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2022.04.03
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ヒカンザクラ(バラ科)

セイタカシギ(セイタカシギ科)

ヘビイチゴ(バラ科)、ルリハコベ(サクラソウ科)

キウリグサ(ムラサキ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:旧「レーニン主義者」、としては、旧・レニングラード、と呼ばせてもらおう・・・ハミド・ダバシ氏のすすめに従い、ドストエフスキー研究を始める、フロイト「ドストエフスキーと父親殺し」とともに/チューリッヒ大学の「学生食堂」、長年にわたる「懸案」でもあった、ローザ・ルクセンブルク「カウツキーへの手紙」、読み始める/マキシム・ゴーリキー「イゼルギリ婆さん」とともに、中央ヨーロッパ、「多言語地帯」を行く/「ウクライナ・ナショナリスト」から「汎スラブ主義」への「変節」、「転向」という「入れ知恵」、「先入観」のもとに、・・・、ゴーゴリ「隊長ブーリバ」を読む、続編/「過越」の満月が近づき、明日は「パーム・サンデー」と聞き及んだので、また、「暦」談義、懸案の、「安息日」についても、また、マルクスの著作のタイトルから、「フランス革命暦」まで/




ユーロ・マイダン革命Euromaidan/Maidan Uprising」、2013年11月、キエフの、「独立広場Euromaidan Nezalezhnosti」を中心に繰り広げられた反政府運動
ロシア・ベラルス連合国家Union State with Russia and Belarus
・・・
「A plague on both your houses」、は、シェイクスピア「ロミオとジュリエット」第三幕、マーキューシオーMercutioの台詞、であるらしい、
A plague o' both your houses!
「青空文庫」の坪内逍遥訳で対応部分を見ると
畜生(ちくしゃう)、兩方(りょうはう)の奴等(やつら)
とあるが、よくわからない、後日、もう一度読み直してみよう。
Romeo and Juliet(wikiquote)
ミハイル・バフチンMikhail Bakhtin(1895-1975)、ロシア、オリョールOryol、モスクワの南南東300km、生まれ、リトアニアのヴィルニウスVilnius、ウクライナのオデッサOdessaにも居住、1928年、「Voskresenie」なるペトログラードの左翼反対派結社、ボルシェビキの経済政策は支持するが、文化政策に反対する、という立場らしい、結成十周年に際して、ゲーペーウーにより逮捕、カザフスタンのコスタナイKostanayで、6年間に流刑生活を送ることになる、刑期終了後は、モルドヴァの大学で教員生活、彼の文学理論の業績が「再発見」されるのは、1960年代、とのこと、・・・、「ポリフォニー」や「カーニバル性」がそのキーワードになるようだ、「小説の言葉Discourse in the Novel」(平凡社ライブラリー)が買ってあるのだが、これは、「流刑」時代に書かれたもののようだ、冒頭数ページで頓挫したままになっていることを思い出した、これまた、これを機会に、読み直してみようか、・・・、

ad absurdum:「背理法/帰謬法」を「reductio ad absurdum」と呼ぶ、だから、このラテン語は、「矛盾に帰結する」、「ばかばかしいことに終る」の意味になると思われる
ジガ・ヴェルトフDziga Vertov(1896-1954)、ポーランド、ビャウィストクBiałystokで、ユダヤ人の両親のもとに生まれる、ロシア革命後ほどなく映画製作を開始、内戦期には、「宣伝列車」に、撮影機材、編集工房などを備えて、前線をめぐった、・・・、そのドキュメンタリー制作の斬新さに影響を受けた、ゴダールらは、1960年代に、「ジガ・ヴェルトフ集団Dziga Vertov Group」を名乗っていた
セルゲイ・パラジャーノフSergei Parajanov(1924-1990)、グルジアのトゥビリシで、アルメニア人の両親のもとに生まれる、1940年代に「同性愛」行為の嫌疑で投獄、のちにこれは虚偽と判明、政治的弾圧であったとの見解もある、とのこと、1950年代以降キエフに定住、当初は、「社会主義リアリズム」路線に忠実な作風であったが、1970年代以降、反政府的色彩が顕著となり、1974年に投獄、ロッセリーニ、フェリーニ、トリュフォー、ゴダール等の陳情が功を奏して早期釈放、ペレストロイカ下で、はじめて自由な映画製作が可能になった、とのこと、・・・、
きわめて幅広い学識を備えた筆者であるから、タイトルの「Beware of ...」も必ずや、何か典故があるものと思い、検索してみると、もちろん、ビートルズの、ジョージ・ハリスンが歌った「Beware of Darkness」は知っていたが、これは「バングラデシュ難民支援コンサート」のものだ、二番を歌ったのはレオン・ラッセルだな、・・・、
Beware of Darkness/George Harrison(The Concert for Bangladesh)
・・・
それ以外には、「Beware of Pity(1939)」という、シュテファン・ツヴァイクStefan Zweig(1881-1942)の小説と、その1946年の映画化、があるようで、この作家は、ウィーン生まれのユダヤ人で、共にウィーン大学に学んでいるところからも想像されるように、ジークムント・フロイトと親交があったらしい、この記事のあとに、慌てて読み直したフロイト「ドストエフスキーと父親殺し」(光文社古典新訳文庫)、にも、「友人」と紹介され、この作家のある短編を題材に「精神分析」を行ったことが記されていた、・・・、
早速、このダバシ氏の示唆に従って、ドストエフスキー「白痴」を読み始めた、もちろん、フロイト「ドストエフスキーと父親殺し」を、いわば「解毒剤」として同時摂取しつつ、・・・、以下↓に続ける予定だが、もちろん、プーチンが、この作家に傾倒していたというのは、理由がある、それどころか、あからさまな「反ユダヤ主義者」にして、「大ロシア民族優越主義者」、その「アーリア民族優越説」は、ナチのバックボーンとなったとさえ言われている、・・・、「悪い奴」の書いたものなど読まない、という立場は、別にそれ自体「正しさ」をあらわしているわけではなくて、むしろ、「正しさ」への「オブセッション」、自分だけは、い・つ・も・、「正しい」陣営に所属しているのだ、ということを言明し続けることで、「正しくない」現実を目撃した、という「トラウマ」経験を「昇華」しようとする、なかなか「自己愛的」な、欲望に過ぎないのだ、と、付け焼刃「フロイト主義者」は、断言することにする、・・・、
・・・
「川も、その上に架かって、キエフの町の両側をつなぐ橋の数々も、美しかった」、とあったので、さっそくキエフの地図を見てみた、町の中央を、ドニエプル河Dnieper、・・・、これはロシア語で、ウクライナ語では、ドネプル河Dnepr、・・・、が南北に流れている、この川は、ウクライナ東部や、ベラルスに源をもついくつもの支流が合して、キエフからは、南下しつつ、大きく東に迂回した後、黒海に注ぐ、その迂回部分のさらに東方に、ドネツク地方が位置している、2013年の「ユーロ・マイダン革命」の舞台となった「独立広場Maidan Nezalezhnosti」は、この川の右岸、つまり西側にある、

Dnepr River/Dnieper River流域図

南ブク川Pivdennyi Buh River/Southern Bug River流域図

ドニエストル川Dniester River流域図
モルドヴァからウクライナにかけて、黒海に注ぎこむ大きな河が三本、ほぼ平行に、走っている、西から順に、ドネストル河Dniester、南ブク河Southern Bug/Pivdennyi Buh、そして、ドネプル河、である、・・・、マキシム・ゴーリキーの短編「イゼルギリ婆さん」の舞台は、モルドヴァとウクライナにまたがる、ドニエストル川流域、・・・、トロツキー「わが生涯」の少年期の叙述の中には、南ブク川がしばしば登場する、・・・、そして、「コサック」の血を引くといわれる、ニコライ・ゴーゴリの、「ディカーニカ近郊夜話」、「隊長ブーリバ」などには、もちろん、その「ザポリージャ・コサック」の故地、ドニプロ河河畔の風物が描きこまれている、
現下の「戦争」に、かこつけて、そんなことをするのは不謹慎でもありうるのだが、ウクライナ―ロシアの二つの文化間を「往還」した、と言われる作家、ニコライ・ゴーゴリを読んでみる、そしてもう一人、ウクライナ生まれの「ユダヤ人」、レフ・トロツキー
マキシム・ゴーリキー「イゼルギリ婆さん」とともに、中央ヨーロッパ、「多言語地帯」を行く
「ウクライナ・ナショナリスト」から「汎スラブ主義」への「変節」、「転向」という「入れ知恵」、「先入観」のもとに、・・・、ゴーゴリ「隊長ブーリバ」を読む、続編
・・・
記事の中で描かれているポリーナさん家族の、逃避行を、たどってみた、・・・、まず2014年、ドネツクの分離派とウクライナ軍の衝突に際して、語り手のポリーナさんの家族が、ドネツク市から、アゾフ海沿岸のベルジャンシクに脱出する、「車で5時間ほどだった」とある、直線距離で150kmあまり、・・・、スラビャンスクの祖父母のもとにしばらく住むが、そこからキエフの父と合流するまでの旅、「母は、9時間運転し続けだった」、直線距離で、500kmあまり、・・・、そして、今次の戦争勃発によって、キエフからルヴィヴへの脱出、直線距離では、450kmくらい、本文には、「550キロ」とある、実際の道路に沿った距離は、そうなのだろう、それが、「二日をかけてやって来た」、・・・、




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「白痴」ドストエフスキー(岩波文庫)
The Idiot/Fyodor Dostoyevsky(Project Gutenberg)英語版
・・・
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーФёдор Миха́йлович Достое́вскийFyodor Dostoevsky(1821-1881)
1821年、モスクワ生まれ
1837年、母親死去、その後、サンクト・ペテルスブルグに遊学
1837年、地主であった父が、領地の「農奴serfs」によって殺害される
1846年、「貧しき人々」によって作家デヴュー
1849年、ミハイル・ペトラシェフスキーMikhail Petrashevsky(1821-1866)主催の「空想的社会主義」サークルに参加していたことから、官憲に逮捕され、死刑宣告を受けるが、処刑直前に、皇帝ニコライ1世による特赦により、シベリア流刑
1854年、まで、オムスクOmsk(カザフスタンの首都ヌル・スルタンNur-Sultan、旧アスタナAstana、の北北東500km)で服役、のち、セミパラチンクスSemipalatinsk(現カザフスタン、Semey)での軍務の後、1858年、サンクト・ペテルスブルグに戻る
1866年『罪と罰』(Преступление и наказание)
1868年『白痴』(Идиот)
1880年『カラマーゾフの兄弟』(Братья Карамазовы)
・・・

「ドストエフスキーと父親殺し」フロイト(光文社古典新訳文庫)

Dostoevsky and Parricide/Sigmund Freud(1928)

