カテゴリ:思索・読書
昨夜ぼーっとしていた。 頭の中を一日のことや気になることやダンスの振付などが 膨大に巡っていて、何もできずにぼーっとしていた。 もったいない時間とも思うが、 私の"ぼーっとする時間"は、実はちっともぼーっとしていなくて、 脳が情報処理をしている時間なのだと改めて気づいた。 だから必要な時間なのだ。 他の人はどうなのだろう? Hちゃんはそんなのちっとも実感がわかない、 その感覚はわからない、と言っていた。 そして私がときどき自分の中で、自分が誰かに対して ずーっと語りかけているときがあって眠れなくなったりするが、 そんなのもありえないと言われた。 それらは私の場合、こうして書くことで吐き出して整理して 落ち着くのだろうと思う。 言語化して、経験や考えたことを自分の中におさめるのだろう。 ぼーっとするとき、多分、ぼーっとして 意識上のものごとたちが無意識のほうに落ちていき、 やがて混沌とした無意識の沼からぽっかりと何か別なもの、 何かの答えなり、新しい価値観なり考えなり、 或いは創造物などが浮かんでくるのを待っているのだろう。 創造の泉がわくときは本当に楽しいし、 何か気づきや発見があるときは充実感を味わえる。 恐らくぼーっとしている状態は、自分自身は白紙にして、 思い浮かぶ想念をそのまま自由に泳がせるに任せ、 目覚めていながら夢を見ているようなものなのだろう。 創造や気づきに絶対不可欠なものなのだろう。 「影の現象学」を読んで、本当にそれが実感できる。 そして、それでいいのだ、と改めて思える。 昔から時間の感覚が人より遅く、よくぼーっとしていて マイペースで人に怒られたり、迷惑かけたり、 プレッシャーだったり、つらいこともあったけれど、 それは創造や気づきなどの、私を根本から形づくるものに 必要不可欠なものだったとすれば納得もいくし、 多少つらかったこともしょうがないと思える。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.20 17:11:35
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