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感動写真日記 侍大将まこべえが行く

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Nov 11, 2005
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カテゴリ:旅の記録

兵学校の第一生徒館の後方には、大きな丸い柱をもつ白亜の建物があります。

昭和11年(1936)に建てられた、海軍兵学校教育参考館です。


    教育参考館
    

現在は、海上自衛隊の教育参考館として、旧海軍の関係資料や、特攻隊の遺書などが保管・展示され、戦争資料館としても見るべきものが多い建物です。

なかでも特攻隊員の遺書は、胸が熱くなるものばかりなのですが、展示方法には改めるべきところも多々あります。

もっとも大きな問題点は、若者を特攻作戦に駆り出されなければならなかった戦争の要因・背景の視点が欠落しているという点です。


第一次世界大戦後、平和構築の要としてワシントン体制が確立しました。

その土台となったワシントン海軍軍縮条約、つづくロンドン海軍軍縮条約を廃棄し、建艦競争の口火を切って対米戦争に突き進んでいったのは、ほかならぬ日本海軍でした。

しかもその海軍をリードしたものは、ほかならぬ兵学校の出身者でした。

条約廃棄を強硬に主張した艦隊派(海軍強硬派)の中心人物・加藤寛治(ひろはる)大将は、兵学校の第18期でした。

また、国際協調派の幹部を次々と予備役に退けた大角岑生(おおすみみねお)海軍大臣も、兵学校の第24期でした。

さらに、条約廃棄を強硬に主張し、巨大戦艦を建造してアメリカに対抗すべしと主張した軍令部第二部第三課(軍備担当)の石川信吾中佐(のち少将)は、兵学校の第42期でした。


兵学校の歴史には、こうした負の遺産も多く抱えていたのです。

1929年、海軍の練習艦隊が、ニューヨークに立ち寄ったとき、指導教官は、兵学校を卒業した少尉候補生に対して、「ニューヨークの自由の女神と奈良の大仏の大きさは、大仏が立ち上がってみない限りどちらが世界一かわからないではないか」と語ったといいます(相澤淳『海軍の選択―再考 真珠湾への道』中公叢書、2002年)。

こうした国力を無視した精神主義を基軸に、兵学校の卒業生たちは、アメリカに対する敵愾心を燃やし続け、ついには日米決戦のボタンを押してしまいました。

アジア太平洋戦争を語るとき、悪玉としてよく陸軍の名があがりますが、実は、海軍のはたした責任も、たいへん大きかったのです。


こうした海軍や兵学校卒業生たちの責任を棚上げにして、特攻隊の遺書を数多く展示するだけでは、戦争全体の理解を損ねるものになりましょう。

しかも、自衛隊の教育参考館という教育施設なのですから、もっと客観的に戦争を掘り下げた展示をしなければ、いつかきた道を歩きかねません。

ただし、こうした海軍の歴史を理解したうえで、遺書を読み進めるならば、それはまた、意義深いものがあります。


そのなかでも、とくに次の言葉は心に残りました。
 
 「死して後 故国の栄を 極楽でみむ」

回天特攻隊の佐藤章氏(26歳)の言葉です。

多くの犠牲のもとに得た国の栄えを大切にし、若者たちを二度と戦争に駆り出すことがないようにすること、それは、私たち後世に生きるものたちの責務であると考えます。





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Last updated  Nov 11, 2005 05:41:00 PM
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