(続・草稿)一度は失われた、と諦観したものが、実は、失われていなかったことがわかる、というのは、結構なことのはずだが、しかし、では、あの「喪の作業」はどうなったのだ?という、ある種後ろめたさも、残る。
メジロ(メジロ科)シロガシラ(ヒヨドリ科)セッカ(ウグイス科)イチモンジセセリ(セセリチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)「ねこログ」、総目次(笑)/新・「ねこログ」、総目次(笑)/続・「スクラップ・ブック」、の、目次。目次:過剰なほどちりばめられた「地名」を読み解く、「独領ポーランド」から、「ポーランド共和国」、「ダンチッヒ自由市」まで、そもそもどうしてドイツ語なのか?・・・ギュンター・グラス「ブリキの太鼓」を読む/陰陽学では、「陽/奇数」の方が「陰/偶数」より、縁起が良いものとされているらしく、それが重なればさらにめでたく「重陽」という、今日は旧暦三月三日、当地では「浜下り(はまおり)」の日だといわれる。/「引き裂かれるアイデンティティー」などと、きいた風な言葉で表現してしまうことができればそれまでだが、人々が、どんな葛藤の中に留まりつづけていなければならないのかを想像してみる、わずかばかりのよすがには、なると思う・・・75年前の、ハンナ・アーレント、アルバート・アインシュタインの名がその署名者に含まれている書簡を読む。/彼らの一人一人が、その固有の物語をもち、彼らを弔う、彼らを愛した人々がいたのである・・・アトランタ、ニューオーリンズ、ブリストル、バルセロナ「座り込みキャンプ」、総会決議、「それは私たちの旗ではない」、ガザからの記事/The Tin Drum/Die Blechtrommel(1959)/Günter Grass一八九九年のことだった。彼女はカシュバイの中心部のビッサウの近くに、いやむしろ煉瓦工場のもっと近くに坐っていた、ラムカウの前、フィーレックの背後に坐っていた、ブレンタウへ通じる街道のディルシャウとカルタウスのあいだに、ゴルトクルークの黒々とした森を背負って坐っていたのだ。そして先端の焦げたはしばみの枝でじゃがいもを熱い灰の中に押し込んだ。「ブリキの太鼓」ギュンター・グラス(集英社文庫)The year was 1899; she was sitting in the heart of Kashubia, not far from Bissau but still closer to the brickworks between Ramkau and Viereck, in front of her the Brenntau highway at a point between Dirschau and Karthaus, behind her the black forest of Goldkrug; there she sat, pushing potatoes about beneath the hot ashes with the charred tip of a hazel branch.The Tin Drum(1959)/Günter Grass/Die Blechtrommel(1959)/Gunter Grass・・・カシュバイKashubia:ポーランド、ポメラニア地方Pomerania東部の歴史的呼称、インド―ヨーロッパ語族Indo-Europeanバルト―スラヴ語派Balto-Slavic西スラヴ諸語West Slavicレヒト諸語Lechiticカシューブ語Kashubianの話者が人口の多数を占める、引用部分に「カシュバイの中心部in the heart of Kashubia」とあるが、歴史的には、下で触れるカルトツィKartuzyあるいは、コシエルツィナKościerzynaが、この地方の中心都市と言われてきたらしい、英語ではカシュービアKashubiaだが、ポーランド語ではKaszuby、カシュバイ語ではKaszëbëビッサウBissau:残念ながら見つからずラムカウRamkau:GoogleMapに問い合わせると、以下の二つが紹介された、レビエショウォRębiechowo、レボウォRębowoフィーレックViereck、はるか西方の、ドイツ、メクレンブルク・フォアポメルン州Mecklenburg-Vorpommern、に、その名の都市がある、ポーランド西ポメラニア州のシュチェチンSzczecin、ドイツ名シュテッテンStettinと、国境を挟んだ対岸ブレンタウBrenntau:残念ながら見つからずディルシャウDirschau:これも、GoogleMapによれば、トチェフTczew、に当たるようであるカルタウスKarthaus:ポーランドの地名のドイツ語表記一覧List of German exonyms for places in Polandのサイトで、唯一突き止められたのが、この都市、上で見たように、カシュバイ地方の中心都市だったようだ、カルトツィKartuzyゴルトクルークGoldkrug:これもGoogleMapによれば、Złota KarczmaハシバミHazel/Corylus、ブナ目カバノキ科ハシバミ属、「榛」、日本語の語源は、「葉にしわがある」ことからアンナ・ブロンスキーは、一八九九年のその日、どこに「坐って」いたのか?「概念図」どうも位置関係がよくわからない、こちらの頭が悪い(笑)せいもあるだろうが、たくさん登場する地名のうち、その位置が判明したと思・わ・れ・る・、カルタウス、ディルシャウ、ラムカウ、ゴルトルークを基準にして考えよう、と、上のごとき「概念図」をつくってみた(笑)(1)ブレンタウに向・か・う・街道上に、二地点、カルタウスとディルシャウがある、ならば、ブレンタウは、(a)カルタウスの北西、または、(b)ディルシャウの南東、となろう(2)街道に向かって、ゴルトルークの森に背を向けて座っていた、というのなら、彼女、アンナ・ブロンスキーは、南西の方角に向かって座っていたのであり、ならば、同じく背を向けた、とされているフィーレックは、ゴルトルークと同じ方向にあることになるだろう(3)困ったことに、この構図では、ラムカウらしき町が、どうしても「前」の方にはなってくれない、・・・、等々英語訳と日本語訳に隔たりがあるようにも思えたので、ドイツ語版も参照し、辞書を引きつつ、「拙訳」を試みてみたものの、特に変わり映えはしない結果に終わった(笑)Man schrieb das Jahr neunundneunzig, sie saß im Herzen der Kaschubei, nahe bei Bissau, noch näher der Ziegelei, vor Ramkau saß sie, hinter Viereck, in Richtung der Straße nach Brenntau, zwischen Dirschau und Karthaus, den schwarzen Wald Goldkrug im Rücken saß sie und schob mit einem an der Spitze verkohlten Haselstock Kartoffeln unter die heiße Asche.それは、99年のことだった、彼女は、カシュバイの心臓部に座っていた、ビッサウの近く、煉瓦工場の方がもっと近い、ラムカウに向かって、彼女は座っていた、フィーレックに背を向けて、ブレンタウに向かう街道の、ディルシャウとカルタウスの間あたり、その街道の方に向かって、ゴルトクルークの黒い森を背中に背負って、彼女は座っていた、ハシバミの枝の焦げた先端でじゃがいもを熱い灰の中に押し込みながら。schreiben:書く→schriebsitzen:座る→saßnahe:近い→näherZiegelei:煉瓦工場Richtung:方向Schwarz:黒、schwarz:黒い→schwarzenWald:森Rücken:背中、背後schieben:押す→schobSpitze:針、先端verkohlen:焦げる→verkohltenKartoffel:じゃがいもheiß:熱い・・・インド―ヨーロッパ語族バルト―スラブ語派系統図Balto-Slavic languagesカシューブ地方Kashubia・・・とにかく太鼓の語るところはこうである――あの九九年の十月の午後、南アフリカではクリューガーおじさんがイギリスを敵視する房々した眉毛にブラシをかけているとき、ディルシャウとカルタウスのあいだ、ビッサウの煉瓦工場の近くでは、四枚の共色のスカートの下で、煙と不安と溜息につつまれ、斜めに降る雨にさらされ、痛ましげに聖徒の名を唱え、煙に眼をしばたたかせえる二人の警官の冴えない尋問を受けながら、ちびで太ったヨーゼフ・コリヤイチェクによって、ぼくの母アグネスの種がおろされたのであった。祖母のアンナ・ブロンスキーはその晩のうちに闇の中で苗字を変えた。すなわちきさくに秘蹟を授けてくれる司祭に頼んで、アンナ・コリヤイチェクとなり、ヨーゼフについてエジプトへではないけれど、モットラウ河畔の県庁所在地へ行った。彼はそこでいかだ師の職を見つけ、しばしのあいだ警察の眼をくらましていたのである。モットラウ河口のその町は、ぼくの母の誕生地であるから、名前をあげるべきであろうが、ただいくらかでも読者の興味をそそるために、まだ名前を伏せておく。・・・「ブリキの太鼓」ギュンター・グラス(集英社文庫)In any case, my drum tells me this: That afternoon in the year 1899, while in South Africa Oom Kruger was brushing his bushy anti-British eyebrows, my mother Agnes, between Dirschau and Karthaus, not far from the Bissau brickworks, amid smoke, terrors, sighs, and saints' names, under four skirts of identical color, under the slanting rain and the questions, was begotten by the short but stocky Joseph Koljaiczek.That very night my grandmother Anna Bronski changed her name; with the help of a priest who was generous with the sacraments, she had herself metamorphosed into Anna Koljaiczek and followed Joseph, if not into Egypt, at least to the provincial capital on the river Mottlau, where Joseph found work as a raftsman and temporary peace from the constabulary.Just to heighten the suspense, I'm going to wait a while before telling you the name of the city at the mouth of the Mottlau, though there's ample reason for mentioning it right now because it is there that my mama first saw the light of the day. ...The Tin Drum(1959)/Günter GrassクリューガーおじさんOom Kruger、ポール・クリューガーPaul Kruger(1825-1904)、のニックネーム、「Oom」はおそらくアフリカーンス語なのだろう、ケープ植民地生まれ、「グレート・トレックGreat Trek/Groot Trek」と呼ばれる、ケープ植民地から、北東へ向けたボーア人、オランダ系プロテスタント(ユグノー)入植者の、大移動、に幼少期の1830年代に参加、南アフリカ共和国が、イギリス帝国によって、トランスヴァールとして併合された時期から、政界の指導者、ボーア人の再独立を獲得する「第一次ボーア戦争(1880-1881)」を指導、その後1886年、プレトリアの西50キロほどの地域に金鉱が発見され、「ウィットウォータースラント・ゴールド・ラッシュWitwatersrand Gold Rush」、イギリス人を中心とする大量の入植者が流入、「ウルトランダース/外国人uitlanders」と呼ばれたこれらの人々と、支配層であるボーア人との間の緊張が高まり、「第二次ボーア戦争(1899-1902)」につながる、引用部分は、この時期をさしているのだろう南アフリカ・・・旧約聖書登場人物関係図、ヤコブ、イサクとリベカの次男で、「リベカの計略」で「長子権」を簒奪した人物、そのヤコブとラケルの間の第11子が、ヨセフ、父に溺愛され、それをねたんだ他の兄弟により、隊商に売られ、エジプトへ、夢の解き明かしの能力を買われて宰相となる・・・「創世記Genesis(37-50)」モットラウ河/モトウァヴァ河Mottlau/Motława、ヴィスチュラ河/ヴィスワ河Vistula/Wisłaの支流、ダンチッヒDanzig/グダニスクGdańskでバルト海に注ぐ、表記はいずれも、ドイツ語/ポーランド語の順・・・ヴィンセントというのは祖母の兄の名前だった。妻に早く先立たれた後、チェストホワに巡礼して、マルカ・ボスカ・チェストホフスカから彼女を未来のポーランド女王と思えというお告げを受け取った。・・・Vincent was my grandmother's brother. His wife had died young and then he had gone on a pilgrimage to Czestochowa where the Matka Boska Czestochowska had enjoined him to consider her as the future queen of Poland. ......ヨーゼフ・コリヤイチェクは三週間隠れていた。分け目をつけた新しい髪形に変え、口ひげを剃り落とし、れっきとした身分証明書を取り揃え、ヨーゼフ・ヴランカなる偽名でいかだ師の仕事にありついた。しかしなぜコリヤイチェクは、喧嘩していかだから突き落とされ、司直の眼に触れずにブク河のモドリン上流で溺死したいかだ師ヴランカの身分証明書を懐にして、材木商と製材所に姿を現さねばならなかったのか?しばらくのあいだ、いかだ師の仕事をやめてシュヴェッツの製材所で働いていた彼は、そこで塀にわざと白と赤のペンキを塗ったことから親方と喧嘩をしたからなのである。言いがかりをつけてフォム・ツァウン喧嘩を始めるという言いまわしがあるが、まさしくそのとおり、製材所の親方は塀ツァウンから白と赤の板を一枚ずつはがし、そのポーランドの板で白と赤の焚きつけがいっぱいできるほどカシュバイ生まれのコリヤイチェクの背中を殴ったのだ。それで殴られた男は十分の理由があるというわけで、次の夜、そう、星の明るい夜だったが、なるほど分割されてはいるがそれゆえにこそ統一されるべきポーランドに忠誠を誓って、白い漆喰を塗った新築の水車小屋を赤く燃えあがらせたのであった。