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2024.05.22
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イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス

クロマダラソテツシジミ(シジミチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)

シロガシラ(ヒヨドリ科)・幼鳥

オオハマボウ(アオイ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/新・「ねこログ」、総目次(笑)/続・「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:そう言えば、ウィーンとベルリンの、もう一人の「ユダヤ人」、ヴィトゲンシュタインを、思い出す。/スラヴォイ・シジェク「イデオロギーの崇高な対象」を読む/引き続き、ギュンター・グラス、「玉ねぎの皮をむきながら」/「ブエノス・ディアス、セニョーラ・ブレンダ」・・・「バグダッド・カフェ」をあらためて、想い出す。/ローザ、トロツキー、アインシュタインの「同時代人」人名辞典/一人一人が、「笑いもできれば、涙も流す」、「数字」ならざる、名をもった「人」であることを、思い知るために・・・「ICC」逮捕状、「ICJ」暫定命令、大学人一同からの公開書簡、ガザからの報道。/多和田葉子「百年の散歩」によるベルリン、さらに続編/(7)リヒャルト・ワーグナー通り/(10)マヤコフスキーリング/多和田葉子「雪の練習生」、トスカとウルズラ/



「うりずん」から「梅雨」へ、こちらも呆然と生きていたから(笑)、ほとんど記憶のないひと月であったが、月さまが顔を出してくださったのも、たったこれだけだったのだ。


旧暦四月二日の月、月の入一時間前

旧暦四月八日の月、南中一時間後



旧暦四月八日の月、南中二時間後

旧暦四月八日の月、月の入一時間前

旧暦四月九日の月、南中

旧暦四月九日の月、月の入二時間前

旧暦四月十日の月、月の出三時間後

旧暦四月十日の月、南中一時間前

旧暦四月十一日の月、南中

旧暦四月十二日の月、月の出三時間後

旧暦四月十二日の月、南中一時間前

旧暦四月十八日の月、南中二時間後



旧暦四月二十三日の月、南中



この白い壁は、「漆喰(しっくい)」なのかな?当地では、赤瓦の屋根の補強材によく用いられていたんだと思う、あくまで青い空(笑)、との対照が、あくまで美しいね!






イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス


近年、海を渡ってはるばるやってこられた、と言われる客人。






クロマダラソテツシジミ(シジミチョウ科)


「常夏」の島の冬は曇天ばかりで、やがて「うりずん」と呼ばれる恵みの雨の季節、するとほどなく「梅雨」になってしまうから(笑)、その間に挟まったわずかの晴天、でかけないと「もったいない」と思ってしまう。




シロガシラ(ヒヨドリ科)


この植物の原種は「大春車菊」、「秋桜」ともいうのになぜ「春」なんだ?「常夏」の当地では、今咲いている訳だが(笑)、ヨーロッパ語の語源は、花弁が整然と並ぶことから「カオス」の対語としての「コスモス」




セイヨウミツバチ(ミツバチ科)、コスモス(キク科)

クロッカス(アヤメ科)

ヒメクマツヅラ(クマツヅラ科)

モンシロチョウ(シロチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)



アオスジアゲハ(アゲハチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)

キチョウ(シロチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)


あなたも「南」の生まれなんでしょ?だから、周りの風景まで、「熱帯樹林」みたいに見えてくる。

曇天ばかりの「冬」がようやくすぎて、「うりずん」と呼ばれる季節は、万物が萌え出でるのだから、やはり恵みの雨が降り続くのは結構なことなのだ、そうこうするうちに、あっという間に「梅雨」がやって来る、つまりこの「常夏」の島では、一年の半分くらいが、少しも晴れていないことになる、「抜けるような青い空」の謳い文句につられて「移住」してきた頃は、「話が違う」と、憤慨していたものだが(笑)、思えば、ほとんどの「南」の国は、長い長い「雨期」を伴っているものなのだから、文句を言ってはいけない、・・・、ようやく晴れたので、本当は、なかなか重い「うつ症状」で、少しも出掛けたくなどないのだが、せっかく陽が差しているのに「もったいない」という貧乏性で、ようやく腰をあげる、王朝時代の「城(ぐすく)」跡の公園、この樹は、モクマオウだろうか、「冬鳥」が去った季節は、「留鳥」たちにとっても「恋の季節」なのだな。








シロガシラ(ヒヨドリ科)


子供の頃は、図鑑の写真でしか見たことがない、「夢」のような生き物だったのに、今では、「なんだ、また、あんたか?」なんて、失礼な反応をしてしまうこともある(笑)。




イシガケチョウ(タテハチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)


本当は、「彼ら」が「夫婦」だなんて、信じていなかったかもしれない(笑)。


ツマグロヒョウモン(タテハチョウ科)・オス


「しまあざみ」という花が好きで、ますます出不精になって来たから、今年は見逃してしまったかと落胆していたが、枯れたのに混じって、まだ、いくつか咲いているのを見つけられた、いや、それだけの話(笑)。




シマアザミ(キク科)


これだけ日差しが明るいと、その「青」も、ひときわ鮮やかだ。




アオスジアゲハ(アゲハチョウ科)


全身、真っ黒の生き物というのは、きっと、区別がつきにくいに違いない。




クロアゲハ(アゲハチョウ科)


常に「捕食者」の影を意識しながら生きていかねばならない生き物に向かって、「落ち着きがない」などとなじるのは、心ないことですよね!






ヤマトシジミ(シジミチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)


もう、太陽は西の空低い所に傾きかけているのだけれど、どうやら、「彼ら」には、これからが、そろって「日光浴」の時間であるらしいのだ。




シロオビアゲハ(アゲハチョウ科)


こちらは、王朝時代の「城(ぐすく)」のある小高い丘に立っているので、道路わきの電柱のてっぺんが、目の前に見えるのだ、もうじき日没、やはり夕陽に色づいている。






イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス

ヒルザキツキミソウ(アカバナ科)

コマツヨイグサ(アカバナ科)



ヒメジョオン(キク科)
・・・

昼下がり住宅地の公園、場違いの老人ひとり、座り込んでカメラを構える、「不審者」と通報されるのを恐れるあまり(笑)、態度はいや増しに攻撃的になる、おじいさん、そんなだからますます嫌われるのですよ(笑)!








ヒヨドリ(ヒヨドリ科)


そのときは気付かなかったけれど、夕陽の色に染まっているね。




ヒヨドリ(ヒヨドリ科)


二つの「トワイライト・ソング」、「ばっちりやってね!」に明け「ばっちりやってね!」に暮れる日(笑)。




シロガシラ(ヒヨドリ科)



Tractatus logico-philosophicus(1922)/Ludwig Wittgenstein
Ludwig Wittgenstein(1889-1951)
Tractatus logico-philosophicus/Logical-Philosophical Treatise(1921)/Ludwig Wittgenstein(English)
Tractatus logico-philosophicus/Logisch-philosophische Abhandlung(1922)/Ludwig Wittgenstein

