバ革命の記念日となっている)。
 しかしわずか100数十人の青年たちのモンカダ兵営襲撃は、簡単にバティスタ政権軍に制圧され、カストロらは捕らえられ、法廷に引き立てられる。ここで自らを弁護し、今に語り継がれる有名な言葉を放つ。「歴史は私に無罪を宣するだろう」と。
 流刑されるが、数年で恩赦で釈放され、フィデルは革命の新たな同志を求めてメキシコに亡命、そこで放浪のアルゼンチン人医師のエルネスト・チェ・ゲバラと出会う。
 ゲバラも同志に加え、革命組織「7月26日運動」を組織したカストロは、ぼろクルーザー「グランマ号」に乗って1956年12月2日にキューバ上陸、シエラ・マエストラにこもってゲリラ戦を展開する(写真:シエラ・マエストラ山中のフィデル=右から2人目の立っている人物、エルネスト・チェ・ゲバラ氏=左から2人目、そして弟で現国家評議会議長のラウル・カストロ氏=手前、1957年撮影)。

 

シエラ・マエストラのフィデルら

 

 

◎共産党の批判と妨害を受けながら山岳を根拠にゲリラ闘争
 この「7月26日運動」は、間違いなく非スターリン主義的組織であった。幹部に、モンカダ兵営襲撃以来の同志で、革命後ほどなく謎の死を遂げるアナーキストのカミーロ・シェンフェゴス(写真)もいたし、共産党員ではなかったチェ・ゲバラも名を連ねていた。

カミーロ・シエンフェゴス


 このため都市の労働者層に基盤を置く独善的なソ連派共産党の人民社会党から、一揆主義の批判を浴び、ゲリラ闘争でも様々な妨害を受けている。
 しかしフィデルやゲバラの無私の運動は、農民の間に次第に共感を広げた。例えば医師のゲバラは戦闘の傍ら農民たちに無料の診療を行い、弁護士のフィデルは法律相談などにのった。
 一方、正規軍の政府軍の士気は低く、戦えば武器を捨てて逃亡した。
 たかだか数千人だった7月26日運動のゲリラは、連戦連勝で支配地を広げ、そこで土地改革を実施し、さらに農民の支持を広げた。

 

◎独裁者バティスタは新年のパーティーで逃亡、ハバナに無血入城
 1958年の暮れ、ついに最終決戦の場面を迎えた。
 ゲバラとカミーロ・シエンフェゴスの率いる部隊は、それぞれの前線でバティスタ政府軍を破り、首都ハバナに迫った。
 政府軍の敗北を知ったバティスタは、1958年の12月31日夜、新年祝賀パーティーの席上で突如として辞任を表明し、ドミニカに逃亡した。
 翌新年、ゲバラとカミーロの革命軍はハバナに無血入城し(下の上の写真=左から3人目がゲバラ、右端がカミーロ)、革命を成功させたのだ。やや遅れてフィデルもハバナに入城する(下の下の写真=中央で歓呼に応えるのがフィデル、左端がカミーロ)。

チェ・ゲバラとカミーロ・シエンフェゴス

カストロのハバナ入城


 権力を握ったフィデルは、急激な土地改革を行い、また大資本企業を国有化した。この過程で、富裕層を中心に多くがアメリカに亡命した。アメリカも、自国資本企業の国有化で反カストロ政権として対峙し、それが核戦争一歩手前の1962年のキューバ危機へとつながる。

 

◎対米関係は極度に悪化、核戦争の瀬戸際に追い込んだ男
 それにより、フィデル・カストロの名は世界的に悪名として知れ渡った。危険な火遊びで世界を危機に瀕させた男、として。
 フィデルの功績は、大資本の国有化までで終わる。
 それ以降、アメリカの経済制裁やピッグス湾への反カストロ・亡命キューバ人の軍が侵攻などを受け、国内の急激な社会主義化、専制支配を強めていくのだ。
 ただ国際的には孤立したが、国内的には支持は圧倒的だった。それは、彼が類い希な情熱家、雄弁家であったからでもある。
 革命記念日などでの恒例の演説では、炎天下でも2、3時間に及ぶ演説は普通だった。革命直後の1960年の国連総会では、実に4時間29分もの超長時間演説を休憩もなくこなした。
 これにより、常に国民の心を奮い立たせたと言える。今は貧しくとも、明日は必ず、と。

 

◎ゲバラと袂を分かったカストロのキューバはスターリニスト国家へ
 キューバ危機をへた後、経済制裁下のカストロのキューバはソ連への依存を強める。特に食糧不足のソ連の要求に添って、サトウキビの増産に傾注した。この当時、砂糖生産1000万トンを目指した。
 しかしもともとソ連のスターリン主義者体制に懐疑的だった盟友チェ・ゲバラは、サトウキビの単一作経済に批判的で、キューバの工業化を主張、特に世界の革命勢力との連帯も志向した。
 この過程で、フィデルとチェ・ゲバラとの間に亀裂が生じ、ゲバラは自らが身を引く形でキューバを去り、コンゴ、そしてボリビアに渡るのである。党と政府の最高幹部の1人としての安逸な生活と地位を捨てて。
 そしてキューバ革命8年後に、チェ・ゲバラはボリビアの山中で政府軍に追い詰められた末、処刑という非業の死を遂げる。

 一方で、彼の死と対比される形で先進国の革命的な左翼陣営からフィデルとキューバへの幻滅感が決定的になったのである。
(この項、続く)

 

昨年の今日の日記:「中国が今夏リニューアルオープンした抗日戦争記念館に日本軍兵士の寄せ書き日章旗を踏みにじる一画を備えた暴挙とアメリカの日章旗返還運動」






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Last updated  2016.12.03 04:53:45



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