Joseph Koljaiczek remained in hiding for three weeks. He trained his hair to take a part, shaved his mustache, provided himself with unblemished papers, and found work as a raftsman under the name of Joseph Wranka. But why did Koljaiczek have to apply for work with the papers of one Joseph Wranka, who had been knocked off a raft in a fight and, unbeknownst to the authorities, drowned in the river Bug just above Modlin? Because, having given up rafting for a time and gone to work in a sawmill at Schwetz, he had had a bit of trouble with the boss over a fence which he, Koljaiczek, had painted a provocative white and red. Whereupon the boss had broken one white and one red slat out of the fence and smashed the patriotic stats into tinder over Koljaiczek's Kashubian back. To Koljaiczek this had seemed ground enough for setting red fire to the brand-new, resplendently whitewashed sawmill the very next night, a starry night no doubt, in honor of a partitiond but for this very reason united Poland. ......・・・この先何年間か、どもりの気のあるつましいしっかり者のいかだ師になりおおしてニイェメン、ボブル、ブク、ヴィスチュラ流域のいたるところの森から材木をいかだに組んで流した。・・・... In the years that followed he played the part of a hard-working, thrifty raftsman with a slight stutter, rafting whole forests down the Niemen, the Bobr, the Bug, and the Vistula. ......・・・河が凍っていかだ師が仕事にあぶれる冬には、彼は感心なことに、いかだ師と荷役人夫と波止場人足しか住まぬトロイルに腰をおちつけて、父親似であるように思われる娘のアグネスの守をしていた。つまり、娘はベッドの下にもぐりこまないときには洋服箪笥の中に隠れており、お客があるときにはボロ人形を抱いてテーブルの下に坐っているのだった。... In winter when the rivers were frozen over and the raftsmen were laid off, he sat quietly at home in Troyl, where only raftsmen, longshoremen, and wharf hands lived, and supervised the upbringing of his daughter Agnes, who seemed to take after her father, for when she was not under the bed she was in the clothes cupboard, and when there were vistors, she was under the table with her rag dolls. ...ぼくはぼく自身の人生のはじまりを告示させていただきたくてむずむずしているのだから「コロンブス号」がシッヒャウで進水した一九一三年まで、ヴランカ家といういかだが平穏に流れていくのにぼくが注意を払わないのを皆さんは許してくださるだろう。つまりその年、もの覚えのいい警察はブランカが偽者であることの手がかりを掴んだのであった。Perhaps, since I am burning to announce the beginnig of my own existence, I may be permitted to leave the family raft of the Wrankas drifting peacefully along, until 1913, when the Columbus was launched in Schichau; fot it was then that the police, who never forget, caught up with Wranka.それはこのようにして始まった、コリヤイチェクはいつもの晩夏と同じように一九一三年の八月にも、キエフからプリーペト河を遡り、運河を通ってブク河をモドリンへ、そこからヴィスラ河をくだって大きないかだを運ばねばならなかった。総勢十二名のいかだ師たちは製材所の雇った引き船「ラダウネ号」に乗り組み、ヴェストリヒ・ノイフェールから旧ヴィスラ河を遡ってアインラーゲまで行き、そこからヴィスラ河を遡ってケーゼマルク、レツカウ、チェトカウ、デイルシャウ、ピーケルを過ぎて、夕方トルニに船を係留した。・・・The trouble began in August, 1913 when, as every summer, Koljaiczek was to help man the big raft that floated down from Kief to the Vistula by way of the Pripet, the canal, the Bug, and the Modlin. Twelve raftsmen in all, they boarded the tugboat Radaune, operated by their sawmill, and steamed from Westlich Neufähr up the Dead Vistula to Einlage, then up the Vistula past Käsemark, Letzkau, Czattkau, Dirschau, and Pieckel, and tied up for the night at Thorn. ......モドリンとキエフのあいだでは、つまりブク河を遡り、ブク河とプリーペト河を結ぶ運河を通り、「ラダウネ号」がプリーペト河の流れに沿って、ついにドニエプル河にたどり着くまで、コリヤイチェク=ヴランカとデュカーホフとのあいだで話が取りかわされたほか、書き留めておくべきことはなにも起こらなかった。・・・Between Modlin and Kief, up the Bug, through the canal that joins the Bug and the Pripet, until the Radaune, following the Pripet, fount its way to the Dniepr, nothing happened that can be classified as an exchange between Koljaiczek-Wranka and Dückerhoff. ......ぼくにだって、カシュバイのいかだ師たちとシュテッティン生まれの舵手との喧嘩を想像することができる。...... I can easily conceive of a certain amount of backbiting between the Kashubian logging crew and the helmsman, who was a native of Stettin, ...・・・ノイファールヴァッサー出の船長バルブッシュとウクライナの水先案内人との間で短い言葉がかわされたのがすべてであった――... A short but heated altercation between Captain Barbusch from Neufahrwasser and the Ukrainian pilot, ......・・・慎重にそして会社の利益を考えながら、デュカーホフはキエフで材木を買い入れ、さらにそれを九つのいかだに編成するのを監督し、いつものように、復路の手付け金を約束どおりロシア通貨でいかだ師たちに配った。そして自分は鉄道に乗りこみ、ワルシャワ、モドリン、ドイチェ=アイラウ、マリーエンブルク、ディルシャウを通って、クラヴィター造船所とシッヒャウ造船所のあいだの木場に製材所のある自分の会社へ帰って行った。... Conscientiously, intent on the best interests of the firm, Dückerhoff bought his lumber in Kief, supervised the building of the nine rafts,distributed a substantioal advance in Russian currency to see the men through the return trip, and boarded the train, which carried him by way of Warsaw, Modlin, Deutsch-Eylau, Marienburg, and Dirschau back to his company, whose sarmill was situated in the timber port between the Klawitter dockyards and the Schichau dockyards.・・・そして列車が目的地についたとき、ダンツィッヒ中央駅に――今ぼくはダンツィッヒと発音する――すべりこんだとき、デュカーホフはデュカーホフ一流の決心をした。トランクを馬車に積み込んで家へ帰らせ、手ぶらになった彼は意気揚々と、近くのヴィーヴェンヴァルにある警察本署へ出かけていき、正面玄関の階段を駆けあがった。目ざす部屋は勘よくすぐに見つかった。まことに味もそっけもない部屋で、デュカーホフはいや応なしに、ただ事実を並べただけの簡潔な報告で我慢するしかなかった。・・・... And by the time the train had reached its destinatin, the Central Station in Danzig - there, now I've said it - Dückerhoff had made up his mind. He sent his bags home in a carriage and strode briskly to the nearby Police Headquarters on the Wiebenwall, leaped up the steps to the main entrance, and, after a short but cautious search, found the office he was looking for, where he submitted a brief factual report. ...The Tin Drum(1959)/Günter Grass・・・チェストホワCzęstochowa:カトヴィッツKatowiceの北50キロ、「ヤスナ・グラJasna Góra」修道院に、「ヤスナ・グラの聖母/黒い聖母/チェンストホヴァの聖母Black Madonna of Częstochowa/Matka Boska Częstochowska」なる「絵画/イコン」があり、これが、毎年の巡礼の対象となっているmatka:母boski/boskie/boska:神聖なCzestochowska:Czestochowaの形容詞形・・・ヴィスチュラ河/ヴィスワ河流域図、ブク河はその支流で、ウクライナのルヴォフLviv付近に発し、ベラルスのブレスト付近を経て、ワルシャワの北北西40キロあたりで、ヴィスチュラ川に合流する、モドリンModlinは、その合流地点付近の町シュヴェッツSchwetz:シフィエチェŚwiecie、のドイツ語名、ビドゴシュチBydgoszczの北東40キロ「フォム・ツァウン」とルビが降られている部分は、英訳版では、「Whereupon」と簡単にすまされてしまっているが、ドイツ語版では、「einen Streit vom Zaun brechen」、「売られた喧嘩を買う」という慣用句のようだが、「Zaun」が「塀」、字義通りだと、「塀を壊して喧嘩」になるから、ここでは、まさに、コリヤイチェクが、製材所の塀を、ポーランド国旗の色に塗ったことへの懲罰として、その塀から木材を抜き出して、彼の背中を打ったわけだから、ある種「掛詞」になっているので、「まさしくそのとおり」なんだろう、英語にはそんな表現がないから、素通りせざるを得なかったのだなポーランド国旗ニイェメンNeman/Niemen/Nemunas、ベラルスのミンスクMinsk付近に発し、リトアニア国内を流下して、リトアニアと、ロシアの「飛び地」カリーニングラードKaliningradの国境に沿って、バルト海に注ぐニイェメン河流域図ボブルBóbr、オデール川Oderの支流の一つ、チェコ北部、ポーランド南西部を流れるオデール川流域図トロイルTroyl、プルゼラブカPrzeróbka、のドイツ語名、グダニスク市内、モットラウ河/モトウァヴァ河Mottlau/Motława河口の港湾地域の街区シッヒャウSchichau、現ポーランド、エルブラークElbląg、グダニスクの東南東60キロ、海に面していない町だが、エルブラーク川を経てバルト海に出られるのだろう、その町、ドイツ語名、エルビンクElbingにあったドイツの造船会社「シッヒャウ・ヴェルケSchichau-Werke」の造船所、「Schichau」はその創業者の名前、「Werke」は「工場」・・・「コロンブス号」は、1913年に、ドイツ船籍の客船として、ここでつくられたが、第一次大戦の賠償として、1919年にイギリスの所有となり、同国の「ホワイト・スター・ライン社White Star Line」に売却され、「ホメリックHomeric」と改名、大西洋航路に就航、1938年に廃棄・・・「ホワイト・スター・ライン」で思い出されたが、「グレート・ギャツビー」のデイジーのセリフに、こんなのがあった・・・... There's a bird on the lawn that I think must be a nightingale come over on the Cunard or White Star Line. ...・・・芝生の上に小鳥がいてね、私、きっと、「キュナード」か「ホワイト・スター・ライン」で運ばれてきたナイチンゲールじゃないかと思うんだけど・・・The Great Gatsby(1925)/F. Scott Fitzgerald「キュナードCunard」も、英国の海運会社、ナイチンゲール/サヨナキドリ(ヒタキ科)は、ヨーロッパにしか分布しないから、ここ、デイジーたちのいるニューヨーク、ロングアイランドに、飛来するはずはないから、船で運ばれてきたんだ、という訳である、もちろん「真偽」が問題なのではなく、ディジーは、直前に、夫トムの「浮気」について口論があったのを、こんな話題で取り繕っているのだ沖縄県那覇市で、「テヘランでロリータを読む」の「ギャツビー裁判」と、「ザ・グレート・ギャツビー」を読む・・・「夜はやさし」研究がはさまってさらに先送りとなるものの、「読書百遍・・・」というが、既にこの作家を「愛し」始めているようなのに気づいて、我ながら驚く(笑)・・・「バイユー・カントリー」、パリのアフリカ系アメリカ人、など。