・・・
精神分析にとってもっともたやすく分析できるのは、道徳家という<顔>であろう。ただしドストエフスキーを道徳的に優れた人間であると評価するために、道徳の最高段階に到達しうるのは、もっとも深い罪を犯してきた人物だけだという理由をあげるとしたら、それは重要な問題を無視することになるだろう。道徳性の高い人物というものは、心の中で誘惑を感じるとすぐにそれに気づいて、その誘惑を退ける人のことなのだ。次々と罪を犯しておいて、それを悔いて高い道徳的な要求を掲げるようになった人物は、あまりに安易な道をたどったのではないかという非難に直面することになる。その人は、道徳性のもっとも本質的な要素である断念を実行できなかったのである。道徳的に生活することは、人間の実践生活の要求するところだからである。
The moralist in Dostoevsky is the most readily assailable. If we seek to rank him high as a moralist on the plea that only a man who has gone through the depths of sin can reach the highest summit of morality, we are neglecting a doubt that arises. A moral man is on whom reacts to temptation as soon as he feels it in his heart, without yielding to it. A man who alternately sins and then in his remorse erects high moral standards lays himself open to the reproach that he has made things too easy for himself. He has not achieved the essence of morality, renunciation, for the moral conduct of life is a practical human interest.
このような振る舞いは、民族大移動の時代の<蛮族>と呼ばれた人々のことを思いださせる。当時の<蛮族>の人々は、人を殺しておいて、それを悔いるのであるが、悔いるのはその殺人を犯すことができるための直接の手段にすぎないのである。イワン雷帝もまた、同じように振る舞ったのだった。このような方法で道徳をごまかすやり方は、きわめてロシア的な特徴なのかもしれない。
He reminds one of the barbarians of the great migrations, who murdered and did penance for it, till penance became an acturl technique for enabling murder to be done. Iwan the Terrible behaved in exactly this way; indeed this compromise with morality is a characteristic Russian trait.
ドストエフスキーが道徳的な闘いにおいて最終的に到達した段階もまた、名誉のあるものではない。個人の欲動を充足させたいという願望と、人間社会のさまざまな要求を和解させようとして、激しい苦闘を経験したのだが、結局のところは後戻りして、世俗的な権威と宗教的な権威に屈服したにすぎないのである。ツァーとキリスト教の神に畏敬の念を捧げ、ロシアの狭量なナショナリズムに屈するのであれば、ドストエフスキーほどの才能は不要だし、彼ほどの苦闘も不要なのである。これはこの偉大な人格の欠点なのである。
Nor was the final outcome of Dostoevsky's moral strivings anything very glorious. After the most violent struggle to reconcile the instinctual demands of the individual with the claims of the community, he landed in the retrograde position of submission both to temporal and spiritual authority, of veneration both for the Tsar and for the God of the Christians, and of a narrow Russian nationalism - a position which lesser minds have reached with smaller effort. This is the weak point in that great personality.
ドストエフスキーは人類の教師や解放者になり損ねて、人類の牢獄の看守になり下がったのである。未来の人類の文化が、ドストエフスキーに感謝すべきものは何もないのである。おそらく神経症のためにこのような蹉跌の運命にあったということは、証明できるかもしれない。あれほどの高い知性に恵まれ、あれほどの高い人類愛に燃えている人物には、もっと別の、たとえば使徒のような人生が開けていてしかるべきだったのである。
Dostoevsly threw away the chance of becoming a teacher and liberator of humanity and made himself one with their goalers. The future of human civilization will have little to thank him for. It seems probable that he was condemned to this failure by his neurosis. The greatness of his inteligence and the strength of his love for humanity might have opened to him another, an apostolic, way of life.
・・・
しかしドストエフスキーには非常に激しい破壊欲動がそなわっていて、ほんらいであれば彼は犯罪者になったはずであるが、実際の人生においては、この欲動は主として本人の人格に向けられて(すなわち外部に向けられるのではなく、内部に向けられて)、マゾ●ヒズムと罪責感として表現されたのだと考えると、この矛盾も解消される。彼の人格には常に十分な量のサデ●ィズム的な傾向が残っていたのであり、それは愛する人にたいして彼が示した怒りっぽさ、意地悪さ、不寛容などとして表現されただけでなく、読者のあしらいにも表現されている。結局のところドストエフスキーは、些細な事柄では破壊欲動が外側に向けられてサデ●ィストになり、重要な事柄では破壊欲動が内側に向けられたサデ●ィスト、すなわちマゾ●ヒストになった。要するに、きわめて人当たりがよく、温和で、親切な人間になったのである。
The contradiction is resolved by the realization that Dostevsky's very strong destructive instinct, which might easily have made him a criminal, was in his actual life directed mainly against his own person (inward instead of outward) and thus found expression as masochism and a sense of guilt. Nevertheless, his personality retained sadistic traits in plenty, which show themselves in his irritability, his love of tormenting and his intolerance even towards he loved, and which appear also in the way in which, as an author, he treats his readers. Thsu in little things he was a sadist towards others, and bigger things a sadist towards himself, in fact a masochist - this is to say the mildest, kindliest, most helpful person possible.
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ドストエフスキーがこの殺人者に示す同情は限りのないものであり、たんなる不幸な者への同情の域をはるかに越えている。古代には癲癇患者や狂者は神聖な恐怖をひき起す者として恐れられたが、そうした恐怖を思わせるものがある。ドストエフスキーには犯人がまるで救済者のようにみえているかのようである。その犯人がやっていなければほかの人が犯したはずの犯罪を、わが身に引き受けているからである。犯人がすでに殺人を犯したので、ほかの人々はもはやこの罪を犯す必要がなくなったのであり、犯人が殺してくれなかったなら、自分がみずから手を下さねばならなかったことを考えると、犯人に感謝しなければならないと言わんばかりである。そこにあるのは好意に満ちた同情だけではない。そこでは同一化が行なわれているのである。それは犯人と殺人の衝動を共有しているからであり、そこではわずかに位置をずらせたナルシシズムが働いているのである
Dostoevsky's sympathy for the criminal is, in fact, boundless; it goes far beyond the pity which the unhappy wretch has a right to, and reminds us of the 'holy awe' with which epileptics and lunatics were regarded in the past. A criminal is to him almost a Redeemer, who has taken on himself the guilt which must else have been borne by others. There in no longer any need for one to murder, since he has already murdered; and one mustbe grateful to him, for, except for him, one would have been obliged oneself to murder. That is not kindly pity alone, it is identification on the basis of similar murderous impulses - in fact, a slightly displaced narcissism.
ただしこの(ドストエフスキーの殺人者への)好意の倫理的な意味には、疑問の余地はない。他人に対して好意に満ちた同情を抱くときには、一般にこのような構造になっているとも考えられる。きわめて強い罪悪意識に支配されているドストエフスキーでは、その構造がすぐに見通せるようになっているだけかもしれないのである。
(In saying this, we are not disputing the ethical value of this kindliness.) This may perhaps be quite generally the mechanism of kindly sympathy with other people, a mechanism which one can discern with especial ease in this extreme case of a guilt-ridden novelist.
「ドストエフスキーと父親殺し」フロイト(光文社古典新訳文庫)/Dostoevsky and Parricide/Sigmund Freud(1928)
・・・
いつ買ったのか覚えていない、付箋が貼ってあったりするから少しは読んだらしい、加賀乙彦「ドストエフスキー」(中公新書)、というのが部屋の中で見つかって、読み直してみると、この人は精神科医でもあるから、「病跡学Pathography」的に、例えばドストエフスキーにおける「癲癇」についても、もちろんフロイトの時代に比べれば、最新の、と言ってもこの書物は1970年代のものだが、医学的知見を加味して分析されているようで、当然にも、フロイト「ドストエフスキーと父親殺し」についても言及がある、・・・、フロイトの論旨が簡明にまとめてあるのでそれを参考にさせてもらえば、・・・、
1)暴君的な父親に対する憎悪から、「死ねばよい」という願望、そして、当然、そのような願望を持ったことに対する罪悪感、があった
2)ところが、実際に父親が、誰か別の者によって殺害されてしまう事態になって、その罪悪感が昂じて自己処罰衝動が生まれ、これが、自らの「死」を擬した「癲癇」の発作として現れた
3)流刑体験後、ツァーに対する卑屈な礼賛、という「転向」と見られうる態度も、財産を蕩尽する「賭博癖」も、同じく、自己処罰願望と解釈しうる
ただ、ドストエフスキーの娘が家族内の伝承として記した、「18歳の時に初めて『癲癇』発作があった」という説、および、流刑地では、発作がほとんどなかったという推定、をフロイトは論拠として採用しているが、その後の研究でこれらは否定されているらしい、・・・、「18歳」は、ちょうど父殺害の直後であるから、この事件と発症の間の因果関係がはっきりするし、流刑地で発作が起こらなかった、なら、それは、上の引用部分の殺害者への同情、と同じように、「すでに処罰されているから、もう処罰はいらない」という説明が可能なのだ、・・・、
同書には、ウィルヘルム・ライヒWilhelm Reich(1897-1957)が、「癲癇」症状を、性●交に擬していることも触れられていたが、
i)「アウラAura」と呼ばれる「前駆症状」時には、強烈な高揚感、多幸感があり、時間が「濃縮」されているのに対し、
ii)発作後は、無気力で、知的能力も低下した、今度は、時間が「希釈」されてしまったような、長い、「抑鬱」状態が続く、
ということらしく、こちらとしては、自らの経験に「擬して」想像してしまう、というか、それしか方法がないから、と、
これは、もちろんi)とii)の間に、そんな劇的な「発作」が生ずるわけでは全然ないけれども、まるで、前者が「躁相」、後者が「鬱相」を記述している、としか思えなくなる、太宰治「トカトントン」に描かれているような、あるいは、川上未映子「すべて真夜中の恋人たち」の「パタンパタンと折りたたまれて」の描写も、そうとしか思えないのだが、「躁相」から「鬱相」への、やはり、それなりにかなり暴力的な転落は、あまりにもおなじみのものなので、もちろん誤解である可能性は高いが、そのように「共感」してみても悪くないのかな、と思った、・・・、「白痴」を読み終え、できれば「カラマーゾフ」も読み直して、その上でこの論題にまた戻ってくる、「予定」だが、今回は、このあたりで、・・・。
・・・
個人およびある潮流の文体の倍音のみがもっぱら研究対象となり、その社会的な基音が無視されるという事態は、往々にして文体および言語をジャンルから切り離したことが原因となっている。
・・・
全体としての小説―それは多文体的な、さまざまな言葉との現象である
・・・
小説ジャンルの文体論的特性は、ほかならぬこの小説全体のより高次の統一の中に、これらの二次的ではあるが相対的に独立した(時には異なる言語によって構成されさえする)諸統一体の結合の中にある。
「小説の言葉」ミハイル・バフチン(平凡社ライブラリー)
なんか凄いことが書いてあるじゃないか?どうして読み通せなかったんだろう、いや、そんなことをいって、今回も読み通せないかもしれないから、恥ずかしいから黙っておこう、これも、次回に続く、・・・、
・・・
「おい、てめえはおれのあとからついて来るんだ」トラゴージンはレーベジックにいった。
一同は車を出た。
とどレーベジックは自分の目的を達した。まもなく騒々しい一群は、ヴォズネンセンスキイ通りの方へと遠ざかった。侯爵はリテイナヤ街へ曲がらなければならなかった。じめじめと湿っぽい朝であった。侯爵は通行の人をつかまえてきいてみたが、めざすところまで三露里もあるとのことだった。彼は辻馬車を雇うことに決めた。
・・・
エバンチン将軍は、リテイナヤ街から少し『変容救世主寺院』のほうへ寄った自分の持ち家に住んでいた。六分の五は人に貸しているこの(りっぱな)家のほかにエバンチン将軍はサドーヴァヤ街にも大きな家を持っていて、これがやはり非常な収入になった。
「白痴」ドストエフスキー/米川正夫訳(岩波文庫)
“H’m! well—here, you fellow—you can come along with me now if you like!” cried Rogojin to Lebedeff, and so they all left the carriage.
Lebedeff had his desire. He went off with the noisy group of Rogojin’s friends towards the Voznesensky, while the prince’s route lay towards the Litaynaya. It was damp and wet. The prince asked his way of passers-by, and finding that he was a couple of miles or so from his destination, he determined to take a droshky.
...
General Epanchin lived in his own house near the Litaynaya. Besides this large residence—five-sixths of which was let in flats and lodgings—the general was owner of another enormous house in the Sadovaya bringing in even more rent than the first. ...
The Idiot/Fyodor Dostoyevsky(Project Gutenberg)
「とど」、は、「とどのつまり」を、短縮した形、と思われる、出世魚であるボラ(ボラ科)が、例えば関東方言を例にとると、
オボコ→イナッコ→スバシリ→イナ→ボラ→トド
最後に「トド」となることから
シ、ぼら、いな
「露里/ベルスタ/верста/versta」、1ベルスタは、1066.8m
droshky:ロシア語、ポーランド語、エストニア語、などに由来する、さまざまな形態の馬車を指す言葉
「変容救世主寺院」は、「救世主顕栄大聖堂/プレオブラジェンスキー大聖堂/Transfiguration Cathedral」、プレオブラジェンスキーPreobrazhensky、は、その名を冠した連隊の兵舎の跡地に建てられたことに由来、「変容」は、「キリストの変容Transfiguration of Jesus」、マタイ伝Matthew17:1–8、マルコ伝Mark9:2–8、ルカ伝9:28–36、から
「リテイナヤ街Litaynaya」は、「Liteyniy Ave」で見つかった
・・・
素人目に見ても、ほとんど異同がなさそうなので、「マタイ」から引用してみる、・・・、
17-1六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17-2ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
17-3すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
17-4ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
17-5彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。
17-6弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。
17-7イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。
17-8彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。
マタイによる福音書
17-1 And after six days Jesus taketh Peter, James, and John his brother, and bringeth them up into an high mountain apart,
17-2 And was transfigured before them: and his face did shine as the sun, and his raiment was white as the light.
17-3 And, behold, there appeared unto them Moses and Elias talking with him.
17-4 Then answered Peter, and said unto Jesus, Lord, it is good for us to be here: if thou wilt, let us make here three tabernacles; one for thee, and one for Moses, and one for Elias.
17-5 While he yet spake, behold, a bright cloud overshadowed them: and behold a voice out of the cloud, which said, This is my beloved Son, in whom I am well pleased; hear ye him.
17-6 And when the disciples heard it, they fell on their face, and were sore afraid.
17-7 And Jesus came and touched them, and said, Arise, and be not afraid.
17-8 And when they had lifted up their eyes, they saw no man, save Jesus only.
Bible (King James)/Matthew
「エリヤElijah」、英語版では、「Elias」になっているが、は、旧約聖書「列王記・上/1 Kings」18-38~40、に登場する予言者
聖書自体に記述はないが、この「高い山」は、伝承によれば、ガリラヤ湖南端西方20km、「タボル山tabor」に比定されている、とのこと

