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テーマ:ご隠居のひまつぶし(713)
カテゴリ:調べてみた
盆のふるさとからのUターン、宝塚あたりの渋滞時間を避けて
備後福山城に立ち寄った。 昭和19年、連隊勤務の親父がお袋と新婚生活を送った場所。 新幹線の窓越しに見える城郭。 いつか行ってみたいと思いながら今になってしまった。 昭和20年の空襲で焼け落ちた天守は昭和41年に再建されたものだが 伏見櫓と筋鉄門は現存建築で重要文化財。 城域は広い。 かつては 5重の天守に7基の三重櫓を備えていたという。 関ヶ原の戦い後、毛利輝元が防長2国に押しこめられ 慶長6年(1601)安芸・備後50万石が福島正則に与えられた。 しかし 家康の死後、正則は城の無断修築を咎められ 元和5年(1619)信濃高井野4万5千石に減封・転封、正則死後改易。 安芸広島には浅野長晟が42万石で入り 備後福山(当時は神辺)には水野勝成が 大和郡山6万石から10万石で転封してきた。 水野勝成は家康の従弟にあたる。 家康の母 於大が水野氏の出身で 勝成の父 忠重は於大の弟であった。 勝成は めまぐるしく変転した人生を送っている。 永禄07年(1564) 水野忠重の長男として生まれる。 天正08年(1580)17歳 高天神城の戦いに父と共に織田方で参戦、首級をあげる。 天正10年(1582)19歳 父の許を離れ、徳川家康の天正壬午の乱に参加 天正12年(1584)21歳 小牧長久手合戦では織田信雄の与力である父と共に参加。同年蟹江城合戦の時、父の部下を切り殺し父から勘当され出奔。 天正13年(1585)22歳 豊臣秀吉の四国征伐に仙石秀久家中として参加。戦後、秀吉から摂津に7百石の知行を授かったが間もなく知行を捨てて逃亡。 天正15年(1587)24歳 肥後の佐々成政に千石で召し抱えられた。 天正16年(1588)25歳 佐々成政が一揆発生の責を負い切腹、小西行長が肥後を納めると千石で召し抱えられる。 天正17年(1589)26歳 天草五人衆の反乱鎮圧に活躍。このあと行長の許を去り加藤清正に仕官するが、間もなく立花宗茂さらに黒田孝高の家中となっている。 黒田孝高の長子長政が秀吉拝謁のため大阪に向かうのに同行したが備後鞆の浦で逃亡し以後諸所を放浪した。 文禄04年(1595)32歳 備中成羽の国人・三村親成の食客となった時、世話役の娘に子供をもうける。娘「お登久」は室となる、子供が後に備後福山藩第2代藩主となる勝俊である。 慶長04年(1599)36歳 前年秀吉死去。上洛した家康の幕下に加わり、父忠重と和解する。 慶長05年(1600)37歳 家康に従い会津征伐のため下野小山に宿陣しているとき 父忠重が池鯉鮒にて殺害された。勝成は家康の命により刈谷に帰り刈谷城3万5千石を相続する。 同年9月の関ヶ原合戦では大垣城の抑えにまわる。 元和 元年(1615)52歳 大坂の陣の功により大和郡山へ6万石で転封。 元和05年(1619)56歳 秀忠から郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられる。 寛永15年(1638)75歳 島原の乱に 勝成は嫡子・勝俊、孫の勝貞を伴い約6,000人を率いて幕府軍に加わった。 寛永16年(1639)77歳 家督を勝俊に譲り一分斎と号する。 寛永20年(1643)80歳 京都大徳寺で禅の修行をする。翌年 法躰となり宋休と号す。 慶安03年(1650)87歳 自ら 鉄砲を放ち、的に当ててみせ、諸人を驚かせる 慶安04年(1651)88歳 福山城内にて死去 福山城二ノ丸には 初代城主 水野勝成の銅像が建っている。 水野家は嗣子なく5代79年で断絶している。 以後 天領の時代、松平(奥平)時代をはさんで阿部家時代160年。 福山の人々は ずっと水野勝成を慕っているようだ。 城内には 家康と勝成の従弟人形も展示されていた。 また 天守の扉に彫ってあるのは阿部家ではなく 水野家の紋所だった。 余談ながら 「旗本奴」として知られた旗本の水野成之(十郎左衛門)は勝成の孫である。 さらに城域にある護国神社(元阿部神社)には「宮本武蔵腰掛石」がある。 「大坂の陣において、武蔵は、三河刈谷3万石城主水野日向守勝成の陣に属し参戦する。寛永年中(1624~1629)武蔵は福山城に勝成を訪う。<以下略>」 いやあ 私も 勝成の晩年を見習いたいものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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