Illustration of the structure of the Tractatus




The sublime object of ideology(1989)/Slavoj Žižek
The sublime object of ideology(1989)/Slavoj Žižek(PDF)
・・・
・・・したがってわれわれの第一のテーゼはこうなる――今日の知的状況の前面を占めている大論争、すなわちハーバーマスとフーコーの論争は、理論的にもっと重大なもう一つの対立・論争、すなわちアルチュセールとラカンの論争を隠蔽している。アルチュセール派が突然に姿を消すというのは、いかにも謎めいている。それは理論的敗北という理由によっては説明できない。むしろ、アルチュセールの理論には、即座に忘れられ「抑圧」されなければならない外傷的核があるかのようだ。これは理論的忘却の実例にほかならない。ではどうしてアルチュセールとラカンの対立が、一種の隠喩的代用によって、ハーバーマスとフーコーの対立に置き換えられなくてはならなかったのか。ここで問題なのは、たがいに異なる四つの倫理的立場であると同時に、四つの異なる主体概念でもある。
... So our first thesis would be that the great debate occupying the foreground of today's intellectual scene, the HabermasFoucault debate, is masking another opposition, another debate' which is theoretically more far-reaching: the Althusser -Lacan debate. There is something enigmatic in the sudden eclipse of the Althusserian school: it cannot be explained away in terms of a theoretical defeat. It is more as if there were, in Althusser's theory, a traumatic kernel which had to be quickly forgotten, 'repressed'; it is an effective case of theoretical amnesia. Why, then, was the opposition Althusser-Lacan replaced, in a kind of metaphorical substitution, by the opposition Habermas-Foucault? At stake here are four different ethical positions, and at the same time four different notions of the subject.
ハーバマスに見出されるのは、壊れていないコミュニケーションの倫理であり、普遍的で透明な間主体的共同体という<理想>である。いうまでもなくこの背後にある主体概念は、超越的反省という古い主体の言語哲学的ヴァージョンである。フーコーの場合はその普遍的倫理からの離脱があり、その結果、いわば倫理の審美化が生じる。・・・
With Habermas, we have the ethics of the unbroken communication, the Ideal of the universal, transparent intersubjective community; the notion of the subject behind this is, of course, the philosophy-of-Ianguage version of the old subject of transcendental reflection. With Foucault, we have a turn against that universalist ethics which results in a kind of aestheticization of ethics: ...
このフーコー的な主体概念が人間主義的・エリート主義的な伝統に属していることを明らかにするのはさして難しくない。この概念に最も近いのは、自己内部の激情を制御し、自分の人生を芸術作品に作り上げる、「万能人」というルネサンス的理想だろう。・・・この点ではハーバーマスとフーコーとは同じ一枚のコインの裏表である。真の断絶をもたらしたのはアルチュセール、すなわち、人間の条件を特徴づけているのはある裂け目・亀裂・誤認であるという事実の強調と、イデオロギーの可能な目的という観念こそがとりわけイデオロギー的な概念であるという彼のテーゼである。
It is not very difficult to detect how this Foucauldian notion of subject enters the humanist-elitist tradition: its closest realization would be the Renaissance ideal of the 'all-round personality' ... Here Habermas and Foucault are two sides of the same coin - the real break is represented by Althusser, by his insistence on the fact that a certain cleft, a certain fissure, misrecognition, characterizes the human condition as such: by the thesis that the idea of the possible end of ideology is an ideological idea par excellence.
アルチュセールは倫理的問題について詳しく論じていないが、彼の仕事全体がある根源的な倫理的姿勢を具現化していることは明らかである。その姿勢とは、疎外の、あるいは主体の貧困の英雄主義とでも呼びうるものである(アルチュセールは「疎外」の概念そのものをイデオロギーとして斥けるにもかかわらず、いやもっと正確に言えば、斥・け・る・か・ら・こ・そ・右のような姿勢を示しているのだ)。重要なのは、主体という効果を生み出す構造的メカニズムをイデオロギー的誤認として暴かなくてはならないだけでなく、同時にこの誤認が避けられないものであることをじゅうぶんに認めなければならないということである。つまり、われわれの歴史的活動の、つまり歴史過程の担い手を引き受けるための条件はある種の錯覚に他ならないということを認識しなければならないのである。
Although Althusser has not written extensively about ethical problems, it is clear that the whole of his work embodies a certain radical ethical attitude which we might call the heroism of alienation or of subjective destitution (although, or rather, precisely because Althusser refuses the very notion of , alienation' as ideological). The point is not just that we must unmask the structural mechanism which is producing the effect of subject as ideological misrecognition, but that we must at the same time fully acknowledge this misrecognition as unavoidable - that is, we must accept a certain delusion as a condition of our historical activity, of assuming a role as agent of the historical process.
この視野に立てば、主体そのものがある誤認によって構成されていることになる。イデオロギー的問いかけの過程を通じて、主体は、イデオロギー的大義の呼びかけにおいて呼びかけられているのが自分であることを「認識」するわけだが、このイデオロギー的問いかけの過程は必然的にある短絡、つまり「私はすでにそこにいた」という類の錯覚を含んでいる。・・・
In this perspective, the subject as such is constituted through a certain misrecognition: the process of ideological interpellation through which the subject 'recognizes' itself as the addressee in the calling up of the ideological cause implies necessarily a certain short circuit, an illusion of the type 'I was already there' which, ...
・・・
フロイトの「死の欲動」という概念を取り上げよう。もちろんフロイトの生物学主義は取り除く必要がある。「死の欲動」は生物学的事実ではなく、一つの概念であり、この概念は以下のことを意味する。すなわち人間の心的装置は、快感追求や自己保存や人間と環境の調和といったことを超絶した、反復の盲目的な自動運動に従うのである。人間は――とヘーゲルは語りき――「死の病に冒された動物」、すなわち貪欲な寄生虫(理性、ロゴス、言語)に侵略された動物である。この視点に立てば、「死の欲動」というこの根源的否定性の次元が、疎外された社会的条件の表現であるはずがない。それは人間の条件そのものを定義づけているのだ。解決はありえないし、そこから逃げることもできない。すべきことはそれを「克服」「廃絶」することではなく、それと折り合いをつけ、それをその恐ろしい次元の中に認める術をおぼえ、そしてこの根本的認識の上に立って、それとの間に和解協定を結ぶことである
Let us take the Freudian notion of the 'death drive'. of course, we have to abstract Freud's biologism: 'death drive' is not a biological fact but a notion indicating that the human psychic apparatus is subordinated to a blind automatism of repetition beyond pleasure-seeking, self-preservation, accordance between man and his milieu. Man is - Hegel dixit-'an animal sick unto death', an animal extorted by an insatiable parasite (reason, logos, language). In this perspective, the 'death drive', this dimension of radical negativity, cannot be reduced to an expression of alienated social conditions, it defines la condition humaine as such: there is no solution, no escape from it; the thing to do is not to 'overcome', to 'abolish' it, but to come to terms with it, to learn to recognize it in its terrifying dimension and then, on the b asis of this fundamental recognition, to try to articulate a modus vivendi with it.
・・・
