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みなさんこんにちは。チェ・ホサです。 富岡製糸場が世界遺産となって、はや二か月が経ちました。 今、渋沢栄一、尾高惇忠と並び、脚光を浴びているのが、 直次郎はもともと、惇忠の家に奉公して惇忠からの信頼厚い人物でした。 そこで、惇忠が富岡製糸場建設の命を受けた時、 製糸場建設後も直次郎は富岡に住み続け、 これは直次郎が生前に建てたもので、墓碑銘は惇忠が書いています。 しかし、直次郎は地元深谷でもその活躍の痕跡を残していました。 「日本煉瓦100年史」という本の中に登場します。 日本煉瓦設立にあたって 用地交渉が難航し、地元有力者でもあった直次郎に 直次郎の活躍で用地交渉問題は円満に解決をみたそうです。 これが日本煉瓦から贈られた感謝状です。 そして斡旋報酬として200円も贈られたそうです。 ちなみに明治20年当時、教師など知識層の月給がだいたい10円~15円程度だったそうです。 こうした活躍もあり、地元での評判はますます上がったようです。 そして、竜光寺に生前墓を作ったように、地元明戸の阿弥陀寺にもお墓を作りました。 こちらは「武蔵人」の代わりに「中興」と記されています。 これは、お寺などの莫大な寄付をし、文字通り「中興」した人物に 韮塚直次郎さんは、富岡だけではなく深谷にもとても貢献した人なのです。 それではまた、バイバイねー 【追記】 ちなみに、明治20年の日本の高額所得者ランキングというのがありますので、 渋沢栄一は、とてつもないお金持ちだったのですね。
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最終更新日
2014年08月28日 08時40分08秒
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