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「さあ、南千住からの散歩もいよいよ山場」 「どこが山ですかねえ」 「前回の円通寺のすぐ南にある眞正寺」 「こちらの由緒は」 「四ッ谷の天龍寺を開いた徳賜心翁永伝禅師大和尚という人が隠居寺として開いたもの。元は湯島にあったが、1661年にこちらに移転したらしい。この和尚さんは1674年の没……由来が書かれているのがほとんど漢字で面倒なのでこんなところ」 「ま、いいか……」 「常磐線の線路を越えてすぐ、浄閑寺に着いた。ここは王子で石神井川から分かれた音無川が流れていた。これが吉原の山谷堀から隅田川に注ぐ」 「吉原まで通った道ですね」 「それで吉原関連の物も多い。こちらは新比翼塚」 「愛する二人を祀るものですが……」 「永井荷風の『里の今昔』には『明治12、3年のころ品川楼で情死をした遊女盛糸と内務省の小吏谷豊栄二人の追善に立てられたのである』と記されている」 「へえ」 「その後新聞に『吉原心中』として取り上げられたが、そちらによれば明治18年10月1日。主人公の名は盛紫と代えられ、『盛紫好比翼新形』という題で歌舞伎になった」 「へえ」 「墓地に入ったすぐ右にあるのがこちら。遊女若紫の供養碑じゃ」 「どういう人です」 「書かれているのを読んでみよう」 若紫塚記 女子姓は勝田。名はのふ子。浪華の人。若紫は遊君の号なり。明治三十一年始めて新吉原角海老楼に身を沈む。楼内一の遊妓にて其心も人も優にやさしく全盛双 ひなかりしが、不幸にして今とし八月廿四日思はぬ狂客の刃に罹り、廿二歳を一期として非業の死を遂けたるは、哀れにも亦悼ましし。そが亡骸を此地に埋む。 法名紫雲清蓮信女といふ。茲に有志をしてせめては幽魂を慰めはやと石に刻み若紫塚と名け永く後世を吊ふことと為しぬ。噫。 明治三十六年十月十一日七七正当之日 「つまり客に殺された遊女じゃな。永井荷風の『断腸亭日乗』では昭和12年6月22日にこのまま引用されている。客が女を殺して自分も死んだ。落語でも円生が演った『吉住万蔵』、歌舞伎の吉原百人斬りを元にした談志の『籠釣瓶』などあるからね」 「結局は落語になっちゃうのね」 「こちらが本当に落語……墓地に入って右の方に行くと見つかる、三遊亭歌笑塚」 「落語関係ですね」 「戦後すぐ綴り方で大変な人気になった噺家。アメリカ軍のジープにはねられて死亡。ラジオ放送に穴が開いたので、代役を務めた柳亭痴楽が綴り方を継ぐようになる」 「この碑にも詩が書いてありますね」 「古(いにしえ)よりの言の葉に……以下『我が生い立ちの記』の文句じゃな。綴り方の名作じゃ。文字は何と武者小路実篤」 「すごいねえ」 「安政の大地震(1855年)で吉原の遊女が多数死んで、ここに葬られたので投込寺として有名になった。墓地に入ったすぐの所にその後も引き取り手のない遊女の死骸を葬ったが、その数約2万人以上、平均年齢は21歳という」 「すごいですね」 「写真は新吉原総霊塔。新吉原で死んだ遊女らを供養するもので、『生まれては苦界、死しては浄閑寺』という有名な言葉が彫られている。さっきの歌笑碑を右折してすぐのところじゃ。明暦の大火、関東大震災、太平洋戦争でも焼け残ったのじゃ」 「不思議ですね」 「勝部真長という人がこんな文を書いている」 大筋では昔の雰囲気を残してゐる。その昔の雰囲気の大なるものが、本道の裏手に廻つた墓地の只中に残つてゐる。その地面は湿つていて、陰気な土の匂ひが鼻をうつが、日の光がささず、なにか淋しい、怖ろしい陰惨な気にとらはれてしまふ。 「勝部というのはここで荷風忌を行っていた責任者」 「永井荷風ですね」 「写真はその荷風の碑。総霊塔の向かいにある。荷風は底辺に生きる女性に温かい目を注いだ。作品にも多くそれが残っている。この寺はよく訪れていたのじゃ。『余死する時、後人もし余が墓などを建てむと思はば、この浄閑寺の栄城娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ』と言っている」 「そういう縁があるんだ」 「『偏奇館吟草「震災」』の抜粋が彫られている。最後だけご紹介」 くもりし眼鏡ふくとても われ今何をか見得べき われは明治の児ならずや 去りし明治の世の児ならずや 「ということで、今回はこれぎり」 「次回に続く」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.02.26 05:24:00
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