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テーマ:今日の出来事(287504)
カテゴリ:認知症介護
おはようございます♪
いつもお忙しい中訪問頂きどうも有り難うございます。 今日も朝から雨が降っていて、少し肌寒いです。 暑くなったり寒くなったり、体調管理が大変ですね。 金木犀が香ります posted by (C)みえこ55 さて、昨日は夏野菜のゴーヤを撤去しました。 この夏は暑かったからなのか、ゴーヤが豊作で、昨日も10本以上もとれました。 ゴーヤを片付けたあとは、なすとミニトマトも収穫しましたが、 こちらも、一度では食べきれないほど沢山収穫できました。 思えば、春先に母と、夏野菜は何を植えようかと相談して植えたっけなと、 紫外線が急に強くなった頃の庭を思い出しました。 暴言や昼夜逆転など奇行がようやくおさまりはじめ、ほっとした頃のことです。 私が野菜の手入れなどをしていると、お茶を飲みなさいと、 美味しいお茶を入れてくれ、美味しいと言いながら飲むと満足そうな笑顔を見せてくれました。 もうあの頃には戻れないのだなとも思いました。 悲しいけれど、苦しいけれど、今の感情に流されてはいけない、そう思います。 悲しいとか苦しい、母が可哀想だと思う現実に負ければ、また同じことの繰り返しになります。 どんなに苦しい関係でも、またそこに戻れば現実の感情に負けて、 間違った人間関係を続けてしまいお互いに苦しくなるという現状がわからなくなるのです。 それが共依存というものなのだと思います。 現実と現状を混同してはいけないのだと思います。 さて、おとといの月曜日、新潟から夫の両親が母の面会に来てくれました。 夫と私と四人で面会に行きました。 病院に行くと、敷地内に金木犀の花が咲いていました。 丁度一週間前から近所でも香っていたのですが、花の姿はなかなか見つけられずにいました。 やっと出会えたという感じです。 思えば、初めてこの病院に来た日は、猛暑が続いていて、サルスベリが綺麗だったなと思い出しました。 気温も39.3度と、観測史上最高の気温だった日でもありました。 あんなに暑い日でしたが、暑さを忘れるほど、衝撃的で、長い長い一日だったので、生涯忘れることがないと思います。 義理の両親が母と会うのは約9ヶ月ぶりのことです。 昨年の12月に夫は実家近くで講演を頼まれて帰省したのですが、 母はその講演を聴きに新潟を訪れていたのです。 義理の両親は、自分達のことを覚えているだろうかと心配していましたが、 心配ご無用で「⚪⚪ちゃんは元気かしら?」と、義理の両親と一緒に暮らしている、 義理の妹の存在や名前も覚えていました。 義理の母が「お母さんに会いたくて来ましたよ」と、母の手を握りながら挨拶をすると、 母は頭を深々と下げて、「どうも有り難うございます」と言いました。 母を知らない人が見ればどうということのない光景かもしれませんが、 長年母を見てきた私にすると、これまであまり見たことのない光景でした。 母は長年病院の婦長、総婦長をしていましたから、人に対して深く頭を下げることは滅多にありませんでした。 誰かがよく母のところに付け届けを持ってくる時なども、いつも背筋をシャンと立てて、 首を少しだ横にかしげて、軽く会釈をする程度でした。 真正面から、相手につむじが見えるほどに頭を下げたのは、母の病院の理事長に向かってお辞儀をしたときくらいしか見たことはありませんでした。 ですから、何が起きたのか?というくらい珍しい母の姿でした。 母は恐らくとても緊張をしていたのだと思います。 母は、人を信用することが苦手な人です。いつも人を見るとき、敵か味方かということで判断します。 そして、あるときは見方でも一瞬で敵になってしまうこともあるということが多かったために、人と接するときには緊張状態になってしまうのだと思います。 ただ、私が夫と結婚して以来、義理の両親が母を不快にさせる出来事がなかったからでしょう、母は義理の両親に対しては、他の他人とは違う感情を抱いているのが私にはわかりました。 義理の両親は、母と久しぶりに会って、どこもおかしいとは思わなかったと言っていましたけど、 私から見れば以前とは全く違うのは一目瞭然でした。 母はいつも人と話をする場合、それが例え初めて会った人であっても、ベラベラと自分の話をする人でした。 相手が話をする間もなく、いつも口おかずしゃべっていました。そのほとんどは自分の自慢話です。 ですから、母の話を横で聞くときは、相手の方が困っていないかといつもハラハラしたものでした。 そんな母だったのに、認知症になってからは、自分から話をしはじめることはほぼなくなりました。 一方、義理の母達は母とは対称的な人達です。いつも控えめで、相手を立てて、自分が自分がとしゃべり続けることはありません。 長年田舎暮らしをして、濃厚な田舎の人間関係を続けてきたからなのでしょう。 色々な人達と長い間協調して暮らしてきた人達なのです。 今までは母がしゃべりたおし、両親が聞き役だったのですが、母は何も自分から話をしないので、 義理の両親ははじめ、少し戸惑ったようですが、会話が途切れると、 誰かかれかが、必死に話題を探し、母が話しやすい雰囲気を作ってくれました。 「病院のご飯は美味しいですか?」「また新潟に遊びに来てくださいね」 など、あくまでも母が話の主役になるよう気遣った話題を出してくれていました。 いよいよ話すこともなくなり、帰ろうと面会室から出ようとしたとき、 母の目にうっすらと涙がにじみ出ていたのに気づきました。よほど嬉しかったのでしょう。 緊張もほぐれていたのだと思います。 白い鉄で出来た重い二重扉の向こうで、エレベーターのドアが閉まるまで手を降る母が切なかったです。 可愛そうだけど可哀想だと思ってはいけない共依存。元には戻れない私と母。 今日という日が、あの時はこんなだったねと、笑える日が来るのは何時なんだろう? エレベーターのドアが閉まった瞬間は、また以前のようにお母さんと戻りたくなって、 とても悲しくなりました。 しかし、そんな風に考えると辛くなるだけなので、限りのある人生ですから、 今この瞬間を大切にして、笑って過ごそう、そう思います。 ←ポチっとお願いいたします♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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