・・・プリーペト河Pripet、下図参照↓ベラルス国内を流れる、プリーペト河、ドニエプル川クラカウ―ヴェストリヒ・ノイフェールKrakau-Westlich Neufähr、グダニスクの一地区、クラコヴィエッツ―ゴルキ・ザホドニエKrakowiec-Górki Zachodnie、のドイツ語名、先に登場した、トロイルTroyl/プルゼラブカPrzeróbka、より南東に数キロ、バルト海と、マルトゥワ・ヴィスワ河Martwa Wisła、にはさまれた砂州のような地形と思われる、カタカナで書くとなお一層紛らわしく思われるが、この川は、上に登場した、同じくグダニスク市内を流れる、モットラウ河/モトウァヴァ河Mottlau/Motława、とは別で、ドイツ語では「Tote Weichsel」、まさに、ここでの英語版表記そのもの、「死んだヴィスワ河」なのだ、以下にドイツ語版から該当部分を抜き出して掲げたが、たしかに、「Tote Weichsel」となっている、ヴィスチュラ河Vistula、ポーランド語では、ヴィスワ河Wisła、ドイツ語では、ヴェイチュセルWeichsel、だったわけだ、ちなみに、日本語版の訳者は、ポーランド語の発音を、カタカナに移して「ヴィスラ」と表記しているんだと思われる、前にもみたが、ポーランド語アルファベットには、2種のlがあって、l/ł、後者は、「w」の発音になる、この訳書が出た当時は、その知識がまだ一般的ではなかったのだろう、80年代「連帯/ソリダルノスチSolidarność」が話題になっていた頃の日本の新聞記事も、たとえば今日的には、「ウワディスワフWładysław」と書かれるべき人名が「ウラディスラフ」になっていた記憶があるから、で、そこ、つまり「ヴェストリヒ・ノイフェール」からさらに南東に10キロばかりで、ヴィスチュラ河/ヴィスワ河が、つながる地点に達するようである、「アインラーゲ」なる地名がどうしても見つからないのだが、ドイツ語は、名詞の語頭が大文字だから、固有名詞か普通名詞かの区別がつかない、ドイツ語の普通名詞「Einlage」を英語にすると「deposit」、「預金」など多々の用例があるが、あるいは、「合流地点」みたいな用い方があるなら、ここでの文脈にはふさわしいと思われる、つまり、「ヴェストリヒ・ノイフェールからマルトゥワ・ヴィスワ河を遡ってヴィスラ河との合流地点まで行き、そこからヴィスラ河を遡って」、という具合に。... von Westlich Neufähr gegen die Tote Weichsel bis Einlage, dann die Weichsel herauf an Käsemark, Letzkau, Czattkau, Dirschau und Piechel vorbei und machten am Abend in Thorn fest.・・・そうして、ヴィスワ河を遡行する道筋をたどっていくと、レツカウLetzkau≒Leszkowy、チェトカウCzattkau≒Czatkowy、デイルシャウDirschau≒Tczew、ピーケルPiechel≒Piekło、トルニThorn≒Toruń、と、ポーランドの地名のドイツ語表記にも若干慣れたせいもあってか(笑)、難なく見つかった、一つ残ったのが、「ケーゼマルクKäsemark」、どうもポーランドの地名をドイツ語に読み替えた地名らしくない、「Käse」は「チーズ」、「mark」は英語のそれと同じ言葉のようだが、あるいは、「チーズ市場」といった普通名詞ではなかろうか?・・・シュテッティンStettin、西ポメラニア地方West Pomeranian Voivodeship/Województwo zachodniopomorskie、ドイツ国境近くの町、シュチェチンSzczecin、のドイツ語名ノイファールヴァッサーNeufahrwasser≒ノヴィ・ポルトNowy Portfahren=drive, ride、wasser=water、Fahrwasser=waterwayだから、ドイツ語は、「新水路」、ポーランド語は、「新港」・・・ワルシャワ、その北方に、モドリン、次いで、下の鉄道路線図に見るように、ドイチェ=アイラウDeutsch-Eylau≒イワヴァIława、マリーエンブルクMarienburg≒マルボルクMalbork、ディルシャウDirschau≒トチェフTczew、を経て、ダンチッヒ/グダニスクにたどり着くことになるだろう、「シッヒャウ・ヴェルケSchichau-Werke」造船所は、上で見た、「Klawitter」というのは、合衆国などでも、かなり普通の苗字のようで、ポーランド系なのかドイツ系なのかは判明しなかったが、当時、その様な名称の造船所があっても不思議はなさそうであった、・・・、会社に帰る前に、グダニスク/ダンチッヒの警察署へ向かった、のなら、エルブラークElblągの「シッヒャウ造船所」では、いかにも遠すぎる、きっと、グダニスク近傍にも、同造船所があったんだろう、ということで納得することにしよう、・・・、「ダンツィッヒ中央駅Central Station in Danzig」、は「グダンスク・グウォヴニGdańsk Główny」ではなかろうか、「główny」は「主要な」の意味のようであるから、そして、「ヴィーヴェンヴァルWiebenwall」は、駅の南1キロ足らずの場所に、「Historyczne Wały Wijbego/Historical Wiebenwall」なる「歴史的建造物」なる表示のものが見つかった、「wały」は、「堤防」、ドイツ語の「Wall」も、同じかと思われる、「Wijbego/Wieben」は辞書では見つからず、「グダニスク地方警察本部Komenda Wojewódzka Policji w Gdańsku」が、すぐそばにあるし、間違いなかろうと思われるが。ポーランド鉄道路線図・・・ネット上で、「ダンチッヒ自由市」の地図をいくつか探してきた、第一次世界大戦の戦後処理として、独領ポーランドが、ポーランド共和国として独立、ただし「ハンザ同盟」の海港都市としての歴史を有するダンチッヒは、「自由市」と銘打って国際連盟の管理下に置かれたらしい、ギュンター・グラスは1927年にこの町に生まれている、作中のオスカルは、1924年生まれという設定になっているから、その意味では、「自伝的」要素も含まれているとみてよいのだろう・・・もっとのちの章には、ダンチッヒ中心部の街路名が多々登場することになるから、【1】の図面などが役立つこともあろう・・・訂正しなければならない点がいくつか【4】の図面で、ついに、ビッサウBissau、が発見された、東南東から西北西に向かって順に、ダンチッヒ中心部、ビッサウ、ゴルトクルーク、ラムカウ、と並ぶようである、上の図に書きこんでおいたが、それでも依然として、「前」とか「背」とかの記述には、つじつまの合わなさが残る気もするが・・・【2】【4】、には、アインラーゲEinlage、の表記があり、「マルトゥワ・ヴィスワ河とヴィスワ河」の合流地点、という予想は当たっていたが、ちゃんと固有名詞化しているようであるそして、【3】、には、ケーゼマルクKäsemark、もちゃんと地名として記載されている、もちろん、元は「チーズ市場」だった、という可能性もなくはないだろうが・・・【1】Free City of Danzig(年代不明)、市中心部の地図、英語表記、警察署Police Station、などが見える【2】Freie Stadt Danzig(年代不明)、ディルシャウDirschau、カルタウスKarthaus、アインラーゲEinlage、エルビンクElbing、マリーエンブルクMarienburg、などの表記が見つかる【3】Ostpommern-Danzig(年代不明)、東ポメラニア(Pomorze Tylne/Ostpommern)からダンチッヒにかけての広域地図、ラムカウRamkau、カルタウスKarthaus、ディルシャウDirschau、マリーエンブルクMarienburg、エルビンクElbing、ノイファールヴァッサーNeufahrwasser、そして、ケーゼマルクKäsemarkも発見【4】Freie Stadt Danzig(1927)、ディルシャウDirschau、マリーエンブルクMarienburg、エルビンクElbing、アインラーゲEinlage、ノイファールヴァッサーNeufahrwasser、のほか、ビッサウBissau、がついに発見された!、なお、「自由市」の境界の西側、および南側には、「Polnischer Korridorポーランド回廊」、東側、マリーエンブルクMarienburg、エルビンクElbing、を含む区域には、「Deutsches Reichドイツ帝国」の表記があるRzeczpospolita 1923、1923年の「ポーランドRzeczpospolita」、および、「ポーランド回廊」Nationalitatenkarte der ostlichen Provinzen des Deutchen Reichs/Map of nationalities of eastern provinces of German Empire、1910年の人口統計に基づく、ドイツ帝国東部の「ナショナリティー/民族」分布、オレンジ色がドイツ系、緑色がポーランド系、「ダンチッヒ自由市」は、ドイツ系が多数を占め、「カシュバイ」地方が、ドイツ語多数派地域に挟まれるようになっている、第一次世界大戦の戦後処理として、「ダンチッヒ自由市」は国際連盟管理下へ、それと、さらに東側のドイツ「東プロシア州」、ケーニッヒスベルク、現・ロシア、カリーニングラードを含む地域、を囲むようにして、ポーランド共和国が成立したが、バルト海への出口を確保する目的で設定されたのが、「ポーランド回廊」であったらしい・・・Günter Grass(1927-2015)・・・ドイツ、ポーランドグダニスク周辺Gdańskポーランド地方区分Division of Poland into voivodeships and powiatsダンチッヒ自由市Freie Stadt Danzig/Wolne Miasto GdańskFree City of Danzigシマキツネノボタン(キンポウゲ科)リュウキュウコスミレ(スミレ科)ユウゲショウ(アカバナ科)アメリカフウロ(フウロソウ科)ルリハコベ(サクラソウ科)シロガシラ(ヒヨドリ科)これは、「金魚鉢」、ではない(笑)。ルリスズメダイ(スズメダイ科)陰陽学では、「陽/奇数」の方が「陰/偶数」より、縁起が良いものとされているらしく、それが重なればさらにめでたく「重陽」という、今日は旧暦三月三日、当地では「浜下り(はまおり)」の日だといわれる。昼少しすぎの干潮時に、すっかり干上がった遠浅の浜辺に、みなで降りて行って、潮干狩りなどをする伝統行事だと思われるが、もちろん私は、貝を採ったりはしないけれども、同じく、どこまでも歩いて行けそうな(笑)、干瀬を、どこまでも歩いて行く、干上がったといっても、各所に「潮だまり」があり、サンゴ由来の岩もごろごろしているから、足元は悪く、転ばないように、転んで、「防水」ではないカメラを落っことしてしまったりしないように、ひたすら注意を払いながら、・・・、もう、すっかり、「冬鳥」の皆さん方は、「北」へ旅立たれてしまったようで、わずかに、当地の「留鳥」の、シロチドリ(チドリ科)の、声が、あちらこちらから聞こえるばかりだ、だから、カメラに収めるようなものも、たいして見つけられず、落胆して引き返すところ、目印になるものが何もないから、距離は全然わからないけれども、500メートル?あるいは1キロほどもあるかもしれない、そろそろ疲れ切って弱音を吐きたくなってきたころ、こちら、ダイゼン(チドリ科)の、ご一行に出くわした、もっと南の国で冬を過ごした者たちが、繁殖地へ向かう、旅の途上なのだと思われる、何度も言ったが、近縁種のムナグロとの識別は、非常に困難なので、大雑把に、水田や川など、淡水で見かければムナグロ、海辺で見かければダイゼン、と勝手に決めさせていただいているまでだが、・・・、「胸黒」の名の通り、本当に真黒くなっているものもちらほら混じっているが、これは、雄の「婚姻色」で、繁殖期が近づくと、そんな羽に生え変わるわけだが、その時期には個体差もらしい、ちなみに、これも何度も同じ話ばかりするが(笑)、「大膳」は、宮中の役職名で、料理をつかさどる部署であるらしい、きっとその衣装に似ているんだろう、とか想像していたのだが、どうもそうではなく、この鳥が、非常に「美味」として知られていたので、「大膳」に用いられることが多かった、という、あまり、ご当人達には(笑)、ありがたくないかもしれない命名の由来であった。ダイゼン(チドリ科)簡単に見つかると、高をくくっていたのだが、「帯に短し、襷(たすき)に長し」というやつで・・・。これも、旧暦三月三日、「浜下り」のお土産、よく見かけるような気がしたし、きっとスナガニ科の一種だろうと踏んでいたのだが、脚にも甲羅にも、「迷彩」風の模様があって、肩、というのも変だな、甲羅の上部の角が、尖っているように見えるところが、図鑑をすみずみまで尋ねても、どれにも該当しそうにない、ひと口に「カニ」と言っても、分類学上は、「十脚目・短尾下目(カニ下目)」というそうで、だから、キャプションは、なんだか、大仰なものになった(笑)。人の近づく気配に、急いで、砂を掘って隠れようとするところを、意地悪をして申し訳なかったが、写真を撮るのだから、せっかくかぶった砂を、ちょいと払いのけたり、させていただいた。カニ下目の一種グンバイヒルガオ(ヒルガオ科)これは、イネ科サトウキビではなく、イネ科ススキだ、いずれにせよ、そんなふわふわしたものの上にとまれるとは、吹けば飛ぶように(笑)軽いに違いない。セッカ(ウグイス科)「雀の学校」、という童謡があったのかどうだったか、思い出せないな、ひどく「音痴」の子供だったから(笑)、きっと思・い・出・し・た・く・な・い・のだろう。スズメ(ハタオリドリ科)シロガシラ(ヒヨドリ科)イソヒヨドリ(ツグミ科)・オスシロガシラ(ヒヨドリ科)イソヒヨドリ(ツグミ科)・オスただでさえ「不審」な老人が(笑)、道端にしゃがみこんで、電線にとまった変哲もないトリに向かってカメラを構えているから、通行のじゃま、迷惑きわまりないじゃないか!ヒヨドリ(ヒヨドリ科)・・・手前が「床」で、その先が「壁」、に見えるだろ?違うんだ、手前が「壁」で、その先にそそり立っているのは、「天井」なんだ(笑)ハラビロカマキリ(カマキリ科)、当地に生息するカマキリ科には、この、ハラビロカマキリと、オキナワオオカマキリ、ムナビロカマキリ、があるらしいのだが、おそらく、これまで見たことがあるのは、この、ハラビロカマキリだけだったと思うから、もう、これが、そんなに「腹が広い」とも思えなくなってきた(笑)・・・ところで、こういう風に写真を眺めると、手前が「床」で、その先が「壁」、にみえるだろ?違うんだ、手前が「壁」で、いま、こいつは、「天井」に乗り出すかどうか、「検討中」、というところなんだ。どうして「南」は、何もかも、「色彩」が「派手」なんだろう?あるいは、「派手」な「色彩」をみると、あ、「南国」だ、って思うのは?ゲットウ(ショウガ科)、うちのベランダの「菜園」に、もう何年になるだろう、いつとは知れず、や・っ・て・き・て・、ということは、種子が飛んできて着床した、ってことなのかな?ちゃんと「繁殖」してくれて、おかげで、とても「南国」らしい(笑)、フレーバーを醸し出してくれているのだ、どうして「南」は、何もかも、「色彩」が「派手」なんだろう?あるいは、「派手」な「色彩」をみると、あ、「南国」だ、って思うのは?Letter to the New York Times:HANNAH ARENDT, ALBERT EINSTEIN/Dec. 2, 1948ニューヨーク・タイムズへの手紙:新たなパレスチナの政党、メナヘム・ベギン氏の訪問と、その政治運動について論ずるLetter to the New York Times:New Palestine Party:Visit of Menachem Begin and Aims of Political Movement Discussedニューヨークタイムス編集者殿To the Editors of the New York Times:われわれが今日直面している時代の、もっとも憂慮を禁じ得ない政治的現象の一つは、新たに創立されたイスラエル国家への「自由党/トゥヌアト・ハヘルト」の登場であろう、この政党は、その組織において、方法論において、政治哲学において、そして、社会への浸透の手法において、ナチ、ファシスト政党に酷似しているのである。この政党は、かつての、「イルグン・ツヴァイ・レウミ(IZL)」、パレスチナにおいて活動していたテロリスト、右翼、ショーヴィニスト組織の、メンバーないしその支持者から形成されている。Among the most disturbing political phenomena of our times is the emergence in the newly created state of Israel of the “Freedom Party” (Tnuat Haherut), a political party closely akin in its organization, methods, political philosophy and social appeal to the Nazi and Fascist parties. It was formed out of the membership and following of the former Irgun Zvai Leumi, a terrorist, right-wing, chauvinist organization in Palestine.