・・・
鮮やかな夏の日の光が差しこみ、ペテルブルグ中央郵便局の作業室の床には、金めっきしたような正方形がいくつもできている。・・・
・・・
カテニン通りというのはどこですか。遠いんでしょうか」
「とんでもありません」シトゥーキンは丁重に答えた。「都合がよろしいですよ。乗合馬車に乗って、ネフスキー大通りリテイヌィ通りの角で降りて、そこから・・・・・・」
・・・
カテニン通りはとても気に入った。まるでベルリンやウイーンの堂々とした目抜き通りかと見紛うばかりだ。
・・・
しかし進歩について話し合うことはなかった―アプテカルスキーへの道中、二人とも押し黙っていたからだ。・・・

「堕天使(アザゼル)殺人事件(1998)」ボリス・アクーニン(岩波書店)
「アザゼルAzazel」、旧約聖書「レビ記Book of Leviticus」16章、贖罪日(ヨム・キプルYom Kippur )の儀式についての記述に登場する、とのこと
さっそく読み終えた、この物語の舞台はもっぱらモスクワなのだが、何度か、サンクト・ペテルスブルグの光景も登場する、・・・、
現在の、「ペテルブルグ中央郵便局」に該当しそうな「Russian Post」の局は、ヴァシリエフスキー島Vasilyevskyにある、「カテニン通り」は発見できなかった、「Katerina」ならば、英語風なら、キャサリンCatherine、彼の、プロシア生まれの女帝「エカチェリーナCatherine the Great/Catherine II(1729-1796)」、「Ekaterina/Yekaterina」と同根の言葉なので、その名を冠したレストランやホテルはいくつもあるのだが、・・・、その「カテニン通り」が「ネフスキー大通りとリテイヌィ通りの角」の近傍だというのなら、すぐ近く、という様子の口ぶりから、「中央郵便局」の場所も、怪しい、ということになろう、・・・、「アプテカルスキー島Aptekarsky」は、「罪と罰」の末尾に登場したらしい、「ペトロフスキー島Petrovsky」の南側に接した、小さな島、この町は、ネヴァ川Nevaの河口に形成された三角州の町なのだな、そういう意味では、広島、と似ている、


・・・
16-8 その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。
16-10 しかし、アザゼルのためのくじに当ったやぎは、主の前に生かしておき、これをもって、あがないをなし、これをアザゼルのために、荒野に送らなければならない。
16-26 かのやぎをアザゼルに送った者は衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。その後、宿営に入ることができる。
「レビ記」
「アザゼルのためのくじに当ったやぎ」は、人間の罪を負わされた上、これが「あがないをなし」にあたるのだろうか、その後、「荒野に送ら」れる、英語「scapegoatスケープゴート/贖罪の山羊」は、「scape=escape逃げる」、「goat山羊」で、この記述に由来するといわれる、・・・、以下の英語版「ジェイムズ王版」では、「アザゼル」の名は現れず、「LORD」と言い換えられていおり、また、すでに「scapegoat」という言葉が用いられているが、なんだか、それは「循環論法」のような気がしなくもない、・・・、
8 And Aaron shall cast lots upon the two goats; one lot for the LORD, and the other lot for the scapegoat.
10 But the goat, on which the lot fell to be the scapegoat, shall be presented alive before the LORD, to make an atonement with him, and to let him go for a scapegoat into the wilderness.
26 And he that let go the goat for the scapegoat shall wash his clothes, and bathe his flesh in water, and afterward come into the camp.
Bible (King James)/Leviticus
この、ボリス・アクーニンの作品の表題でも「アザゼル/堕天使」とされているが、それは、エチオピア正教会の「旧約聖書」に含まれる「エノク書Book of Enoch」などに典拠をもつらしい、・・・、高慢や反逆を理由に天界を追放された天使、という観念は、ユダヤ教の諸セクトによって、これを典拠に流布されたものとのことで、「アザゼル」はまた、「アシエル Asiel/Assiel」と書かれることもある、・・・、そういえば、ヴィム・ヴェンダースWim Wendersの「ベルリン・天使の詩Der Himmel über Berlin(1987)」は「堕天使」の物語だけれども、彼らの名まえは、ダミエルDamielとカシエルCassiel、だったな、・・・、このアクーニンの物語の中では、「アザゼル」は、ある種の「陰謀団体」の名称なのだが、そのような命名を採用したのは、この著者が、ユダヤ系の出自をもつことと、関係があるのかどうかは、わからないけれども、物語の中でも、おそらく当時跋扈していたのであろう、「ユダヤ人」組織、「フリーメーソン」、「共産主義者」、その他もろもろをターゲットとする各種「陰謀史観」が、揶揄的に言及されていたように思う。
・・・
「ヨム・キプルYom Kippur」は、「アンネの日記」であったか、あるいは「フロイト」であったか、以前、出てきたときに、調べた記憶がある、「ユダヤ歴」、「第七月」の十日、とのこと、・・・、まもなくやって来る、「春分」後初の満月が、「過ぎ越し」で、そこから遡った新月が、「ユダヤ歴」新年となる、・・・、日本や琉球、中国の「旧暦」は、「春分」が、「春」すなわち「一月、二月、三月」の中間に収まるように、新年を設定する、すると、下に見るように、「ユダヤ歴」新年が、「旧暦」の、「二月一日」になる場合と、「三月一日」になる場合が、生じることになるのだ、ならば、「ユダヤ歴」の「第七月」は、それに1または2を加えて、「旧暦」の、「八月」ないし「九月」ということになろう、wikipediaによれば、例えば今年の「ヨム・キプル」は「グレゴリオ暦」、10月5日、確かに「旧暦」九月十日、である、・・・、




ツューリヒ、一八九六年三月五日
『ノイエ・ツァイト』編集者殿
ポーランド社会民主主義運動内のナショナリズム的思潮にかんするかなり長い論文を同封いたします。この論題は―この論文をお読みになればおわかりになるだろうと思いますが―当面非常に切実なものです。ドイツおよびオーストリアにおけるポーランド社会主義者の、慎重に用意された政治上の戦線変更は、それにつづいて起こる諸結果の一つとして、私の意見では、ガリシアの党がオーストリア社会民主党から分離することをひき起しかねません。これはドイツですでに起こったことです。・・・
・・・
しかしこの問題の取り扱いが、特別とびきりに時宜をえていると思われるのは、次のような事実が眼前にあるからです。つまり、ナショナリズム的社会主義の傾向を代表する人々は―彼ら自身がアルマン派の『労働者党』(Le Parti ouvrier)の中で書いているように―プロレタリアートの政治的要求としてポーランド国家の再興を認めよ、そしてポーランドの諸党の実践的綱領中へのこの要求採用の道をひらけ、という決議の採択をば、ロンドンの国際大会に依頼するであろうという事実です。
・・・
敬具
ローザ・ルクセンブルク
・・・
私の宛先は、ウニヴェルジテート街七七、ルクセンブルク嬢です。

「ローザ・ルクセンブルクの手紙―カールおよびルイーゼ・カウツキー宛」(岩波文庫)
Zurich, March 5, 1896.
To the Editors of the “Neue Zeit”:
I am herewith sending you a rather lengthy article concerning the nationalistic currents in the Polish Socialist movement. The topic is a decidedly live one, as I hope you will see from the article. The change of front on the part of the Polish socialists in Germany and Austria, prepared long in advance, may in my opinion bring with it, as one of the first consequences, the secession of the Galician party from the Austrian Social Democracy, exactly as happened in Germany. ...
...
The discussion of this question seems especially desirable, however, in view of the fact that the representatives
of the nationalistic-socialistic point of view will, as they themselves state in the Allemanistic “Le Parti Ouvrier,”
urge upon the international congress at London the adoption of a resolution sanctioning the restoration of a
Polish state as a political demand of the working class and thus paving the way for its inclusion in the practical program of the Polish parties.
...
Most respectfully,
Rosa Luxemburg.
...
My address: Fraulein Luxemburg, Universitatsstrasse 77
Letters to Karl and Luise Kautsky from 1896 to 1918 (PDF)/Rosa Luxemburg
・・・
「ガリシアGalicia」、は、下の、ゴーリキー「イゼルギリ婆さん」のところで見たように、ポーランド南東部から、ウクライナ西部におよぶ地域、「ポーランドの社会民主主義者」が、「オーストリア」や「ドイツ」の党から、分離するしない、がそもそも問題となるのは、ポーランドが、これとロシアを含めた三国による「分割」下にあったからだろう、

ナポレオン戦争の戦後処理たる、1815年のウィーン会議により、「ワルシャワ公国Duchy of Warsaw(1807-1815)」が廃止され、その領土は、ロシア皇帝が国王を兼ねる、「ポーランド立憲王国Congress Poland(1815-1867)」、プロシア支配下の「ポズナン大公国Grand Duchy of Posen(1815-1848)」、オーストリア領「ガリツィア・ロドメリア王国Kingdom of Galicia and Lodomeria(1772-1918)」、および、「クラカウ自由市Free City of Kraków」に分割された、・・・、「一月蜂起(1863-1864)」以降、ロシアは、「ポーランド立憲王国Congress Poland」から自治権を剥奪、ますますロシア帝国へと編入する動きを強めた、第一次大戦中に、ロシアはこの地域への支配力を失い、最終的には、「十月革命」後の1918年、「ブレスト・リトルフスク講和treaty of Brest-Litovsk」により、「中央同盟国Central Powers」、すなわち、ドイツ、ハンガリー、トルコ、ブルガリア、に対して、同地域を委譲したが、それまでの期間、「Vistula Land(1867-1915)」と呼ばれた、

