一般で人によく見受けられる考古学的誤解・偏見に、原始人は幼稚、というものがある。しかし今から1.5万~3.5万年前の躍動感溢れる旧石器洞窟の壁面に描かれた具象画や同じく3.5万年前の具象彫刻の写真を示すと、胡散臭そうな顔をする。
19日まで、上野の国立科学博物館で開かれている特別展「ラスコー展」を観れば、そんな偏見は一掃されるのだが(2月3日付日記:「世界遺産、ラスコー展に行く;狩猟採集民の自然観察力に感動」を参照)。
◎旧石器壁画で初めて学会に報告されたのはアルタミラ洞窟
こんな大昔に、原始人がこうした絵を描け、彫刻を創ることなど、想像できないのだ。人間の発達段階と同じように、絵画や彫刻も最初は幼児の創作するような稚拙な段階から、成長するにつれてより具象的、精妙になっていくと「思い込んで」いるのだ。
その「思い込み」は、19世紀の学術界でも同じだった。
旧石器洞窟壁画が初めて学会に報告されたのは、スペイン、カンタブリア州のアルタミラ洞窟である。
1879年、パリの万国博覧会を見物に行き、そこに出展されていた旧石器や先史時代の彫刻品に啓発されたこの地の領主、法律家で、アマチュアの考古学者でもあるマルセリーノ・ソウトゥオーラ侯爵(写真)が、12歳の娘マリアと以前に偶然に発見していたアルタミラ洞窟に入り、支洞に入ったマリアによって発見された。
◎学会への発表は全く支持されず
ソウトゥオーラ侯爵は、洞窟の壁面に描かれたバイソンなど絵が今はヨーロッパで絶滅しているので、旧石器時代のものであると考え、翌年の1880年に発見の支持者である高名な考古学者により学会に発表された。
しかし当時は旧石器時代の絵が知られておらず、また描かれた壁画があまりにも素晴らしすぎたので、学界からは侯爵が誰か無名の画家を雇って描かせた捏造だと疑われ、誰1人、発見を支持する者はなかった。ソウトゥオーラ侯爵のアルタミラの発見は、侯爵の存命中についに認められることはなかった。
冒頭の固定観念が考古学者たちの目も暗ませたのである。
◎アルタミラ以前の発見も再評価
侯爵の死後、フランス各地の洞窟で洞窟壁画が相次いで発見され、アルタミラ洞窟同様、絶滅動物が描かれていたことから、ようやくアルタミラ洞窟の壁画も旧石器時代のものと承認された。
それが承認されると、すでにアルタミラの発見以前の1866年にフランス、ニオー洞窟で壁画が記録されていたこと、同じフランスのシャボー洞窟で1878年に線刻画が発見されていることが再評価された。
この2例が、アルタミラ洞窟の発見の以前に広く認められていれば、ソウトゥオーラ侯爵の発見も正当に評価されたのだが、草創期の発見とはだいたいそんな運命をたどるのである。
◎旧石器人だから躍動する動物を描けた
さて冒頭に述べたように、原始人がこのような精妙な躍動的動物画を描けたはずはない、というのは、今となれば、原始人、つまり旧石器人だからこそ、このような動物画像を描けた、と言い変えることができる。
狩猟採集民であった旧石器人には、石器と木器、骨角器以外、何の道具もなかった。記録する紙すらなかった。だから彼らにとって、生活の糧である草食動物と自らの命を狙う危険な肉食動物の生態を知ることは死活的に重要だった(写真=ショーヴェ洞窟の3万年以上前に描かれたライオン、そしてサイ、ウマなど)。
◎ものすごく良い視力で正確に記憶
したがって動物たちの生態と動き、姿を観察し、記憶することは、ハンターなら誰でもできたはずである。20世紀まで残っていた狩猟採集民の民族誌記録によると、彼らはみな視力がものすごく良かったことが分かっている。旧石器人も、同じであろう。
視力が悪ければ、獲物も探せないから、そうした個体は淘汰されたからだ。
だから文明社会となり、様々な利器が発明され、洗練化されるにつれ、旧石器人の観察能力は特別な才能を持った画家以外、現代人から失われたのだ。
◎万に近い動物像に比べ、人間の姿が描かれることは稀
我々は、望遠レンズを付けたデジタルカメラでサファリの動物を記録できるし、高倍率双眼鏡で、遠くの動物でも探せる。
それらがなかったとしても、紙とペンでさらさらとスケッチできる。
旧石器人が凝視し、記憶した動物像を正確に描く能力が失われたのも、周囲から消え去り、動物園に行かないと観られなくなったこともあり、当然なのかもしれない。
反対に、旧石器人は、ヴィーナス像という女性像の彫刻を残したが、洞窟壁画に人間を描くことはなかった。
各地の洞窟壁画で動物画像がどれくらいあるかわからない。ひょっとするとのべでは、万単位に及ぶ図像があると思われるが、僕の知る限り、人間の描かれた図像は2、3例しかない。
◎描かれても動物とのハイブリッドのみ
それも動物とハイブリッドになった画像だ。単独の旧石器人の具象的肖像画は、1例も見つかっていない。
例えば先日、訪れたラスコー展のラスコー洞窟の画像もそうである。
猛然と突進するバイソンの前に横たわる人間は、頭が鳥である。横たわる鳥人間の脚の隣には、投げ槍のような物も描かれている(写真)。「井戸状の空間」と呼ばれる竪穴の壁面に描かれている。ここには、3日付日記で紹介した精巧なランプも出土した(写真)。
これが何を表現したものなのか、今も定説はない。
◎壁画の本当の意味は永遠の謎
そしてこのことから、旧石器人は洞窟壁画を鑑賞する物として描いたのではないことが分かる。そもそも鑑賞する芸術品なら、日光も差し込まない洞窟の奥深くに描くはずはないからだ(写真=ラスコー洞窟の動物壁画。上から「泳ぐトナカイ」、「中国のウマ」)。
その本当の意味を解くのは、旧石器人の心性を失ってしまった現代人には困難だろう。
昨年の今日の日記:「エチオピア紀行(11):ゴミ寸前の匂ってきそうなボロ紙幣がお釣りで返って来て閉口;エチオピアお金事情」