現在、この政党の指導者であるメナヘム・ベギン氏が、合衆国を訪問中であるが、これは、来るべきイスラエルにおける選挙を念頭に置き、アメリカの支援を受けたかの印象を広め、また、合衆国内の保守的シオニスト潮流との政治的絆を固めようとの、計算された意図に基づくものと思われる。何人かの国民的に著名なアメリカの人士たちも、同氏の訪問を歓迎すべく、その名を連ねている。世界中のどこであっても、ファシズムに反対することを旨とする人々にとって、もし、ベギン氏の政治的経歴および、その見解に関して、正確な知識を有しておれば、彼が代表するところの政治運動の支持者として、名を連ねるなどということは、およそ考えられないはずであるのに。The current visit of Menachem Begin, leader of this party, to the United States is obviously calculated to give the impression of American support for his party in the coming Israeli elections, and to cement political ties with conservative Zionist elements in the United States. Several Americans of national repute have lent their names to welcome his visit. It is inconceivable that those who oppose fascism throughout the world, if correctly informed as to Mr. Begin’s political record and perspectives, could add their names and support to the movement he represents.金銭的な寄付を行ったり、ベギン氏の支持を公表したりすることによって、また、それらの行為によって、イスラエル内のファシスト的な組織が、アメリカの非常に大きな範囲の人々の支持を受けているとの印象が、パレスチナにおいて形成されてしまう、などと言う取り返しのつかない損害が生じてしまう前に、アメリカの公衆に対して、ベギン氏と彼の代表する運動の経歴ならびに目的について、周知させるべきであると考える。Before irreparable damage is done by way of financial contributions, public manifestations in Begin’s behalf, and the creation in Palestine of the impression that a large segment of America supports Fascist elements in Israel, the American public must be informed as to the record and objectives of Mr. Begin and his movement.ベギン氏の政党が、公的に表明しているところの政治姿勢などは、その真の性格を理解するためには、何の役にも立たない。彼らは今日、自由、民主主義、反帝国主義、等々を口にする、しかし、ごく最近まで、彼らは公然と、ファシスト国家の教義を説いていたのである。テロリスト組織が、その真の性格を偽ってみせるのは、つねにその行為においてである、その過去の行為から、われわれは、それが将来においてなすであろうものについて、判断することができるのである。The public avowals of Begin’s party are no guide whatever to its actual character. Today they speak of freedom, democracy and anti-imperialism, whereas until recently they openly preached the doctrine of the Fascist state. It is in its actions that the terrorist party betrays its real character; from its past actions we can judge what it may be expected to do in the future.アラブ人の村の襲撃Attack on Arab Villageそれらのうちの、もっとも衝撃的な一例は、デイル・ヤシンというアラブ人の村において、彼らが行った行為であろう。この村は、主要道から隔たれ、まわりをユダヤ人の土地に囲まれているのだが、戦時にも、何ら戦闘には関与しなかったどころか、彼らの村を出撃基地に使用しようとしたアラブ人部隊を追い払ったほどなのである。(ニューヨーク・タイムズが報じているように)4月9日、テロリスト部隊が、この平和な村を襲った、この戦闘には、何の軍事的な目的もなかった、ただただ、そこに住んでいた村人のほとんど――240人の男女、子供――を殺害、その上で何人かを生かしたままエルサレムの街路を、捕虜として見世物にするために連行した、だけなのである。ユダヤ人社会のほとんどの人々は、この行為に戦慄した、「ユダヤ人事務局」は、トランス・ヨルダン国王アブドラのもとへ、謝罪の電報を打ったほどである。しかし、このテロリストたちは、自分たちの行為を恥じるそぶりも見せず、大量殺害を自慢し、大々的に宣伝、国内にいた海外新聞社の特派員たちをことごとくデイル・ヤシンに呼び集め、折り重なった遺体の山と、破壊の惨状を見物させたのである。A shocking example was their behavior in the Arab village of Deir Yassin. This village, off the main roads and surrounded by Jewish lands, had taken no part in the war, and had even fought off Arab bands who wanted to use the village as their base. On April 9 (THE NEW YORK TIMES), terrorist bands attacked this peaceful village, which was not a military objective in the fighting, killed most of its inhabitants - 240 men, women, and children - and kept a few of them alive to parade as captives through the streets of Jerusalem. Most of the Jewish community was horrified at the deed, and the Jewish Agency sent a telegram of apology to King Abdullah of Trans-Jordan. But the terrorists, far from being ashamed of their act, were proud of this massacre, publicized it widely, and invited all the foreign correspondents present in the country to view the heaped corpses and the general havoc at Deir Yassin.この「デイル・ヤシン虐殺事件」こそが、「自由党」の性格と、その行動のパターンを例証している。The Deir Yassin incident exemplifies the character and actions of the Freedom Party.ユダヤ人社会の内部では、彼らは、超国家主義、宗教的神秘主義、そして、人種的優越主義の混ぜ物のようなものを唱道する。他のファシスト諸党派同様、彼らは、労働者のストライキに対して、スト破りを行うし、自由な労働組合の破壊工作に、自らも手を貸す。その代わりに、彼らは、イタリアのファシストにならって、企業組合を推奨する。Within the Jewish community they have preached an admixture of ultranationalism, religious mysticism, and racial superiority. Like other Fascist parties they have been used to break strikes, and have themselves pressed for the destruction of free trade unions. In their stead they have proposed corporate unions on the Italian Fascist model.英国委任統治当局に対する散発的な襲撃を繰りかえしていた時期の終り頃、「IZL」や「シュテルン」は、パレスチナのユダヤ人社会の中に、テロリズム支配、恐怖政治を導入し始めた。彼らに反対する教員は、殴打された、子供たちを、彼らの戦闘部隊に加入させない親達には銃が向けられた。まるでギャングのやり口そのもので、人を殴り、窓ガラスを割り、財物を強奪し、そうやってテロリストたちは、住民を脅迫し、多額の金銭を貢がせたのである。During the last years of sporadic anti-British violence, the IZL and Stern groups inaugurated a reign of terror in the Palestine Jewish community. Teachers were beaten up for speaking against them, adults were shot for not letting their children join them. By gangster methods, beatings, window-smashing, and wide-spread robberies, the terrorists intimidated the population and exacted a heavy tribute.「自由党」に集う者たちは、パレスチナにおける建設的な行為には、何ら関与していない。彼らは、土地を開墾したこともなければ、入植地を建設したこともない、ただただ、ユダヤ人の防衛活動からの逸脱を示したに過ぎない。彼らが、さかんに自慢するところの、移民招聘政策さえも、さしたる成果をもたらしたわけではなく、主に、同国人の中から、ファシスト傾向のある者たちを、連れてきたにすぎない。The people of the Freedom Party have had no part in the constructive achievements in Palestine. They have reclaimed no land, built no settlements, and only detracted from the Jewish defense activity. Their much-publicized immigration endeavors were minute, and devoted mainly to bringing in Fascist compatriots.言行不一致を見るDiscrepancies Seenベギン氏とその党によって、現在公然と主張されている事柄と、彼らが過去においてパレスチナの地で行ってきた行為との間の不一致こそが、通常他の政党には見られないような形での、この党に刻み込まれている特徴なのである。これこそ、疑いもなく、テロリズム(ユダヤ人に対するもの、アラブ人に対するもの、そして、イギリス人に対するものを含めて)、と、虚偽とをその手法とし、「総統の率いる国家」をその目標とするところのファシスト政党の兆候と言えるだろう。The discrepancies between the bold claims now being made by Begin and his party, and their record of past performance in Palestine bear the imprint of no ordinary political party. This is the unmistakable stamp of a Fascist party for whom terrorism (against Jews, Arabs, and British alike), and misrepresentation are means, and a “Leader State” is the goal.これらの考察に基づくならば、ベギン氏とその政治運動に関する真実を、この国においても明らかにすることが、ぜひとも必要であると思われる。なににもまして残念極まりないのは、アメリカのシオニズム団体が、ベギン氏の手法に対して、反対を唱えることを拒否し、それどころか、自分たちの傘下の人たちに、ベギン氏を支持することがイスラエルにとって危険であることを暴露することさえしていないことである。In the light of the foregoing considerations, it is imperative that the truth about Mr. Begin and his movement be made known in this country. It is all the more tragic that the top leadership of American Zionism has refused to campaign against Begin’s efforts, or even to expose to its own constituents the dangers to Israel from support to Begin.以下に署名したわれわれは、その様な見地から、ベギン氏と彼の率いる政党に関する、いくつかの顕著な事実を公開することを通じて、心あるすべての人々に、かかるファシズムの明白な表明のうちの、もっとも最近の表れに対して、決して支持を与えられないよう、訴えるものである。The undersigned therefore take this means of publicly presenting a few salient facts concerning Begin and his party; and of urging all concerned not to support this latest manifestation of fascism.イシドール・アブラモヴィッツ、ハンナ・アーレント、アブラハム・ブリック、ラビ・ジェスルン・カルドーソ、アルバート・アインシュタイン、ヘルマン・アイゼン医師、ハイム・ファインマン、M・ギャレン医師、H・H・ハリス、ゼーリッヒ・S・ハリス、シドニー・フック、フレッド・カルーシュ、ブルリア・カウフマン、イルマ・L・リンデハイム、ナッハマン・マイゼル、セイモア・メルマン、マイヤー・D・メンデルスゾーン医師、ハリー・M・オスリンスキー、サミュエル・ピットリック、フリッツ・ローリック、ルイス・P・ロッカー、ルス・サギス、イツァーク・サンコフスキー、I・J・ショーネベルク、サミュエル・シューマン、M・ジンガー、イルマ・ウォルフェ、ステファン・ウォルフェISIDORE ABRAMOWITZ, HANNAH ARENDT, ABRAHAM BRICK, RABBI JESSURUN CARDOZO, ALBERT EINSTEIN, HERMAN EISEN, M.D., HAYIM FINEMAN, M. GALLEN, M.D., H.H. HARRIS, ZELIG S. HARRIS, SIDNEY HOOK, FRED KARUSH, BRURIA KAUFMAN, IRMA L. LINDHEIM, NACHMAN MAISEL, SEYMOUR MELMAN, MYER D. MENDELSON, M.D., HARRY M. OSLINSKY, SAMUEL PITLICK, FRITZ ROHRLICH, LOUIS P. ROCKER, RUTH SAGIS, ITZHAK SANKOWSKY, I.J. SHOENBERG, SAMUEL SHUMAN, M. SINGER, IRMA WOLFE, STEFAN WOLFE.