ポーランド分割

ポーランド立憲王国Congress Poland

ポーランド立憲王国Congress Poland、ポズナン大公国Grand Duchy of Posen、ガリツィア・ロドメリア王国Kingdom of Galicia and Lodomeria、クラカウ自由市Free City of Kraków
・・・
「アルマン派の『労働者党』Allemanistic “Le Parti Ouvrier”」、「革命的社会主義労働者党Parti ouvrier socialiste révolutionnaire/Revolutionary Socialist Workers' Party(POSR)」、ジャン・アレマンJean Allemaneにより、1890年創設、「可能性の政策派/ポシビリストPossibilistes」の流れをくむ、サンジカリスト的改良主義者、・・・、「パリ・コミューン」への厳しい弾圧後にあらわれた、フランスの最初の社会主義政党は、1879年創立の、「ポシビリスト」的な、漸進的改良主義政党、「フランス社会主義労働者連盟Fédération des travailleurs socialistes de France/Federation of the Socialist Workers of France(FTSF)」、ここから、ジュール・ゲードJules Guesde(1845-1922)ポール・ラファルグPaul Lafargue(1842-1911)らが離脱して、1893年に、「フランス労働者党Parti ouvrier français/French Workers' Party(POF)」を結成、1902年には、ブランキ派Blanquistの「中央革命委員会Comité révolutionnaire central/Central Revolutionary Committee(CRC)」、と合同、1905年には、ジャン・ジョレスJean Jaurès(1859-1914)の率いる党とも合同して、「労働者インターナショナルフランス支部Section française de l'Internationale ouvrière/French Section of the Workers' International(SFIO)」、の結成に至る、・・・、
ここで触れられている、「ロンドンの国際大会international congress at London」は、「第二インターSecond International」の第四回大会、「国際社会主義的労働者及び労働組合会議International Socialist Workers and Trade Union Congress, London 1896」、この大会にローザが、ポーランドの党の代表として出席したのだったかどうだったか、どこか後の方に書かれていたように思うが、この大会やその決議に関する論文が、「ロンドン国際会議におけるポーランド問題1896: The Polish Question at the International Congress in London
・・・
ローザ・ルクセンブルクRosa Luxemburg(1871-1919)、1873年、ローザの家族は、現在のウクライナ国境に近いザモシチZamośćから、ワルシャワに移る、・・・、ザモシチZamośćは、上の「ポーランド立憲王国」の図面では、Lublin、Janow、Krasnystaw、の三都市が作る三角形よりさらに少し南になる、その南東の、現ウクライナのルヴィヴLvivは、かつてレムベルクLembergと呼ばれ、おそらく「ガリシア」内に位置していたであろうから、いずれにしても国境に近いところだ、・・・、1884年から1887年、ワルシャワの女子ジムナジウムに通う、「一月蜂起」以降の、ポーランド人やユダヤ人に対する厳しい報復的な弾圧、「ロシア化」の中で、ロシア語以外の使用が禁止されていたこの女学校にも、ポーランド人、さらには、ユダヤ人の子供が入学するのは極めて困難であったとのこと、この学校で、ローザは、ポーランドの詩人、作家の著作を読む秘密サークルに参加していた、1886年、15歳の時であるが、ポーランドの非合法左翼「プロレタリア党」に加入、・・・、ツァーリの警察に追われる身となったため、1889年、スイスに出国、チューリッヒ大学に入学、同じ大学には、のちのマキシム・ゴーリキーとイタリア、カプリで、亡命生活を送ることになる、アナトリー・ルナチャルスキーAnatoly Lunacharsky(1875-1933)、また、のちに「ポーランド王国社会民主党The Social Democracy of the Kingdom of Poland(1893-1918)」の創設者、スパルタクス団のメンバーとなり、ローザ殺害直後に、同じく右翼に暗殺されることになる、レオ・ヨギヘスLeo Jogiches(1867-1919)、がいた、・・・、「ポーランド産業発展史/The Industrial Development of Poland/Die Industrielle Entwicklung Polens」は、1897年にこの大学に提出された学位論文、とのこと、・・・、
・・・
前回、スターリンを延々と引用しつつ、考えてみようと思ったのは、現下の「戦争」が、きっかけなのだが、・・・、東ヨーロッパ、中央ヨーロッパ、バルカンの「民族問題」というものは、私たちの「世代」のものにとっては、その「前半生」を通じて、もちろん、極めて疑わしいものであったにせよ、「社会主義」、「プロレタリア国際主義」のもとに、「覆い隠されて」いたわけでしょう、「ベルリンの壁」や「ソ連」の崩壊とともに、結局そこに伏在していた「問題」は、何も「解決」されていなかったからこそ、こんなにも急激に数々の紛争が噴出し始めたのでは、と思わせるような勢いで、その後の、数十年が、気楽な傍観者の眼差しでしかないですが、過ぎてきたわけだ、・・・、
・・・獲得されたのも不意なら、消え去るのも不意だった。その間、その合間がむなしく過ぎ去ったわけではない。・・・社会は現在、その出発点より後退してしまったように見える。実際には、社会は今ようやく革命的出発点を、その下でのみ近代的革命が本気になる状況、諸関係、諸条件を、作り出さなければならなかったのである。
「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」カール・マルクス(平凡社ライブラリー)
「その出発点より後退してしまったように見える」のが、では、なぜいけないか?と言えば、「私たち」の「信じてきた」もろもろは、いったい何だったのか?と、ただただ「自分」の「存在意義」が掘り崩されるような思いにとらわれて、困惑している、というきわめて「自己愛的」な動機にすぎないとも言えるのだけれども、「後退」なら「後退」でよかろう、一つ浮かび上がる「問題点」は、「西」ヨーロッパ、が主導する「世界」が、観念していた「民族問題」と、「世界」の「それ以外の部分」Rest of the Worldが直面せざるをえなかったそれとは、あるいは、全然異なるものであったかもしれない、初めから、話がかみ合っていなかったのかもしれない、その一つの表れが、「ヨーロッパ・マルクス主義」の、「正統派」の、「民族自決」への、冷淡な態度、と、少なくとも、1920年ごろまでのスターリンに代表されるような、人々が描いていただろう、「多民族国家」のイメージとの間の齟齬、・・・、そんな文脈で、例えばここに、ローザ・ルクセンブルクもたち現れてきたわけです、・・・、正直にいえば、ずっと「苦手」であった、「新左翼」という陣営にいたから、この夭逝した革命家を、「アイドル化」する人々も多々いたのだけれど、多分、何度も読み始めては挫折したんだと思う、この同じ岩波文庫を、何回も買っているかもしれない、今、改めて読み始めて見れば、そんな、ロシア領ポーランド、オーストリア・ハンガリー帝国、ドイツ、それらの隣接地域の、複雑極まりない政治的環境について、さしたる知識も持っていなければ、興味を持って読み続けることなんかできなかったのは当然とも思えるが、・・・、それ以上に、私自身の事情としては、そういえば、チェ・ゲバラの「自伝」も、当時活動家の間では「必読文献」だったが、やはり読めなかった、「個人崇拝」を忌避する、というよりは、単に、「誰からも愛される」、「円満な性格」といったものに対して、密かな「劣等感」にさいなまれるのが嫌だった、という程度のことではなかったか、とも思える、・・・、で、今回は、最初の数ページで、がぜん引き込まれるように興味が湧いてきたのは、例によって、全然どうでもいいディテイルで、わずか一日かそこら滞在しただけだから、何にも覚えていないけれど、チューリッヒという都市、行ったことがある、ガイドブック見ながら路面電車に乗って、そう、チューリッヒ大学、丘の斜面を登ったんじゃないかな、緑豊かなキャンパスだった、「メンザMenza」って言うのかな、学生食堂で、何を食べたか覚えていないけれど、安くて、とてもおいしかった(笑)、へたくそな片言の英語しか使えなくても、そういう形式だったら、大丈夫だったしな、・・・、その時は、もちろん、かのローザ・ルクセンブルクが、このキャンパスで学んだことがあるなんて、全然知らなかったけど、・・・、「メランコリー者」としては、人生のあらゆることが、「失敗」であって、思い出したくない「トラウマ」経験なので、この旅行も同じく、これまで「検閲」の対象だったはずだが、そんなわけで、突然、蘇ってきてしまったんだね、・・・、ローザが住んでいた、「大学通り77番地Universitatsstrasse 77」とおぼしき所に、印をつけておいたよ、・・・、




「証明」しなければ、と急き立てられるのは、「常識」が、そうだ、とは請け合ってくれないからだね。


キセキレイ(セキレイ科)



ハクセキレイ(セキレイ科)

ヘビイチゴ(バラ科)、ルリハコベ(サクラソウ科)

ヒカンザクラ(バラ科)

シロガシラ(ヒヨドリ科)

シマキツネノボタン(キンポウゲ科)



ホソヒラタアブ(ハナアブ科)、ウシハコベ(ナデシコ科)

ツルソバ(タデ科)

オキナワツヤハナバチ(コシブトハナバチ科)、ウスベニニガナ(キク科)

ハナイバナ(ムラサキ科)



キウリグサ(ムラサキ科)

セイヨウミツバチ(ミツバチ科)、シロツメクサ(マメ科)

タイワンハネナガイナゴ(バッタ科)

オオバコ(オオバコ科)、「雌蕊先熟」、もう一度復習しよう(笑)、穂の付け根から先端に向け開花、1)まず、白い棒状の「雌蕊」が出る、2)時間経過後、先端に葯をもつ「雄蕊」が出る、他花授粉が望ましいが、次善の策として自花授粉を用意している、「自然」が「ゼノフィリア/自分と異なっている『他者』を愛すること」を、「ゼノフォビア/自分と異なっている『他者』を憎むこと」より優先している、との「証明」に、なるだろう、もちろん、「証明」しなければ、と急き立てられるのは、「常識」が、そうだ、とは請け合ってくれないからだね、・・・、あなたの傍らに、あなたと「異なった」ものが存在していることが、あなたにとって、自明の「利益」だとは、決して、言えない、もちろん、同様に、「害」であるとも、断定できないが、・・・、それもまた、「集合」の要素のひとつが、「集合」自体について「語る」ことができないのと、同種の背理だと思える。
・・・
・・・もっとも手近な実例はオオバコである。オオバコの花は小さく長さ五ミリメートルくらいで、多数が穂をなしてついている。萼は四片緑色、花冠は薄くて鐘のような形をし、花口が四片に浅く裂け、雄蕊は四本で細長い花糸の先端にぶらぶら揺れやすい二胞の葯が着いている。雌蕊は一個で花柱には細い毛がいっぱいにあって、柱頭と区別がつかない。そして花は穂の下から上へ咲き進み、花口がまだ開かない時でも、花柱だけ花口の外へ突き出て、みずみずしい細毛を張り拡げて花粉を受ける能力があることを示している。雌蕊が風によって受精作用を遂げ、花柱が衰える頃に、花冠の裂片は正しく平開し、四本の雄蕊は口外に長く突き出るのである。花粉は極めて微細で粘り気なく散りやすい。このようにしてオオバコは自家受粉を行うことなく必ず他花授粉を行のうて種子を生ぜしむることができるのである。
「花物語」牧野富太郎(ちくま学芸文庫)









オランダミミナグサ(ナデシコ科)



イソシギ(シギ科)



セイタカシギ(セイタカシギ科)

ハシビロガモ(カモ科)・オス

セイタカシギ(セイタカシギ科)

コサギ(サギ科)




「にやにや笑い」のな・い・猫なら、よく見るけど、と、アリスは言ったが、・・・、そう、彼らは、遊ぶ時も、多分、「ふざける」時も、決して笑わない、大真面目な顔をしている(笑)。










