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テーマ:新潟県中越地震(274)
カテゴリ:社会
巨岩が雪崩のように襲いかかり、岩・土砂・鉄骨が容赦なく車の中に飛び込んでくる中で、一体どうやって車外に移動して助かったのか? 長岡市の土砂崩れ現場での母子3人の捜索は車が3日ぶりに発見された時点で、その状況から誰もが生存は絶望だと思った。ところが車を押しつぶした巨大な岩と車の車輪側の隙間という考えられない場所から優太君(2歳)が救出された。周囲の状況、その後も大きな余震が続いたこと、真っ暗な空間での経過時間や雨が降って気温もかなり低かったことを考えると奇蹟としか言えない生存だった。
悲惨な状況のニュースばかりが続く中で希望の光となるニュースだったが、その数時間後には一度は生存と伝えられた母親の貴子さんが遺体で発見され、残る真優ちゃんも今日になって車の中で死亡が確認された。2人ともほぼ即死状態だったという。 テレビを見ながらどれほどの人が祈っただろう。私も仕事をしながら気が気ではなかった。多くの人から「何とかしてやれないのだろうか」「何か助けになりたいけどどうしたらいいんだろう」というどうしようもない胸の苦しみをこの耳にした。この長岡の事件だけでなく、寒さが日増しに厳しくなる中で苦しい避難生活を続け、絶望に喘ぐ人達に私達が何かできることはないのだろうか? かつて自分たちも災害に苦しんだ経験のある人達は、余計いても立ってもいられない気持ちだっただろう。何かしたい、でも現地に行ける訳じゃない。だからといって行政がどうの、自衛隊がどうのと批判ばかりしていても何もよくなりはしない。評論家が何人いても助けにはならないし、逆にどんなに小さくても一歩前に出るなら、その思いが全国から集まって必ずいくらかの助けにはなる。 そういった今できる事を細かくまとめてくれた方がいた。同じ楽天のブログで「じゅんじゅ」さんがそれを書いてくださったので、この記事のトラックバックとさせて頂いた。彼女の記事へはこのサイトの「Subscribe Link」から飛んでいける。 募金なら誰にでも出来る。確かに低迷を続ける北海道経済の中で生活が楽だと言える人はそうはいないだろう。しかし、今被災し、避難生活をしている方々の我慢を見た時、私達はその何百分の一かの我慢さえすればいくらかのお金は出すことが出来る。大きな金額でなくとも、ほんの少し、普段楽しんでいることにかけるお金を、何分の一か削ることくらいは出来るはずだ。僅かなお金でも全国からの想いが集まれば、必ず役には立つ。 送金も郵便局からなら手数料はかからないし、セブンイレブンなどのコンビニでも受け付けている。ドラえもん募金なら「0990-53-5000」番に電話するだけで募金が出来る。 物資を送るのもいいが、阪神大震災の時も、奥尻の地震の時も全国から送られてきた物資の中にはゴミとしか言いようのないものが大量にあった。ここぞとばかり家庭の不要品をなんでも送ったようだが、古い洗濯もしていない衣類は実際必要とする人はほとんどいないし、食べかけの食品とか、コードのない電気ポットとか、かびた布団とか、本当にどうすることも出来ないものが大量にあったようだ。 ただでさえ人手が足りない中で、そういった物資の仕分けはもの凄い人出がいる仕事だし、置き場所にも困るのだ。現地から要請のあった物資以外は却って支援を妨げるだけであり、送らない方がいいだろう。 小さな一歩でも、何もしないよりは遙かに大きい。世界の全ての困っている人達に手を差し伸べることは出来なくとも、自分が胸に迫る何かを感じていることには、一歩踏み出しさえすれば私達にも出来ることは必ずある。何かしたいという想いは、それを表現することをあなた自身が必要としているサインなのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004/10/28 11:13:04 PM
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