・・・まずは出発点として、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を取り上げよう。ここでこの作品を取り上げるのは何よりも、この本にはどこか変なところがあるからである。この作品のイデオロギーは、マ・カ・ロ・ニ・・ウエスタンにならってマ・カ・ロ・ニ・構造主義とでも呼びうるものだ。つまり、単純化され、大衆化された構造主義とポスト構造主義の思想である(究極の現実などない。われわれは、他の記号を指し示す記号からなる世界に生きている、云々)。だが、われわれの批判が標的とするのはそうしたイデオロギーだけではない。この作品の妙に気になるところは、その根底にある次のようなテーゼである――全体主義の起源は公式言語への教条的追随、すなわち笑いやアイロニーによる関節外しの欠如である。にコミットしすぎるとそれ自体がこの上ないになりうる、真のとは、ありとあらゆる種類の狂信的な教条主義、とくに至高のの名をふりかざす教条主義である、云々。
... Let us take as our starting point Umberto Eco's Name of the Rose, precisely because there is something wrong with this book. This criticism does not apply only to its ideology, which might be called - on the model of spaghetti Westerns - spaghetti structuralism: a kind of simplified, mass-culture version of structuralist and post-structuralist ideas (there is no final reality, we all live in a world of signs referring to other signs ... ). What should bother us about this book is its basic underlying thesis: the source of totalitarianism is a dogmatic attachment to the official word: the lack of laughter, of ironic detachment. An excessive commitment to Good may in itself become the greatest Evil: real Evil is any kind of fanatical dogmatism, especially that exerted in the name of the supreme Good.
このテーゼはすでに、宗教的信仰の啓蒙化された形でもある。もし、あまりににとりつかれ、それによって世俗的なものに対する憎悪にとりつかれると、への執着そのものがの力、すなわちわれわれの抱くの観念に合わないようなものいっさいに対する破壊的な憎悪の一形態に変わりうる。真のとは、この世界にしか見ない無垢なまなざしである。・・・
This thesis is already part of the enlightened version of religious belief itself: if we become too obsessed with the Good and with a corresponding hate for the secular, our obsession with Good may itself turn into a force of Evil, a form of destructive hatred for all that fails to correspond to our idea of Good. The real Evil is the supposedly innocent gaze which perceives in the world nothing but Evil, ...
まず第一に、への執着(狂信的な献身)がに変わるというこの発想は、それとは逆の経験を隠蔽する。こちらの経験の方がはるかに厄介であるのに。すなわち、に対する脅迫的・狂信的な執着がいかにして一つの倫理的な姿勢、すなわち私利私欲に導かれるのではない姿勢になりうるのか、という問題である。・・・
First, this idea of an obsession with (a fanatical devotion to) Good turning into Evil masks the inverse experience, which is much more disquieting: how an obsessive, fanatical attachment to Evil may in itself acquire the status of an ethical position, of a position which is not guided by our egoistical interests. ...
しかしながら『薔薇の名前」のいちばん気になるところは、根底において、笑いやアイロニーによって対象から一歩身を引くことには反全体主義的な解放力があると信じている点である。われわれがここで提出するテーゼは、エーコの小説の根底にある前提とは正反対である。現代社会においては、それが民主社会であろうと全体主義社会であろうと、そうしたシニカルな距離も、笑いも、アイロニーも、いわばゲームの一部である。支配的イデオロギーは、真剣に、あるいは文字通りに、受け取られることを意図してはいない。おそらく全体主義にとって最大の脅威は、そのイデオロギーを文字通りに受け取る人々だろう。・・・
What is really disturbing about The Name of the Rose, however, is the underlying belief in the liberating, anti-totalitarian force of laughter, of ironic distance. Our thesis here is almost the exact opposite of this underlying premiss of Eco's novel: in contemporary societies, democratic or totalitarian, that cynical distance, laughter, irony, are, so to speak, part of the game. The ruling ideology is not meant to be taken seriously or literally. Perhaps the greatest danger for totalitarianism is people who take its ideology literally ...
・・・
・・・シニシズムは、イデオロギー的普遍性の背後にある特殊な関心や、イデオロギーの仮面と現実との距離を、ちゃんと認識しているし、考慮に入れている。にもかかわらず、仮面を脱ぎ捨てるべきではないと判断するのだ。このシニシズムは、不道徳という直截な立場とは違う。それはむしろ、不道徳性に奉仕する道徳といったものに近い。シニカルな叡智のモデルとは、正直さや誠実さは不正直さの最高の形態であり、道徳は不品行の最高の形であり、真実は嘘の最も効果的な形態である、と見なすことである。それゆえ、このシニシズムは、公式的なイデオロギーのいわば倒錯した「否定の否定」である。・・・
... it recognizes, it takes into account, the particular interest behind the ideological universality, the distance between the ideological mask and the reality, but it still finds reasons to retain the mask. This cynicism is not a direct position of immorality, it is more like morality itself put in the service of immorality - the model of cynical wisdom is to conceive probity, integrity, as a supreme form of dishonesty, and morals as a supreme form of profligacy, the truth as the most effective form of a lie. This cynicism is therefore a kind of perverted 'negation of the negation' of the official ideology ...
・・・
したがって、こうしたシニカルな理性を前にしたとき、伝統的なイデオロギー批判がもはや役立たないことは明らかだ。もはや、イデオロギー的テクストを「症候的に読解」し、その盲点、すなわちそのイデオロギー的テクストが成立し、整合性をもつためにはどうしても抑圧しなければならなかったものを暴き出すことなどできない。シニカルな理性はこの距離をあらかじめ考慮に入れているのだ。では、シニカルな理性があまねく浸透すればいわゆるポスト・イデオロギー世界が到来する、と断言すればそれで問題が片付くのだろうか。アドルノですらこの結論に到達した。アドルノは次のような前提から出発した――イデオロギーは厳密に言えば、自分こそが真実であると主張する一つのシステムに過ぎない、つまりたんなる嘘ではなく、真実として経験された嘘、真剣に受け止められているような振りをしている嘘である、と。もはや全体主義イデオロギーはそんな振りをしない。その作者たちですら、真面目に受け取ってもらえるなどと思っていない。いまや全体主義イデオロギーの地位は大衆操作の手段の地位と変わらない。まったく外的であり、道具的であるその支配力は、その真実としての価値によってではなく、たんにイデオロギーの外にある暴力や勝利の見込みによって、支えられているのである
It is clear, therefore, that confronted with such cynical reason, the traditional critique of ideology no longer works. We can no longer subject the ideological text to 'symptomatic reading', confronting it with its blank spots, with what it must repress to organize itself, to preserve its consistency - cynical reason takes this distance into account in advance. Is then the only issue left to us to affirm that, with the reign of cynical reason, we find ourselves in the so-called post-ideological world? Even Adorno came to this conclusion, starting from the premiss that ideology is, strictly speaking, only a system which makes a claim to the truth -that is, which is not simply a lie but a lie experienced as truth, a lie which pretends to be taken seriously. Totalitarian ideology no longer has this pretension. It is no longer meant, even by its authors, to be taken seriously - its status is just that of a means of manipulation, purely external and instrumental; its rule is secured not by its truth-value but by simple extra-ideological violence and promise of gain.
「イデオロギーの崇高な対象」スラヴォイ・ジジェク(河出文庫)/The sublime object of ideology(1989)/Slavoj Žižek




