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2020.04.05
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カテゴリ:日本史

 幕末の日本を揺るがせ、最終的に明治維新革命へと導いた嘉永6(1953)年のペリー来航は日本史を回天させた一大事件としてあまりにも有名だ。現代日本の起点は、ここにある。

​​​◎「北から来た黒船」ロシアのプチャーチン来航​
 ただ、その1カ月半後に、旗艦パルラダ号()以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航したロシア全権のエフィーミィ・プチャーチン(写真)については、ほとんど知られていない。1番は注目されるけれども2番目はそうではない端的な事例である。





 プチャーチンは、長崎で幕府全権と開国について談判し、曲折を経た末、翌々年1855年2月(安政元年12月)、幕府とプチャーチンは遂に日露和親条約を締結に至った。
 日本側全権としてプチャーチンとの長い、そしてタフな外交交渉に当たった全権の1人に川路聖謨(かわじ・としあきら=写真)がいる。​


​◎軽輩の身から栄進を重ねて勘定奉行筆頭にまで昇進した川路聖謨​
 川路は日田代官所(大分県)の小吏の息子として生まれ、12歳で小普請組の川路光房家の養子となり、その後、恵まれた才覚と努力で栄進を重ね、勘定奉行筆頭に就いた。今で言う財務相兼副首相とでも言える重い役職である。
 幕末の幕府は、門閥にとらわれず、才覚のある者は軽輩からも抜擢し、どんどん重い役職に取り立てた。2024年にも発行される新1万円札のデザインになり、かつ来年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公の渋沢栄一も、名主身分だったが農民だった。その渋沢が、最後は一橋慶喜に仕え、パリ万博出席と欧州各国歴訪の徳川昭武の随員として御勘定格陸軍付調役となって、フランスに派遣されるという大役も担う。
 そうした偉才を発掘する妙は、これがやがて倒れ行く政権かと疑われるほど見事だった。川路は、その中で外国交渉方として存分の能力を発揮するのである。

​◎出世しても生涯質素に生きる​
 幕府からタフな外交交渉を委ねられただけに、川路は清廉で、質素、またその克己心は驚くべきものであった。
 前記のように卑しい身分に生まれながらも、努力と才覚をかわれ、栄進に栄進を重ね、最後は勘定奉行筆頭として幕吏の最高の地位に上り詰める(老中職は5万石以下の譜代大名が就く慣例だったので、御家人の川路には資格はなかった)。
 広さ1200坪もの広壮な役宅に与えられ、今のサラリーマンの給与に当たる御切米(おきりまい)3000俵、御役金300両も給付されていた。それなのに、一汁一菜で通し、役目として旅に出れば、酒好きだったにもかかわらず、その間、役務に専念のため酒を断った。
 毎朝、刀の素振りと槍のすごきを2000回行っていた。

​◎1日15里は歩ける健脚​
 体面上、旅では籠に乗らなければならないが、宿場を出ると降りて自分の脚で歩いた。
 川路の健脚は、抜きん出ており、供揃えを尻目に平気で1日に15里(60キロ)も歩いた。
 長崎に出張し、江戸への帰途、浦賀にアメリカ艦隊再来航の知らせを聞くや、姫路から一気に兵庫に入った。この間、16里。江戸まで、途中の宿場では2時間ほどしか眠らず、未明に起き出して江戸へと急いだ。そして江戸へと目前の戸塚宿で、事態が急であることを知ると、泊まらず小休止しただけで未明に宿場を発ち、江戸へ入っている。

​◎1日19里の山道、伊豆半島縦断も​
 僕が真に驚いたのは、三島宿から下田まで19里を1日で駆け抜けたことである。江戸湾に入ることをほのめかすプチャーチンを江戸湾入港を思いとどまらせて下田で応接するために、一刻も早く下田に入る必要があった。
 19里の道でも、それは平地ではない。山がちな伊豆半島を縦断するのである。途中、険阻な天城峠もあり(写真=現在の天城トンネル北口にある天城峠の天城縦走路登山口)、山道だらけだ。そこを、小休止もせず、歩きながら握り飯をほおばり、急いだのである。時に川路は50歳をとうに超しており、普通なら隠居する年回りであった。



 僕など、2年前にニュージーランドのミルフォード・トラックを歩いたが、最後の4日目、21キロ(5里ちょっと)を歩いて完璧にへたばった。川路の日頃の鍛錬のほどを、思い知るのである。
(この項続く)​

昨年の今日の日記:「日本から液晶パネルメーカーが無くなる! JDIの台湾・中国連合への身売りに危機感;南樺太のワイルドフラワー」






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Last updated  2020.04.05 05:07:44



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