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「さあ、万葉集の歌を時代にそって見ていこう」
額田王:5「万葉集の時代・後半」 第三期「筑紫歌壇」 『万葉集』前半が歴史に沿っていたのに対し、後半は様変わりする。太宰府に赴任した歌人たちによる筑紫歌壇の時代である。最終的に『万葉集』をまとめた大伴家持の父である旅人が記録したものを持ち帰り、息子が集に入れたのだろう。息子も一緒に九州へ行ったという説もあるが、歌の内容から疑問。代表的歌人の山上憶良は、七二六年に筑前守となっているが、あくまでも筑紫歌壇の中心は旅人であり、着任したのが七二八年で、七三〇年には大納言となって京にいるから、わずか二年ということになる。 第四期「大伴家持の時代」 旅人の息子、家持が『万葉集』の最終的な編纂者ということは疑いがない。特に最後の四巻は彼の歌日記という内容である。防人を集める役人となったため、東国の民謡風な「東歌(あずまうた)」や「防人歌(さきもりのうた)」を収集したのが異色である。『万葉集』の中心が庶民となったとする学者もいるが、あくまでもその他の作者である。 さて、この四つの時代の代表的な歌を見ながら戻って行こう。 第四期 三年春正月一日に、因幡国の庁にして、饗(あへ)を国郡の司等に賜ふ宴の歌 新(あらた)しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと) (四五一六) 右の一歌、守大伴宿禰(すくね)家持作る。 天平宝字三(七五九)年の正月一日に、因幡国の庁で、国司や郡司らに饗応した宴の歌 新しい年の初めの初春の今日降る雪のようにどんどん積もれ、良い事が。 右の一首は因幡守である大伴宿禰家持が詠んだ。 『万葉集』の最後の歌である。こういう歌こそ、訳すよりもリズムで読みたい。集の最後とするにふさわしい、新年を祝う歌だ。『万葉集』は感動をそのまま詠んでいるという。「ますらをぶり」という男性的で直接的な歌である。一方約一五〇年後の『古今集』は「たをやめぶり」という女性的で理知的といわれる。技巧を駆使して組み立てるものである。さて、紹介した歌は「の」の繰り返しが新鮮で、古い歌とは思えないセンスを感じる。 ついでだから述べておくと、家持はこの後二六年生きているが、歌は一首も残っていない。歌を詠むのをやめてしまった原因を、政治的、人間関係に求める学者もいるが、とんでもない。歌を詠まない訳がなく、ただ記録されていない、あるいは記録したものが失われただけのことであろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.05.30 19:04:58
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