Peeling the onion(2006)/Günter Grass(English)
Peeling the onion(2006)/Günter Grass(English)
Beim Häuten Zwiebel(2006)/Günter Grass(Deutsch)
・・・
私が育った町のあちこちで戦争がいっせいに始まったとき、私の子供時代は狭い空間のなかで終わった。戦争が、港湾地ノイファールヴァッサーでの主力艦の艦砲射撃と急降下爆撃機の襲来で始まったのだ。ノイファールヴァッサーの向かいには、ポーランドの軍事基地のヴェスタープラッテがあった。遠くでは、二両の偵察用装甲車の砲撃とともにダンツィッヒ旧市街ポーランド郵便局の戦闘が始まり、近くでは、居間の食器戸棚の上に鎮座する、当時「民衆の声の受信機」と呼ばれていたラジオによって宣戦が布告された。臆面もなく言えば、ラングフールラーベ通りの三階建てアパートの一階の住居で、私の子供時代の終わりが告げられたのである。
その時刻も忘れることはできなかった。そのときから、バルチック・チョコレート工場近くの共和国の飛行場は民間利用されるだけではなくなった。・・・
「玉ねぎの皮をむきながら」ギュンター・グラス(集英社)
My childhood came to an end when, in the city where I grew up, the war broke out in several places at once. It began with an unmistakable bang - the broadsiding of a ship and the approach of dive-bombers over the Neufahrwasser dock area, which lay opposite the Polish military base at Westerplatte, and, farther off, the carefully aimed shots of two armoured reconnaissance cars during the battle for the Polish Post Office in the Old Town of Danzig - and was heralded closer to home by our radio - Volksempfänger, 'people's receiver' - which stood on the sideboard in the living room. Thus end of my childhood was proclaimed with words of iron in a ground-floor os a three storey building on Labesweg, in Langfuhr.
Even the time of day sticks in my mind. From then on, the airport of the Free State near the Baltic Chocolate factory handled more than just civilian planes. ...
Peeling the onion(2006)/Günter Grass(English)
broadside:舷側、舷側砲の一斉発射
ノイファールヴァッサーNeufahrwasser≒ノヴィ・ポルトNowy Port
ラングフールLangfuhr≒ブジェシュチWrzeszcz、残念ながら、「ラーベ通りLabesweg」は見つからず、独英辞典を参照すると、Labe≒refreshment 、weg≒away
「ダンチッヒ自由市」を示す年代不明の地図、ヴェスタープラッテWesterplatte、の表記がある
「ダンチッヒ自由市」、おそらく「旧市街」であろう英語表記の地図、「郵便局Post Office」と記された場所が2つある、このうち、左側、モトウァヴァ河Mottlau/Motława河岸にあるのではな・い・方、中央駅Gdańsk Głównyから見て、南南東に800メートルくらい、英語表記で、「Gen. Post Office」だから、中央郵便局という感じか、は、現在も「Poczta Polska/Polish Post」、まさに「ポーランド郵便局」となっている、ここでの戦闘の模様は、「ブリキの太鼓」でも重要な部分を占めていた記憶がある、「ダンチッヒ自由市」が、国際連盟管理下にあり、その町の人口の大半が、ドイツ語話者であったときに、この郵便局は、ある種、「ポーランド」民族主義の象徴的な意味を担っていたのでは、と想像できる
「ダンチッヒ自由市Freie Stadt Danzig」、1927年の地図、には、ラングフールLangfuhr≒ブジェシュチWrzeszcz、のすぐ北側、その北西側の鉄道駅、「ダンチッヒ―オリワDanzig-Oliwa」との間に、「飛行場Flugplatz」と表記されたものが見つかるが、現在の地図では、それらしきものの痕跡は見当たらない、ちなみに、ドイツ語版では、「共和国の飛行場」は「Flugplatz des Freistaates」となっている
・・・
wikipedia英語版「Free City of Danzig」から、ドイツ軍による占領とポーランド系住民への迫害、ソ連赤軍による解放、ポーランド軍による、旧ドイツ系住民の排除、の流れを追ってみる・・・ギュンター・グラスの父親は、ドイツ系、母親は、カシュバイ―ポーランド系、のちの記述に、「荷物をまとめて急いで立ち去らなければならなかったとき」といった記述があった記憶があるが、これがどちらを指すのか、やがて読み進めば明らかになるだろう・・・
1939年9月1日、ドイツ軍、「ダンチッヒ自由市」に侵入、同日、ナチ党員で最後の「自由市」大統領となるアルバート・フォルシュターAlbert Forster、「自由市」がドイツに組み込まれたことを宣言する法律に調印、ポーランド軍は、同市内で、9月7日まで、抵抗した、おそらくその戦闘の焦点が、「ポーランド郵便局」だったのだろう、wikipediaに記述は見られないものの・・・数千に及ぶポーランド系住民が逮捕され、多くは処刑された、「北欧民族の純潔性purity of Nordic race」への脅威だとして、ポーランド人は、「人間以下subhuman」だとのプロパガンダのもと、去勢、避妊手術が強要された、と言われる、1945年、3月30日、ソ連赤軍、同市を奪回、それに先立つ同年2月の「ヤルタ会談」、ヤルタYaltaは、クリミア半島の突端、ウクライナ、地図、で、連合国側は、「自由市」がポーランドに属すべきことに合意、同年8月の「ポツダム会議」開始を待たず、ポーランド軍、警察部隊、民兵部隊によるドイツ系住民への排除作戦が行われ、同年6月から9月の間に、推計数万人が移住させられたと言われる・・・なお、第二次世界大戦中の、ポーランドの、レジスタンス勢力は、次の三つの部分に分かれていた、と言われる、
(i)西部ポーランド軍Polish Armed Forces in the West、1939年のドイツによる併合後、フランスおよび、その中東地域の領土内で創立、1940年のパリ陥落以降は、英国にその本拠を移す、1947年に解散、ロンドンの亡命政権支持者であったことから、所属兵員の多くは、その後も、帰国できず、亡命を余儀なくされた。
(ii)国内軍Home Army/Armia Krajowa(AK)、ドイツおよびソ連による侵攻後の、1942年、国内に残ってパルチザン闘争を継続していた部分を糾合して、創設、ロンドンの亡命政権に忠誠を示す、このことから、ドイツ降伏後、ソ連との関係が悪化し、ソ連側は、この部分を「反動派」と描き出すプロパガンダを行った
(iii)東部ポーランド軍Polish Armed Forces in the East・・・1939年9月1日のドイツによるポーランド併合を受けて、ソ連は、同年9月17日、ポーランドに侵入、これは、ポーランド国家がもはや存在しない以上、両国間のあらゆる条約は無効に帰した、との判断による、その後、1941年、ドイツのソ連への侵攻時、英国政府は、ドイツへの対抗策として、ポーランド亡命政権に圧力をかけ、亡命政府―ソ連間の外交関係が樹立された、これにより、ソ連の収容所に捕虜としてとらわれていた何十万と言うポーランド人が、解放され、これらの中から、「東部ポーランド軍」が形成された、ドイツからの解放後、共産党政権が樹立したのち、この部隊は、ポーランド人民軍Polish People's Army(LWP)へ改変される
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独ソ不可侵条約/モロトフ・リーベントロップ協定Molotov–Ribbentrop Pact(1939年8月)によるポーランド分割案
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日曜日にはプロペラリボンを髪につけた少女たちがツォポットの小桟橋を歩き、保安警察の楽団が威勢のいい曲を演奏している・・・・・・
The propeller-shaped bows in the hair of the girls on the Zoppot Promnade when the police band played its snappy melodies...
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すばらしい天気が続いていた晩夏にダンツィッヒとその郊外で戦闘が起き、七日間抵抗した後にヴェスタープラッテのポーランドの防衛軍が降伏すると、私は市街電車でザスペブレーゼン経由ですぐに行ける郊外の港のノイファールヴァッサーで、爆弾や榴弾の破片を少しばかり集めるようになった。
When war broke out to a spell of glorious last-summer weather in Danzig and environs, and the Westerplatte's Polish defensers capitulated after seven days of resistance, I, that is, the boy I apparently was, gathered up a handful of bomb- and shell-splinters near the Neufahrwasser dock, which was easily accessible by train via Saspe and Brösen, ...
・・・
戦争が始まって数日も経たないうちに、母のいとこで、ヘヴェリウス広場にあるポーランド郵便局の防衛団に加わっていた郵便配達人のフランツ叔父さんが、短かった戦闘が終わった直後、生き残ったほとんど全員とともに、即決裁判でドイツ人の命令により銃殺された。
The war was in its infancy when a cousin of my mother, Uncle Franz, a postman who took part in the defence of the Polish Post Office on the Heveliusplatz, was summarily executed by the Germans - along with nearly all the survivors of that brief battle. ...
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銃殺された叔父、フランツ・クラウゼは、妻と私より少し年上から二、三歳年下までの四人の子供を後に残した。その子らとはもはや一緒に遊ばせてもらえなかった。彼らはブラバンク旧市街にある官舎を明け渡し、母親がツッカウラムカウの間に小屋と畑を所有している田舎へ引っ越さなくてはならなかった。・・・
Franz Krause, my executed uncle, left a wife and four children, who ranged in age from somewhat older to three years younger than me. I was no longer allowed to play with them. They had to vacete their Old Town apartment on the Brabank - it had come with the job - and move to the country between Zuchau and Ramkau, where the widow had a cottage and piece of land. ...
・・・
一九五八年三月に、いくらか苦労したもののやっとポーランドに入るヴィザを手に入れて、パリからワルシャワへ旅行した。廃墟から立ち直ろうとしているグダニスクの町で以前のダンツィッヒの痕跡を探したとき、私は残った廃墟の正面の背後をのぞき、ブレーゼンの浜を歩いてから市立図書館の閲覧机や無事に残っていたペスタロッチ学校へ行き、・・・
When after much effort I was issued a visa for Poland in March of '58 and travelled from Paris via Warsaw to Gdańsk, a city still emerging from rubble, to seek out the former Danzig, I poked behind the façades of the ruins and along Brözen Beach, moved on to the reading roon of the Munichipal Library, the grounds of the still-standing Pestalozzi School, ...
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・・・私はそこの小さな農家のドアのところで、銃殺された郵便配達人の母親、大叔母のアンナから有無を言わせぬ言葉で挨拶を受けた。「ほう、ギンターちゃんかね、それにしても大きくなったもんだ」
... I was greeted at the door of their cottage by the excuted postman's mother, with the irrefutable: 'Ginterchen! My, how you've grown!'
・・・それがすんでからは、彼女は私を自分のジャガイモ畑に連れて行ってくれた。その場所は今では、舗装されたグダニスク空港の滑走路の下になっているのだが。
... but then she took me to see her potato field, which today lies underneath the cement runway of Gdańsk Airport.
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ブローゼンBrözen≒ブゼズノBrzeźno、ノイファールヴァッサーNeufahrwasserの西隣
ツォポットZoppot≒ソポトSopot、たしかに、海に突き出た「小桟橋」が見える、ブローゼンBrözen≒ブゼズノBrzeźno、の北西5キロ
サスペSaspe≒ザスパZaspa、は、ラングフールLangfuhr≒ブジェシュチWrzeszcz、から出発すれば、北北西へ2キロ、さらにそこから北東へ2キロで、ブローゼンBrözen≒ブゼズノBrzeźno、・・・、下の路面電車路線図に合わせてみると、ちょっと後戻りしなければならなかったりして、辻褄の合わないところもあるのだが、方角としては、ラングフール→サスペ→ブローゼン→ノイファールヴァッサー、と、ちゃんと順にたどっていけることにはなる
ヨハネス・ヘヴェリウス/ヤン・ヘヴェリウスJohannes Hevelius/Jan Heweliusz(1611-1687)、ポーランド・リトアニア共和国Polish–Lithuanian Commonwealth、ダンチッヒDanzigの市長、天文学者、両親は、ボヘミア出身のルター派プロテスタント、ドイツ語話者・・・この人物を記念したモニュメント「ヤン・ヘヴェリウス記念碑Johannes Hevelius monument/Pomnik Jana Heweliusza」が、「中央駅Gdańsk Główny」南東数百メートルのところに見つかったが、残念なことに、上で検討をつけた郵便局とは、だいぶ離れてしまっている
ブラバンクBrabank、「中央駅Gdańsk Główny」からなら東へ1キロ、モトウァヴァ河Mottlau/Motława河岸に、はっきりしないけれど、その様な名称を付した、集合住宅のようなものを発見
ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチJohann Heinrich Pestalozzi(1746-1827)、チューリッヒ生まれの教育家、家族は、プロテスタントであったために、スイス南部のロカルノLocarno地方から逃れてきた人々に属した、とのこと、スイス、ドイツに小児教育施設を多々創立、現在も、その理念を承継した国際的な団体が存在するようだが、グダニスクの近傍には、関係ありそうな施設を見つけることはできなかった、スイス、ドイツ等、地図、・・・、ウワディスワフ・シュピルマン「戦場のピアニスト」で、筆者の友人、最後は、子供たちと一緒に収容所へ送られるところを見送らなければならなかった、ヤヌシュ・コルチャックJanusz Korzak(1878-1942)が、このペスタロッチの、熱烈な信奉者だったと言われる
ウワディスワフ・シュピルマン「戦場のピアニスト」、による、ワルシャワ・ゲットー、第一回、「壁」がつくられるまで。
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東ポメラニアからダンチッヒOstpommern-Danzigの、年代不明の地図に、ツッカウZuchau発見、ラムカウRamkauの南西7キロ、ラムカウRamkau≒レビエショウォRębiechowo、であるから、現在の地図で検討とつけて探してみると、見事!レビエショウォRębiechowo南西7キロ当たりに、ツゥーコヴォŻukowo、が見つかった、そして、現在の「グダニスク・レフ・ワレサ国際空港Gdansk Lech Walesa Airport/Port Lotniczy Gdańsk im. Lecha Wałęsy」、もちろん、「連帯」労組書記長にちなんだ命名だろう、は、レビエショウォRębiechowoの東南東2キロばかりのところ、滑走路の先端なら、1キロにも満たない距離だ。
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グダニスク路面電車ネットワークMap of tram network in Gdańsk