ニューヨーク、1948年12月2日New York, Dec. 2, 1948Letter to the New York Times:New Palestine Party: Visit of Menachem Begin and Aims of Political Movement Discussed/HANNAH ARENDT, ALBERT EINSTEIN(Marxist Internet Archive)The New York Times/1948/12/4/New Palestine Party; Visit of Menachen Begin and Aims of Political Movement Discussed(Wikisource)・・・(訳注)デイル・ヤシンDeir Yassin、エルサレム西郊、「旧市街Old City」から見ると、西北西5キロばかりの、丘の中腹と思われる場所にあったとされる、現在は、イスラエルの公立精神病院「カファル・シャウル精神衛生センター」Kfar Shaul Mental Health Center」が立地しているエルサレム広域(訳注)「自由党Freedom Party/Tnuat Haherut/Herut」、英国委任統治下パレスチナの、民兵組織「イルグンIrgun」の後継政党、「ナクバ/第一次中東戦争」の戦後処理としての、アラブ諸国との和平会談、被占領地域からの「イスラエル国防軍(IDF)」撤収に反対すべく、メナヘム・ベギンによって、1948年6月15日創立、オデッサ生まれの、ジェエブ・ジャボチンスキーZe'ev Jabotinsky(1880-1940)を始祖とする「修正シオニズムRevisionist Zionism」の流れをくむ、この潮流は、英国委任統治下パレスチナのみならず、ヨルダン川を隔てた東側のトランス・ヨルダンをも、「イスラエルの地Eretz Yisrael/Land of Israel」とみなすことを特徴としているらしい、「建国」当時主流を占めていた、ダヴィド・ベン・グリオンDavid Ben-Gurion(1986-1973)らの、「労働党シオニズムLabor Zionism」に対する反対派として存在した、1977年、ベギン、アリエル・シャロンAriel Sharon(1928-2014)らが「リクードLikud」を創立したことで、これに吸収 「イルグン・ツヴァイ・レウミIrgun Zvai Leumi(IZL)」、ヘブライ語で「イスラエルの地の民族軍事組織」の意、1931年から1949年にかけて活動した「修正シオニスト」民兵部隊、英国委任統治当局、アラブ系住民に対するテロリズム攻撃に従事、「デイル・ヤシン虐殺」等のテロリスト攻撃は、引用部分ののちにも言及される「シュテルン・ギャングStern Gang/Lehi」との共同で実行された、といわれる「シュテルン・ギャングStern Gang/Lehi」、露領ポーランド、スワウキSuwałki、現ポーランド、ウクライナ国境近くの町、生まれ、1925年にパレスチナに移住、と言う経歴を持つ、アブラハム・シュテルンAvraham Stern(1907-1942)が、第二次世界大戦勃発後も、英国委任統治当局への武装闘争継続を主張して、「イルグン」から分派して創立した組織、反英闘争推進のために、イタリアのファシスト党、および、ドイツのナチ党とも、連携することを当初は目指していたらしい、「デイル・ヤシン虐殺」後、イスラエル政府は、この組織を解散させ、所属していた兵員を、「IDF」に組み入れたメナヘム・ベギンMenachem Begin(1913-1992)、ロシア帝国ブレスト―リトフスクBrest-Litovsk、現ベラルス、ブレストBrest生まれ、母親は、高名なラビの家系の出身、材木商人であった父親は熱烈なシオニスト、幼少期は、「労働党シオニズム」系の少年組織に所属していたが、ワルシャワ大学在学中から、ジャボチンスキーの「修正シオニズム」運動に関与し始め、その青年組織として、ラトヴィア、リガに創設された「ベタールBetar」で頭角を現す、1939年、ナチス・ドイツのポーランド占領に際しては、ヴィルノWilno、現リトアニア、ヴィルニウスVilniusに逃れたが、1940年ソ連諜報部「NKVD」に、「英帝国主義の手先」として逮捕、ヨーロッパ・ロシア北端、コミ共和国Komi RepublicのペチョラPechoraへ流刑、ソ連―ポーランド間の条約締結により釈放後、ソ連領内に形成された「東部ポーランド軍Polish Armed Forces in the East」(これに対してパリの亡命政権が形成したものが「西部ポーランド軍Polish Armed Forces in the West」)、に参加、「ペルシャ回廊Persian Corridor」と呼ばれる、アゼルバイジャン―イラン経由の連合軍補給路を経て、1942年5月にパレスチナに到着、ポーランド軍から除隊許可を得て、パレスチナに残留、「イルグン」に加わる、・・・、引用部分にも登場する、パレスチナにおける公式のユダヤ人代表組織「ユダヤ人事務局Jewish Agency」および、その武装部門である「ハガナHaganah」が、「バルフォア宣言」の存在を根拠に、直接英国当局と事を構えることを控えていたのに対し、委任統治当局が、ユダヤ人入植者制限の政策をとり始めたことに反発、「イルグン」は「ハガナ」と正式に袂を分かち、もう一つの強硬な反英派「Lehi」とともに、英国当局に対する武装闘争を開始した、という事情であったらしいスワウキSuwałki、ブレストBrest、ドイツ、ポーランド地図ヴィルノWilno/ヴィルニウスVilnius、北欧、バルト海地図コミ共和国Komi RepublicペチョラPechora、ロシア地図・・・イスラエル歴代首相、所属政党マパイMapai:1930年創立、「労働党シオニズム」Poale Zionの流れをくみ、1968年合同によって「労働党Israeli Labor Party」となる、第二インター系社会民主主義政党カディマKadima:2005年創立、同年の、アリエル・シャロン主導の、ガザを始めとする地域からの「一方的撤退計画unilateral disengagement plan」を支持する、「リクード」内穏健派に、「労働党」の一部が合流して成立ヤミナYamina:右派から極右派政党からなる連合組織イエシュ・アティドYesh Atid:2012年創立、中道、リベラル・シオニスト政党・・・この公開書簡の署名者28名のうち、ハンナ・アーレントHannah Arendt(1906-1975)、アルバート・アインシュタインAlbert Einstein(1879-1955)を除いた26名に関して、wikipedia英語版でそのエントリーが見つかったのは、以下の10名のみ、ただ、記事の中に、この書簡に署名したとの記述があって、たしかにその人物だと分かったのが、「*」を付していな・い・6名、他の4名は、「ユダヤ系」であることは確認できたが、あるいは同姓同名の別人物かもしれない、最後の二人、に関しては、「Wolfe/Wolpe」と、ファミリーネームの綴りさえ異なるのだが、夫婦者であるらしいこの二人組の、ファーストネームがどちらも一致しているのも偶然とも思えず、残しておくことにした・・・ジェスルン・カルドーソJessurun Cardozo(1896-1972)、アムステルダム生まれの、「セファルディック・ユダヤ人Sephardic」ラビ、イギリスを経て1936年ニューヨークへ、合衆国最古のシナゴーグである「スペイン系およびポルトガル系シナゴーグSpanish and Portuguese Synagogue」でラビを務める、1953年、フランコ政権下のスペインに渡り、1492年「レコンキスタ」以降ユダヤ人が追放されていたイベリア半島で初めて、ヨム・キプルYom Kippurなどのユダヤ教の礼拝を執り行った「スペイン系およびポルトガル系シナゴーグSpanish and Portuguese Synagogue」の正式名称は「Congregation Shearith Israel」、セントラル・パーク・ウエスト、西70丁目、にある、ニューヨーク地図ヘルマン・アイゼンHerman Eisen*(1918-2014)、免疫学者、がん研究者、東欧系ユダヤ人の移民の家族のもと、ブルックリンに生まれるゼーリッヒ・ハリスZellig Harris(1909-1992)、構造主義言語学者、現ウクライナのオデッサ北方の町、バルタBalta生まれ、1913年、4歳の時、家族がフィラデルフィアに移住、13歳の時、本人の希望で、パレスチナに移住、社会主義的な「キブツkibbutz」の運動に関与、1941年、ブルリア・カウフマンと結婚、1960年代以降、イスラエルの「キブツ」に居を構えたバルタBalta、ルーマニア、ウクライナ地図シドニー・フックSidney Hook(1902-1989)、オーストリア系ユダヤ人家族のもとに、ブルックリンで生まれる、コロンビア大学で、ジョン・デューイJohn Deweyのもとで学ぶ、1928年には、ベルリンで、カール・コルシュKarl Korschのもとでマルクス主義を学び、モスクワのマルクス―エンゲルス学院でも研究、当初熱烈なソ連支持派であったが、1933年、スターリンの一国社会主義が、ドイツでのナチ台頭を許したとして、コミンテルンと絶縁、1937年の、デューイの主催した、「トロツキー真相究明委員会」に参画、1950年代には、反共派に転じ、「CIA」が支援する「文化自由会議(CCF)」に関与、1960年代には、「新左翼」に対する熱烈な批判者となり、ヴェトナムからの米軍撤収に反対、カリフォルニア知事ロナルド・レーガンによる、公民権運動活動家、アンジェラ・ディヴィスの「UCLA」からの解雇にも支持を与えたジョン・デューイの「真相究明委員会」については以下の記事↓「他者」の侵入を、ただ一度だけ許容すること、確かに、それを「愛」と定義しても、さほど不都合とは思えない。ブルリア・カウフマンBruria Kaufman(1918-2010)、ウクライナ系ユダヤ人家族のもとに、ニューヨークで生まれる、1926年、家族は英国委任統治下パレスチナに移住、テルアビブ、次いでエルサレムに暮らす、ヘブライ大学、コロンビア大学で学位取得、1941年、ゼーリッヒ・ハリスと結婚、1948年から1955年、プリンストン大学高等研究所助手、フォン・ノイマン、次いで、アインシュタインの助手を務めるイルマ・リンデハイムIrma Lindheim(1886-1978)、ドイツ系ユダヤ人家族のもとに、ニューヨークで生まれる、幼少期の家庭環境は、クリスマス・ツリーを飾るなど、「ユダヤ教」色を欠いたものだったが、青年期に至って、シオニズムに接近、ラビ養成の教育課程、これは女性としては初めてのことだった、に進んだが、中途で学業をやめ、パレスチナへ向かう、「キブツ」運動創始者の、Manya Shochat(1880-1961)に出会い、強い影響を受ける、1926年、合衆国のシオニスト女性団体「ハダサHadassah」議長となる、同時に、「労働党シオニズム」の「パオレ・シオンPoale Zion」にも関与、この団体は、マルクス主義的労働者団体だが、「ブント派」がシオニズムを拒絶したことから、分派して結成されたもの、・・・、1948年には、「アメリカ労働党American Labor Party」からクィーンズ区の区会議員選挙に出馬、ヘンリー・A・ウォーレスHenry A. Wallace(1888-1965)の、「進歩党Progressive Party」からの大統領選支援などにも従事しているセイモア・メルマンSeymour Melman(1917-2004)、ニューヨーク生まれ、1939年から1940年、パレスチナを旅する、1949年、コロンビア大学で経済学Ph.D取得、軍産複合体への強力な批判者、核兵器開発への反対運動にも関与フリッツ・ローリックFritz Rohrlich*(1921-2018)、理論物理学者、ユダヤ人の両親のもとに、ウィーンで生まれる、1938年、ナチのオーストリア併合「アンシュルスAnschluss」により学業を中断されたが、1939年英国委任統治下パレスチナのハイファへ単身移住して、当地の工業学校で学ぶ、その後ヘブライ大学へ進み、物理学を専攻、この間両親は、ソビボル絶滅収容所Sobibór Extermination Campに送られ、1942年に亡くなっている、1948年、プリンストン大学高等研究所に進み、そこでアインシュタインと出会っているソビボル絶滅収容所Sobibór Extermination Campはポーランド、ルブリンLublinの東100キロ、ウクライナ国境近く、ドイツ、ポーランド地図イルマ・ウォルペIrma Wolpe*(1902-1984)、ルーマニアのガラーチGalațiに、ユダヤ系ブルジョワ家庭に生まれる、1910年、ジャシIașiに移る、両親はともにシオニスト、地元で様々な教師についてピアノを学んだ後、1924年パリへ向かい、ジュネーブを経て、ベルリンに居住、その地で、ステファン・ウォルペと出会う、1933年、ナチスが政権を取得すると、ユダヤ人共産主義者にして、前衛音楽家であり、迫害を受けつつあったステファンとともに、脱出、チェコスロバキア、スイス、オーストリア、ルーマニアを経て、1934年、英国委任統治下パレスチナに到着、当地で結婚、1938年まで、その地でピアノ教授、以降米国移住ガラーチGalați、ルーマニア南東部、ウクライナ国境、黒海近くの町、ジャシIași、ルーマニア―モルドヴァ国境近くの町、ルーマニア、ウクライナ地図ステファン・ウォルペStefan Wolpe*(1902-1972)、ユダヤ系の両親のもとにベルリンで生まれる、のちにベルリン芸術大学となる学校で学び、また、バウハウスでも学び、ダダイストたちと親交を結んでいる、彼の書く音楽は、シェーンベルク、ヒンデミットなどの影響もうけているが、同時に、共産主義的劇場運動、労働者劇団のための作曲も手掛けたというベルリン芸術大学Universität der Künste Berlinは、動物園の西、ベルリン地図アインシュタインとアーレントについては、以下の記事↓ちっとも、「耐えられない退屈さ」、などではなかった・・・ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」を、ようやく、読む・・・そこから話はそれて、カレル・チャペック、カフカ、アインシュタイン、米原万里のプラハアルバート・アインシュタイン、マックス・ブロート、フランツ・カフカ、によるプラハ・・・「見よう見まね」の、シュレディンガー方程式人が、その人生を立て直すためには、強くなければならないし、楽観的でなければならないだろう。だから、私たちは、みんな楽観主義者に、なった・・・「われわれ、難民」ハンナ・アーレント木々についておしゃべりをすることさえ犯罪なのだ、それは、不正に対するある種の沈黙だから!