宇摩説の「大人の古事記講座」248 大国主、大年神2 宇摩解説、豊受山と青垣の法皇山脈について
宇摩説の「大人の古事記講座」248 大国主、 今回は、宇摩説の解説である。少し混乱気味の法皇山脈と中で目立つ豊受山などの高峰と、高天原の中心部の時代変遷について概略を書いておく、 やさしい古事記講座218、大年(歳)神2、法皇山脈 http://kabu003himiko.iza.ne.jp/blog/entry/1064737/ <コピー> はじめに 前回は、大国主がスクナビコナに去られて国作りに嘆いていたら、海上に光ながら、現れた神、コトシロヌシの話の原文と、読み下し文を紹介した。 今回は宇摩説の解説を述べよう。まず、先に書いた読み下し文のコピー載せる。これらを含めて、幾らか前回と重複するが、修正などもあり、三つにして載せる事にした。 事代主の読み下し(再録) No,1、 ここにおいて、大国主神は、愁いて告(の)りたまひしく、「吾(あれ)独(ひと)りして、何(いか)にか、能(よ)く、此の国を作り得らむ。孰(いづ)れの神と、吾(あれ)と、能く、この国を相作らむや」とのりたまひき。 宇摩説語義・解説 孰の神 孰は、煮える。実る、などの意味である。煮えた神。実った神はベテランの神であろう。 * 史学は「いずれ」と読んでいる。又、辞書にも同様に載るが、宣長の読みが辞書に採用されたものだろう。 (スクナビコナが去って)大国主は、自分一人でどのようにして、よく、この国を作る事が出来るだろうか。ベテラン(みのる)の神と自分で、この国を作りたい、と、言われた。 No,2 この時に、海を光(てら)して、依り来る神が有りき。その神の言(のり)たまひしく、「能く、我が前を治めば、吾(あれ)能く、共與(ともに)、相い作り成さむ。若し然(しか)らずば、国は成り難しけむ」と、のりたまひき。 宇摩説語義・解説 * 「海(アマ=天)を光らせる」とは、この神は高天原の意向に沿って国を導いた神である事を示している。つまり、大国主の先任者で、引退・隠居していたものだろう。 * 「我が前を治める」とは、この先輩の神の教えを聞いて、これを実行する事を云う。ニニギが天下る時に、天照大神が教えた中にも同様の言葉がある。 注1 史学は神霊を祭った神社の神前の行いだけと思っているようだが、これだけではない。それに、神話時代には、現在のように神社(神の祭祀)はなかった筈だ(*穀倉だった)。 注2 これは、「やさしい古事記講座」の大国主の「しろうさぎ」で宇摩説が解いたように、大国主の提案によって、宇佐神宮が出来たこの時が最初だろうと思う。 宇摩説の現代語訳 この時に、アマ(海)を光らせて、依って来た神が居た。その神が言われて、「よく、我が前を治めれば、自分は良く、共に合い作りましょう。そうしないと、国は成らないだろう」と云った。 NO,3 ここに大国主の神、曰(もを)ししく、然らば、治め奉(たてまつ)る状(さま)は、奈何(いか)にぞ」と、まをしたまへば、「吾(あれ)をば、倭(やまと)の青垣の東の山の上(へ)に、拝(いつ)き、奉(まつ)れ」と答え言(のり)たまひき。 こは、御諸(みもろ)山の上(へ)に坐(ま)す神なり。 そこで大国主神が、「では、どのように、治め、奉る様は、どのようにでしょう」と、言われた。「自分を、ヤマト(倭)の青垣の東の山の上に、イツキ、まつ(奉)れ」と、答えた。 これは、御諸山の山上に坐す神なり。 *この神は、次に、大年の神の系譜を載せるので、大年と判る。これは次回に書く事にしよう。 宇摩説の理解 注3 古事記で、「倭」とあるのは、大和ではなく、宇摩の時に使っていると、宇摩説では見ている。 この解釈からいえば、法皇山脈が御諸山であり、青垣(宇摩平野の南側の山間部が高天原。邪馬台国の垣)で、青垣の西の山が豊受山、中心が「水波峰(加賀山)」となり、東の山は「平石山」になろう。 大国主は、この後の「国譲り」で水波峰の麓に、「天日隅の宮」が支給される。これは、先の第一回で説明している。「やさしい古事記講座では」、この後にも出てくる。 先の時には、大国主が水波峰の麓に住んだのは、「国を作り、固めた」功績によって、後に隠居仕事家を与えられ、全国から高天原に来た人々の相談役で余生を送ったと、説明した。 これを思い出せば、青垣(法皇山脈)の東の山の主も、引退した先の国固めの神であり、この神が指示していたであろう、スクナビコナの鏡配りの上司となる。 つまり、スクナビコナの協力で進んだ仕事によって、直接、この上司と交渉を持つ事を許されたと云う事になる。大国主は少名毘古那と同じ立場に一段(階級)昇進の出世である。 <2012,8.16、修正> *どうも、書いていて、青垣に比定する法皇山脈(1247M)の主峰が判り難くなった、山脈の西の端にある高峰が豊受山で、東に次第に低くなっている。ここは高天原初期の中心だったようだ。 * 宇摩説が天照大神時代の高天原中心に比定する、中峰などは、中間部に位置し、水波峰(加賀山、約、800M)である、この辺りから余り標高は下がらず、この東にある平石山もほぼ同じ高さである。 * つまり、水波峰と、平石山(約、800M)の南側が、高天原であり、中心部は時代によって変わり、イザナギの頃は、平石山の奥に中心があり、天照大神の時代は、水波峰の南にあった。 * 平石山の東は急激に低くなるので、青垣を越えるには一番都合が良い、法皇山脈は北側(平野側)は緩やかだが、南側は急勾配で、南に降りれる場所は、三つの高峰の横の3箇所しかない。<* 平石山の東は戦前からバス路線がある><* 水波峰は戦後にトンネルが掘られて、バスが走る> * つまり、法皇山脈は南の高天原を守る優れた天然要塞なのである。 <2012,8,17、大人の古事記講座248>