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マックス爺のエッセイ風日記

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2021.11.26
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~沖縄の城物語(2)~

  沖縄の城の石垣     

 沖縄の城がグスクと呼ばれ、その起源が墓、御嶽(うたき)などの聖なる場所、砦(とりで)、古い住居跡、あるいはその複合体であると言う仲松弥秀氏の学説については既に紹介した。それが按司(あじ=豪族)や統一者である王の居城となった例はさほど多くはない。世界文化遺産に指定された今帰仁城、座喜味城、勝連城、中城、首里城のほかには浦添城、大里城、南山城、糸数城、知念城くらいだろうか。その中には石垣が残る程度のものも多い。焼失した首里城は沖縄を統一(最大時には奄美の一部も)した琉球王の居城だったため、例外的に大きくて華美だったことを先ず理解してほしい。

  

 これは日本の戦国時代に当たる「グスク時代」の沖縄本島。北山は現在の国頭郡、中山は中頭郡、南山は島尻郡に相当するが、郡が置かれたのは明治時代に沖縄県になってからのこと。琉球王朝時代の行政区分は「間切」(まぎり=現地語でまじり)で、これが平成の大合併までほとんど変わらずに残っていた。

 「北山」のグスクは、今帰仁城と名護城程度。「中山」のグスクは、首里城、浦添城、中城、勝連城、座喜味城、安慶名城、知花城、具志川城、越来城、山田城、台城など。「南山」のグスクは大里城、大城、南山城、玉城、糸数城、知念城、ミントングスク、垣花城、志喜屋城などだが、私はそのほとんどを訪れたが、中には見つからなかったグスクもある。グスクの多様さと大戦での破壊のためだ。

    勝連城

 勝連城は勝連半島の付け根の丘の上にある。城主は阿麻和利(あまわり)と言う名の豪族で、妻は琉球王の娘の百十踏揚(ももとふみあがり)つまり政略結婚だった。城下の南風泊には港があり、中国にも使者を送るほどの権力を有していた。だが阿麻和利は後に奸計を用いて首里王朝に反逆する。

   

 中城湾を隔てて勝連城を監視していたのが護佐丸が城主の中城。護佐丸の娘は琉球王の王妃。つまり護佐丸は琉球王の舅に当たる忠臣。中城で警護の訓練をしてるのを見た阿麻和利は、護佐丸が反逆したと首里に使いを出す。それを知った百十踏揚が急使を首里に送ったが間に合わず、反逆の疑いをかけられた護佐丸は事態を悟り、王の軍に抵抗せず妻と共に自害した。彼は付近の巨大な亀甲墓(右)に眠っている。
なお、この戦いについては諸説あるが、那覇の大綱引きで綱に上がるのは、この2人の豪族だ。

       浦添城
   浦添ようどれ  

 さて、北山王国、南山王国を制覇し沖縄を統一した第一琉球王朝は、浦添に王都を構えた。眼前の東シナ海には牧港(まちなと)の良港があり、中国との貿易に便利だった。城の北側の崖の中腹には巨大な風葬墓である「浦添ようどれ」がある。ここは伝説の王朝時代からの古い墓でもあった。また崖下の発掘調査では、城下址や鍛冶屋の工房跡が発見されている。

         

 金属加工は権力の維持には不可欠で、中城の裏道の途中にも「カニマンの墓」称するものがあった。カニマンは現地語で鍛冶屋のこと。製鉄技術がなかった沖縄では、朝鮮や日本から「鉄てい」(鉄の延べ板」を輸入し、それを何枚か繋ぎ合わせて鍋を作った。「三枚鍋」「四枚鍋」などと言われるのはその当時の名残。沖縄のオバーの名前に多かった「なべ」(現地語でなびぃ)は食べ物に困らないように付けたもので、カマドなども同様だ。

 私は沖縄に赴任した平成初期に浦添城を訪れた際、一人の白装束のオバーが海に向かって手を合わせる姿を観た。沖縄では海の彼方にニライカライと言う極楽があると信じられている。内地で言う西方浄土だが、その姿の神々しさに驚いた。未だに原始神道が信じられている沖縄。既に内地では失われた姿が、沖縄には残っている。沖縄各地の聖地を訪れる旅に強くそう感じたものだ。<続く>





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Last updated  2021.11.26 21:35:57
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