"Well! I've often seen a cat without a grin," thought Alice, "but a grin without a cat! It's the most curious thing I ever saw in all my life!"
Alice's Adventure in Wonderland/Lewis Carroll
「あらあら!『にやにや笑い』しない猫ならよく見るけど」と、アリスは考えた、「でも、猫のない『にやにや笑い』だなんて!そんなの、一生のうちで見た中で、一番奇妙なものね!」
「不思議の国のアリス」ルイス・キャロル



私はこれらの話を、ベッサラビヤアッケルマンの近くの海岸で聞いたのである。
ある晩のこと、葡萄をすっかり摘みおわると、モルダヴィヤ人の一団は海へでかけていった。私はその連中といっしょにそこで働いていたのだ。私はイゼルギリ婆さんとふたりで、葡萄棚のしたの暗がりにのこっていた。ふたりとも地面に寝そべって、海に出かけていった人たちの姿が青ずんだ夜の闇のなかで影絵のようにゆれうごいているのを、だまってながめていた。
「イゼルギリ婆さん」マキシム・ゴーリキー(岩波文庫「ゴーリキー短編集」所収)
These stories were told to me on the shore of the sea near Akkerman, in Bessarabia.
One evening, when our grape-picking was over for the day, the group of Modavians with whom I had been working went down to the sea-shore, leaving me and an old woman named Izergil lying in the deep shadow of the grape-vines, silently watching the silhouettes of the people who had gone down to the shore merge with the blue shadows of night.
Old Izergil/Old Izergil and other stories/Maxim Gorky

「ベッサラビヤBessarabia」は、モルドヴァ―ルーマニア国境から黒海沿岸のウクライナの一部にまたがる地域、「アッケルマンAkkerman」は、その黒海沿岸地域、今日の、ウクライナ、ドニエストル川河口の湾の西岸、つまりオデッサの対岸の町、「ビルホロド―ドニストロフスキBilhorod-Dnistrovskyi」の古名のようである、

「モルダヴィア」の分割の過程を歴史を追ってみたもの、下が現在、中は18世紀~19世紀、上の図は、伝統的な呼び名をあらわしているらしい、図中「Tara de Sus」は「高地the Upper Lands」、「Tara de Jos」は「低地the Lower Lands」、
英語版「試し読み」コーナーはここまでなので、以下は日本語のみから、地名を推測する、・・・、このお婆さんの若き日の冒険譚は、まことにこの地域の「人種/言語」分布の混淆ぶりを、体現しているかのごときである、・・・、
―わたしゃおっ母さんと二人で、プイルラト河のほとりのファリミという村に住んでいたんだよ。・・・彼はプルートから来た漁師であった。やがておっ母さんが一切を気づいて、わたしを折檻しはじめると、彼はしきりにわたしを唆して、いっしょにドブルージャへ逃げてゆこう、そこからこんどはドナウ河の河口の畔りまでいって二人で暮らそうといった。けれど、その時にはもうわたしは彼がきらいになっていた。・・・ちょうどそのころ、カルパチア・ウクライナ人の一味があちこちをあらしまわっていた。・・・
・・・
―それからわしは、トルコ人を愛したこともある。スクタリの町で、トルコ人の妾宅ハレムにかこわれていたんだよ。・・・わたしがはじめてその人を見かけたのは、プクレシチの町だ・・・わたしはその子といっしょに、そこを逃げ出してしまったんだがね・・・ブルガリヤのロム・バランカへ逃げていったんだよ・・・
・・・ポーランド生まれの一人の若い尼僧が、わたしの看護をしてくれた・・・・・・その娘さんのところへ、兄だという男がよくやってきた。その人は、たしかアルツェル・バランカとかいう町の近くの修道院に入って、やはり修道僧になっていた。・・・そこでわたしは病気が直ると、さっそくその男と手に手をとって、男の生まれ故郷のポーランドに駆落ちをしたのさ。
・・・途中で、ポーランド人どもが、お前さんたちロシア人たちといっしょに一揆をおこそうとして、準備しているのを見かけたりしたものだよ。とどのつまり、わたしはボフニヤの町にたどりついた。そこであるユダヤ人が私の身柄を買いとってくれた。・・・
・・・その人は、その少しまえに、ギリシャの軍勢に加わって、トルコとの戦争にでかけていって、・・・自分はポーランド人なんだもの、ギリシャ人のことなんかどうでもいいじゃないか!それだのにあの人はじっとしていられないで、ギリシャ人といっしょになって、トルコへ攻めていったんだからね。・・・たしか一揆の時に、ロシア兵のために殺されちまったらしいんだがね。ほんとに、お前さんたちロシア人は、どうしてあんなにマジャール人をいじめるのかねえ?・・・はて、わたしはなんの話をしていたんだっけ?おお、そうそう、ポーランドの話だっけね・・・・・・わたしゃそこで最後の勝負をやったわけさ。ある貴族と知合いになった・・・・・・そしてわたしはクラコフの町に住んでいたのだった。・・・けれど、彼が一揆の仲間に加わって、あんたがたロシア軍と一戦争いくさしに出掛けていってしまうと、わたしはもうすっかりがっかりしてしまった。・・・彼はワルシャワの近郊の森の中にいるのであった。
・・・その村には、いたるところにコサックや兵士たちががんばっていた。・・・・・・その眼をごまかしてゆくのは、並大抵のことではなかった。わたしは、ポーランド人たちが閉じこめられている家を、やっとのことで探りあてた、・・・
・・・もう潮時だ、潮時だ!そこでわたしはガリシヤにゆき、それからドブルージャに戻ってきた。そうして、そのままここで、もうかれこれ三十年も暮らしいるのさ。わしも人なみにモルダヴィア人の亭主をもったんだけどね、それも一年ばかり前に死んじまってさ。・・・
「イゼルギリ婆さん」マキシム・ゴーリキー(岩波文庫「ゴーリキー短編集」所収)
「プイルラト河」は不明だが、そのすぐ後に「プルート」という町の名前が登場する、これを、ルーマニア―モルドヴァ国境をなし、ダニューブにつながる、「プルート河Prut River」沿いの、ウクライナの町「プルートPrut」とすれば、これも、「プルート河」と同じ河を指すと判断できるだろう、・・・、「ファリミ」は発見できなかった、
サ、そそのか(す)
ドブルージャDobruja/Dobrogea」、ルーマニアとブルガリアにまたがる、ダニューブ河Danube、引用部分の「ドナウ河」は、そのドイツ語名Donau、と黒海にはさまれた地域の名称、下図は、1867年の書物からとられた、ダニューブ河口地域の地図だそうだが、そこに、「Dobrudja」の表記が見える、

「カルパチア・ルテニアCarpathian Ruthenia」と呼ばれる地域が、ウクライナ、スロバキア、ポーランドにまたがって広がっている、「ルテニアRuthenia」は、ウクライナ人等「東スラブ」系の人々に対するラテン語の呼び名、・・・、「カルパチア」は、また、スロバキア、ウクライナ、ルーマニアを横切る山脈の名称でもある、
「スクタリScutari」は、ルーマニア北東、モルドヴァ国境近く、ということは、上記ウクライナの「プルートPrut」にも近い町、「プクレシチBucureșci」は、ルーマニア西部、ティミソアラTimisoaraの東北東100kmあまり、、あ、でも、違うかもしれない、下の、「トランシルヴァニア、モルダヴィア、ワラキア」の地図、でも分かるように、ルーマニアの首都、ブカレスト「Bucharest」は、おそらくこちらがルーマニア語表記なんだろう、「București」、ここに出てきたのは、「Bucureșci」、と、語尾の方の一字だけ「c/t」の違い、この差異が重大なのかどうなのか、素人にはわからないが、話の筋から見ると、いくら、「イゼルギリ婆さん」の行動半径が広いといっても、このティミソアラ近くの田舎町よりも、首都ブカレストの方が、ありそうな気はする、・・・、
「ロム・バランカ」は不明だが、ルーマニア―ブルガリア国境をなすダニューブの支流に、「ロム河Lom River」があり、そのダニューブにそそぐ河口左岸に、「ロムLom」という町がある、「アルツェル・バランカ」も不明、どちらも「バランカ」という語が付されているので、これは一般名詞なのかもしれないが、探索は頓挫、
この作品は1895年に出版されているのだが、前回略述したように、
110年前の、「彼岸過ぎ」、まで、「小川町停留所」探訪、マクシム・ゴーリキー、そして「いつも、一番大事だと感じていたものに限って、先に失われてしまう」、という感慨について。
1868年生まれの作者が、19歳の自殺未遂の後、五年間の放浪期間、ということは、1887~1892年、になるが、その間に、ここウクライナ南部に、おそらく「葡萄摘み」の「季節労働者」として立ち寄った際の、「聞き書き」なんだと想定して、このお婆さんが、その時点で60歳くらい、として、30歳くらいだった、若い頃を回顧している、なら、1860年前後、ということにならないだろうか、すると、この「一揆」が、「一月蜂起January Uprising(1863-1864)」、帝政ロシアに対して、ポーランド・リトアニア共和国の再興を企てたポーランド人の反乱、・・・、ローザ・ルクセンブルクの父親は、「同化ユダヤ人」だったにもかかわらず、この蜂起に対して、ポーランド人への支援活動に従事したといわれる、・・・、を指している、という可能性が立ち上がって来るではないか、ローザ・ルクセンブルクの父親のエピソードについては、以下参照、
「クリミア・タタール人」の記事に触発されて、田中克彦「『スターリン言語学』精読」を、精読することになる、「私たち」は、いったい、「スターリン主義」を、「批判」したのだろうか?ただ、「忌み言葉」にして、見ないふりをすることに決めた、だけっだのかもしれないじゃないか、半世紀以上後になお、「世界」はその「つけ」を払わされているのかもしれないじゃないか?、などと、僭越にも、感じましたので、・・・。
「ボフニヤ」は「ボフニアBochnia」、ウクライナ東部のルヴィヴから西へ国境を越えて、200㎞、さらにその西には、「クラコフ」、おそらく「クラカウKraków」であろう、
「少しまえ」の「トルコとの戦争」、年代の推定がこれで合っていると仮定すれば、それは、「クリミア戦争Crimean War(1853-1856)」であろうか、wikipedia日本語版によれば、この戦争は、「ロシアとオスマン帝国の直接の対立の発端となったのは、オスマン帝国が支配していたエルサレムをめぐる聖地管理問題であった。フランスのナポレオン3世が個人的な名声を得るために国内のカトリック教徒におもねって聖地管理権を獲得すると、正教会を国教とするロシア皇帝ニコライ1世がこれに反発した。ロシアは正教徒の保護を口実にしてオスマン帝国全土に政治干渉し、これがモルダヴィアとワラキアへの兵力投入につながっていった」とのこと、・・・wikipedia英語版の「ナポレオンIIINapoleon III」の説明は、ちょっと異なっていて、すでに弱体化の兆候を示していたオスマン・トルコに対してロシアのツァー、ニコライ1世が圧力をかけ、バルカン半島のキリスト教諸国を、ロシアの保護下に置くこと、さらにコンスタンチノープルConstantinople、これは東方教会、正教会の「聖地」になる、および、ダーダルネス海峡Dardanelles、これは、そのコンスタンチノープル近傍のボスフォラス海峡とともに、地中海と黒海をつなぐ要衝である、の管理権を要求、英仏の支援を受けたオスマン側はこれを拒絶、ロシアが、その占領下のルーマニアからの撤収を拒んだため、英仏は、これに対して、1854年3月、宣戦布告、・・・、あるいは、ギリシャ人のナショナリズムにかかわるものだとすれば、「ギリシャ独立戦争Greek War of Independence(1821-1829)」、もありうるが、少し年代を遡り過ぎる気もする、
「マジャール人Magyars」、ハンガリーの多数派を占める民族、その言語「ハンガリー語/マジャール語」は、ウラル語族Uralicフィン・ウゴル語派Finno-Ugricに属する、とのこと、