・・・ハンナ・アレントとベルトルト・ブレヒト、まだ先は続くと思うが・・・最初のきっかけは、多和田葉子の「百年の散歩」(新潮文庫)、チェーン店の古書店で100円の捨て値で売られていたから手にしたまで、この本は、筆者がこの十年ばかり暮らしているベルリンの、あちらこちらの歴史的な人名を冠した街路にまつわる物語を連ねているのだが、すっかり引き込まれて、おかげでこの町の地理に少しばかり詳しくなってしまった、その中で、どうみても不釣り合いなくらいに「ローザ・ルクセンブルク通り」に熱がこもっているように思われ、長らくある種敬遠していたこの革命家の書簡集を読み始め、読んでいれば親しみも沸く、チューリッヒと言う町で、少しずつ年代は、ずれたりもするのだが、ローザと、レフ・トロツキー、そして、アルバート・アインシュタインが、交差していることに気付き、興味を引かれた、たまたま、ニコラス・ローグ「マリリンとアインシュタイン」も見たものだから、これも、長らく放置してあったアインシュタインの伝記も読み始め、・・・、一方で現下のガザの戦争の、報道を読むにつけ、それは、身体のどこかがひりひりと痛むような経験なのだが、・・・、神戸の震災の時、私は京都に住んでいて、自分の生まれ故郷を襲ったその災害を自分だけは免れてし・ま・っ・た・という事実が、「サヴァイヴァーズ・ギルト」を醸し出したのだろう、長らく何も手につかないような状態にあって、いつも、ちょうど南西、つまり神戸の方角、に向いた身体の部分が、ひりひりするような感覚を味わった、でも、ガザは遠すぎて、どの方角が、痛・め・ば・い・い・のかすらわからない、・・・、合衆国やヨーロッパの諸都市で、若い人たちを中心に、パレスチナ連帯のデモが続発しているニュースには、身勝手なものかもしれないが、「希望」を感じさせてくれるものが多く、そんなわけで、心の浮き沈みが激しいから、ますます症状は悪化する、でも、これほどたくさんの人々が亡くなっているのだから、「メランコリー」≒「『喪の作業』の反復強迫」に陥るのも当然なのであって、「他者」のために、何もできないのなら、せめて「病んでいる」ことにしようと、自分を慰めているようなところだ、・・・、ドイツの「記憶の文化」、つまり、「ホロコースト」に対する「罪」の記憶をとどめておこう、という、疑いもなく「正しい」運動が、しかし、「罪悪感」の重みに耐えかね、それを「他者」へ転嫁することで「昇華」しようという機制と思われるが、パレスチナ連帯のデモ参加者に向かって、「反ユダヤ主義者」なる罵倒を投げつけ、イスラエルの戦争を、あくまで「自衛」だなどと言い募って支持を与える、などと言う、間違いなく「病的」な傾向へと変容し、「西側」世界全体、つまり、ナチ人種理論が「アーリア人」と規定した「白人」世界、「ホロコースト」の「罪」を自らの「罪」として引き受けたはずの人々の世界、に蔓延しているらしいことが伝わってくる、・・・、それらパレスチナ連帯のデモの先頭に立っている人たちの中に、かならず、どこでも、「ユダヤ人」たちの姿が見える、・・・、「アンタイ・セミティックAnti-Semitic」を日本語では「反ユダヤ主義」と訳すから、ますます奇妙なことになるけれども、その「反ユダヤ主義」なる悪罵がほかならぬ、ユダヤ人であるところの、自分たちに向って投げつけられるのを、子供の頃から祖父母たちに、「ホロコースト」の記憶を語り聞かされて育ってきたかもしれない彼らは、どんな気持ちで聞くのだろう?、・・・、そんなことを考えながら、そういえば、ローザにせよ、トロツキーにせよ、アインシュタインにせよ、「ユダヤ人」の本ばかり読んでいることに気付く、・・・、アインシュタインが、プラハのカレル大学在職中に、同地の、フランツ・カフカやマックス・ブロートら、ドイツ語話者のユダヤ人コミュニティー、と親交を結んだことで、「シオニズム」に接近したらしい、また、ノーベル賞の賞金を用いて、エルサレムのヘブライ大学設立に資金供出をした、などと言うことを知るにつけ、では、そのずっと後、「建国」後のイスラエルについて、彼がどんな見解をもっていたのだろう、と気になって、調べていたところ、この「書簡」――1948年12月、「ナクバ」の半年後、「デイル・ヤシン虐殺」の首謀者であるのちの首相メナヘム・ベギン訪米に際して、ハンナ・アーレント、アルバート・アインシュタインを含む在米ユダヤ系知識人28人が署名して、ニューヨーク・タイムズ編集部へ送った公開書簡――に巡り合うことになったのだ、・・・、同じく現下のガザの戦争に触発されたのだろう、この「書簡」を発掘してきて、改めて掲載したらしい、ごく最近のウェッブサイトもいくつも見つかった、・・・、「リクード」政権の危険性を、彼らは75年も前から「予言」していたのだ、などと持ち上げてみても、誰にとっても、そんなに気が晴れることにはならないだろう、私としては、ただ、こうして、伝記を読んだりすることで、すっかり「好き」になってしまった物理学者が、その最晩年にあっても、「曇りのないまなざし」を「世界」に注いでいたことが発見できて、嬉しかった、というにとどめておこう、・・・、イスラエル国家は、世界に散在するあらゆる「ユダヤ人」に、国籍を与える用意があるのだといわれる、それぞれが居住する国の発給するパスポートを所持しているのだろう「ユダヤ人」たちの目に、その「祖国」がどんなふうに映るのか、想像もつかないけれども、・・・、「友達」のいない人間だが、たった一人だけ、「ユダヤ人」の知り合いがいて、四半世紀前、辺野古の基地建設が、まだ「ヘリポート」と呼ばれていた頃だ、環境保護運動にかかわる関係で、長らく当地に滞在しておられたのだろう、名護の東海岸の小さな公民館での講演会などにも、こまめに顔を出されていたから、あいさつを交わし、立ち話をするくらいの間柄にはなった、私が作ったへたくそな英文のウェッブサイトを、ご自分の知り合いに紹介して下さったり、まだ「ソーシャル・メディア」の時代じゃない、彼女自身の参加する「メーリング・リスト」に加えてくださったりした、・・・、私が「うつ」を発症して、「運動」から身を引いてしまう直前だから、今から思えば、ちょうど「第二次インティーファーダ」開始の頃になるだろう、そのメーリングリストへの投稿の中で、普段は笑みを絶やさぬ温厚な彼女とは異なった激越な言葉で、イスラエル政府を弾劾していたのが、文面を覚えている訳ではないが、今でも思い出される、・・・、「引き裂かれるアイデンティティー」などと、きいた風な言葉で表現してしまうことができればそれまでだが、今、日々目にするニュースの中に登場する、パレスチナ連帯デモの最前線に立つ、たくさんたくさんの「ユダヤ人」たちが、どんな葛藤の中に留まりつづけていなければならないのかを想像してみる、わずかばかりのよすがには、なると思う。・・・「喉元でつかえてしまう『笑い』」、について、など・・・多和田葉子「百年の散歩」、によるベルリン、多和田葉子「百年の散歩」、によるローザ・ルクセンブルク。多和田葉子「百年の散歩」のベルリン、に触発されて、頓挫していた「ローザ・ルクセンブルクの手紙」読み、を再開する。こう並べてみると、まるで、すでにはるかな昔から「死者」であるところの「登場人物」同士が、「対話」をしているようにも思えてくる・・・イースト・エンドのトロツキーから「ニノチカ」、「わが生涯」を読む。・・・「マリリンとアインシュタインInsignificance(1985)」ニコラス・ローグNicolas Roeg(予告編)合衆国全土の、学生たちによる抗議行動は、ガザ出身の学生たちの目を引き付けた、未来への希望に似たものを、感じ取ることができるからだ、カイロにいる彼ら4人へのインタビュー/マット・ナシェド2024年5月6日アル・ジャジーラ・・・付:アトランタ、エモリー大学哲学部長ノエル・マカフィー教授の逮捕についてかつての「公民権運動」の「ハートランド」では、活動家たちは、当時と同じく、きわめて敵対的、暴力的な環境の中での闘いを余儀なくされている・・・ニューオーリンズの、大学キャンパス、そして市中の広場に設営された「パレスチナ連帯座り込み」キャンプからの報告/デラニー・ノーラン2024年5月8日アル・ジャジーラ「賛成」票を投じて下さることが、正しい立場であることを、私は皆さんに保証したいと思います、あなたと、あなたが代表する国の人々は、この暗黒の時代のさなかにあっても、なお、自由と正義と平和のために立ち上がってくださったことを、これから何年もの長きにわたって、誇りに感じることができるでしょう・・・総会、パレスチナの国連加盟を支持/2024年5月10日アル・ジャジーラヘルシンキ、コペンハーゲン、ボローニャ、そして、バレンシア、バルセロナ、バスク、「パレスチナ連帯キャンパス座り込み」は、全ヨーロッパに広がりつつある・・・ベルリン自由大学、アムステルダム大学のキャンプ、警察力により解散させられる/2024年5月7日アル・ジャジーラ彼が勤務してきた病院の状況を問われると、ラハナ博士は、しばし苦痛のために口ごもった、病に侵された人たち、傷を負った人たち、そして死につつある人たちの記憶が、押し寄せてくるからだ・・・イスラエルによるラファ侵攻を前にして、フランス人医師がガザで見たもの/ウルーバ・ジャマル2024年5月9日アル・ジャジーラアイルランドとともに、ヨーロッパ圏内では例外的に、政府が親パレスチナの姿勢を採用しているスペインでは、大学でのガザ連帯行動に対しても、教職員の支持もあり、警察による介入もないという/グラハム・キーリー2024年5月8日アル・ジャジーラ南アフリカの、反アパルトヘイト闘争、あるいは、ヴェトナム戦争のことを思い起こしましょう、地球規模での学生運動が、それぞれの政府に影響を与え、それぞれの政府の責任を追及することで、変革を作り出す上で重要な役割を果たしてきたのです・・・ブリストル大学、ロンドン大学、オックスフォード、ケンブリッジ、英国の諸大学もパレスチナ連帯の流れに合流/エドナ・モハメド2024年5月9日アル・ジャジーラこれは外交上の大打撃となるでしょう、イスラエルは、世界の声を聴くべきだった、報復を求めてやまない国内世論ばかりに耳を傾けるのではなくて・・・エジプト、南アフリカによる「国際司法裁判所(ICJ)」提訴に正式に参加の意向/2024年5月12日アル・ジャジーラ「私たちの生活は、地獄のようで、人間性という慈悲のかけらもない。私は、今、泣きながらこれを書いているのです」、と彼は、携帯電話のテキスト・メッセージでそう書き送ってきてくれた・・・イスラエルのラファ侵攻を前に、ガザの人々の夢は、潰え去る/ウルーバ・ジャマル2024年5月9日アル・ジャジーラ彼らの一人一人が、その固有の物語をもち、彼らを弔う、彼らを愛した人々がいたのである・・・被占領地西岸地区では、イスラエル軍が、パレスチナ人を「冷血無比」に殺害することで、彼らの心まで『植民地化』しようとしている/マット・ナシェド2024年5月13日アル・ジャジーラ、付・イスラエルの女性平和人権団体「イェシュ・ディン」略史どんな正当化の言い訳がなされようとも、子供たちに対して、集団的な飢餓状態を現出させるような政策を推し進める手助けをすることに、恥と罪の感覚を、持たないわけにはいかなかった・・・米陸軍将校、イスラエルのガザに対する戦争を理由に辞職/2024年5月14日アル・ジャジーラユダヤ人として、私たちは声を大にして叫ばなければならない、イスラエル国家を私たちは誇ることができない、ユダヤ人として、私たちは叫ぶ、私たちの名において蛮行を行うことをやめよ、それは私たちの旗ではない、私たちはあなたたちと同じではない・・・カナダ諸都市、イスラエル「建国」記念日国旗掲揚式典に対する抗議/2024年5月14日アル・ジャジーラバイデン大統領は、ユダヤ人という存在を、アメリカという戦争機械の看板に据えているのです。それは、深く深く誤った見解だと言わなければなりません・・・合衆国政府の職員、ガザにおける戦争への対応をめぐって、また一人辞職/2024年5月15日アル・ジャジーラ「今日、問題となっているのは、イスラエルが自ら宣明しているところの戦争目的、すなわち、ガザ地区を地図の上から消し去ってしまうこと、それがほぼ現実のものとなりつつあるという事実なのです」・・・南アフリカ、「国際司法裁判所(ICJ)」に対し、ガザ停戦、イスラエルによるラファ攻撃の中止を命ずるよう求める/2024年5月16日アル・ジャジーラこれらの事実は、被占領地域にユダヤ人入植地を拡大すべく、パレスチナ人を除去し続けるという、共通の目標に向けて、右翼的な入植者集団とイスラエル国家とが推進しつつある政策の、両側面を示すものにほかならない・・・パレスチナ人への襲撃が激増する中、カナダ政府、イスラエル人入植者への制裁措置/2024年5月16日アル・ジャジーラ、付・イスラエル人権団体「ベツェレムB’tselem」イスラエル当局は、飲料水、食糧、燃料の配給を故意に妨害し、人道支援活動を意図的に阻害し、また農地を焼き尽くし、それらの行為によって、民間人住民から、その生存に必要不可欠なものを剥奪しようとしている・・・「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」報告書から/2024年5月14日アル・ジャジーラ、付・「国際救援委員会(IRC)」略史(訳注)以下の、wikipedia英語版「パレスチナの大学一覧List of universities and colleges in the State of Palestine」のサイトには、ガザにある大学として、11校が掲げられている、場所を突き止めることのできなかった「ハッサン大学Hassan University」以外はすべて、下の地図に記入しておいたアル・アクサ大学Al-Aqsa University―ガザ市アル・アズハール大学Al-Azhar University―ガザ市アル・クッズ公開大学Al-Quds Open University―ガザ市ガザ大学Gaza University―ガザ市ガザ・イスラム大学Islamic University of Gaza―ガザ市イスラ大学Israa University―ガザ市南西郊外パレスチナ技術大学Palestine Technical College―ガザ市とカーン・ユーニスの中間、デイル・アル・バラ―Deir al Balah応用科学大学University College of Applied Sciences―ガザ市パレスチナ大学University of Palestine―ガザ市南西郊外ガザ・コミュニティ大学/訓練センターGaza Community/Training Center―ガザ市ハッサン大学Hassan University(訳注)ノエル・マカフィーNoelle McAfee:wikipedia英語版の以下の項には、生年等の記述はない、2010年以来、エモリー大学で哲学教授、専門は、女性のジェンダーとセクシュアリティ、精神分析記事中にある、教授逮捕の場面のヴィデオとおぼしきものが、You-Tubeにいくつかアップロードされている(1)合衆国エモリー大学哲学部長、ガザ、ジェノサイド反対デモにて逮捕される/US Emory University Philosophy Chair Arrested At Anti-Genocide Protest Over Gaza | Dawn News Englishすみません、すみません、何か今すぐ私たちにできることは?I'm so sorry, I'm so sorry, Is there anything I can do for you right now?哲学部学部事務所に電話して、私が逮捕されたと伝えてくれませんか?Can you call the philosophy department office and tell them I've been arrested?哲学部学部事務所ですね?Philosophy department office?そう、哲学部学部事務所Yes, Philosophy Department Officeわかりました、かならずかけます、で、あなたのお名前は?I will, I will, what's your name?ノエル・マカフィーです、哲学部学部長ですI am Noelle Mcafee, I am the chair of the Philosophy DepartmentわかりましたI got you・・・後ろ手に手錠をかけられたマカフィー教授が、警官に連行される様子を、誰かが、スマートフォンで撮影、被逮捕者救援関係とおぼしき人との会話、が上に示されたとおり、その後、この逮捕に抗議した女子学生が、警官に押し倒され、二人がかりで、やはり、後ろ手に手錠をかけられているこの番組を提供している、「ドーン(夜明け)Dawn」は、パキスタンの放送局で、1940年代、独立英雄、ムハメド・アリ・ジンナーMuhammad Ali Jinnah(1876-1948)が創刊した新聞に由来する余談になるが、もう半世紀ほども前に読んだ、パキスタン出身の著述家、エクバル・アーメドEqbal Ahmad氏の以下の記事との関係で、この新聞の名前は知っていた、「セプテンバー・イレブンス」以前のものだが、今日なお、極めて有用な議論と思われるので、再掲しておく・・・「彼らのテロリズム、我らのテロリズムTerrorism: Theirs and Ours(1998)」エクバル・アーメッドEqbal Ahmad(2)エモリー大学哲学部長ノエル・マカフィー氏、パレスチナ連帯デモで逮捕される/アナドル通信社Noelle McAfee, Emory University’s Philosophy Department chair, detained in pro-Palestine protest/@anadoluagency上の(1)と同じ場面が、こちらは、トルコ国営通信アナドルAnadoluの提供によるもの(3)エモリー大学教授、ノエル・マカフィーとの、デモにおける逮捕に関する、11分間のインタヴュー11-minute interview with Emory professor Noelle McAfee about protest arrest(アトランタのテレビ局「11 Alive」による、事後の教授に対するインタビュー、一部を訳出すると)・・・事態がこうなる前に、私はここにきて状況を見守ろうとしていたんです、学長が、アトランタ警察を呼ばなければよいが、と願いつつ、そこまでは、エモリーの学内警察だけが、平和的デモを見守っていたのです、だが、私が来てほどなく、州兵部隊が、到着するのが見え、同僚の一人は、アトランタ警察も来ている、と教えてくれました・・・そして、一人の若い男性が引き倒されたんです、私たちは彼がなぐられ続けるのを見ていなければならなかった、私の内部の「母」的なものが、言わせたんでしょうね、「やめてStop、やめてStop!」