特別展「大月空襲」 02-2 アメリカの記録 a 海軍・海兵隊艦載機戦闘報告書
アメリカ軍は、日本に対する空襲について膨大な記録を残しています。機密が解除された1970(昭和45)年以降、順次公開され、その複製が国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧できるようになりました。艦載機による空襲は、「米国戦略爆撃調査団文書:海軍・海兵隊艦載機戦闘報告書(Records of the U. S. Strategic Bombing Survey; Entry 55, Carrier-Based Navy and Marine Corps Aircraft Action Reports, 1944-1945)」にまとめられています。この資料の大部分を占めるのは、個々の作戦任務ごとにその任務に従事した者の手によって作成された総数6,400件余りに及ぶ「航空機戦闘報告書」です。「報告書」は5枚綴りからなり、報告部隊名、発進母艦名、日時、任務、参加機数及び装備、機体の損害、目標物への攻撃の概要、戦術と作戦についてのコメント等、決められた様式に従って作成されています。残念ながら「大月」を攻撃目標として明記した「報告書」はありませんでしたが、「目標到達時刻(Time Over Target)」をたよりに、実際に攻撃した「目標と位置(Target(s) and Location(s))」と作戦についての「結果(RESULT)」や「コメント(comment)」を吟味していき、ようやく一本の「報告書」にたどりつくことができました。それが上に示した第38機動部隊第3任務群に属する空母(CV9)エセックス(ESSEX)から発進した第83飛行隊群のものです。「報告書」の1枚目にあるⅠ-(a)「任務(Mission)」①には東京芝浦電気への攻撃と書かれています。次いでⅡ「本報告によるわが機の公式装備」には、編成された航空機の型式と機数、そして搭載された爆弾の種類と数量が記されています。また、III「 本作戦に従事した他の合衆国機または連合国機」③の項にあるように、モントレー(MONTEREY)とバターン(BATAAN)という二つの空母の飛行隊群もこの任務に加わっていたことがわかります。ところが、3枚目の実際に攻撃したⅪ-(a)「目標と位置」については、「工場・位置不明」とあります。そして、その下のⅪ-(o)「結果」にはこうあります。攻撃目標の名称及び位置については不明である。指示された攻撃目標及び全ての代替目標は完全に雲に閉じこめられていた。上記の工場及びダムに対する攻撃は,曇り空のわずかな裂け目を通して見えた時に行われた。そこは,東京の南西に位置する,富浜町であると思われる。3機の戦闘爆撃機は,攻撃目標に対して爆弾を投下しなかった。2機は爆弾を投棄し,1機は母艦に持ち帰った。1機の戦闘爆撃機は,投下に失敗した。一つの大きな爆発と1000フィートの高さまで登る黒い煙の渦を認めることができたが,損害の評価は不可能だった。4枚目のⅫ「戦術と作戦上の記述」には、攻撃した場所の地形と再び「富浜」の文字が経緯度とともに明記されています。第83雷撃機隊のSTEWART少佐はエセックス,バターン,モントレーの飛行機部隊より構成されるこの攻撃部隊の指揮官だった。当初の攻撃目標は川崎地域にある東京芝浦電気だった。千葉半島の南の地点を通過し,そこから西に相模灘を進み,次いで北上して川崎の西の地点に出る,という接近方法が計画された。東京湾上を水平飛行で侵入し,対空砲を避けながら東,もしくは南東へ退却し,勝浦の東5マイルに再結集する。接近した時,目標地域全体は厚い雲に覆われていたようだった。そこで,左に旋回し,雲の裂け目が見えた西方へ進んだ。雲の裂け目から,川に沿って大きな工場があるのが見えた。裂け目を通しての攻撃が指示され,全ての飛行機は工場または川を横切るようにしてある近接するダムに対して攻撃を行った。工場地域に命中するのが認められ,一つの黒い煙が巻き上がるのに続いて爆発するのを,パイロットは退却しながら見た。退却は相模灘方面へ行われ,そこで集合が行われた。損害もなく終了した。工場及び町の位置をはっきりと定めようと努めたがかなわなかった。しかし,そこは,北緯35゚37',東経139゚00'に位置する,東京の南東にある小さな町,富浜であろうと思われる。北緯35度37分,東経139度0分に富浜町は確かに存在します。しかし,8月13日に空襲を受けた記録はありません。また、報告書に述べられているような大きな工場とよべるような構造物も少なく,ダムもありません。富浜町の近くで,「川に沿って大きな工場」があり,それに「近接するダム」があるのは富浜町より6キロ東の大月町以外にはありませんそして,「一つの黒い煙」が立ち上ったという報告も,大月空襲により火災発生は大月駅西方の一カ所だけであるという証言とも一致します。おそらく,この報告書は大月に対する空襲のものであることは間違いないと思わます。バターンの「報告書」はありましたが、モントレーの「報告書」は、この期間のものが欠落しているために手に入れることができませんでした。このため、作戦の全容について正確に知ることはできませんが、二通の「報告書」をつき合わせてみることにより、かなりの程度まで攻撃の実相(理由と結果、数値など)に迫ることができます。その概要は次のとおりです。「大月空襲」を行った、アメリカ軍艦載機編隊の当初の目標は、川崎にある東京芝浦電気でした。ところが、厚い雲に覆われていたために投弾することができません。艦載機の編隊は、どこか他に爆弾を投下できる場所を求めて雲の上をさまよいました。そして、たまたま雲の隙間から見えた工場群とダムを攻撃することにしました。その雲の隙間から見えた場所こそが大月町でした。艦載機戦闘報告書は前述の通り国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。エセックスバターン※おまけ艦載機は爆弾を抱えたままで空母に戻ることはできません。少しでも身軽になって帰りの燃費を節約したり敵からの攻撃に備えなえなければならないし、何よりも着艦に失敗し時に空母に大きな損害を与えるリスクを減らさなくてはならないからです。このため、多くの爆弾が当初の目標とは違う場所に「捨てる」ようにして落とされました。2-1 日本の記録a 大月警察署沿革史b 山梨県立都留中学校 日誌c 山梨県立都留高等女学校 教務日誌d 大月市立大月東国民学校 学校日誌2-2 アメリカの記録a 海軍・海兵隊戦闘報告書目次へ