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「さあ、いよいよ巌流島での戦いに入ろうぞ」
決闘!巌流島 3:細川家指南役 佐々木小次郎が宮本武蔵と巌流島で戦ったのは慶長17(1612)年4月13日である。これは記念日になっているもので、早いものは11年も前、日付も12日であったり21日であったり、色々である。対戦相手も、ただ厳流とか佐々木厳流とか、全く別人だったりする。まあ、ここでは武蔵と小次郎が戦ったということでまとめておく。 巌流島は関門海峡にある島で、下関市彦島江の浦の沖250メートル、正式名は今も昔も船島である。面積は1万7千平方メートル、明治以降に埋め立てられ10万平方メートルを超えている。決闘の時代には九州に属していた。 小次郎は物干し竿と呼ばれる長剣を使ったが、師の中条流が小太刀であるため、厳流を名乗った。その名が島に残ったのである。小次郎は当時小倉39万9千石の城主、細川家の指南役であった。巌流島もその領地である。細川家は後に熊本に移り54万石となった。 先に細川家の話をしておくと、細川忠利が武芸に熱心で……これは戦国大名は誰でもそうなのだが……小次郎を優遇し、城下に道場も開かせている。それどころか、小次郎の死後、小次郎の弟子が若い者を指南し、新たな人物を召し抱えていないのである。それほど小次郎を愛していたということであろうか。 寛永6(1629)年頃に二階堂流の松山主水を召し抱える。小次郎亡き後17年、早い説でも11年目である。二階堂流というのは中条流から分かれたもので、佐々木小次郎の師の富田勢源が中条流であった。それで興味を持ったのかも知れない。この主水は6年目の寛永12(1635)年、忠利の父である忠興によって暗殺されてしまう。こ暗殺者は庄林十兵衛で、主水のそばにいた小姓に討たれている。暗殺は主水に傍若無人な振る舞いがあって中興を辱めたのが原因ともいわれるが、元々親子の確執が原因ともいわれる。 『撃剣叢談』によれば、主水の剣を最も受け継いだのが忠利と家臣の村上吉之丞の二人だったという。山にとてつもない動きをする浪人者が現れたと話題になり、興味を持った吉之丞が試合を申し込むと、相手は返事を保留しておいて吉之丞の素性を調べ、これはかなわないと逃げてしまった。これが宮本武蔵だったという。 忠利がこの武蔵を熊本に招いたのは寛永17(1640)年、翌年忠利が亡くなると、跡を継いだ光尚にも仕えた。正保2(1645)年に亡くなるまで熊本にいるが、正規の藩士となったのではなく客分である。それでも300石が贈られ、多くの弟子が集まったとされるので、事実上の師範代であった。 小次郎の後釜に入ったのが面白い。もっとも、村上吉之丞との逸話は、注目され、召し抱えてもらうきっかけのためのデモンストレーションである。 尚、この吉之丞、これだけの腕がありながら、やはり細川家の親子の確執から熊本を離れている。主水を暗殺した庄林十兵衛の一族である庄林隼人は加藤清正に仕えたが、加藤家改易後に細川家に召し抱えられた。この隼人と最も親しかったのが村上家だというのも面白い。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.05.11 09:29:58
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