グダニスク路面電車路線図Gdańsk Tram Route Map
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グダニスク中心部Gdańsk

グダニスク周辺Gdańsk




Bagdad Cafe(1987)/Percy Adlon


Bagdad Cafe(1987)/Percy Adlon, Calling You


Bagdad Cafe(1987)/Percy Adlon,"This is Free Country."


Bagdad Cafe(1987)/Percy Adlon,"Buenos Días Señora Brenda."
過剰なほどちりばめられた「地名」を読み解く、「独領ポーランド」から、「ポーランド共和国」、「ダンチッヒ自由市」まで、そもそもどうしてドイツ語なのか?・・・ギュンター・グラス「ブリキの太鼓」を読む・・・そして2012年の詩、「語られなければならないこと」
何にも覚えていなくても「いい映画」であることは、めったにないことだけれど、あり得る・・・パーシー・アドロン「バグダッド・カフェ」、川上未映子「夏物語」、J.S.バッハ「平均律クラヴィーア」、ジャック・ドゥミ「ローラ」などについて、どうでもいいことを(笑)



ローザ、トロツキー、アインシュタインの「同時代人」人名辞典





(訳注)ベニー・グランツBenny Gantz(1959-)、元「イスラエル国防軍(IDF)」司令官、同じく「IDF」退役将校らからなる「国民統一党National Unity」指導者、戦時内閣の一員として、ネタニヤフ首相に対し、ガザの「戦後」に関して、いかなる計画も存在していないことを非難して、辞職の最後通牒を突き付けていた
ヤイル・ラピドYair Lapid(1963-)、元テレビ・ジャーナリスト、中道リベラル・シオニスト政党「イェッシュ・アティドYesh Atid」党首
(訳注)ギデオン・レヴィGideon Levy(1953-)、「ハレッツHaaretz」紙コラムニスト、テルアビブ生まれ、両親ともに、チェコスロバキア生まれのユダヤ人で、1939年ナチによる侵攻を逃れて、それぞれ、英国委任統治下パレスチナに到達したという経歴を持つ、1978年から1982年、労働党のシモン・ペレスShimon Peres政権下では、報道官を務める、アラビア語を話すことはできないが、イスラエル―パレスチナ紛争に関する著作が多く、親パレスチナ、反イスラエル的であるとの非難を長らく受けてきた、と言われる、代表的な著作は「トワイライト・ゾーン―イスラエル占領下の生と死/Twilight Zone – Life and Death under the Israeli Occupation」
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(訳注)ムスタファ・バルグーティMustafa Barghouti(1954-)、エルサレム生まれ、「PLO」中央委員、2002年、「腐敗して非民主的な」ファタとも、「過激で原理主義的な」ハマスとも異なる第三の勢力として、「パレスチナ民族イニシアティヴPalestinian National Initiative(PNI)」を創立、この政党は、当初、「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」、「パレスチナ解放民主戦線(DFLP)」、「パレスチナ人民党(PPP)」および「パレスチナ民主同盟(FIDA)」との間に協力関係を樹立しようとしたが、対話は、実を結んでいない、とのこと
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(訳注)ナワフ・サラムNawaf Salam(1953-)、レバノン、ベイルート生まれ、同地の「名門」の家族の出身で、親族の中には、オスマン・トルコ時代の政治家、フランス委任統治と闘った建国英雄、複数のレバノン首相経験者、などが含まれている、「パリ政治学院/シアンス・ポSciences Po」、「ハーバード大学」、「ソルボンヌ大学」等で学位取得、レバノンの国連大使等の職歴を経て、今年二月から、「ICJ」主席裁判官、同法廷の主席裁判官にアラブ系が選出されたのは、彼で2人目、「ICJ」歴代主席裁判官一覧↓、国連創立以来、サラム氏で27代目となるが、同氏以前の「アラブ系」は、第25期、ソマリアの、アブドゥルカイ・ユーズフ氏Abdulqawi Yusuf(1948-)を指すと思われる

(訳注)リード・ブローディReed Brody(1953-)、ブルックリン生まれ、その父親は、ハンガリー系ユダヤ人で、ナチの収容所を生き延び、ソ連赤軍に加わってブタペスト解放の戦闘に加わった、という経歴を持つ、本人は、ニューヨーク州検察庁副主任検察官を経て、米国が支援した「コントラ」によるニカラグアでの人権侵害状況の調査に従事、その報告書は、「ICJ」での「ニカラグア対合衆国Nicaragua v. United States」訴訟(1986)の証拠として採用され、その様な事情から、当時のロナルド・レーガン大統領は、彼を「サンディニスタのシンパだ」と難じた、という。世界各地の紛争地域の人権侵害状況の調査に携わりつつ、1998年から2016年には、「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」と協同している。
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(訳注)ジョセップ・ボレルJosep Borrell(1947-)、スペイン、カタロニア生まれ、1975年以来、「社会主義労働者党(PSOE)」党員、脱「フランコ独裁」過程のスペインの政界で重要な役割を果たす、2019年以降、「欧州委員会European Commission」副議長
(訳注)リンゼイ・グラハムLindsay Graham(1955-)、サウス・カロライナ選出の共和党上院議員、トランプ前大統領支持者として知られる、宗派は「南部のバプティストSouthern Baptist」とのこと
(訳注)ハディージャ・ラビブHadja Lahbib(1970-)、ベルギーのフランス国境近く、モンスMons近郊の町に、アルジェリア系の家庭に生まれる、テレビ・ジャーナリストを経て、2022年から外相、所属政党は、「改革運動Mouvement Réformateur(MR)」、同党は、ベルギーのフランス語圏の政党で、元来、保守―リベラルはであるが、党内には、社会主義的リベラル潮流も含まれている、とのこと
(訳注)「アメリカ・イスラム関係委員会Council on American Islamic Relations (CAIR)」、1994年創立の、ムスリム公民権擁護団体、「セプテンバー・イレブンス」直後の、合衆国における激しいムスリム・バッシングに対して、イスラムの歴史に関する書物、「コーラン/クルアーン」の英語訳の出版など、啓蒙活動に従事、「ムスリム兄弟団Muslim Brotherhood」との関係を理由に、アラブ首長国連邦(UAE)はこの団体を「テロリスト組織」に指定、合衆国内部にも、「ハマス」との関係を問題にして非難を向ける陣営があるようである
(訳注)エスペン・バーテ・エイデ氏Espen Bathe Eide、に関するwikipedia英語版のエントリーは見つけられなかったが、ノルウェイの現ジョナス・ガール・シュトーレJonas Gahr Støre政権の与党は、社会民主主義者の、労働党Labour Party
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(訳注)バーニー・サンダース氏の略歴等については、以下の記事参照↓
「プエブロ・ウニド・・・」、バーニー・サンダース、合衆国全土のキャンパスにパレスチナ連帯の旗、映画「イスラエリズム」、「贈り物」、「ICC」逮捕状、など、ガザからの記事は続く
(訳注)アントニオ・ギテレス氏の経歴等については、以下の記事参照↓
彼らによって実行された攻撃の残虐さは、いかなる意味においても正当化され得ないが、それは、その行為に説明を与え、その行為を文脈の中に置きなおしてみる、という作業をすべきでない、ということを、決して意味しない・・・イスラエル「ポスト・シオニズム」の歴史家、イラン・パぺ氏の論説、など。
(訳注)ステファノ・アプッツォStefano Apuzzo(1966-)、wikipediaイタリア語版にしかエントリーがないので詳細は不明だが、所属政党は、1990年まで「イタリア共産党(PCI)」、1990年から2010年まで、「緑の連盟Federazione dei Verdi(FdV)」、2010年から2017年まで、「民主党Partito Democratico (PD)」、これは「共産党(PCI)」の後継政党たる、「左翼民主主義者党Democratici di Sinistra(DS)」を中心とした連合組織、2017年から2018年は、「1条の会/民主進歩運動Articolo 1 – Movimento Democratico e Progressista」、これは、「DS」の左派分派のようである、そして、以降現在まで、無所属
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(訳注)「タル・アス・スルタンTal as-Sultan」は、エジプト国境から1キロ足らず、地中海海岸からは、2キロばかりの地点
(訳注)「ワファ通信社Wafa news agency」、「パレスチナ自治政府Palestinian National Authority (PNA)」が運営する公式の通信社、「وفا/wafa」はアラビア語で「真実」を意味する
(訳注)「ラファ・クウェート病院Kuwaiti Hospital in Rafah」、
مستشفى الكويت التخصصي
このアラビア語の3つの単語は、右から順に「病院」、「クウェート」、「専門」の意、ラファ市中心部にあり、タル・アス・スルタンからなら、南へ1.5キロほど
(訳注)ハムザ・ユーズフHumza Yousaf(1985-)、サウス・ランカシャー生まれ、「スコットランド国民党Scottish National Party (SNP)」の指導者、父親は、パキスタン、パンジャブ州出身のムスリムで、1960年代に英国に移住、母親は、やはり、パキスタン、パンジャブ系の出自であるが、家族とともにケニアに居住していた、同地で、非アフリカ系として迫害を受け、英国に移住、という経緯をもつ
(訳注)ジャグメート・シンJagmeet Singh(1979-)、オンタリオ生まれ、両親は、インド、パンジャブ州の出身、名字からわかるように、シーク教徒、曽祖父の中には、インド独立運動の闘士、英領インド帝国の軍人、等がいる、とのこと、「新民主党」は、社会民主主義系の政党のようである
(訳注)ロ・カーナRo Khanna(1976-)、フィラデルフィア生まれ、インド、パンジャブ州の、ヒンズー教徒の家系に生まれる、母方の祖母は、インド独立英雄、国民会議派所属のシーク教徒、ララ・ラジャパット・ライLala Lajpat Rai(1865-1928)、らとともに闘った、インド独立運動の闘士
(訳注)アイダ・トウマ・スリマンAida Touma-Sliman(1964-)、ナザレNazarethで、アラブ系キリスト教徒の家庭に生まれる、「ハダシュ」所属の国会議員、同党の一翼である、「イスラエル共産党Israeli Communist Party/マキMaki」のアラビア語機関誌、「アル・イトハドAl-Ittihad」編集者・・・「ハダシュHadash」は、「平和と平等を求める民主戦線The Democratic Front for Peace and Equality」、「イスラエル共産党Israeli Communist Party」を中心に、左派、ないし、極左派、のいくつかの政党からなる連合組織、以下の記事参照↓
イスラエル左派の国会議員、ナタニエフの政府の、パレスチナ人に対する「ポグロム」、占領政策こそが、今回の事態を招いた、と語る/パレスチナの英国駐在大使、今回の戦闘が、パレスチナ人が、どれだけ長い時間がかかろうとも、その権利を回復するまで、闘い続けるであろうということを、全世界に対して指し示す「警鐘」となることを希望する、と語る・・・/2023年10月8日アル・ジャジーラ
「イスラエル共産党/マキ」の歴史に関しては、以下参照↓
彼らによって実行された攻撃の残虐さは、いかなる意味においても正当化され得ないが、それは、その行為に説明を与え、その行為を文脈の中に置きなおしてみる、という作業をすべきでない、ということを、決して意味しない・・・イスラエル「ポスト・シオニズム」の歴史家、イラン・パぺ氏の論説、など
(訳注)バラクリシュナン・ラジャゴーパルBalakrishnan Rajagopal、wikipediaにはエントリーがなく、国連の紹介記事からは、その経歴については、合衆国市民であることと、マドラス大学で学位取得したことぐらいしか読み取れない、素人判断だから怪しいが、名前の響きからは、ケララ州、など、インド南部のドラヴィダ系言語の話者の系譜をひくのではないか、と憶測する
(訳注)「アクションエイドActionAid」、1972年、英国の実業家によって創立、現在は、南アフリカ、ヨハネスブルグに本拠を置く
(訳注)「パレスチナ人権センターPalestinian Centre for Human Rights(PCGR)」、1995年創立、本部、ガザ市
(訳注)「ドーン/今こそアラブ世界に民主主義をDAWN/Democracy for the Arab World Now」、2020年創立だが、サウジアラビアのジャーナリスト、ジャマル・カショーギ氏Jamal Khashoggi(1958-2018)が、イスタンブールのサウジアラビア領事館内で、同国のエージェントとおぼしき人物に暗殺される以前、その構想をもっていた、ようである
(訳注)カナQanaは、南部レバノン、スールTyreの南東15キロ、「カナ虐殺Qana massacre」は、1996年、「イスラエル国防軍(IDF)」と、「ヘズボラ」との間の戦闘の過程で、「IDF」が、国連施設を砲撃、そこに避難していたレバノン人民間人の多くが殺害された事件
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(訳注)「アラブ平和イニシアティヴArab Peace Initiative」、アラブ―イスラエル紛争解決を目指した、提案として、2002年の、アラブ連合ベイルート・サミットで採択された、西岸、ガザ、および、シリアのゴラン高原、南部レバノンを含む、被占領地域全域からのイスラエル軍全面撤退を条件としての、アラブ諸国とイスラエルの国交回復、をその内容としている。
(訳注)「オスロ国際平和平和研究所Peace Research Institute Oslo」、ノルウェイ政府の資金援助によって、1959年に創立された研究機関
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(訳注)コベルKoperは、スロベニアのアドリア海への唯一の開口部をなす都市、イタリア領であるトリエステTriesteに隣接した南側
(訳注)スロベニアの近年の政局について概観しておくと・・・
1992年~2002年、ヤネス・ドゥロノフシェクJanez Drnovšek首相、「スロベニア自由民主党Liberal Democracy of Slovenia(LDS)」が与党、ユーゴスラビア時代の、共産党改革派だったミラン・クーチャンMilan Kučanが大統領
2004年、「NATO」、「EU」加盟、ジャネス・ジャニッツァJanez Janša政権、第一期
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2020年3月、 右翼ポピュリスト、ドナルド・トランプや、ハンガリーのヴィクトル・オルバンの支持者として知られる、ジャネス・ジャニッツァJanez Janšaが、三度めの首相に就任、保守派の「スロベニア民主党(SDS)」を中心とする連立政権
2022年の選挙で、左派の「自由運動Freedom Movement」、これは、「緑の行動党Party of Green Action」の後継政党、が勝利、同党のロベルト・グロッブRobert Golobが首相に指名された

