みなさんこんにちは。チェ・ホサです。
先日、「中の家」近くに大きなお地蔵さまがいると
ここで書きましたが、
その横にも大きな石碑がありました。
「弔魂碑」と書いてあります。
最後には渋沢栄一翁の名前が
裏面には「血洗島村中建立」とあります。
フムフム
文面を読むと「天狗党の乱」※に関するもののようです。
そう書くと、深谷とは何も関係がないようですが、
天狗党の面々が京へ上る途中、幾つかのグループが上野へ入る途中に
血洗島を通ったそうです。
碑文には、血洗島に入った二人の天狗党が
幕命が下っていた岡部藩に討伐され、
慙死してしまったそうです。
血洗島村の人たちは二人を不憫に思い
丁重に埋葬したそうです。
しかし、当時は幕府に対する逆賊ですから、
墓碑も何もなく、静かに葬られたそうです。
時が流れて、時代が明治になり
尊王派の天狗党の面々は復権され、
悲劇も多く伝えられるようになりますが、
血洗島の名もなき二人は、
静かに眠るだけです。
そこで渋沢栄一翁は
二人の名誉を回復するため、
この地に石碑を建立したそうです。
ちなみに、栄一翁が「徳川慶喜公伝」を書く際、
慶喜に天狗党の処置について
「あれは難しかったかと思います」と問いかけたと云います。
自分を頼ってきた若き志士に対し、会うことを拒絶した慶喜としては、
大変な政治決断だったのでしょう。
※「天狗党の乱」は、1864年3月水戸藩の尊攘派天狗党が筑波山に挙兵した事件です。
文久3年8月18日の政変(会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、
長州藩を主と する尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件である)を機に、
水戸藩では保守派が実権を握り、これと対立する天狗党はついに
朝廷の攘夷延期不満を掲げて挙兵しました。
流血の党争を続けましたが、幕府の追討を受けて敗走、
一橋慶喜をたよって上洛しようともくろみましたが、
各藩の抵抗にあい、ついに京へは入れず、途中の加賀金沢藩で全員降伏したものです。