、そう叫びながらも、私は注意深く、(警官隊から)4フィートほど距離をとって立って、しかも攻撃的に見えないようにふるまっていたのですが、一人の警官が、進み出て私の前に立ちふさがり、「マダム、あんたは、下っていなさい、さあ、下って」、そうして、また誰かが引きずり倒されるのを、見ていなければならなかった、そうこうするうちに、私が逮捕されたわけです、・・・(訳注)ジャバリア難民キャンプJabalia refugee camp、ガザ市北東、ガザ市中心部と、ガザ地区北東端、エレツ検問所Erez Check Pointとの中間あたり(訳注)wikipedia英語版「パレスチナの病院一覧―ガザ地区List of hospitals in the State of Palestine-Hospitals in the Gaza Strip」、には、ガッザン・アブ・シッタ氏の記事に描かれていた、アリ・アフリ病院Al-Ahli Arab Hospitalほか、まだ一部機能している病院が、6施設、完全に機能停止に追い込まれた病院が、アル・アウダ病院Al-Awda Hospital、アル・シーファ病院Al-Shifa Hospital、ナセル病院Nasser Hospitalなど、15施設が列挙されている(訳注)エモリー大学Emory University、1836年創立、メソジスト・エピスコパル教会/メソジスト監督教会Methodist Episcopal Church、これは、アメリカ独立戦争時、英国国教会から断絶された、国教会の改革運動であるメソジスト派が、合衆国に作った教派であるが、の運営になる、1861年からの南北戦争に際しては、大学は閉鎖、学生すべてが、南部同盟/コンフェデレイトConfederate側に徴兵された、1863年には、南軍の野戦病院、さらに司令部として使用、戦後の、「再建期Reconstruction Era」には、南軍側に与した組織の多くと同様、財政危機に陥ったが、学長が奴隷制廃止を称賛する演説をしたことが、北部「アボリッショニスト」の銀行家の注目を受け、多額の借款を得て再建、20世紀初頭には、コカ・コーラ創業者の支援も受ける、元来男子校であったが、1953年から共学制を導入、1962年、「公民権運動」期には、人種隔離政策を維持するジョージア州法制に反して、人種混交政策を推進、このため、州からは、免税措置を拒絶された、1967年には、初のアフリカ系学生が卒業、合衆国全土、とりわけ南部においては、きわめて先進的な「多様性」尊重のプログラムを採用、国際的な人権擁護推進をも掲げ、1983年には、米国亡命中の、韓国の金大中氏が、学長の招きで同校で講演を行った、このほか、公民権運動の著名な活動家、ロザ・パークスRosa Parks(1913-2005)に、同学学長メダルを授与、同じく、ジョン・ルイスJohn Lewis(1940-2020)が、記念講演を行うなど、「リベラル」色を強く打ち出しているようである、かつての講師陣には、ジミー・カーターJimmy Carter(1924-)、サルマン・ラシュディーSalman Rushdie(1947-)、デズモンド・ツツDesmond Tutu(1931-2021)などの名も挙がっている、・・・、今回の、学生たちによる「パレスチナ連帯キャンプ」をめぐる、警察力導入に際しては、ノエル・マカフィー哲学部長のほかに、キャロライン・フォーリンCaroline Fohlin経済学部教授も逮捕され、後者は、のちに、暴行容疑で起訴されている、また、トルコ系アメリカ人の哲学部教授、ディレク・フセインザデガン氏は、警官に暴行を受けた学生の救援に当たっている際、銃を頭につきつけられたうえ、逮捕するとの脅迫を受けた、と証言している、これらの警察側の強硬手段については、米国内主流派メディアからも批判が出ているようである、・・・、以下は「私見」に過ぎないが、アトランタ、と言えば、「ディープ・サウス」、「白人優越主義者」が跋扈する「ウルトラ・コンサーヴァティブ」な土地柄、との浅薄な先入観をもっていたから、その様な大学で、学生運動が盛り上がったことに意外の念を抱き、調べてみた次第、同じアトランタ、と言うだけのつながりだが、以前、アリス・ウォーカー「カラー・パープル」を読んだ際に調べたのだが、この著者の出身校でもある、同じくアトランタの、スペルマン・カレッジSpelman College、1881年、バプティスト教会、これは、英国国教会の「分離派Dissenters/Separatists」の流れをくむ、の運営になる、もっぱらアフリカ系の女子学生のために開設された大学、のことを思い出した、北部出身の、「アボリッショニスト」の二人の女性によって創立されたもので、やはり、「公民権運動」期には、アリス・ウォーカーAlice Walker(1944-)自身も活動家であったが、学内に「学生非暴力調整委員会SNCC」支部を持ち、その顧問が、歴史学者ハワード・ジンHoward Zinn(1922-2010)であったなど、中心的な役割を担ったようであるアトランタプロテスタント各派、系統図アリス・ウォーカー「カラー・パープル」、まず、日付と場所を特定する不毛な(笑)試み(訳注)以下は、本文に付されている写真のキャプション、インタビューを受けた人たちのもつ、スナップ写真も含まれているようで、「平和」だった時代の、彼らの笑顔が残されているのだと思われる・・・(1)2024年4月27日、ラファ難民キャンプ、国内移住を余儀なくされたパレスチナ人の子供が、テントの前を歩き過ぎる、そのテントには、ニューヨーク、コロンビア大学の学生たちへの、感謝のメッセージが大書されている。コロンビア大学の抗議運動は、たちまちのうちに合衆国全土に広がった、彼らは、イスラエルに兵器を供給している諸企業から、彼らの所属する大学が、資金引き上げを行うことを要求しているのだ。An internally displaced Palestinian child walks past a tent with a thank you message dedicated to students at Columbia University in New York, at the Rafah refugee camp on April 27, 2024. Protests erupted at Columbia and quickly spread through college campuses across the United States as students call on universities to divest from companies that provide arms to Israel (2)黒いヒジャブをまとっているのが、ハラ・シャラフさん、友達と抱き合っている、ガザ地区にて。Hala Sharaf wears a black hijab and hugs her friend in the Gaza Strip (3)ザハラ・アル・クルドさん、アル・アズハール大学のクラスメートたちと一緒に「セルフィー/自撮り」写真を撮っているところ。(アル・アズハール大学は、ガザ市南部ゼイトウンZeitoun)Zahra al-Kurd, front, takes a selfie with her classmates at Al-Azhar University (4)モハマド・アブ・ガーリさん、カイロの彼のアパートにてMohamad Abu Ghali in his apartment in Cairo, Egypt(5)ティア・アル・クドゥワさん、高校の卒業式でスピーチしているところ。(演壇に書かれた文字から、アメリカン・ハイスクール・ガザ、であることがわかるが、その高校の場所は発見できなかった)Tia al-Qudwa gives a speech at her high school graduation・・・(訳注)アシュドッドAshdodは、ガザの北東30キロ、ガザ市とテルアビブ・ヨッホの中間あたりに位置する、地中海沿いの町(訳注)「テイサー銃Tasers」、ワイヤーに接続された「銛」状のものが発射され、身体に食い込むことで、被疑者の逃亡を阻止するように設計された銃、路上で、アフリカ系アメリカ人の「被疑者」とされる人々に対して頻用され、「ブラック・ライヴズ・マター」の運動の中で、強い批判にさらされてきた(訳注)「ビーン・バッグ・ライフルbean-bag rifle」、非戦闘用、殺傷能力を抑えた、警備当局が、デモ鎮圧用に用いる銃器、「ビーン・バッグ」は「お手玉」の意(訳注)ウォルター・アイザックソンWalter Isaacson、これまでの「CNN」の報道姿勢は偏向している、として、共和党の右翼強硬派に迎合する報道姿勢を採用したことで知られているようである、アル・ジャジーラの別のヴィデオには、ヒジャブをまとった女子学生に対して、この人物が、脅迫的な身振りをとっている場面が映し出されている(訳注)南北戦争期の合衆国ニューオーリンズ、広域/中心部詳細・・・(訳注)「反対」票を投じた9か国は、(1)アルゼンチン、(2)チェコ共和国、(3)ミクロネシア連邦、(4)ハンガリー、(5)イスラエル、(6)ナウル、(7)パラオ、(8)パプアニューギニア、(9)アメリカ合衆国、「棄権」25か国は、(1)アルバニア、(2)オーストリア、(3)ブルガリア、(4)カナダ、(5)クロアチア、(6)フィジー、(7)フィンランド、(8)グルジア、(9)ドイツ、(10)イタリア、(11)ラトヴィア、(12)リトアニア、(13)マラウィ、(14)マーシャル諸島、(15)モルドヴァ、(16)モナコ、(17)オランダ、(18)北マケドニア、(19)パラグァイ、(20)ルーマニア、(21)スウェーデン、(22)スイス、(23)ウクライナ、(24)英国、(25)ヴァヌアツ国連総会、投票結果一覧・・・(訳注)ベルリン、アムステルダム、北欧、イタリア、スペイン、バルセロナ、フランスバスク大学は、ビルバオ北方の海岸沿い、レイオアLeioa、にある、リーユは、ベルギー国境近くの町・・・(訳注)「ガザ・ヨーロッパ病院Gaza European Hospital」、1989年、「UNRWA」が、ヨーロッパ連合の支援を受けて設立、مستشفى غزة الاوروبي上のアラビア語は、3つの単語からなっていて、右から順に「病院」、「ガザ」、「ヨーロッパ」(訳注)ベイト・ラヒヤは、ガザ市北東、ジャバリア難民キャンプのさらに北東、エレツ検問所まで2キロほど、「カマル・アドワン」は、PLO、ファタの著名な活動家だった人物で、その名を冠した学校などもあるようだが、この病院の位置は、調べがつかなかったKamal Adwan(1935-1973)、現アシュケロン付近の村に生まれるが、「ナクバ」で、村は破壊され、ガザに難民として逃れる、エジプト、サウジアラビアを経て、カタールへ、同地でアラファトに出会い、ファタ創立メンバーとなる、1973年、レバノンで、イスラエル軍の襲撃により死去・・・(訳注)バルセロナ自治大学は、バルセロナ北東郊外、セルダニョーラ・デル・バレスCerdanyola del Vallès、にある(訳注)スペインの二大政党政治、フランコ独裁終焉後の、1980年代以降、第2インター系の「社会主義労働者党Partido Socialista Obrero Español(PSOE)」と、キリスト教民主主義の右派、「人民党Partido Popular」が、主要に政権を独占してきたようである(訳注)写真説明の中に、「マドリッド・コンプルテンセ大学Complutense University of Madrid」があったので、以下の地図に表示しておくマドリッド、地図・・・(訳注)ブリストルは、ロンドンの西200キロ英国、アイルランド(訳注)「BAEシステムズBAE Systems」、英国の航空、防衛、情報産業、米国国防省に対する6番目に大きい供給者、とのこと(訳注)「ワーヴィック大学University of Warwick」、西部ミッドランド、バーミンガムの東南東15キロ、コヴェントリーCoventry、にある大学、リヴァプール、マンチェスター、バーミンガム、地図(訳注)「東洋アフリカ研究学院」University of London The School of Oriental and African Studies(SOAS)、ロンドン大学の一部局、ブルームズベリーBloomsburyにあるロンドン(訳注)「オックスフォード大学University of Oxford」は、ロンドンの西北西100キロのオックスフォード市、「ケンブリッジ大学University of Cambridge」は、ロンドンの北北東100キロのケンブリッジ市、にある(訳注)「ミドル・イースト・アイMiddle East Eye」、ロンドンに本拠地を置く、中東および北アフリカ問題を中心とするオンライン・ニュース・サイト、2014年創立「L3ハリス・テクノロジーズL3Harris Technologies」、合衆国の情報技術産業、軍需産業「エルビット・システムズElbit Systems」に関連する記事、以下参照↓伊藤忠のイスラエル、エルビット社との契約破棄は、「BDS」運動が、真に「グローバル化」しつつあることの、証である・・・日本の「企業社会」の決断が、合衆国の東アジア戦略に、思いがけぬ一撃となる/大阪女学院大学人権平和研究所教授サウル・J・タカハシ2024年2月19日アル・ジャジーラ(訳注)トリニティー・カレッジ、ダブリン校、ダブリン周辺、地図(訳注)「ロンドン大学ゴールドスミス校Goldsmiths, University of London」、ロンドンのニュー・クロス地区New Cross、にある「ロンドン大学シティ校City, University of London」、ロンドン中心部、アイリントンIslington・・・(訳注)「アル・マワシal-Mawasi」は、カーン・ユーニスの西、海岸に面した地区(訳注)「タル・アル・ハワ/テル・アル・ハワTal al-Hawa/Tel al-Hawa」、はっきりしないが、ガザ市の海岸沿いの地区と思われる(訳注)「携帯電話のテキスト・メッセージでそう書き送ってきてくれた」とあるのでようやく思い至ったのだが、イスラエル政府は、たしか、一週間ほど前、アル・ジャジーラ社に対して、イスラエル領内におけるその取材活動を禁止する措置をとったはずで、西岸地区で、同社のために記事を提供した、という容疑で、ジャーナリストが逮捕された、との報道も見かけた、とすれば、あるいは、この記事は、たとえば、在外パレスチナ人たちのつてをたどって、ガザに残っている人たちと、電話やインターネットを通じて連絡を取り、そういう形で取材をして、海外のどこかで作成されたものなのかもしれない、・・・、アル・ジャジーラは、ほとんど「ボランティア」のような形の「素人」ジャーナリストのネットワークを、各国に広く有しているようで、だから、「プロフェッショナル」な記者が、国外退去処分を受けたとしても、秘密裏に、被占領地域からの様子を、取材できる体制なのかもしれない、と想像するが、いずれにせよ、困難を伴うことに違いない、・・・、一方、この記事にもあるように、ラファに避難してきている家族に対して、イスラエル軍から「退去勧告」の「電話」がかかってくるのである、イスラエル軍はそのような「個人情報」をも把握していることに、驚きを禁じ得ない、ガザの病院に勤務していた外国人医師たちにも、やはり「テキスト・メッセージ」で、「国外退去」が命ぜられた、という記事もあった、・・・、「スマートフォン」の時代の「戦争」に、私たちの想像力が、とてもついて行っていないことを思い知らされたことを、書き留めておくことにする。