|
カテゴリ:カテゴリ未分類
今日もピーカン天気。 しかし 明日からは梅雨空に戻るそう。
そう 今は梅雨だったんだ。 ホントに妙な天候ですね。 で、今日は会社の定例会があり、帰宅が遅くなるので、会社から更新。 ところで、今日 こういう記事を見た。 -------------------------------------------------------------------------- 「コレラ死者、1900人」 アフリカ南部アンゴラからの報道によると、世界保健機関(WHO)は20日、同国で2月中旬から続いているコレラの大規模感染で、19日までの合計死者数が1893人に達したと発表した。 発症数は約4万7000例。 首都ルアンダ北部の貧困地区から始まったコレラ感染は、国内に急速に拡大。 死者は全18州のうち14州で報告されている。(6月21日 共同通信 ヨハネスブルク) -------------------------------------------------------------------------- 先進国ではほとんど死滅したコレラ。 しかし 後進国では衛生状態も悪く、その他の伝染病も蔓延している。 特に老人、幼児など、体力のない弱者が一番に犠牲になる。 飽食国 日本、ニートと呼ばれる労働意欲のない若者の多い日本、何かがおかしいのでは・・・ 尚、アフリカ関連として、過去ログに「明日のない子」があります。 こちらもご参考に・・・ 昨日の話題は「定年退職後はどちらへ?」 まだご覧になってない方、こちらもどうぞ。 さて、それでは本日の本題 ちょっと俳句のお勉強 「女芭蕉」 ●逆『奥の細道』からの旅立ち 松尾芭蕉が歩いた『奥の細道』を逆にたどった女がいた。 名は、田上菊舎(たがみきくしゃ) 芭蕉没後ほぼ半世紀の18世紀半ば、長府藩(山口県下関市)の藩士の娘に生まれた。 16歳で嫁いだが、24歳で夫と死別し、出家した。 「今は浮世に暇(ひま)あく身と成(なり)ぬれば……思ひ立つ日を其(そ)の儘(まま)にひとり旅路におもむきぬ」と、それからの人生を旅に求めた。 亡夫の供養をしながら、好きな俳諧に打ち込みたかったようだ。 月を笠に着て遊ばゞや旅のそら 芭蕉が奥の細道を終えた岐阜・美濃に出て芭蕉本流の美濃派に学び、30歳の春、最初の旅に出た。 芭蕉の旅の終着の地を出発したからこそ、始まりの地へと遡行(そこう)したかったのだろう。 旅の身なりは粗末だった。 墨染めの衣一枚、寒さしのぎには菰(こも)や蓑(みの)をまとい、荷物は、この頭陀袋(ずだぶくろ)ひとつ。 黄土色の布地に残るほつれと毛羽立ちが旅の喜怒哀楽を物語る。 浜で野宿し、山で遭難し、関所では何度も通行を阻まれた。 74歳で生涯を終えるまで、各地に句を詠み歩いた行脚は2万5000キロ。 日本列島を端から端まで5往復したことになる。(すごい!) 「女芭蕉」が昨今、ようやく知られつつある。 ●飄々と人生学んだ旅の空 山口県下関市、長府地区。 かつての毛利五万石の城下町は、頭陀袋(ずだぶくろ)の色合いに似た低い練塀(ねりべい)が続き、身の丈の心地よさを感じさせる。 旧山陽道をやや北にそれた、古い家並みの何でもない路地端に、田上菊舎(たがみきくしゃ)の旧宅跡を示す小さな碑はある。 長府は、俳諧の盛んな土地柄で、藩士の娘だった田上道(みち)は幼いころから俳句に親しんでいたようだ。 夫の死後、長府の家に戻った道は俳諧の師、五精庵只山(しざん)に「名(俳号)を改めて贈ってほしい」と頼んだ。 人生をリセットしたかったのだろう。