「ワラキアWallachia」、という言葉は、元来は、ルーマニア人が自分自身の土地をあらわすのに用いられたものではなく、ゲルマン系の人々が、ケルト人、ローマ化したケルト人、のちには、すべてのロマンス語話者、を指して用いた言葉に由来するらしく、同根の言葉として、ウェールズWales、コーンウォールCornwall、そして、ブリュッセルを含むベルギーの地域名である、ワロニアWallonia、が挙げられる、とのこと、・・・、下に掲げた「大ルーマニア」の地図には、同じ地域が、「Oltenia/Muntenia」と書かれているが、これは、それぞれ、前者が「小ワラキアLesser Wallachia」、後者が「大ワラキアGreater Wallachia」に対応する別称のようである

16世紀のルーマニア、トランシルヴァニア、モルダヴィア、ワラキア、・・・、ワラキアの中央南側に見える「Bucuresti」は、ブカレストBucharest、のルーマニア語表記に近い形のようである、・・・、
「ガリシアGalicia」という地方の名称は、スペインの北東部にもあるので混乱させられるが、ここでは、ポーランド南東部から、ウクライナ西部におよぶ地域を指す、・・・、下の図面には、中央右寄りに、「レムベルクLemberg」、これは、現ウクライナの「ルヴィヴLviv」、や、ポーランドの「ヤロスラフJaroslaw」が見える、

その他、探究の過程で発見した、いくつかの図面を掲げておこう、

1910年の、オーストリア・ハンガリー帝国内の民族分布

第一次世界大戦前の、ロシア帝国内、ヨーロッパ・ロシア、の民族分布

「戦間期1920~1940」に存在した「大ルーマニアGreater Romania」の版図
ところで、重要な問題は、ロシア人、である語り手、と、この、はっきりとは書かれていないが、モルダヴィア人かも知れない、お婆さんは、「何語」で語り合ったのであろうか?さらに、このお婆さんは、どれだけの言葉を操ることが出来たのだろうか?・・・、ルーマニア、モルドヴァ、というのは、北は、ポーランド、ベラルスからウクライナまで、南は、ブルガリア、セルビアから、という、南北の「スラブ系」地帯に、同じくインド―ヨーロッパ語族とはいえ、かなり隔たった、「ロマンス語派」が挟み込まれたような形になっているのだな、・・・、
モルドヴァ語Moldovan language、インド―ヨーロッパ語族Indo-Europeanロマンス語派Romanceルーマニア諸語Romanian





先へ進めば進むこど、曠野はますます美しくなった。この当時は南ロシアの全部が―黒海の岸にいたるまでの、今のいわゆる『ノウォラスィア(新ロシア)』となっている広大な天地のすべてが、青々とした、まだ何人の足にも踏み荒らされない、茫漠たる無人の処女地であった。野生の雑草のはてしもない波の上を一度もからすきが分け入ったことはなかった。ただ馬だけが、林の中に身を没するように、雑草の中に身を没しながら、ひずめにかけるだけだった。
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コサックの一行は馬からおりて渡船に乗り、三時間も水の上で過ごした後で、しばしばその所在を変更するセーチのこの当時の所在地だったホルティツァ島の岸に上がった。
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そこでセーチの全員がひとつの教会堂で祈祷をやって、断食や禁欲を守る事はしなかったけれども、最後の血の一滴の流れつきるまで、教会を守護しようという覚悟のほぞを固めるのであった。
が、こういう連中の間にあって、猛烈な利欲にそそのかされているユダヤ人や、アルメニア人や、ダッタン人だけは、大胆にもセーチの隣接部落に住んで商売をやった。というわけは、ザパロジェの人々はいかなる場合にも、値切ることを好まなくて、ポケットからつかみ出しただけの金を、すっかり払ってくれたからだった。
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「何だとお?ユダヤのやつめがキリスト教の教会を抵当に取ったと?ポーランドの売僧どもが正教徒を馬がわりに馬車のながえにつないだと?何だ?呪わしい無信仰のやつばらがわがロシアの大地にそういう苦難を振りかけたと?わが軍の団長や隊長たちをそういう醜い目にあわせたと?よしッ、もう承知しない、そんなしゃら臭いまねはさせておかんぞ!」
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遠征軍はまっしぐらにドウブノへ突入する事に決定した。そこには官金と富裕な住民とがたくさんあるという噂が拡まっていた。一日半にわたる強行軍が行なわれてザパロジェのコサック軍は目的地である町の前面に現われた。
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「ええ、あるいはこちらの将軍様は、降参されるお考えだったかも知りませんけど、実は昨朝、ブッドジャキの連隊長が伝書の鷹を飛ばせてよこしまして、死守せよと言って参りました。そして、もうすっかり出動の準備は整い、今はただいっしょに進出しようと思って、もう一人の連隊長の来るのを待っているだけだから、じきに全軍を引率して救援に行く、―こう書いてありましたので、みんな今か今かと、その救いの来るのを待ちこがれているのでございます・・・
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・・・「私の故国がウクライナであるとは、誰が言った?誰が私にウクライナを、私の故国として与えたか?故国とはわれわれの魂の求めているもの、われわれの魂にとって何よりも恋しく懐かしいものの事だ!私の故国は―貴女なのだ!貴女の胸が、私の故国だ!私は貴女を、この故国をしっかり胸に抱きしめてゆこう、私の一生が終るまで、私はそれを抱きしめてゆこう。そしてどうなるか見てみよう。コサックの中の誰でもこの故国をもぎ取ってみるがいい!・・・
「隊長ブーリバ」ゴーゴリ(潮文庫)
The farther they penetrated the steppe, the more beautiful it became. Then all the South, all that region which now constitutes New Russia, even as far as the Black Sea, was a green, virgin wilderness. No plough had ever passed over the immeasurable waves of wild growth; horses alone, hidden in it as in a forest, trod it down.
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... The Cossacks, alighting from their horses, entered the ferry-boat, and after a three hours’ sail reached the shores of the island of Khortitz, where at that time stood the Setch, which so often changed its situation.
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... And all the Setch prayed in one church, and were willing to defend it to their last drop of blood, although they would not hearken to aught about fasting or abstinence. Jews, Armenians, and Tatars, inspired by strong avarice, took the liberty of living and trading in the suburbs; for the Zaporozhtzi never cared for bargaining, and paid whatever money their hand chanced to grasp in their pocket.
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“What! The Jews hold the Christian churches in pledge! Roman Catholic priests have harnessed and beaten orthodox Christians! What! such torture has been permitted on Russian soil by the cursed unbelievers! And they have done such things to the leaders and the hetman? Nay, this shall not be, it shall not be.”
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The army decided to march straight on the city of Dubno, which, rumour said, contained much wealth and many rich inhabitants. The journey was accomplished in a day and a half, and the Zaporozhtzi appeared before the city.
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“Possibly the Waiwode might have surrendered; but yesterday morning the commander of the troops at Buzhana sent a hawk into the city with a note saying that it was not to be given up; that he was coming to its rescue with his forces, and was only waiting for another leader, that they might march together.
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... “Who says that the Ukraine is my country? Who gave it to me for my country? Our country is the one our soul longs for, the one which is dearest of all to us. My country is—you! That is my native land, and I bear that country in my heart. I will bear it there all my life, and I will see whether any of the Cossacks can tear it thence.
Taras Bulba/Nikolai Gogol(Project Gutenberg)
「ノウォラスィヤ/新ロシア/Novorossiya」、1764年、オスマン・トルコとの戦争に備えて、新たなロシア帝国領土として組み入れられた黒海北岸地域、1775年には、コサックの半自治的国家であった「ザポロージェ・シーチ/Zaporozhian Sich」、引用部分では「セーチ」、を併合することでさらに拡張された、

「からすき/唐鋤、犂」:柄が曲がっていて刃の広いすき。牛馬に引かせて田畑を耕すのに用いる。
リ、レイ、リュウ、すき、す(く)、まだらうし、くろ(い)、しみ
エン、ながえ
ザポロージェの町の西側、ドニプロ川の中州に、目測7km×2kmばかりの、巨大な島があって、それが「Khortytsia」、「ホルティツァ島/island of Khortitz」は、おそらくこれであろう、
「ドゥブノDubno」、という地名は、ポーランドのほか、ウクライナ西部、チェコ、スロヴァキア、にもそれぞれ存在するようだが、17世紀初めに、地方の豪族が城砦を築いた町だ、とあることからも、この、ポーランド東部、ワルシャワの東北東150km、ベラルス国境近く、と断定することにした、
「将軍様/Waiwode/Voivode」、中世前半の中央、南東、および東ヨーロッパの豪族、軍閥、「ロシア・ツァーリ国Tsardom of Russia(1547-1721)」においては、軍政官、知事を意味した、
「ブッドジャキ」、「Buzhana」、いずれも、それに似た地名を発見することはできなかった、
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どこかに書いてあったかもしれないが、この隊長ブーリバが、その妻と、息子二人、と暮らしていたのは、キエフの寄宿制の「宗教学校」の学生だった息子たちが、休暇には「歩いて」帰省する、とあったから、キエフから、そんなには遠くない場所にあったのだろう、・・・、息子たちが卒業すると、一人前の「軍人」としての経験を積ませるべく、隊長は、ザポリージャの「シーチ」へ連れて行く、それは、当然、長い旅だったはずだ、・・・、そして、着くや否や、ポーランドの「カトリック」と、「ユダヤ人」によって、仲間が辱めを受けた、という理由で、「ドウブノ」という、城塞都市へ、包囲攻撃に出動するわけである、その行程が、「一日半にわたる強行軍」、馬に乗った人間の速度、というものがどれくらいか、全然見当もつかないが、「ザポリージャ」から、「ドウブノ」まで、直線距離で、1000km、実際は2割増しとして、1200km、一日あたり800km、休憩を除いて、一日20時間として、時速40km、という計算だが、いかがなものであろうか?

