日本縦断(北海道編・2)
日本縦断(北海道編・1)の続きです。★8月9日(土)↑富良野の大地 さだまさしの声が聞こえる。(ような気がする)↑富良野線富良野駅(北海道富良野市) ラベンダーはなかったが力強い大地に感動。そして滝川経由で札幌へ。↑北海道開拓使(旧・北海道道庁) ↑時計台 そして大通。すすきのへ。1円も使わずにただ歩いただけ。 函館本線で小樽へ。銭函の海が素晴らしい。 ↑小樽駅(北海道小樽市) 函館本線銀山駅のホームには大量のマイマイガの死骸が・・・・・気持ち悪い。 マイちゃんなんか大っ嫌いだー。(・。・) この日は倶知安の旭ヶ丘公園でテントを張った。風呂に入れず不機嫌になったが、まぁ寝た。 ★8月10日(日) ↑後方羊蹄山 なんと素晴らしい山だろうか。ようていざんである。またの名をしりべしやま。 多分、蛾がようけおるんやろなー。w 長万部(おしゃまんべ)へ。長万部温泉に浸かって、大名行列みたいなのを見た。 ↑長万部かなやのかにめし 北海道三大驛弁の一つである。個人的には遠軽のかにめしの方が好みであるが、まぁ一度食す価値はあるだろう。 ↑噴火湾そして、我々は銚子口に着いた。 北海道亀田郡七飯町銚子口。ここでテントを張ってひなたぼっこ。気持ちのいい日差しである。 蛾もおらん・・・・・本当に素晴らしい場所である。 東大沼キャンプ場。やっぱ、ここはふるさとなんだなーって。一時間かけて函館へ出動。 ↑五島軒のカレー 「ゴトウケン」というのは、函館では知られている洋食屋である。武蔵鴻巣出身の若山惣太郎という人物がいた。彼は明治11年に、米相場に失敗して北海道に落ちた。 一方、宋近治という人物がいた。彼は長崎県五島列島の福江の出身であった。福江藩に仕えており長崎通詞をやっていた人物であったが、戊辰戦争に伴い函館まで落ち延びた。そして、榎本武揚や土方歳三らと箱館戦争を戦ったが、薩長の軍勢に敗れ、ハリストス正教会に匿ってもらったそうである。そして10年もの長きに渡りロシア料理の修業をした。 この若山と宗という人物が出遇い、ゴトウケンは作られた。宗は五島列島の出身だったため、五島英吉と名乗り、五島軒の初代料理長となったのである。創業百二十年。 港町・箱館で洋食というのもまた粋である。(・。・) ↑五稜郭公園 今年もまた、ここにやってきてしまった。箱館戦争から来年で140年。榎本、土方・・・・・・。旧、幕府軍最後の戦いである。北方政権樹立を夢見た男たちの足跡はまだここに残っている。 ↑中島三郎助父子最後の地碑 中島三郎助とは、幕末に浦賀奉行であった。勝海舟とは仲が悪かったらしい。吉田松陰や桂小五郎に海防や造船を教授したこともあった。そして、戊辰戦争が始まると榎本武揚とともに北方に落ち延び、供に戦った。だが、榎本降伏後も薩長と戦い続け、戦死を遂げた。この地は現在・・・函館市中島町と呼ばれている。 辞世の句がある。 「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」 付近には、一本木関門跡もあり、土方歳三最後の地碑が立っている。五稜郭タワーの中には土方ブロンズ像が立っている。 そして銚子口に帰宅。おやすみ・・・・ ★8月11日(月) 早朝、銚子口を出て木古内へ。木古内と言えば咸臨丸が沈没した地である。 ↑咸臨丸が沈没した木古内湾 咸臨丸と言えば、日本人が正規に乗って初めて太平洋を横断した船である。幕府の軍艦であったが、榎本武揚に從って品川を脱出。だが、暴風により伊豆沖へ流されて、清水港で薩長と戦い敗北。新政府方の船となった。港に散乱する旧・幕府軍の遺体を清水の侠客、次郎長が埋葬した。その後、北海道に向け航海を進める中途、木古内において暴風雨に遭い沈没した。 ↑道道 当たり前の話だが、県道ならぬ、「道道」というのはおもしろい。 青函隧道を抜けて津軽へ。 ↑陸奥湾(青森県外ヶ浜町蟹田) ここには太宰治の文学碑がある、観覧山という山があった。 陸奥湾が綺麗であった。 そして、リゾートしらかみで五能線で帰宅した。 ☆まとめ 四国を出て、九州、山陽、畿内、東海、関東、東北、北海道と日本を縦断してみた。これは初の試みであったが、なかなか疲労のたまるものであった。 日本は狭いようで広い。 広いようで狭い。あんなに遠いと思われた、熊本も旭川も、まーそう考えれば近いものなんだなーって。 道中、様々な人と出会った。 旅は人との出会いを通して成り立つものであると私は考える。 距離を計算した。3847,5キロ。 普通であれば交通費のみで10万以上かかる旅行であるが、今回は宿泊費、食費も込みで6万以内におさめた。 ウマいものを食べまくった。そして、ホテルには一泊もしていない。 まさしく強行な旅であった。 全て鈍行を使った。普通列車と快速のみ。まさに青春18であった・・・・だが、まだ旅は終わってないのだ。日本縦断(山陰編・1) へ続く