(私もリセットしたいな) 「花が野に巡るように生を駆けていきなさい」と、菊車(後に舎)の名を授けられ、「我心に叶ふ事、闇夜に灯をかゝげ……其道を得たる心地」と喜んだ。 菊舎誕生である。 それが26歳の時。 3年後、萩の寺で得度して、美濃(岐阜)へ向かい、翌年の天明2年(1782年)4月3日、『奥の細道』逆行の旅に出た。 首途(かどで)にあたり、美濃での師の朝暮園傘狂(さんきょう)が菊舎に持たせた一枚物の口上書が頭陀袋に残っていた。 此菊車風尼事……薄暮候はゞ一宿之義御世話被下風雅御聞せ被遣可被下候(日が暮れたなら、この尼に一晩の宿を世話して俳諧の話など聞かせてやってほしい)。 先々の弟子や、未知の人に宛てた紹介状だった。 菊舎のその後の長い旅の、いや人生のこれが“パスポート 初めての旅は不安だらけ。行くところ、山また山の心細さ。 かんこ(閑古)さへ聞ぬ日もありひとり旅 柳ヶ瀬の関(滋賀)は、なかなか通してももらえない。 しかし、女は度胸。(ちと違うが) 開き直った。 通さねばよし爰(ここ)で聞(きく)郭公(ほととぎす) 日本海では沖に漁(いさ)り火が灯(とも)る浜辺で寝転がり、芭蕉の『更科紀行』の行程にも足を延ばした姨捨(おばすて)山(長野)では山中で夜を明かす羽目になった。 山形と宮城の境の二口峠でも道に迷って闇夜をさまよい、翌日、危うく地元民に助けられた。 旅はもちろん、芭蕉の侘(わ)び・寂(さ)びを追体験することでもあった。 出羽の立石寺では、「閑(しず)かさや岩にしみ入蝉(いるせみ)の声」の芭蕉句に対し、「踏みしめて登るも清し霜の花」と詠んだ。 初冬にこの山寺に至った菊舎は、境内の静寂の中に、自分の踏む霜の音を聞いたのだ。 8か月かかって江戸に着いた。 芭蕉が出立した深川の庵へと隅田川を渡る。 菊舎に「はるばる……郷に帰りし心地こそすれ」と、そんな感慨が訪れた。 この旅はつまり、奥の細道を遡(さかのぼ)り、芭蕉の元へ飛び込んでいくことであったのかもしれない。 それからの菊舎の人生は、まさに旅の連続であった。 「日々旅にして旅を栖(すみか)とす」と書いたのは、芭蕉。 「余は月華(月光)を住処(すみか)とす」 菊舎。 長府を起点に、京、大坂など畿内方面へ6度、長崎や阿蘇など九州に4度、江戸へももう1度。 生来の快活、恬淡(てんたん)な気質と、旅で身についたたくましさが好かれ、諸国で交わった人は2000人を超えるという。 俳諧だけでなく、和歌、漢詩、書道、絵画、茶道、弾琴(だんきん)と、世界は広がっていった。 早世した夫の供養も旅先で欠かさず勤めたようだ。 もともと浄土真宗への信仰が厚かった。 なぜ、旅を続けたのか? 菊舎は興味をもった対象にのめり込むタイプだった。 世事に頓着(とんちゃく)することなく、一心に学ぶ。 それが許される世界が旅だと、菊舎は知ったのだ。 一か所にとどまれば生活にからめ取られていく女なればこそ。 菊舎はたびたび自分を「雲遊の身」と表現した。 流れる雲のように自由でいたい。 続く・・・ 画像は その「姨捨(おばすて)山」 尚、別ブログ 6/19の新着は「木のおもちゃ」 また、前回は「雨の漢字」 こちらも よろしく ●け・せら、せらー!さんより お知らせ 「リハビリテーション医療の打ち切りを反対する署名活動」 ← 記事はこちら 賛同して署名をしていただける方は、こちら → 「まだまだ署名が足りません」 下の方にある「ネット署名」をクリックしてください。 署名用紙がでてきます。 尚、riminさんの本の紹介、ジャワ大地震の募金案内はヘッダーに移動しました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年06月21日 18時47分12秒
|
|