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聖徳太子みろくのひびき

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2020.04.28
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2020年4月28日(火)

益田市(島根)
高津柿本神社

<益田市観光協会>
https://masudashi.com/kankouspot/kankouspot-727/



柿本人麻呂が祀られており、(国重要美術品)正一位柿本大明神の神位を持ち、 疫病防除、開運、学問、農業、安産、眼疾治癒、火防などのご利益があります。入母屋造の本殿は県建造物文化財です。
その歴史は、人麿没後まもなく神亀年間(724〜729)に、聖武天皇の勅命によって終焉の地である鴨島に人麿を祀る小社が立てられましたが、300年後の万寿3年(1026)の大地震で島は海底に沈み、人麿のご神体も津波で流され、現在の高津松崎に漂着しました。そして地元の人によってこの高津松崎に人丸社が建てられ、 長い間人々の信仰を集めたとされており、更に600年後、風波のため破損がひどくなったため、1681年に津和野藩主亀井茲親(これちか)によって、高角山(標高約50m高津城跡)に移築され、今に残っています。拝殿は津和野城から参拝できるように津和野の方向へ向いています。
毎年9月1日には八朔祭が行われ、古式豊かな流鏑馬神事がそばの高津川河川敷で催されます。高角橋から神社までの参道は露天商が並び、とても賑わいます。県指定文化財。


日本全国400社(合祀を含む)に登る柿本人麻呂を祀る神社の発祥の元宮とされています。
明石の柿本神社も高津柿本神社由来とされている。
その発祥は聖武天皇の勅命によるものだったのです。
拙著、「蘇る聖徳太子の真実」では、「万葉集は聖武天皇の勅命を受けた大伴家持と橘諸兄が撰集した」ものであることを解明しています。
聖武天皇の勅願によって、柿本人麻呂が神として祀られていることに合点がいくのです。
万寿三年の大津波で流された柿本人麻呂の木造が、高津松崎に漂着し、それが現在でも所蔵されているという。
梅原猛の「水底の歌」下巻には奈良県葛城の柿本神社所蔵の人麻呂の木造写真が掲載されています。
高津柿本神社の木造を模して作成されたものとされているのですが、ここで皆さんにお目にかけられないのが残念です。



こちらは先に紹介した「柿本人麻呂にまつわる全国の神社仏閣(まとめ)」の画像です。

2019年10月17日(木)

拙著「蘇る聖徳太子の真実」で、万葉集は聖徳太子によって始められたことを明らかにしました。
その証拠が万葉集第二の歌だったのです。
しかし、この本には書かなかったのですが、私は第一の歌も聖徳太子の歌ではないかと考えています。
何を言い出すやらとびっくりされるかもしれません。

万葉集入門サイトから引用します。
万葉集入門

万葉集巻一の一
籠(こ)もよ み籠(こ)持ち堀串(ふくし)もよみ堀串(ぶくし)持ち 
この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ)家聞かな 名告(なの)らさね
そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ
しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ
家をも名をも

《現代語訳>

籠(かご)よ 美しい籠を持ち 箆(ヘラ)よ 美しい箆を手に持ち この丘で菜を摘む乙女よ きみはどこの家の娘なの? 名はなんと言うの? この、そらみつ大和の国は、すべて僕が治めているんだよ 僕こそ名乗ろう 家柄も名も

この​歌は第二の歌から150年も前の雄略天皇の歌とされてきました。
しかし、150年も前の歌が、何故に唐突に第一の歌として収録されなければならないのでしょうか。

その理由を合理的に説明することは出来ないのです。

入鹿神社のある小綱町の隣に「内膳町」があります。
聖徳太子の奥さんの膳部夫人は「芹摘妃」という別名があると伊勢物語に書かれています。
聖徳太子が芹摘みをしている膳部夫人を見染めて、斑鳩に連れ帰って奥さんにしたんだそうです。

聖徳太子である蘇我入鹿公は、中年になっても、蘇我馬子が亡くなるまではたびた太子道を通って飛鳥嶋庄を訪れていたはずなのです。
小綱町か内膳町あたりで芹摘みをしているうら若き膳部夫人を見染めてしまったのではないでしょうか。
芹摘みをしている膳部夫人を、母親の家まで行って断ってからその日のうちに斑鳩へ連れ帰ったのでした。
一目で惚れしてしまったということになりますね。

万葉集第一の歌はその時の聖徳太子の歌だとしたら何の矛盾も無く治まるのです。

もしそうだとしたら、聖徳太子は私たちが考えているような堅苦しい聖人ではなく、本当に人間臭い聖人だったということになってしますのです。

参考にこちらのサイトをご覧ください。

伊勢物語と仁勢物語
 
後日談:
芹摘妃の正式な名は「膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)・膳大郎女」。
身分は低い出自ながらも、聖徳太子にもっとも愛され、愛した妻でした。
「芹摘妃」は、聖徳太子との間に、四男四女、八人の子供が生まれました。
それゆえ聖徳太子は「死後は共に埋葬するよう」と言ったと伝えられ、
聖徳太子が病に伏すと、看護し、共に同じ病に倒れ、太子が亡くなる前の日に没した。
現在も聖徳太子と共に、同じ墓所で眠っている。



万葉集関連書籍紹介 ​http://manyou.plabot.michikusa.jp/​
2019年10月8日更新
新着蘇る聖徳太子の真実 著者/飛鳥真探・編集/佐宗知佳 (文芸社出版) 定価1400円(税別)

当サイト「万葉集入門」を鑑賞してくださっている飛鳥真探さんが、長年のご自身の研究成果をまとめた古代史論考「蘇る聖徳太子の真実 - 皇室は聖徳太子の血統を継いでいた」を上梓されました。
『日本書紀』に隠された暗号を解き明かし、真の聖徳太子の正体に迫ろうとする飛鳥真探史観の集大成。

■日本の歴代天皇は聖徳太子の血統を継いでいる
■日本の天皇には日本と朝鮮の血統が流れている
■善光寺は聖徳太子を祀る寺だった
■藤ノ木古墳に納められていた遺体は聖徳太子と膳部夫人である
■万葉集は聖徳太子によって始められた

など、実地に足を運び、自らの肌で感じ取ることでのみ見えて来る古代史論考の魅力がここに存在します。

また、万葉集においても、その序文が存在したであろうとの仮説を立てて、それぞれの歌に込められた暗号を大胆に考察。
謎の歌人、柿本人麿(柿本人麻呂)の正体と、その実像についても迫っていきます。

通説を疑うことによってのみ見えて来る<歴史の真実>。
万葉集論や古代史論は数多あれど、これほど大胆に通説を解体し、真実を再構成しようとした人物は飛鳥真探氏以外にはいないのではないでしょうか。

アマチュア研究家だからこそ出来る通説に縛られない自由な発想。
その歴史論考の大胆さに驚くとともに、そこに至るまでのしっかりとした下地の知識の豊さにも感動しました。
実地に足を運び、地元の人々と交流し、はるか過去の出来事に思いを馳せる歴史愛好家の醍醐味が詰まったすばらしい一冊を手に取って、ぜひみなさんも失われた歴史の瞬間を想像する楽しさを体感してみてください。


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最終更新日  2020.05.02 16:42:10
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