バルカン半島、地図
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(訳注)wikipedia英語版「パレスチナの大学一覧List of universities and colleges in the State of Palestine」のサイト↓には、ガザにある大学として、11校が掲げられている、場所を突き止めることのできなかった「ハッサン大学Hassan University」以外はすべて、下の地図に記入しておいた
アル・アクサ大学Al-Aqsa University、1955年創立の公立大学、ガザ市、および、カーン・ユーニスにキャンパスをもつ
アル・アズハル大学ガザ校Al-Azhar University – Gaza(AUG)、第一次インティファーダのさなかの1991年、ヤシール・アラファトの行政命令に沿って創立された公立大学、ガザ市
アル・クッズ公開大学Al-Quds Open University(QOU)、1991年の「PLO」の行政命令、とあるから、上記「AUG」と同じ経緯なのだろう、パレスチナに創立された放送大学、西岸およびガザに19の分校をもつ
ガザ大学Gaza University、詳細は不明、ガザ市
ガザ・イスラム大学Islamic University of Gaza(IUG)、1978年、当時上記「AUG」学長だったシーク・モハマド・アワド氏率いる設立委員会により創立、男女別学、大学院など高等教育課程を備えたものとしては、ガザで最初の機関、ガザ市
イスラ大学Israa University、2014年創立、ガザ市南西郊外
パレスチナ工科大学Palestine Technical College、1993年、政府機関により創立、ガザ市とカーン・ユーニスの中間、デイル・エル・バラDeir El-Balah、の他に、ガザ市北部にも分校をもつ
応用科学大学University College of Applied Sciences(UCAS)、1998年創立、ガザ市
パレスチナ大学University of Palestine(UP)、2005年創立の私立大学、ガザ市南部アル・ザフラ地区Al-Zahra'、
ガザ・コミュニティ大学/訓練センターGaza Community/Training Center、ガザ市
ハッサン大学Hassan University、詳細および所在地は不明

上記「公開書簡」抜粋、画像ファイル版
(訳注)膨大な数の署名者の一覧が、この後続くのですが、そんなものをカタカナに「翻訳」してみても、意味がなかろう、とも思いましたが、西岸のある文化運動の団体の名称は、「ウィ・アー・ノット・ナンバーズ/私たちは、単なる数字では、ない」だったことを思い出し、そうだ、遠い海の向こうの、お会いしたこともない、これからもお会いすることは決してない、これらの人々のお名前を、綴りの読み方も怪しいものだが、一つ一つカタカナに変換していく作業は、そのお一人お一人が、「笑いもできれば、涙も流す」(喜納昌吉)、「数字」ならざる、名をもった「人」であることを、思い知るためには、少なくとも、私のとっては、「意味」のある作業になりました
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(訳注)投稿者の「CCFPeace」は不明、あるいは、英国保守党系の学生団体「Conservative Christian Fellowship」と関係があるかもしれない・・・「ナチスが開始した事業」とは、言うまでもなく「ユダヤ人問題の最終的解決Final Solution」と彼らが呼んだところの、一つの民族にたいする「絶滅」政策を指しているわけだが、あからさまに名指されているわけではないものの、パレスチナ人の抵抗運動をもって、その「継続」であるとして、これに対するイスラエル国家の「自衛権」なるものを擁護する、というこの論法は、自らの罪悪感、ヨーロッパ人として「ホロコースト」に対して自らも責めを負う、という罪悪感が、自分たちが「害」をなしたと感じているところの「被害者」だった者たちが、さらに別の「被害者」を見出して、「害」をなすのを寛恕することで、「昇華」される、という、「病的」な「転倒」を、正確に表示していると思われる
(訳注)「ヒンディ講堂Hind's Hall」マックルモアMacklemore、は、以下のものを含め、YuTube上に数多くアップロードされている↓

