テーマ:謎を解く(185)
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「さあ、前期の歌を通して、万葉の歌はどういうものなのかを考えて行こう」
額田王:8「万葉集の歌・第二期までと第三期からの違い」 さあ、前回紹介した第二期と第三期の歌、比べてあまりに違うのに驚くだろう。それは長歌と短歌の違いではない。歌に詠む内容が全く違っているのである。 第二期の人麻呂は宮廷歌人として、天皇のために歌を詠んだのだ。それに対して第三期からは自分達の楽しみで歌を詠んだ。それほど時代が変化してもいないのに、撰者たちは前期の歌が宮廷歌人として公式のものであることを忘れ、感動を歌にしているのだと思い込んだ。この勘違いは近代、いや現代まで続いていると言えるだろう。 もう種明かしをするまでもないだろうが、第一期の額田王も宮廷歌人なのである。公式の場で詠まれた歌であって、私的なものではないのである。そういう観点から見直せば、額田王の歌が全く違うものとして浮かび上がって来る。 『万葉集』の中で額田王が最初に登場するのは次の歌である。 額田王の歌 秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 仮廬(かりいほ)し思ほゆ (七) これに続いて、有名な歌が並ぶ。 熟田津(にきたづ)に 舟(ふな)乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな (八) 熱田津で舟に乗ろうと月が出るのを待っていると、(その月も出て)潮の流れも思い通りになった。さあ、漕ぎ出そうじゃないか。 これには長々と注があり、斉明天皇が伊予の熱田宮へお出でになり、そこで昔、夫であった舒明天皇と共に来たことを思い出して詠んだ、つまり天皇のお歌であるとしている。 第4章でだらだらと歴史を書いたのを読み直していただきたい。年号が違っているのだが、朝鮮出兵のための旅なのだ。撰者は注を付けるにあたって、昔夫婦で来た思い出を歌った私的なものとして解釈しているが、歌の後半は明らかにこれから船の旅を続けるための安全を祈るものではないか。だから、公式の歌なのである。額田王が詠んだものとして何の問題もない。「さあ、漕ぎ出そう」と命令しているのが偉そうだから悩んだのだろうが、宮廷歌人でることを忘れるとおかしなことになるのだ。 『万葉集』ではこれに続いて、本当はこっちが額田王のものだと紹介されて別の歌が続く。更に紀の国の温泉で詠まれた歌が続き、その直後に中大兄皇子の「大和三山」の歌がある。額田王の歌は解読不明とされる。ご存知の通り、『万葉集』は漢字だけで書かれているが、漢字そのままの意味、音だけ取る、その他特殊な読みなどを駆使した万葉仮名という不思議な表記法を用いている。額田王の歌も色々読み方が出されて来たが、どれもピンと来ないので、未解決のものとなっているのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.06.01 19:47:40
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