・・・(訳注)「トゥルカレムTulkarem/Tulkarm」は、イスラエルとの国境沿い、テル・アビブ―ヤッフォの北北東30キロ(訳注)「イェシュ・ディンYesh Din」、ヘブライ語で「法はそこにある」の意、2005年、イスラエル人の女性たちによって創立、主に西岸地区で、入植者、イスラエル軍兵士によるパレスチナ人に対する不法行為を監視する活動をしている、この団体に先行するものとして、同じくイスラエル人女性たちのみによって構成された、2001年創立の「マハソム・ウォッチMachsom Watch」、「machsom」はヘブライ語で「検問所checkpoints」の意、が挙げられる、イスラエル国防軍(IDF)の検問所における、パレスチナ人に対する人権侵害を監視、被害者に支援を与えることを目的として結成された・・・その創立メンバーは、3人、一人は、ガテマラ、メキシコで人権保護活動に従事した経験を有する活動家、二人目は、1990年にソ連からイスラエルに移住したばかりの女性、そしてもう一人は、正統派ユダヤ人のタルムード学者の女性、この三人が、人権侵害の様相をこの目で確かめようと、まず、ベツレヘムの検問所(これは、映画「贈り物」に描かれていると言われる「第300検問所/Checkpoint 300」ではなかろうかと思われる)に出かけたところ、一週間もたたないうちに、彼女らに共鳴した女性たちが30人ほど加わり、エルサレムから西岸全域の検問所での監視活動に従事することになった、という・・・さらに、これら女性グループの歴史をさかのぼると、「第一次インティファーダ」期の、1988年、毎週金曜日の夕刻、全身黒の衣装で街角に立って、被害者を追悼し、占領政策を弾劾するという、「黒衣の女たちWomen in Black/Nashim BeShahor」運動に至るようである、・・・、映画「贈り物」、「第300検問所/Checkpoint 300」については、上記(訳注)「アル・ハクAl-Haq」についても、上記・・・(訳注)トロント市庁舎前での抗議行動の模様を伝える「X」上のヴィデオ↓、投稿者は、「トロント・スター」紙のジャーナリストのようであるView of Israeli flag rising at Toronto city hall from Nathan Phillips, where a small group of pro-Palestinian protesters did their best, from an enforced distance, to disrupt it pic.twitter.com/zNWVKCV9Lq— David Rider (@dmrider) May 14, 2024 As Jews, we scream it loud ・・・ユダヤ人として、私たちは、声を大にして叫ばなければならない– Israel doesn’t make us proud,・・・――イスラエル国家を、私たちは誇りとすることができないAs Jews, we say not in our name・・・ユダヤ人として、私たちは叫ぶ、私たちの名において蛮行を行うことをやめよ– it’s not our flag, we’re not the same.・・・――それは私たちの旗ではない、私たちはあなたたちと同じではない余談のようなものだが、「loud/proud」、「name/same」、シュプレヒコールにも、ちゃんと「韻」を踏んでいるのに、驚嘆させられた。・・・(訳注)「ベツェレムB’tselem」、ヘブライ語の語義は、「(神の)像」、1989年、「第一次インティーファーダ」のさなかの、イスラエル軍によるパレスチナ人殺害事件の激増を受けて、イスラエル人の法律家、医師、学者らによって、国会議員の何名かの支持をも受けつつ創立された、被占領地域における人権侵害事案を記録、告発し、もってイスラエル国内に人権文化を育成することを目指す非営利団体、その2021年の報告書の中で、「ベツェレムB’tselem」は、イスラエル国家をもって、「ユダヤ人優越主義」に奉仕する「アパルトヘイト体制」であり、もはや民主主義と呼ぶことはできない、と規定している、創立メンバーの何人かのプロフィールを掲げると、ダフナ・ゴラン・アニョンDaphna Golan-Agnon、フェミニスト研究者、「バット・シャロムBat Shalom」創設者、1993年の「オスロ合意」の時期から、2006年まで存続したこの団体は、イスラエルの同名のフェミニスト団体と、パレスチナ人の「エルサレム女性センターJerusalem Center for Women」の合同によるものであったダヴィド・ズッカーDavid Zucker(1948-)、「ラッツ党Ratz」国会議員、「ピース・ナウPeace Now」創立メンバーハイム・オロンHaim Oron(1940-)、「マパム党Mapam」国会議員、「ピース・ナウPeace Now」創立メンバー、などなお、「ラッツ党Ratz」は1973年創立、西岸、ガザの占領に反対し「PLO」との対話に基づく和平を主張する、世俗主義、政教分離を標榜する政党、「マパム党Mapam」は、1948年創立の、マルクス主義、「労働党シオニズムLabor Zionism」政党、両党は、1992年に合同して「メレツ党Meretz」となった「ピース・ナウPeace Now」は、1978年創立、「二国的解決」、シリア、レバノンとの和平、入植政策に対する反対、を掲げた非政府組織、1982年、ベイルートの「サブラ・シャティラ虐殺事件」後、真相究明責任追及を求めたデモを、テルアビブにおいて40万人の参加をもって組織したことで知られるほか、「オスロ合意」前夜には、パレスチナ人、イスラエル人合わせて2万5千人が、エルサレム旧市街を手をつないで囲む「人間の鎖」を主導した・・・パレスチナ人ディアスポラのジャーナリスト、ルラ・ジェブレアルRula Jebreal(1973-)の自伝的小説「ミラルMiral」最終章に描かれてた情景は、この「人間の鎖」を、そこで言及されていた「イスラエルの平和団体Israeli pacifists」は、この「ピース・ナウPeace Now」を指していたのであろう、と思い当たる・・・・・・(訳注)「ワールド・セントラル・キッチンWorld Central Kitchen (WCK)」、2010年、スペイン系アメリカ人のシェフ、レストラン経営者ホセ・アンドレスJosé Andrés(1969-)が、同年のハイチ大地震後の支援活動の一環として創立、以降、2017年、テキサス、ルイジアナを襲った「ハリケーン・ハーヴェイHurricane Harvey」、2018年、ハワイの「プナ地区火山噴火lower Puna eruption」、2023年、トルコ・シリア大地震、そして、現下のガザ地区の人道的危機状況、等々に、職員を派遣、食糧供給活動に従事してきた(訳注)「国際救援委員会International Rescue Committee (IRC)」、1931年、アルバート・アインシュタインの提言により、ニューヨークで創立、当初は、もっぱらナチの迫害の被害者支援を目的としたが、のちにはその活動範囲を拡大した、その母体となった「国際救援協会International Relief Association (IRA)」の由来は、興味深いがここでの論題からはやや離れるので、下に詳述する「パレスチナ医療援助Medical Aid for Palestinians(MAP)」、1982年、ベイルートにおける「サブラ・シャティラ虐殺」を機に創立された英国の慈善団体、西岸、ガザ地区での医療活動、医療従事者育成、などの活動に従事、「国際連合経済社会理事会(ECOSOC)」の特別諮問機関となっている(訳注)「国際救援委員会International Rescue Committee (IRC)」は、1931年、アルバート・アインシュタインの提言により、「国際救援協会International Relief Association (IRA)」のニューヨーク支部として創立、「国際救援協会(IRA)」の方は、やはり1931年にドイツで、二つの左翼政治党派、「共産党反対派Communist Party Opposition (KPO)」および「社会主義労働者党Socialist Workers Party (SAP)」によって創設され、国家による弾圧、迫害の被害者の救援を目的とする組織、1933年のナチの政権獲得以降は、本拠をパリに移動した・・・「KPO」は、スターリン―コミンテルン支持派、トロツキー支持派の「左翼反対派Left Opposition」のいずれとも異なる「右翼反対派Right Opposition」に属する政党で、この傾向としてパージを受けた一人として、当時「アメリカ共産党(CPUSA)」党員であった、ジェイ・ラヴストーンJay Lovestone(1897-1990)がおり、彼が、「国際救援協会(IRA)」ニューヨーク支部創設の立役者となり、これにアインシュタインが加わった、という事情であったらしい、一方、「SAP」は、1931年「社会民主党(SPD)」の分派として結成、第一次大戦期の反戦派からなる「独立社会民主党(USPD)」の残存メンバーも合流した・・・当初は、ナチ政権の迫害を受けた「右翼反対派」等の共産主義者の救援をもっぱら目的としていたが、のちに、ムッソリーニの迫害を逃れてきたイタリアからの移民、フランコのスペインからの移民等へも、その支援の窓口をひろげた、と言われる・・・一方、1940年、合衆国大統領夫人エレノア・ルーズヴェルトEleanor Roosevelt周辺のアメリカ人リベラルが、「緊急救援委員会Emergency Rescue Committee (ERC)」を組織、ヴィッシー政権下のフランスをはじめとするヨーロッパに、とり残されていたユダヤ系知識人を含む多くの人々を、合衆国に移送して救援する事業に従事した、マルセイユから、同じ船で、マルチニック経由合衆国へと脱出した、レヴィ=ストロースClaude Lévi-Strauss、アンドレ・ブルトンAndré Breton、ヴィクトル・セルジュVictor Sergeも、この団体の支援を受けたようである、この団体の創立者であるアメリカ人ジャーナリストヴァリアン・フライVarian Fry(1907-1967)の項には、ハンナ・アーレントHannah Arendtもまた、彼らの支援を受けた一人として記載されている・・・この二つの起源の異なる団体、「IRA」、「ERC」が、合衆国第二次世界大戦参戦後の1942年に合同、合衆国の資金援助を受け、次第にCIAの活動の隠れ蓑としての役割も担うようになっていったようである、「冷戦期」を通じて、東ベルリン支援等、もっぱら反共宣伝色の強い事業に従事する団体となったが、今日は、再び、世界各地の紛争地域での人道支援活動に焦点を当てているようである・・・さらに話はそれるが、アインシュタインの名前が出た機会に付け加えておくと、彼は、カレル大学在職中のプラハで、フランツ・カフカやその盟友マックス・ブロートなど、当地のドイツ語話者のユダヤ人コミュニティーの面々と親交を結び、彼らの影響で「シオニスト」となったといわれる、ノーベル賞受賞後は、エルサレム東郊のヘブライ大学の創設メンバーともなっているのだが、一方で、「ナクバ」後の1950年代初頭、ハンナ・アーレントら、ユダヤ系知識人との連名で、イスラエル首相への公開書簡を送り、同国を「ファシスト国家」として非難している、という記事を読んだのだが、その書簡の内容は、まだ見ることができないでいる・・・以下の記事参照↓レヴィ=ストロースとヴィクトル・セルジュを乗せた船マルチニックを脱出してフランスに向かうフランツ・ファノン、フランスを脱出してマルチニックに向かう、レヴィ=ストロースとアンドレ・ブルトンアルバート・アインシュタイン、マックス・ブロート、フランツ・カフカ、によるプラハ・・・「見よう見まね」の、シュレディンガー方程式以上、記事の論題からは、大きく逸脱した話題となったが、一世紀近く前、もっぱら「ユダヤ人」救援組織として創立された団体が、いまや「シオニスト」国家の軍隊から砲撃を受ける、と言う、少しも笑うことのできない強烈な歴史の皮肉に、呆然とさせられたので、書き残しておくことにする・・・ガザ地区全体図ガザ市ヨルダン川西岸地区西岸、ガザ、イスラエル、(南部レバノン、シリア)地図一度は失われた、と諦観したものが、実は、失われていなかったことがわかる、というのは、結構なことのはずだが、しかし、では、あの「喪の作業」はどうなったのだ?という、ある種後ろめたさも、残る。ヒヨドリ(ヒヨドリ科)「トワイライト」の「twi」は、「二つ」、では、なくて、その逆数、「半分」の意味なんだってな、・・・、これは、夕刻の「トワイライト・ソング」、あまり鳴いてくれなかったけれど(笑)シロガシラ(ヒヨドリ科)こんな小さな身体なのに、あたり一面に響き渡る「トワイライト・ソング」、ちっとも「長兵衛、忠兵衛、忠兵衛、長兵衛」なんて聞こえないけど、声に出して言ってみると、もうそれ以外に聞こえなくなる(笑)メジロ(メジロ科)・・・これで、これからの「夏場」、親しく付き合っていただく(笑)、「常連」さんたちは、ほぼ出そろったことになるわけだ。シジュウカラ(シジュウカラ科)ということは、およそ300年ばかり前、あなた方の祖先たちも、この同じ海岸で、「チュイチュイナー」と聞かれる歌を、歌っておられたわけですね!シロチドリ(チドリ科)浜千鳥節千鳥やチヂュヤーヤ、浜居てぃハマ ウティ、チュイチュイナー「鶚(みさご)は荒磯(ありそ)を好む」って、「方丈記」には書かれているのだけれど、鴨長明氏は、どこの「荒磯」で「鶚」を見られたのだろう?帰らなくても、よいのですか?ええ、よいのです、わたくしは、ここが気に入りましたので・・・。ダイサギ(サギ科)旧暦四月「新月」大潮も近い、この前海に来たのは、旧暦三月三日「浜下り」だから、あっという間にひと月が過ぎてしまったのだね。クロサギ(サギ科)・黒色型長いストローで、ちゅーちゅーと、吸い上げている、あらっ、お顔を見れば、たしかに、「旨いっ!」とか、言ってるみたいに見えるから不思議だ(笑)。イチモンジセセリ(セセリチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)子供のころから、「童話」なんかで名前は知っていたし、漢字だって書けた(笑)、でも、ちゃんと「見た」って記憶は、ないのだな。スズメ(ハタオリドリ科)休んでおられるところに出くわすのは、まったくの偶然、「通りすがり」という訳ですから。リュウキュウツバメ(ツバメ科)鳴き声が止むか、もしくは、「ドップラー効果」がかからなくなったら(笑)、それは、どこかで休んでいる、という証なんだ。セッカ(ウグイス科)こういうのを、「相聞歌」って言うんですかね?イソヒヨドリ(ツグミ科)・オスイソヒヨドリ(ツグミ科)、まだ、派手な「婚姻色」になる季節には、少し早いのか、個体差もあるだろうし、青とオレンジの鮮やかな「オス」とも、おなかの網目模様が、「焼きおにぎり」みたいな(笑)、「メス」ともつかない・・・イソヒヨドリ(ツグミ科)・メスイソヒヨドリ(ツグミ科)・オスイソヒヨドリ(ツグミ科)・メス気が付いたらもうこんな時間で、だから、真黒な「シルエット」になってしまったが。ヒヨドリ(ヒヨドリ科)ヒメクマツヅラ(クマツヅラ科)ヒルザキツキミソウ(アカバナ科)ほとんどいつも、同じ場所に戻ってきてくれるから、こちらは、腰を据えたまま、ただ、待っておればよい(笑)。ベニトンボ(トンボ科)・オスベニトンボ(トンボ科)・メス「うりずん」から「梅雨」へ、こちらも呆然と生きていたから(笑)、ほとんど記憶のないひと月であったが、月さまが顔を出してくださったのも、たったこれだけだったのだ。旧暦四月二日の月、月の入一時間前旧暦四月八日の月、南中一時間後旧暦四月八日の月、南中二時間後旧暦四月八日の月、月の入一時間前旧暦四月九日の月、南中旧暦四月九日の月、月の入二時間前旧暦四月十日の月、月の出三時間後旧暦四月十日の月、南中一時間前旧暦四月十一日の月、南中旧暦四月十二日の月、月の出三時間後旧暦四月十二日の月、南中一時間前旧暦四月十八日の月、南中二時間後旧暦四月二十三日の月、南中メジロ(メジロ科)シロガシラ(ヒヨドリ科)セッカ(ウグイス科)イチモンジセセリ(セセリチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)