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2020年5月21日(木)
坂本龍馬は多くの日本人に愛されています。 司馬遼太郎の「龍馬が行く」の影響が大なのではないでしょうか。 彼は国の基本である財政政策を明確に持っていました。 明治元年、由利公正(三岡八郎)によって公共通貨・太政官札が発行されました。 <ウキ抜粋> 坂本龍馬との関係 坂本龍馬とは大変気が合ったようで、龍馬2度目の福井来訪時、足羽川近くの山町のたばこ屋旅館にて、早朝から深夜まで延々日本の将来を語り合ったという。当時、謹慎中の公正(三岡八郎)には立会人として藩士が付き添ったにもかかわらず、龍馬は遠慮せずに「三岡、話すことが山ほどあるぜよ」と叫んだと伝えられる。五箇条の御誓文の原文となった「議事之体大意」は龍馬の船中八策(「船中八策」については史料上の疑義が多く、史料として現存している「新政府綱領八策」ではないかとの説もある)と思想的な基本が共通している。龍馬は公正と会見して帰京した時期に「新政府綱領八策」を自筆しているが、2014年にこれに関連する下書きが発見された[8]。 龍馬2度目の福井訪問から約1週間後、公正は福井城下にて足羽川沿いの土手を歩いていたその時、一陣の突風が土手を歩く公正を襲い、懐中に忍ばせておいた龍馬の手紙を落としてしまった。公正が手紙を紛失した時と同じくして京都にて龍馬が暗殺されたという巷談が残る[6]。 坂本龍馬は「天下の人物といえば西郷隆盛と三岡八郎」と由利公正(三岡八郎)を評価していたのです。 日本の新しい国のかたちを示した「新政府綱領八策」は龍馬の直筆だったのです。 政府発行通貨「太政官札」の発行は坂本龍馬の日本経営の根幹だったことが分かります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.05.21 14:35:08
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