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今現在、正気を保っているために肝要なことは、ロシアのウクライナに対する、あからさまで、野卑な、軍事攻撃を非難するにあたって、決して、「アングロ・サクソン」のアメリカ、という世界がとりつかれている、このプーチンに対する、ほぼ病的な、「愛憎」の関係から、身を引き離しておくことである・・・ウクライナについて、誰を信じるべきなのか、バイデンか、プーチンか、それとも、ニコライ・ゴーゴリ?/ハミド・ダバシ2022年3月11日アル・ジャジーラ
上の記事で、ハミド・ダバシ氏が述べているように、この「隊長ブーリバ」という作品は、最初1835年に発表されたものが、のちに1842年、大幅に手を加えた「第二版」が出版された、という、この作者の、「ウクライナ・ナショナリスト」としての、「前期」、と、「汎スラブ主義」、ファナティックな「ロシア正教」主義者、としての「晩年」、という対比を、古い版を見ることができない以上、想像でしかないが、体現しているらしい作品なのだ、・・・、もちろん、すでに、そういう「入れ知恵」があって、「先入観」を持って読むからだが、例えば、「ディカーニカ近郷夜話」に見られたような、ウクライナの田舎を描く「牧歌的」な筆致に代わって、・・・、訳文を見る限りだが、「ウクライナ」という言葉が、ことごとく「ロシア」に「置換」されたのでは?と思えるくらいで、何か、とげとげしく、好戦的であるような気がしなくもない、・・・、そんな観点から、いくつか引用してみたが、これで何かが、「証拠立て」られるとも、あまり思えないね、・・・、「ユダヤ人」、「ダッタン人」、それぞれ英訳版では、「Jews」、「Tatars」だけれども、に対する侮蔑的な記述も随所にみられるわけだけれども、そもそも、「ファナティック」で「好戦的」な「コサック」たちが、「異教徒」たちを、粉砕すべく戦いに出かける物語なんだから、それらの表現を、筆者がどれほど、いわば「真顔」で用いているのかも、判断できないからな、・・・、というわけで、「結論」めいたものは、何もない、またしても「竜頭蛇尾」ではあるが、・・・、
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「どうして貴様は市内へはいって、その上さらに貸金まで取り立てようなんて気になったのだ?」と、タラス・ブーリバは言った。「それで何か、そいつが貴様を犬のように、その場で縊り殺せと命じなかったのか?」
「へい、お言葉の通り、私を絞め殺そうといたしやした」と、ユダヤ人は答えた。「すでに従卒の連中が私をふん捕まえて、首へ縄をかけたのでございますがね。私はその方に、お貸ししたお金はご都合のおよろしい時までお待ちしますと申し上げ、また私にほかの方々から貸金を集める手助けさえしてくだされば、貴方にはもっとお貸ししてもようございますと約束して、やっと命だけは助かったのでございます。―旦那には何もかも申し上げやすが、何しろその旗手のお方は、ポケットに金貨一枚お持ちにならないんでごぜいやすからなあ、立派な荘園もお持ちになっているのです、別荘も幾つか持っておいでになるし、お城さえ四つも持っておいでになる、曠野の御領分は、シクロウォまでも続いているというお方なのですが、お金だけはびた一文お持ちにならないのでございます。本当にもうコサックの方々のように―おっと、これは失礼を、御免下さい―本当にちっともお持ちになりませんので。ですからもう、今度だって、ブレスラウリユダヤ人どもが金を立て替えて、出征の支度をさせて上げなかったら、とても戦争には出られなかったんでございますよ。
「隊長ブーリバ」ゴーゴリ(潮文庫)
“You entered the city, and wanted him to settle the debt!” said Bulba; “and he did not order you to be hung like a dog on the spot?”
“By heavens, he did want to hang me,” replied the Jew; “his servants had already seized me and thrown a rope about my neck. But I besought the noble lord, and said that I would wait for the money as long as his lordship liked, and promised to lend him more if he would only help me to collect my debts from the other nobles; for I can tell my lord that the noble cornet had not a ducat in his pocket, although he has farms and estates and four castles and steppe-land that extends clear to Schklof; but he has not a penny, any more than a Cossack. If the Breslau Jews had not equipped him, he would never have gone on this campaign. ... .”
Taras Bulba/Nikolai Gogol(Project Gutenberg)
コサックによる包囲下にある、その、「ドウブノDubno」の、ポーランド貴族の城砦、「高利貸し」として描かれているこの人物、彼は、ブーリバの個人的知りあいなのだが、のように、「ユダヤ人」たちには、軍資金調達、兵站、等の面で、戦闘当事者の双方が依存していたのであろうし、従って、双方の軍事機密にも、通暁しうる彼らは、当然にも、ここに描かれているように、「スパイ」の役割も十分に担うことが出来たのだろう、・・・、それが「史実」であるかどうかを問題にすることはここではできないけれども、彼ら「ユダヤ人」に対するそのような「認識」が、「非ユダヤ人」の「聴衆/観客」に、広く共有されていたからこそ、ゴーゴリも、このような「描き方」を採用することになったのだ、と読むべきなのだろう、・・・、ある特定の人々の集団に対する「侮蔑的」な表現、を、「読者」という環境から眺めて見るならば、その著しい特徴は、著者当人は、そのような表現が、当の、「対象」が、決して読むはずがない、といわば「高をくくっている」ところにあるのではないか、と、当たり前の事なのに、最近になってようやく気付いた次第、・・・、「ヴェニスの商人」を書いた時、シェイクスピアは、その舞台の観客の中に、ただ一人も「ユダヤ人」がいるはずがない、という想定に立つことができた、当時イギリスは、「ユダヤ人追放令」下にあったからだ、と、これは岩波文庫の解説に中野好夫が書いていたことの受け売りだが、・・・、同様に、ジョゼフ・コンラッドが、「闇の奥」を書いた時も、その文書が、コンゴ川上流地域の「土人」の目にとまることなど、あるはずがない、と信じ込んでいたからこそ、あのような表現を用いることができた、実際は、数十年後ではあるものの、チヌア・アチェベというナイジェリア人が、ちゃんと、「読んだ」わけだけれども、・・・、同じく、フォークナー「八月の光」が、「黒人」の読者が存在しうることを意識して書かれた、とは、とても思えない、等々、・・・、さて、そういう風に想像を広げてみると、例えば、ウクライナ生まれの「ユダヤ人」、トロツキー、ザポリージャからそう遠くない土地に生まれている、は、あるいは、ポーランド生まれの「ユダヤ人」、ローザ・ルクセンブルク、これまた、その「ドウブノ」から遠からぬ街に生まれている、は、証拠はないけれども、ほぼ確実に、ゴーゴリを読んでいた、と想像できるのではなかろうか、・・・、
「シクロウォSchklof」は、このままでは検索にヒットしなかったが、ベラルス東部、ミンスクMinskの東北東200km、ロシア国境に近いところに、「Shklow/Shkloŭ」がある、ポーランド東部から、ここまで「領地」が広がっているとしたら、凄いことだが、・・・、「ブレスラウリBreslau」は「ヴロツワフWrocław」、ワルシャワの西南西500km、
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ダッタン人らが、コサック軍の留守の間に、セーチへ襲来して、あらゆるものを掠奪し、コサックがこっそり地下に埋めておいた財宝を発掘して、留守を守っていたすべての人々を殺したり捕虜にしたりしたあげく、ことごとくその家畜と馬の群れとを引きさらって、一目散にペレコブへ向かって進出したという報道がセーチから到着したのであった。
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・・・この巨砲が轟然と爆発し、つづいて他の三門が、前のも合わせてつごう四度、雷鳴のように大地を鳴り響かせて、発射された時、―その時これらの巨砲は、数知れぬ悲しみをこの世に生み出したのである!ただ一人の老いたるコサックの母親が、息子の死を傷んで泣き崩れ、骨張った手で老いしぼんだ胸をかきむしるだけではない。グルホフネミロフチェルニゴフ、その他の都市に、ただ一人の寡婦も、安閑としてはいないであろう。
「隊長ブーリバ」ゴーゴリ(潮文庫)
News had come from the Setch that during the Cossacks’ absence the Tatars had plundered it completely, unearthed the treasures which were kept concealed in the ground, killed or carried into captivity all who had remained behind, and straightway set out, with all the flocks and droves of horses they had collected, for Perekop.
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... And as it thundered, the three others followed, shaking in fourfold earthquake the dully responsive earth. Much woe did they cause. For more than one Cossack wailed the aged mother, beating with bony hands her feeble breast; more than one widow was left in Glukhof, Nemirof, Chernigof, and other cities.
Taras Bulba/Nikolai Gogol(Project Gutenberg)
「ペレコブPerekop」は、ウクライナ北東部、ロシア国境近くの「Sumy」の西南西100km、「Perekopivka」ではなかろうか、
「グルホフGlukhof/Hlukhiv」は「Sumy」北西100kmのロシア国境近く、「ネミロフNemirof/Nemyriv」はキエフ南西250km、「チェルニゴフChernigof/Chernihiv」はキエフ北北東200km、ベラルス国境近く、
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ワルシャワ市街図、紫色の線が、「ワルシャワ・ゲットーWarsaw Ghetto」の隔壁の位置をあらわす
以下、wikipedia英語版「Jewish quarter/Warsaw Ghetto」、から、・・・、
ヨーロッパにおいて、「ユダヤ人居住地区/ジューイッシュ・クォーター」が存続しつづけたのには、いくつかの理由がある、・・・、
キリスト教の支配者は、キリスト教徒の住民が、ユダヤ人にって「汚染され」ないように、また、ユダヤ人に対しては、キリスト教への改宗に向けて圧力を加えるために、彼らを一定区域に押し込めた、
一方、ユダヤ人側から見れば、指定された地域の環境は、通常劣悪なものであったものの、ある程度の自治が保たれ、外部のキリスト教世界からの影響を排除し、暴徒による暴力から住民が保護される、という利点もあった、・・・、
ワルシャワでは、第二次世界大戦より以前は、ユダヤ人住民の大半は、ムラノーMuranów(スロドミエスチ区Śródmieście)、ポワスキPowązki(ウォラ区Wola)、スタラ・プラガStara Praga(北プラガ区Praga-Północ/南プラガ区Praga-Południe)、といった商業地区に住み、カトリック住民の90パーセントは、それら中心部から隔たった郊外に住んでいた、例えば、ムラノーMuranówの人口の88パーセントがユダヤ人、ワルシャワ全体では、ヴィスチュラ川Vistula、下に見るように、この川は、南から北へ、バルト海に向かって流れるから、その左岸が西、右岸が東、となるが、左岸では、32.7パーセント、右岸では、14.9パーセントの住民が、ユダヤ人であった、1931年の調査によれば、合わせて33万2千人のユダヤ人が居住していた、とのこと、・・・、1939年、ナチス・ドイツがポーランドを占領、戦火とポグロムを逃れ、ユダヤ人地区の人口は激増した、1940年4月、ナチ指名の「ユダヤ人委員会Jewish Council/Judenrat」の監督のもとに、ユダヤ人居住区を囲む壁の建設が始まる、これが「ワルシャワ・ゲットー」で、ナチ当局は、同地域に住むポーランド人、11万人を退去させ、郊外に住むユダヤ人14万人を、ゲットー内に移るよう強制した、ゲットーの総面積は、3.07平方キロ、これは首都圏全面積の2.4パーセントを構成するにすぎない、そこに、ホロコースト開始前夜、45万人が居住していた、・・・、書き写しながら、「既視感」があった、以前、ハンナ・アーレント「われわれ、難民」を読んだ時、同じことを調べたのを、忘れていたのだった、・・・、「ワルシャワ蜂起」の最終的鎮圧のために、ドイツ軍が、投入されたのが、1943年4月19日、「過ぎ越し」の祭りの、前夜であったことも、・・・、
人が、その人生を立て直すためには、強くなければならないし、楽観的でなければならないだろう。だから、私たちは、みんな楽観主義者に、なった・・・「われわれ、難民」ハンナ・アーレント
「月齢付きカレンダー」に問い合わせると、1943年4月19日は、旧暦3月15日であるが、月齢は、その日が14.2、翌4月20日が、15.2、であるから、あるいは、「過ぎ越し」の満月を祝う祭礼は、その年は、グレゴリオ暦4月20日だったのかもしれない、・・・、上の「ワルシャワ・ゲットー」隔壁の図と、現在の地図を照らし合わせるために、目印となる地点をいくつか、・・・、「Rondo Radoslawa」、「ロンド」は、「ロータリー」形式の交差点ではなかろうか、これが、Muranówの北側で、隔壁の北端をなす、「ゲットー」区画の南西の端が、「Plac Zawiszy」から北東500mくらいのところになると思われる、また、「ゲットー」東側に「サクソン庭園Ogrod Saski/Saxon Garden」が位置している、・・・、

ワルシャワ市、地区区分図Districts of Warsaw

ヴィスチュラ川Vistula River流域図
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「Pale of Settlement」、ロシア帝国西部国境地帯に、ユダヤ人居住地区として、定められた、別の言い方をすれば、それ以外には、ユダヤ人の居住は、許されなかった、場所、を指す用語であるらしい、下の図面で、濃く塗られている部分が、ユダヤ人人口比率が高い地域で、ポーランドのワルシャワWarsaw、ポーランドのビャウィストクByelostok/Białystok、これは、上で見たが、ソ連の映画作家、ジガ・ヴェルトフDziga Vertov(1896-1954)、それから、エスペラント語創始者、ルドヴィコ・ザメンホフLazaro Ludoviko Zamenhof(1859-1917)の生まれ故郷だ、ベラルスのフロドナGrondno、などがそれにあたっている、・・・、以前「わが生涯」から引用したように、トロツキーの父は、「ポルタワ県にあるユダヤ人の町」の出身であり、「ヘルソン県とエカテリノスラフ県には、四〇ほどのユダヤ人農村居留地があり」との記述もあった、ポルタワPoltava、ヘルソンKherson、エカテリノスラフYekaterinoslav、の名も、この図面には見えている、

