今日は日本がポツダム宣言受諾し、連合国に無条件降伏した73年目の日。
この戦争で、日本は完膚なきまでに敗れた。ほどほどのところで降伏していれば、概数300万人超という犠牲者を少なく留められただろう。特に昭和20年になってからの死者は、おそらくその3分の2を占めていた。
旧満州で、広島・長崎・沖縄・東京大空襲などで、そして南樺太で、戦争末期に亡くなった民間人は多い。
◎貧弱な軍しかなかった満州・南樺太を侵略したソ連赤軍
特に、ポツダム宣言受諾後の戦争の終わった後に、ソ連赤軍によって攻撃・虐殺された民間人の死は、非業の死と言う以外にない。
昭和20年8月9日未明、ソ連赤軍は、日本の植民地だった旧満州国に雪崩れ込んだ。満州国を守備する関東軍は、精鋭も武器も、南方戦線に引き抜かれ、実質的にはスカスカだった。
一方、ソ連と唯一国境線を持っていた日本領の南樺太も、守備隊は数えるほど。ここもソ連赤軍にとって、赤子の手をひねるよりもっと容易いことだった。
◎戦後に本格開始された南樺太攻撃は日露戦争の復讐戦
ソ連赤軍による南樺太への最初の攻撃は、8月9日早朝、国境を接する敷香(しすか)町武意加への国境警察に加えられた砲撃であったが、本格的な攻撃は8月16日、南樺太西海岸の最北部、炭鉱町として栄えた恵須取(えすとる)町への赤軍の上陸、攻撃であった(下の写真の上=敷香の街並み、下の写真の下=恵須取の街並み;なお詳しくは下記の日記を参照)。
つまり日本が敗北した後に、火事場泥棒のように、全千島と北海道の一部である歯舞・色丹、また南樺太を攻撃し、奪取したのだ(下の写真は、ユジノサハリンスクの郷土博物館の敷地隅に展示されているおそらく日本守備隊から分捕ったと思われる兵器)。
南樺太の奪取は、日露戦争での失地回復が主目的で、スターリンは日露戦争敗北の汚辱の復讐を成し遂げたのだ。
復讐戦だから、ポツダム宣言受諾後も避難民への残酷な攻撃は、スターリンにとって当たり前だった。何しろスターリンは、自国民さえ残酷な粛清で数百万人も殺しているのだ。
◎スターリニスト中国の習近平、清国の北洋艦隊司令部跡を訪問
ところでもう一方の復讐主義者たち、スターリニスト中国の習近平が、6月12日に黄海の劉公島(写真)を訪問したという。7月29日付日経新聞のコラムに載っていた。
劉公島は日本人には馴染みが薄いが、習近平がずっと訪れたかった場所であり、現在のスターリニスト中国にとっても歴史的に重要な島なのだという。
劉公島には、かつて日清戦争前に清国が置いた北洋艦隊司令部があった。
日清戦争が始まると、1895年2月、日本軍はこの北洋艦隊司令部に猛攻撃を加え、全滅させた。当時、ドイツとイギリスから最新艦などを買い、東洋一の艦隊を整備した清国は、この攻撃で敗北を決定的にしたのである。
◎対日復讐を胸に秘めるスターリニスト中国に警戒を
だから習近平は、この島をずっと訪れたいと思い、実際、訪問すると砲台跡や博物館を観て回ったという。
アメリカに追いつき、やがてはアメリカを追い越し、世界の覇権を握りたいという野望を抱いている習近平にとって、日清戦争の敗北と日中戦争中の日本軍に痛めつけられたことは屈辱に違いない。そして島を訪れ、復讐を心に期したかもしれない。
スターリンになぞらえれば、まずは日本の最も弱い環である尖閣諸島が危ない。
◇過去の南樺太、千島関係の日記
・18年8月9日付日記:「南樺太終戦後の惨劇、南樺太民間人に対するスターリン・ソ連の戦争犯罪を決して忘れない」
・15年8月19日付日記:「これだけは知って欲しい! 70年前の終戦後のソ連赤軍に対する最北の自衛戦闘が日本分断を救った」
・15年2月11日付日記:「日露戦争を終わらせた『樺太戦争』から110年、強気なロシア皇帝を講和に踏み切らせた知られざる戦争」
・06年9月7日付日記「錯綜するロシア観:資源外交、占守島、樺太引き揚げ船、真岡」
昨年の今日の日記:「規律と秩序、一貫性のない気分屋大統領トランプ氏、いつまでやるの?」