MACKLEMORE - HIND'S HALL (VIDEO + SUBTITLES) - Freedom To Palestine
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(訳注)「ワシントン・アラブ・センターArab Center Washington」、wikipediaにエントリーは見つからなかったが、同団体のウェッブサイトは、こちら↓
ワシントンDC・アラブ・センターArab Center Washington DC
(訳注)同じ筆者の経歴、およびその記事、については、以下参照↓
「私たちには、そんなことは、分かっていた」という「話型」ではなく・・・ガザからのニュースは続く
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(訳注)「全米有色人種地位向上協会National Association for the Advancement of Colored People (NAACP)」、1909年、WEB・デュボイスW. E. B. Du Bois(1868-1963)、らによって創立
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(訳注)「不屈のフランスLa France insoumise(LFI)」、2016年、ジャン・リュック・メランチョンJean-Luc Mélenchon(1951-)らによって創立された、左派ないし極左派政党、「共有された未来L'Avenir en commun」という、民主的社会主義的綱領を掲げる、その創立に当たっては、スペインのポデモスPodemos、ジェレミー・コルビン指導下の英国労働党、合衆国民主党内のバーニー・サンダース支持者、などの運動に刺激を受けたとされる、現党首は、記事にも登場する、マチルデ・パノMathilde Panot(1989-)
(訳注)ヨーロッパ諸帝国主義が、シオニスト、アラブ民族主義者の双方に、相互に矛盾する言質を与え、もって第二次世界大戦後、現在に至る紛争の種をまいたと言える三つの条約、については以下の英文学者、中野好夫による、詳細な解説を参照↓
フサイン・マクマホン協定、サイクス・ピコ条約、バルフォア宣言、・・・、中野好夫「アラビアのロレンス」研究、続編
(訳注)「EU-イスラエル共同合意EU-Israel Association Agreement」、2000年に締結された、自由貿易等を内容とする協約
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(訳注)ツゥヴィ・イェフダ・クークZvi Yehuda Kook(1891-1982)、英国委任統治下パレスチナの、初代主席ラビであった、父親の、アブラハム・アイザック・クークAbraham Isaac Kook(1865-1935)とともに、「宗教的シオニズムReligious Zionism」の主流となった「クーク派シオニズム」の始祖とされる、ロシア帝国、ツァウメルZaumel、現・リトアニア、ツェイメリスŽeimelis生まれ、1904年、オスマン帝国治下パレスチナの、ジャファJaffa、に移住、以降、ヨーロッパ、パレスチナを往還するが、1960年代に至るまで、シオニストの間でも、父子の教義はさしたる影響力を持たなかったらしい、1929年創立の「ブネイ・アキバBnei Akiva」という「正統派ユダヤ教」青年組織が、「宗教的シオニズム」潮流の主要政党、「民族宗教党National Religious Party」の内部で勢力拡大をもくろんだが挫折、クーク父子の教義に転向することで、飛躍的に勢力を拡大した、という事情のようである
ここに「宗教的シオニズムReligious Zionism」とは、旧約聖書の記述に基づき、「イスラエルの地」が、神によって古代イスラエルの民に約束された、として、パレスチナへの帰還を根拠づけ、その帰還運動たる「シオニズム」を、信仰の根幹に据えた「正統派ユダヤ教Orthodox Judaism」の教派を指すようである、ヨーロッパでシオニズムが勃興した前世紀初頭以来、今日に至るまで、「正統派ユダヤ教徒」の間でも、「人間の行為によって、『イスラエルの地』が建設しうるというのは、『神』に対する冒涜だ」として、シオニズムに反発する教派が存在するのだが、クーク父子が、これらの反論に対して、シオニズムは単なる政治的運動にとどまらず、「神」の意思なのである、と、教義上の正統化を行った、という事情であるらしい
(訳注)ツェイメリスŽeimelisは、リトアニア北部、ラトヴィアとの国境付近、ラトヴィアの首都リガRigaの南80キロ、北欧、バルト三国、地図
ジャファYafa/Jaffaは、テルアビブ南方10キロ、西岸、ガザ、イスラエル、地図
(訳注)「イェシヴァYeshiva」、「タルムード/律法書」を学ぶ学院
(訳注)「エルサレム大シナゴーグJerusalem’s Great Synagogue」、西エルサレムにある、たとえば「旧市街」の「嘆きの門」から見ると、西に1.5キロ

エルサレム広域、地図
(訳注)「糞門Dung Gate」、「旧市街」南東端、「ユダヤ教徒地区Jewish Quarter」に面する・・・その南に広がる街区名から「シルワン門Silwan Gate」とも、歴史的には、この門付近にあった、北アフリカ・マグレブ系ムスリムの居住区の名から「ムガラビ門Mughrabi Gate」と呼ばれていたが、1967年、「ナクサ/六日間戦争」の際に、この街区は破壊され、現在は、「西の壁(嘆きの壁)広場Western Wall Plaza」となっている、「糞門Dung Gate」の名は、19世紀以降のシオニストによるもので、古代の文書に記載のある、ユダヤ教寺院からの廃棄物集積所にちなんで名付けられたらしい
(訳注)「西の壁Western Wall/嘆きの壁Wailing Wall」、古代のヘロデ王の神殿の外壁の西側部分に当たるとされることから、ユダヤ教徒の間では、「西の壁Western Wall」と呼ばれる、日本語の通称「嘆きの壁」は、前世紀初頭のイギリス人旅行者が、ユダヤ人が嘆く場所だとして「Wailing Wall」と呼んだことに由来する、とのこと

「エルサレム旧市街」、4つの「地区/クォーターQuarter」、「キリスト教徒地区Christian Quarter」、「アルメニア正教会信徒地区Armenian Quarter」、「ユダヤ教徒地区Jewish Quarter」、「ムスリム地区Muslim Quarter」

エルサレム旧市街、地図
(訳注)タルクミヤTarqumiyah、ヘブロンHebronの西北西10キロあたり、ヨルダン川西岸地区、詳細図
(訳注)メイル・カハネMeir Kahane(1932-1990)、ニューヨーク、ブルックリン生まれ、父は、英国委任統治下パレスチナのサフェドSafed、ガリラヤ湖北端の北西5キロ、生まれ、母はラトヴィア出身、父も、ジャボチンスキーの「修正シオニズム」を信奉するラビであった、1968年、合衆国で、極右派組織「ユダヤ人防衛同盟Jewish Defense League (JDL)」創設、1971年、イスラエルに「カハ党Kach」創設、同年、ニューヨークで爆発物製造容疑で訴追、1972年の、パレスチナ・ゲリラ組織「黒い九月Black September」によるミュンヘン・オリンピック選手村での、イスラエル人選手殺害、への報復として、ブリュッセルのリビア大使館爆破を計画したとして、イスラエル国内で訴追、1984年以降国会議員となるが、他の議員からはボイコットを受ける、1990年、ニューヨークで、エジプト生まれのアメリカ人により殺害される。
・・・
(訳注)「子供の防衛インターナショナルDefense for Children International(DCI)」、1979年創立、本部、ジュネーヴ
「子供の防衛インターナショナル―パレスチナDefense for Children International-Palestine(DCIP)」、1991年創立、2021年には、イスラエル政府から「テロリスト組織」指定を受けたが、EU加盟の9か国は、イスラエル側が指定の根拠を示さないことから、イスラエルが禁止した諸団体との協力関係を継続する、と発表、2022年には、西岸ラマラなどで、同組織を含む諸団体の事務所が、イスラエル軍の襲撃を受けた
(訳注)「セイヴ・ザ・チルドレンSave the Children」、1919年、ロンドンで創立、第一次世界大戦期、連合軍の封鎖下にあったドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国内の飢餓状態にあった子供たちの救援活動に始まる
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(訳注)ブレイジ、デイル・エル・バラ、マガジ、いずれもガザ中部の町、あるいは難民キャンプの名称
(訳注)「アル・アクサ殉教者病院Al-Aqsa Martyrs Hospital」、または、「シャヒード・アル・アクサ病院Shuhada al-Aqsa Hospital」、アラビア語表記は、1行目、右から順に「病院」、「殉教者/シャヒード」、「アル・アクサ」
مستشفى شهداء الاقصى
2行目、右から順に「病院」、「殉教者/シャヒード」、「アル・アクサ」、「政府のGovernmental」
مستشفى شهداء الأقصى الحكومي
ガザ中部、デイル・エル・バラ、2001年創立、「UNRWA」、パレスチナ自治政府保健省、各種NGO、による共同運営
・・・

ガザ地区全体図

ガザ市

ヨルダン川西岸地区

西岸、ガザ、イスラエル、(南部レバノン、シリア)地図



ハキダメギク(キク科)


「虹の向こうに」、飛んで行くことのできる「ブルーバード」は、たしか、こいつの「親戚」だったはずだ。




イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス

Somewhere over the rainbow way up high
There's a land that I heard of once in a lullaby
Somewhere over the rainbow skies are blue
And the dream that you dare to dream really do come true
Some day I'll wish upon a star and wake up where the clouds are far behind me
Where troubles melt like lemondrops
Away above the chimney tops that's where you'll find me
Somewhere over the rainbow bluebirds fly
Birds fly over the rainbow why then, oh why can't I?
・・・
「bluebird」は、ツグミ科Thrushヒトリツグミ属Myadestinae、アメリカ大陸に生息
「blackbird」は、クロウタドリ、ないし、クロツグミ、を指す、いずれも、ツグミ科Thrushツグミ属Turdus・・・ツグミ、シロハラ、アカハラ、も同属
ツグミ科の分類に関しては、議論、変遷があるようで、ツグミ科/ヒタキ科を、別の科として扱うものと、どちらか一方の下位分類とするものがあるようである、で、このイソヒヨドリは、ヒタキ科Muscicapidaeイソヒヨドリ属Monticola・・・エゾビタキは、ヒタキ亜科Muscicapinaeサメビタキ属Muscicapa、キビタキは、ノビタキ亜科Saxicolinaeキビタキ属Ficedula、ジョウビタキは、ノビタキ亜科Saxicolinaeジョウビタキ属Phoenicurus、アカヒゲは、ノビタキ亜科Saxicolinaeコマドリ属Larvivora


どっちがどっちだかわからなくなってしまったが(笑)、彼らは「あひゞき」の最中だったのではなかったかと思う、邪魔をしてしまったなら、申し訳なかったね!






