僕たちが訪れた時は、頭ヶ島天主堂の修復工事中だったが(写真)、天主堂内部の見学には支障がなかった。
◎天主堂内部は撮影禁止
ただ内部での写真撮影は禁止だった。お御堂の中の天井は、リブ・ヴォールト天井ではない。
祭壇に向かって左側に幼子キリストを抱いた聖ヨゼフ像、右側にマリア像が置かれている(写真=撮影禁止なので、ネットからとった写真で代用)。
後方の階段には登るのは禁止だった。壊れていて危険らしい。
ただそれ以外、思い出が浮かんでこない。
写真がないと、どうしても記憶があいまいになる。
◎身の毛のよだつ「石抱き」拷問用の石
外に出て、天主堂の四周を回る。
正面右側に角柱状の石が井桁に組まれていた。拷問用の石だという(写真)。
この拷問については、本で読んだことがある。潜伏キリシタンに対してだけでなく、当時の政治犯に対して行われた。「石抱き」、「算木(さんぎ)責め」、「算盤責め」と呼ばれる拷問だ。
三角柱の木を並べた上に、被拷問者を正座させる。それだけでも骨が割れるように痛いのに、正座した膝の上に、2人がかりで持ち上げた石を載せる。1本だけでも血が吹き出るほど痛い。そこにさらに2個、3個と載せていくのだ。骨が砕け、命を長らえたとしても、もう2度と正常に歩けなくなる。
1868年にキリシタン弾圧「五島崩れ」が起きる。頭ヶ島でも主だった信者がこれで拷問を受け、島民全員が島を一時脱出したという。18世紀末、島民は、大村藩領外海(そとめ)地方から隠れキリシタンとしてここに移住してきたのだったが。
このような残酷な拷問が近代まで行われていたことに、身の毛のよだつ思いだ。
◎幕末期の日本人キリシタン指導者ドミンゴ松次郎
さらにぐるりと回ると、ちょうど教会堂の後ろに、きれいに整地された一角がある(写真)。
ドミンゴ松次郎(森松次郎)が1867年にここにやって来て、自身の住居と「仮の聖堂」を造った跡だ(写真)。
ドン松次郎は、潜伏キリシタンの家に生まれ、自身も潜伏キリシタンとして育った。維新直前の1865年3月、長崎の大浦天主堂で、長崎・浦上村の潜伏キリシタンとフランス人宣教師プティジャン神父が出会う感動の「信徒発見」が起こると、翌年2月、松次郎も神父と連絡をとり、ひそかに大浦天主堂を訪ね、正式な教理を学び、「使徒信経」の祈りや「天主十戒」の解説を筆写し、五島に持ち帰ってキリシタン集落に配った。
松次郎は、間もなく頭ヶ島に移住し、ここに仮の聖堂を造り、それは同時に伝道師養成所となり、五島一円から潜伏キリシタンの若者が集まって、松次郎から教理を学んだ。
◎天主堂の下にキリシタン墓地
天主堂の外を一周し、そんな所を見学してシャトルバスの発着場に向かう。
天主堂の立つ高台のすぐ下に、キリシタン墓地がある(写真)。目立つのは、墓に十字架が立てられていることだ。
ここは白浜地区と呼ばれ、今はキリスト教信者は数えるほどしかいないから、一部は無縁墓地になっているかもしれない。
それでも一部には十字架の立てられていない墓もある。仏教徒の墓である。
昨年の今日の日記:「『イランがイラン国内でイラン人を殺した』大ちょんぼとペテンを暴かれたイランのイスラム専制体制;初の女性メダリスト亡命へ」