『卑弥呼』の鏡
女王卑弥呼と蜀の諸葛孔明、魏の司馬仲達は、ほぼ同じ時代に生きた人たちだった。「死せる孔明、生ける仲達を走らす。」で有名な、孔明と仲達。卑弥呼の名前が歴史上に燦然と輝いているのは、卑弥呼の存在が偉大であっただけではない。もちろんその頃の日本には字がなく、書物で残っていないこともあり、中国(魏の魏志倭人伝他)の歴史書でしかその頃の日本は語れないのではある。ちょうどその頃大陸では三国時代でおおもめの時代だった。つまり、東の方にある国と仲良くした方が、得という雰囲気だったんでしょう。おかげで、卑弥呼は魏の国に使いを送り生口として、男子4人女子6人と、反物二匹二丈(約24メートル)を朝廷の召使として差し出したに過ぎないのに、そのお礼の贈り物がすごかった。紺青の布地(480メートル)、茜染め(480メートル)毛織物、錦織、その他、それに何より、百枚の大型の銅鏡、約1.2メートルの宝刀2本、金印(銀印)その他。日本人は三種の神器を大切にしていて、鏡や刀を喜ぶことを知っていたのであろう。それに鏡を邪馬台国の周りの国に送って、多数の連合国を引っ張っていくようにとの心使いだったのであろう。それにしても相当日本を大きな国だと思っていたようだ。一説には当時,魏の皇帝(皇帝は幼い子供だったので、実際は司馬仲達が政治を行っていた)は九州は芋のような形で今の日本列島よりずっと大きく、真ん中に大和があると思っていたらしい。しかも敵である呉の国の真南にあったと思っていたらしい。(呉を挟み撃ちしたかったのだろうか)この勘違いが、このような大量の贈り物をすることに決めた要因だったとも言われている。ともあれ、大量の銅鏡が送られたことは事実だろう。ところで私は以前から不思議に思っているのですが、銅鏡って銅で出来た鏡なのでしょうか?銅って磨くと鏡のようになるのですか?あまりに基本的過ぎて本には載ってないのですが、誰かこの素朴で単純な疑問に答えてくださる方はいないでしょうか?