シロガシラ(ヒヨドリ科)


「擬き(もどき)」というのは、本当はそうでないのに、そうであるかの振りをする、って意味の言葉だろ?でも、こいつは、「そうでない」訳でもなさそうなのだ(笑)。






アオタテハモドキ(タテハチョウ科)


こちらに来るまで、お名前も存じ上げなかった(笑)、最近「南」の方から、来られたばかりの「客人」であるらしい。






クロマダラソテツシジミ(シジミチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)

ユウゲショウ(アカバナ科)



ニワゼキショウ(アヤメ科)

カタバミ(カタバミ科)


「ルイラ」という耳慣れない言葉は、たしか人の名前、女の人の名前に由来するのだ、と聞いた記憶はあるけれど。


ヤナギバルイラソウ(キツネノマゴ科)


「白頭鵠仔」と言うのに、頭が白くないのは、「子供」の印、「おっかさんに、白い帽子もろた」という童謡の歌詞は、その意味で、正しかったのだ。














シロガシラ(ヒヨドリ科)・幼鳥

シロガシラ(ヒヨドリ科)


今日は、「擬態」する方も、される方も、同時に見ることができた、こちらは、す・る・方。「毒」を身体に蓄積するリスクを避けつつ、「有毒」であるかの表示をすることがメリットだったと、解釈されている。






ツマグロヒョウモン(タテハチョウ科)・メス


声だけは、先ほどから、いたるところから聞こえてくるのに、ちっとも姿を捉えることができない、何と言っても身体がとても小さいからね。


メジロ(メジロ科)


なんだか「機械音」を思わせるような、その声は、聞き間違えようがない。












シジュウカラ(シジュウカラ科)


こちらが「擬態」される方、体内に「毒」を保有することが「メリット」と言うが、それは偶然の産物なんだろう?耐性を獲得して生き延びることができた事・後・から遡及的に回顧して「毒」と呼んでるんだろう?




カバマダラ(マダラチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)







ヒメクマツヅラ(クマツヅラ科)


真夏を思わせる昼下がり、さとうきび畑の用水路脇に座り込んで蜻蛉が止まるのを待つ、などと言う愚かなことをしていても、さいわい、誰の邪魔にもならないほど、人通りもない(笑)。










ハラボソトンボ(トンボ科)


人の形をしたものには「魂」がこもってしまっているから捨ててはいけないというだろう?だからたとえ「磁気記憶」であっても(笑)、生き物の写真を「ちょっとピンぼけ」だからって、捨てたりできない性分なのです。


ヒヨドリ(ヒヨドリ科)


ほら、なにか、口をせわしなく動かして、喋っているぞ、こんな近くなのに、あまり声は聞こえてこないけど。


スズメ(ハタオリドリ科)


逆光になっているので、あの、「ブルーバード」のような派手な衣装なのか、それとも「焼きおにぎり」みたいな(笑)網目模様なのか?はっきりわからないな。




イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス


古来、幹から繊維を採取することもでき、また樹皮から染料を得ることもできる有用植物だったことが、太平洋の島々のいたるところに、この植物を表す言葉が分布していることからわかるのだそうである。




オオハマボウ(アオイ科)


まだこんなところにいらしたのですか?遅刻してしまいますよ!、などといらぬおせっかいを(笑)。


キアシシギ(シギ科)、セイタカシギ(セイタカシギ科)





セイタカシギ(セイタカシギ科)



キアシシギ(シギ科)


遠来の客たちが皆去ってしまったから、ようやく、この「地元」の人たちは、文字通り(笑)、「羽を伸ばしている」のかもしれない。






シロチドリ(チドリ科)



ツチバチ科の一種

ハマササゲ(マメ科)



シロオビアゲハ(アゲハチョウ科)、ランタナ(クマツヅラ科)













シマヤマヒハツ(トウダイグサ科)



ヒヨドリ(ヒヨドリ科)


このすり鉢をひっくり返したような形は、遊歩道の街灯の笠、夕陽にきらきら光るくらいだから滑りやすいはずなのに?


ヒヨドリ(ヒヨドリ科)


「トワイライト」は、一日に二度あるわけで、こちらはその夕刻の方、いたるところからその「ソング」が聞こえてくるけれど、誰が歌っているのかはわからない。






シロガシラ(ヒヨドリ科)

ハシブトガラス(カラス科)
・・・

そういえば、こちらに来て、最初に驚かされたのは、雲の流れが速い、ってことだったな。


イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス


こんなに遅くに現れるのは、もっとずっと「南」で冬を過ごしていて、長い長い旅の途中で、ようやく当地についた、という事情なんだと思う。ほら、わき目も振らずに食事に没頭するのも、そのせいかも。


オオハマボウ(アオイ科)


何年か前にも、同じ季節に、お会いしたことがある、「パッセージ・ビジター」、当地を通過するだけで、すぐにまた去って行かれるお客様。


オグロシギ(シギ科)







いくつかの図鑑を参照してみると、判で押したように、口裏を合わせたかのように(笑)、「水上のバレリーナ」って形容語句がちりばめられている、でも、私、「バレリーナ」って人、お目にかかったことないし(笑)。


オグロシギ(シギ科)、セイタカシギ(セイタカシギ科)


目的地の繁殖地までは、まだ「道半ば」、向こうでゆっくりする暇もなく、すぐ秋の渡りになってしまう、それだけ「苦労」をかけてもなお「メリット」があった、ということが、進化論的に証明されている、ってことだ。


キアシシギ、オグロシギ(シギ科)

キアシシギ(シギ科)



キアシシギ(シギ科)、セイタカシギ(セイタカシギ科)

キアシシギ(シギ科)

キアシシギ、オグロシギ(シギ科)

キアシシギ(シギ科)

オグロシギ(シギ科)


数日前も、同じ場所で同じものを見た、昨日と今日の区別もつかない日々を送っているのだから、「変わり映え」しなくても当然か(笑)?




アオスジアゲハ(アゲハチョウ科)、ランタナ(クマツヅラ科)


百メートルほど先がビーチで、足元にはサトウキビ畑が広がっている、雲の流れが、なお速いようにも見える。


スズメ(ハタオリドリ科)


別の歌のようにも聞こえるが、「ばっちりやってね」の冒頭「ばっ」がとれて「ちりやってね」になったんだと思えば(笑)納得もいく。




シロガシラ(ヒヨドリ科)



(7)リヒャルト・ワーグナー通りRichard-Wagner-Straße
・・・
(10)マヤコフスキーリングMajakowskiring



ウォルフガングは溜息をついて、椅子に腰をおろした。「右翼団体が外国人を襲う話は聞いたことがあるだろう。でもナチスに一番よく襲われるのは黒人でもトルコ人でもない。ロシア帰りのドイツ人だよ。彼らは祖先はドイツ人だけど、ロシア文化の中で育っている。自分と似ているけれど違う者がいるというのが、右翼にとっては一番怖いことなんだ。」「でも、わたし、彼らに似ているかなあ。」「全然似ていない。似ていないけれど、モスクワと言われると、いろんな感情にかっと火が付くのさ。」
・・・
ドイツ統一後にこんなことを言ったら、「鴉のお母さん」と呼ばれてしまったかもしれないが、当時は国営の保育園に子供を預けっぱなしにして週末にしか会わない母親がたくさんいた。職種によっては何ヶ月も子供の顔を見ない女性もいた。母性愛という神話が囁かれることはごく希だったし、宗教は弾圧されていたので聖母マリアが幼子イエスを抱く絵も見たことがなかった。これはずっと後になってからの話だが、東ドイツの終焉とともに母性愛の神話が蜃気楼のようにドイツの地平線に現れ、トスカが息子を育てなかったことであれほどマスコミの非難を浴びたのが可哀想でならない。「トスカは東独出身だから生まれた子供を人に任せて、自分で育てない」などと悪口を言う人がたくさんいて、「社会主義サーカスで働いていたためにストレスで育児本能を失った」などとまことしやかに書きたてる新聞さえあった。・・・
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・・・どう、可愛いだろう。このロバは臆病ではないけれど、向こう見ずではないので、芸に適しているのだ。教授の連れてきたロバはプラテーロという名前だった。
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・・・「ところで君の名前は何と言うの?」とピエロに訊かれたのはだいぶたってからのことで、それまでは「そこの君」と呼ばれていた。ピエロにとっては名前なんてどうでもよかったのか、それとも名前を知ってしまうと責任が出てくると思って避けていたのか分からない。「ウルズラ」と答えると、「それはいい名前だ。ウルズラというのは、ラテン語から来た名前で、小さな牝熊めすぐまという意味だよ」と教えてくれた。
「雪の練習生」多和田葉子(新潮文庫)

「プラテーロとわたし」J.R.ヒメーネス(岩波文庫)
Platero y yo/Platero and I(1914)/Juan Ramón Jiménez(1881-1958)
Ursula
「仏教暦」の「新年」の話題から、星と月に関する冗長な話、そして、月の「クレーター」談義から、ブレヒト「ガリレオの生涯」を読み直すことに
大熊座(Ursa Major)、小熊座(Ursa Minor)



イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス

クロマダラソテツシジミ(シジミチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)

シロガシラ(ヒヨドリ科)・幼鳥

オオハマボウ(アオイ科)





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Last updated  2024.06.14 17:52:04



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