カテゴリ:思索・読書
久しぶりに病気療養中のKちゃんから電話があった。
彼女は最近やっと認知も広まってきた「低髄液圧症候群」の かなり重い症状を抱えている。 いろいろあった。 生と死の境にいるような時期も。 病院側の無理解やひどい仕打ちには私も驚愕し、憤ったし、泣いた。 Kちゃんのお母さんのこれ以上ないような強さ、 お父さんの泣きたくなるような優しさ、を目の当たりにし感動もした。 無理やり追い出されるように退院してから1年とちょっと。 大きな波がありながらも、自宅で療養している。 まずしゃべるスピードがやっと昔のKちゃん並みになってたのが 驚いて、嬉しくて、そう伝えた。 歩くのもしゃべるのも、どんな動作をするにも 何倍もの時間がかかっていた。 本人もどんなにもどかしい思いをしてきたことだろう。 普通にしゃべること、普通に歩けること、普通に食べられること、 それができることが驚きで喜びで幸せなことなのだと 私はKちゃんからいまさらのように教わった。 しかし、電話でしゃべるのも、携帯でメールをするのも Kちゃんはしんどくてできない状態が多いので、 ついこちらから電話するのも憚られて、たまにしかしてなかった。 だから数ヶ月ぶりにKちゃんの調子がよくて 電話できるのはとても貴重な時間。 なのに、どうしてだろう。 そういうときには、普段言いたかったこと、 伝えたかったこと、聞いてみたかったこと、 いっぱいいっぱいあるのに、なかなか出てこない。 Sくんの結婚式に出たこと、 Kちゃんがつくってる俳句や手編み帽子のこと、 飲んでる薬のこと、少しずつあっちこっち飛びながらも お互いの近況を話すけど、 「・・・・・」 「・・・・・」 と沈黙がはさまれてしまう。 本当はもっと話したいこと、いっぱいあるのに。 感じてること、考えてること、とっても大事なことがあるのに。 Kちゃんと私の間では 大学のクラスで出会ったときからいつでも 思索的な話を多くしてきて(そうじゃない話ももちろんあるけど) 膨大な時間が堆積している。 だから日常のこともほとんどすべて深い話に結びついていく。 また、お互いの過去や成長過程のあれこれに話が結びついていく。 ひとつ言おうとするととても長く深くなってしまうので どれから話していいか、わからなくなるのだ。 濃密な沈黙がKちゃんと私の間に横たわる。 ちょっと苦しいような切なさにのどがしめつけられる。 そうこうしているうちにKちゃんの携帯の電池が、切れる。 今回もまたじゅうぶん話せなかった。 Kちゃんもそう思っていることだろう。 その思いが、同じ認識が、 逆にお互いの結びつきの深さと比例して感じられる。 Kちゃんと思い切り話せるようになるのはいつだろう。 すべて胸のうちを話しきって、もう話すこともなくなって ただあはははは!とバカみたいに笑い合ってみたい。 ゆったり午後の日差しをあびながら お茶でも飲んで、一緒にぼーっとしたい。 生きててよかったね、ここまで一緒に来れてよかったね、 と無言の了解を感じたい。 そこではもはや、苦しいような濃密な沈黙ではなくて、 さらりとした満ち足りた沈黙が私たちを包むことだろう。 「生きること ただ生きること 冬木立」 Kちゃんが先日送ってくれた100編の俳句の中で シンプルだけど私の一番好きな句。 この句を墨と筆で書けるといい。 もし作品に仕上げることができたら、 ささやかながらKちゃんに贈りたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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