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「さあ、いよいよ巌流島の決闘。さて、どのような戦いだったのか」
決闘!巌流島 5:巌流島の決闘 巌流島の決闘であるが、慶長17(1612)年4月13日という説をとって決闘の日という記念日になっている。一番早いのは慶長6年で、宮本武蔵は最も若い説で18歳である。これはいくら何でも……ということで遅い方の説を取るのである。宮本武蔵は29歳、一番脂ののった時期である。 『小倉碑文』では、岩流という者が武蔵に勝負を挑み、武蔵は相手は真剣でよいが自分は木剣を使うと言って、舟嶋で勝負、一撃で相手を倒し、島が岩流嶋と呼ばれるようになったとする。 『沼田家記』では、小次郎が豊前の師範であったが、武蔵が二刀流の師範になって、門人たちが喧嘩をして二人の決闘になった。武蔵が勝ったのだが、二人きりで勝負する約束なのに、武蔵は門人を隠しておき、息を吹き返した小次郎をみんなで打ち殺した。 『西遊雑記』では、岩龍が舟島へ行こうとすると、浦の者が、武蔵が大勢の家来を連れて渡ったので一人ではかなわないと止めたが、岩龍は聞かず、武蔵は弟子4人と共に岩龍を倒した。浦の者が心意気に感じ入り、岩龍島と呼ぶようになった。 『武公記』では、厳流小次郎は、富田勢源の家人で、18歳で厳流と号し、細川忠興に気に入られる。慶長17年に武蔵が勝負を願い出、わざと遅刻して「小次郎破れたり。鞘を捨てるとは」という名文句を言って勝負。武蔵の鉢巻が切れ、武蔵は木刀で討たれる相討ちだった。倒れていた小次郎が武蔵の膝上を切ったが着物だけで、武蔵の木刀が小次郎の脇を打って骨を折る。気絶した小次郎の口や鼻を覆って殺した。 これが様々な書物に引用され、書き換えられていったが、相手の年齢について書かれているのは武蔵の二天一流師範という豊田景英の『二天記』で、ここには富田勢源の弟子で、独立して厳流を創始し、細川忠興が登用して豊前の師範となった「厳流小次郎」、俗に「佐々木小次郎」、18歳としてある。武蔵は29歳としているから、最初にとった説と一致する。 ここでは武蔵は1対1で戦ったということで、遅刻も先の台詞も登場する。 これが唯一相手の年齢を記したもので、これまでここで説明した経歴とも一致している。 明治時代、熊本で宮本武蔵遺蹟顕彰会が編纂した『宮本武蔵』という本が出て、そこでは『二天記』がそのまま使われている。これが現在の全ての基本テキストである。 さて、これも歌舞伎からの影響があって、歌舞伎では「敵討巌流島」として月本武蔵之助と佐々木厳流という名になっている。佐々木厳流は『西遊雑記』の岩龍があるが、佐々木という姓は『二天記』とこれだけ。そうなると、門人共5人掛かりよりも、1対1がよく、より古い資料ということで『二天記』が採用されたと思われる。 そういうことで、前回説明したものも含め、江戸時代には様々な伝説が生まれるほど宮本武蔵の人気は高まっていたということであろう。そうなった理由はやはり『五輪書』であろう。門人のみに伝える心構えなど、きちんとした書物で剣術のことを記したことで、後の武士たちの手本となったのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.05.12 08:41:42
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