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「さあ、今日は宮本武蔵について」
決闘!巌流島 4:宮本武蔵 宮本武蔵は晩年に『五輪書』を記している。これは寛永20(1643)年から正保2(1645)年にかけて書かれたものである。兵法書とされるが、生い立ちから流儀を二天一流と名付けたことなども記している。冒頭に「歳つもりて六十」とあるので、単純計算して天正12(1584)年の生まれとする説で説明していく。養子となった伊織の子孫がまとめた系図では10年の生まれとなっている。 ここには「生国播磨(兵庫県南西部)」とあるが、江戸後期の『東作誌』に美作国(岡山県北東部)宮本村とあるのが面白いというので、小説などで使われて有名になった。 『五輪書』では21歳の頃に京都で様々な兵法者と戦い、60戦以上全て勝利したとある。慶長9(1604)年になる。有名な吉岡一門との戦いはこの頃であろう。 養子の庵が記した『小倉碑文』によれば、武蔵の養父の新免無二が足利義昭の招きで吉岡家と対決し、勝利を得たため、その恨みから吉岡家が武蔵を狙った。まず吉岡清十郎を木刀で打ち破り、清十郎はその後出家する。継いで伝七郎と戦い、五尺の木刀を奪って倒し、伝七郎は死亡した。門弟らがその敵討ちと亦七郎との対決を申し出るが、数百人で待ち伏せした。武蔵は事前にそれを知るが、弟子たちに待っているように命じて一人で全部打ち破った……どうも物語めいて作り話どころか、講釈である。 福住道祐の『吉岡伝』では、松平忠直の家臣で武蔵が現れ、一戦目は吉岡直綱と立ち合い、武蔵が出血したので直綱の勝利か引き分けかと議論が分かれ、直綱が再試合を望むが武蔵が拒否、続く直実との試合は武蔵が逃げちゃった。二刀流で名高い武者と紹介され、二刀流で試合に臨むところから信用できないが、アンチ武蔵には人気の文献。 武蔵人気から、この戦いは武蔵の負けではなく引き分けとされるようになった。 まあその他色々あるが、『小倉碑文』のアレンジが主流で、それに巷説を加えたものが多い。武蔵は立ち合いに遅刻するのが常であるが、清十郎、伝七郎戦にも遅刻したという。それではすまないと、最後の集団戦では先に待ち受けて相手が来たところで倒したという。卑怯なことに、武士のたしなみである試合前の挨拶もしなかった。 これは相手が数百人を用意したからだという弁護が一般化するが、武蔵も弟子を十数人(数十人)連れていたという。武蔵をかばって負傷した者もいたとするものもある。 二刀流になったのも色々伝説がある。 祭り太鼓のばちから思い付いた、攻撃と防御に用いた。多くの敵と戦うのに二刀を使う効果を発見した……1本の刀でも振り回すのは大変である。戦国時代の兵士は刀を肩に担いで走っている。重いからである。二本を使うのはよほどの力であり、それで次々人を斬るのは無理であろう。一対一でもどれだけの効果があるのか分からない。武蔵がもともと片手で振り回す力量があったという説も後付であろう。 武士が二本差すのは、この武蔵を真似たのが始まり。巌流島の戦いから木剣を工夫し、これが木刀として世間に広まった……楽しい伝説が幾つもある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.05.11 19:32:50
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