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カテゴリ:活字
皇帝が猫の目のように交代して国力が疲弊したローマを建て直すべく、バルカン地方の下層階級出身であるディオクレティアヌスが立ち上がった。
彼は、三世紀に入って蛮族の侵入を許し続けるローマの防衛を第一に掲げ、彼とは五歳下の盟友、マクシミアヌスをカエサルに任命、帝国の西方を任す。自らは東方を担当。 その半年後、ディオクレティアヌスはマクシミアヌスをカエサル・アウグストゥスに任命し、これにより二人の皇帝が並立する二頭政が成立した。 ディオクレティアヌスが登位して八年後、二人の皇帝はそれぞれカエサルを任命。この場合の「カエサル」は、これまでのような次期皇帝の意とは異なり、准皇帝とでもいうべきものであった。 すなわち、二人の正帝と二人の副帝による四頭政が成立したのである。ただし、政治面での決定権はすべてディオクレティアヌスにある。 四人の皇帝はいずれも、元はバルカン地方の農民で、一介の兵士から皇帝に登りつめた。 東方正帝ディオクレティアヌスは小アジアからエジプトまでのオリエント全域、東方副帝ガレリウスはバルカンも含めたドナウ河防衛線の南に広がる全域、西方正帝マクシミアヌスは北イタリアから本国イタリア、北アフリカにかけて、西方副帝コンスタンティウス・クロルスはライン河防衛線の西からガリア、ブリタニア、ヒスパニア、北西アフリカまでを、それぞれ担当する。 二頭政七年、四頭政十二年、併せて約二十年の間、ローマに蛮族が侵入することはなく、帝国には安全と平和が戻ってきた。 三世紀はじめのカラカラ勅令により属州民にもローマ市民権が与えられて以来、事実上ローマ市民と属州民の差別はなくなっていたが、ディオクレティアヌスはこれを法制化した。 また、四人の皇帝はそれぞれ直属軍団を率いて防衛に当たったため、アウグストゥス以来の防衛線軍団は相対的にその地位が低下、皇帝属州と元老院属州の区別もなくなった。 ガリエヌス帝によって元老院議員が軍団の司令官に就任することが禁止されて以来、ミリタリーとシビリアンのキャリア間の移動がなくなっていたが、ディオクレティアヌスが皇帝に権力を集中させた結果、ローマは絶対権力者たる皇帝の下、官僚が差配する帝国と化した。 すなわち、ローマは元首制から絶対君主制へと移行したのである。 皇帝に権力を集中させるためには、皇帝は市民と元老院に権力を委託されたのではなく、ローマの神々から絶対的権力を分与された存在であるとするディオクレティアヌスは、一神教であるキリスト教がその障碍となると考え、徹底的にキリスト教を弾圧する。 二人の正帝、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスは引退し、副帝であるガレリウスとコンスタンティウス・クロルスがそれぞれ正帝に昇格する。新たな副帝は、東方はマクシミヌス・ダイア、西方はセヴェルスが就任。第二次四頭政が始まる。 新正帝コンスタンティウス・クロルスの実子であるコンスタンティヌスと、前正帝マクシミアヌスの実子であるマクセンティウスがこの人事で除外されたことが、その後の帝位争奪戦へと繋がった。 ブリタニアで蛮族撃退戦の指揮をとっていた西方正帝、コンスタンティウス・クロルスの突然の死により、帝位争奪戦の火蓋は切られた。 コンスタンティウス・クロルスの実子コンスタンティヌスは皇帝に名乗りを挙げたが、東方正帝ガレリウスは、西方副帝セヴェルスを西方正帝に昇格させ、西方副帝にコンスタンティヌスを起用する妥協策を提示、コンスタンティヌスはこれを受け入れ、ひとまず事態は収拾した。 しかし、コンスタンティウスが副帝に就任したことで、またしても自分が皇帝人事で除外されたことに不満を爆発させたマクセンティウスは、首都ローマで皇帝就任を宣言。マクセンティウスの父であり前正帝であるマクシミアヌスもこれに加担して、久々にローマは内戦状態となる。 第二次四頭政は三ヶ月で崩壊し、六人の皇帝が乱立する状態を経て、最終的に権力を握ったのはコンスタンティヌスだった。 キリスト教を公認するミラノ勅令を連名で発布したリキニウスをも破って、コンスタンティヌスは十八年に及ぶ権力闘争に終止符を打った。以後十三年にわたって専制統治を行うことになる。 全ローマを掌握したコンスタンティヌスはビザンティウムに首都を移し、コンスタンティノポリス(英語ではコンスタンティノープル)とする。 ディオクレティアヌスが皇帝の権力をローマの神々から与えられたものとし、一神教であるキリスト教を弾圧したのに対し、コンスタンティヌスはその思想をさらに推し進め、皇帝の支配権は唯一の神から与えられたとし、ディオクレティアヌスが弾圧したキリスト教をその根拠とした。 これがのちの十七世紀、絶対王政華やかなりし時代に登場する、英国のジェームズ一世やフランスのルイ十四世が唱えた「王権神授説」に繋がる。 今日、さまざまな絵画で知られる、神の意を伝える司教であるローマ教皇の前にローマ皇帝が跪き、神によって正統化された支配権の象徴たる帝冠を頭上に戴く戴冠式は、皇帝がローマ市民および元老院によって権力を委託された元首制ローマにはなかったものである。元首制ローマの皇帝の頭には、オリーブの葉が載っていた。 コンスタンティヌスがいなければ、キリスト教は古代の他の多くの宗教同様消え失せていたであろうし、コンスタンティヌス以降、ローマはローマでなくなった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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