それから一週間の後、彼はもうウマン市へ姿を現した。武装に身を固め、馬にまたがり、槍をささげ、大剣をつり、鞍には道中用の水筒や、麦粉を入れた飯盒や、弾薬函や、馬の膝当や、その他の七つ道具を結びつけていた。
「隊長ブーリバ」ゴーゴリ(潮文庫)
Within a week he found himself in the city of Ouman, fully armed, and mounted, with lance, sword, canteen, pot of oatmeal, powder horn, cord to hobble his horse, and other equipments.
Taras Bulba/Nikolai Gogol(Project Gutenberg)
「ウマン市Ouman/Uman'」は、キエフとオデッサのちょうど中間あたりの町、ここに、かつての「セーチ」出入りのユダヤ人商人ヤンケリYankelが住んでいる、ポーランド側の捕虜になった息子オスタップへの面会を、画策してもらうために、つまり、ポーランド側とも面識のあるユダヤ人商人に、「賄賂」を含んだ手段を依頼すべく、訪れるのである、
ヤンケリは、背の低いほこりまみれの馬の背中で、ぴょこんぴょこんと体を揺すり上げられながら、幾うねりもした後で、とある暗い狭い往来へ折れ曲がった。そこは『グリャズナヤ(不浄街)』という名称を持っているほか、さらに『ジドフスカヤ(ユダヤ街)』とも呼ばれている所だった。というわけは、実際ここに、ワルシャワ中のユダヤ人の、ほとんど全部が住まっていたからである。・・・
ヤンケリは彼の方を振り向いて言った。「旦那、かならず何とかいたしやすよ。オスタップ様は城内の牢屋にはいっておいでになります。ですから、牢番のやつらを抱きこむのは難役だが、しかし何とかして、お会いになれそうなものだと思っていやす」―こう彼は言った。
「隊長ブーリバ」ゴーゴリ(潮文庫)
Yankel, bouncing up and down on his dust-covered nag, turned, after making several detours, into a dark, narrow street bearing the names of the Muddy and also of the Jews’ street, because Jews from nearly every part of Warsaw were to be found here. ...
Yankel turned to him and said that everything possible would be done; that his Ostap was in the city jail, and that although it would be difficult to persuade the jailer, yet he hoped to arrange a meeting.
Taras Bulba/Nikolai Gogol(Project Gutenberg)
「グリャズナヤ」は、英訳では、単に「泥だらけの町Muddy」になっているが、試みに、「日本語→ロシア語辞書」で、「汚い」と入力すると、「грязный」、そのローマ字音訳が「grâznyj」と出た、多分、これであろう、・・・、また、ロシア語の「ユダヤ人」は、「еврей/evrej」、これは、「ヘブライHebrew」と同根の語だろう、のほか、「иудей/iudej」、「жид/žid」、「жидовка/židovka」があり、掲げられている用例からの憶測だが、最後の二つが、やや「蔑称」的に使用されるように見受けられた、「ジドフスカヤ」は、この言葉のなんらかの語形変化なのだろうと思われる、・・・、社会の「周縁」に位置付けられ「差別」を受ける集団、に、あるいは通有の性質かも知れないと思うが、それらの人々は、「多数派」を自任する人々にとって、「必要」な集団なのである、しかし、彼らを「利用」せざるをえなかったり、彼らから「便益」を受けねばならなかったり、「依存」せざるを得ない、という自覚こそが、「多数派」のプライドを傷つけ、その「防衛機制」として、時には暴力にまで爆発する、過剰な反発を生み出すのだ、と「解釈」出来るでしょう、ここでも、ポーランドのカトリックの貴族たちも、ロシア正教徒の「コサック」も、互いに戦争するにも、軍資金、輜重、の調達に、双方ともに、「ユダヤ人」に依存している、・・・、それにもかかわらず、一朝事あれば、たちまち、「ポグロム」につながってしまうのだ、・・・、「何とがいたしましょう」と請け合ってくれるヤンケリは、いかにも頼もしい、そうやって、「賄賂」の力で、インフォーマルな社会は、動いていくのだし、多くの人がその「便益」を受けているのだが、表立っては、「金の亡者」、意地汚い「ユダヤ人」などと、罵るのである、・・・、そもそも、「賄賂」を「汚い」となじるのは、ある種「神経症」的な、潔癖さ、「ピューリタン」、「プロテスタント」的伝統かも知れないじゃないか、と、これ自体、また、一つ、「差別」的な物言いであるが、想像してしまう、・・・、トロツキー「わが生涯」にも、最初に逮捕、収監されていた間のこと、ある日、めずらしく看守が、機嫌よくたくさんの食べ物を持ってきて、君のおかあさんの差し入れだよ、と伝えられる、世間知らずの子供にも、母親が相当額の「賄賂」を使ったんだ、と想像できた、という一節があった、トロツキーが「ユダヤ人」だということを知っているから、そういう風に読めてしまう、という要素も無視できないけれども、「差別」を受けている階層にとっては、「公的機関」から好意的処遇を受けるには、「賄賂」によって「買収」する、以外に方法がない、という認識が、しっかりと根付いている表れなのだ、という気がしたのだ、・・・、ワルシャワの「ユダヤ人街」について調べてみようと思ったのは、この部分を読んだからだ、・・・、ナチは、都市の人口構成を大幅に変容させてしまうようなことを、東ヨーロッパの全域にわたって行ってしまった、だから、往時のその様子をたどるには、もはや「考古学的」というべきような方法に頼らざるを得ないのだね、・・・、「ホテル・ニューハンプシャー」で、収容所で視力を失った老「フロイト」が、ウィーンの街を散歩する、杖がわりのバットで地面を叩きながら、「ここはユーデン・プラッツJudenplatz(ユダヤ人広場)か?」と、怒鳴る、その光景を思い出す。
二人の「フロイト」、の、ウィーン・・・「ホテル・ニューハンプシャー」を読みなおす、あるいは、「ある晴れた朝one fine morning」、を永久に先送りする衝動、「ギャツビー」の、「アメリカン・ドリーム」資本主義(笑)
ところで、中学生の頃以来の謎なんだが、ビートルズのあまりにも著名な歌、「ヘイ・ジュードHey Jude!」、歌詞カードにも、子供向け英字新聞の紹介欄にも、「Jude」とは聖書に登場する「ユダ」の事だ、と注釈しながら、それ以上の説明は、決してなかった、便利な時代で、wikipediaに問い合わせれば、そんな積年の疑問も解けてしまう、・・・、オノ・ヨーコの登場以来、ジョン・レノンの婚姻関係は破綻、それまで、この人気グループの取り巻きの一人として、社交界の花形でもあった、シンシア・レノンが、ほとんど一夜にして、「ペルソナ・ノン・グラータ/歓迎されざる人物」の如きになってしまったのに心を痛めたポール・マッカトニーが、ある日シンシアのもとを訪れ、その道中で、この歌詞を思いついた、元来は、シンシアとジョンの間の息子、ジュリアンJulianを激励すべく、「Hey Jules!」だった、とのこと、・・・、アップル・レコード社がプロモーションのために、看板に「Jude」と大書して掲示すると、近隣のユダヤ系住民から、クレームが出た、マッカトニーは、他意はなかったが、確かにナチ時代のフィルムを見て、「Juden Raus/ユダヤ人は出ていけ」の看板と酷似しているのに気付いた、と弁解している、等々、・・・、英語圏に「Jude」というファーストネームを持つ人々は、少なからず存在するようだが、この名前は、「Judas」に由来するが、以前も調べたが、聖書には、「裏切り者」の烙印を押され、その名辞上の類似性から、「ユダヤ人」蔑視の根拠に援用されてきたところの、「イスカリオテのユダJudas Iscariot」のほかに、もう一人の「ユダ」、イエス・キリストの兄弟にして、使徒の一人である「Apostle Judas Thaddaeus」が存在するから、キリスト教徒にとって、忌むべき名前ばかりとは言えない気もするが、その辺の事情は、よく分からない、・・・、
身勝手な「トラウマ」の「成仏」、としての、オスカー・ワイルド「サロメ」、中勘助「鳥の物語」と「聖書」研究、を兼ねて、パレスチナを歩・い・て・、みる
この記事で引用した、「マルコによる福音書Mark、6-3」、
Is not this the carpenter, the son of Mary, the brother of James, and Joses, and of Juda, and Simon?
この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。
で、「大工」である「この人」が「キリスト」である以上、その兄弟に「ユダ」が存在することになり、この人物が「聖ユダ・タダイJude the Apostle/Jude Thaddaeus」に比定されている、という事情であるらしい、・・・、
Hey Jude/The Beatles




生没年一覧表


「かけがえのない存在」という物言いを「濫用」すること自体、「他者」の存在を、「かけがえ」があ・る・、代替可能なものとして処遇していることに対する「罪悪感」の表明かもしれないじゃないか・・・とか。
鶺鴒(セキレイ)の声が、すっかり聞こえなくなった、と「もののあはれ」を「詠嘆」していたかと思ったら、「繁殖期」を迎えてセッカ(ウグイス科)が早々と鳴き始め、早速その姿を写真に収めたりできたりすると、もう、機嫌が直っている、・・・、私たちは、しばしば「かけがえのない存在」という物言いを「濫用」するが、そのこと自体、ひょっとしたら、「他者」の存在を、「かけがえ」があ・る・、代替可能なものとして処遇していることに対する「罪悪感」の表明かもしれないじゃないか、・・・、まことに「去る者は日日に疎し」であって、だから、「もののあはれ」は、そんなにも「忘れ易い」おのれに対する「悔恨」なのだね、きっと。






ヒヨドリ(ヒヨドリ科)



キセキレイ(セキレイ科)、池の水面を覆いつくした、ボタンウキクサ(サトイモ科)。

シロガシラ(ヒヨドリ科)



ツメクサ(ナデシコ科)、クローバー、マメ科のシロツメクサ、は「詰め草」、船の積み荷の、たとえば、陶器とかガラスとか割れやすいものの場合、隙間に充填して緩衝材の役割を果たした、というのが、その名の由来、それに対して、こちらナデシコ科のツメクサは、背景に少し写っているでしょう?葉の形が、「爪」のようなので、「爪草」。

セイタカシギ(セイタカシギ科)

チチコグサモドキ(キク科)、今年は、「春の七草」の一つ、ホウコグサ(キク科)、をついに見ることができなかった、その名の「ほうこ」の由来は、よくわからないと言われているが、しばしば「ははこぐさ/母子草」と誤用され、さらにそこから、「母」がいるなら「父」も、と、連想の糸が伸びたのだろう、同じキク科にチチコグサ、これは、当地には産しないようである、が命名され、これは、さらにその「擬き/もどき」、「まがいもの」であって、熱帯アメリカ原産の「外来種」、確か、柳宗民「雑草ノオト」には、この著者、「民芸」の柳宗悦の子息、は、すでに故人だが、園芸家だった、毎年その季節には、「『春の七草』寄せ植えセット」、おそらく、一つの植木鉢に、七種の苗を並べて植え込んでおくものなのだろう、なるものを売り出していたところ、ある年、成長してみると、ホウコグサであるべきものが、このチチコグサモドキであった、とのエピソードが書かれていたと記憶する、こうして伸び切ったものを見れば、さして似ているとも思えないが、園芸家でも間違えるのだ、というので覚えている、で、今年は、こいつも発見できないのだろうか、と、諦めていたのだが、もう、こんな季節、「清明」の頃だ、になって、写真からもわかるように、歩道のアスファルトの隙間のわずかの土の上に、果敢に伸びだしている、のを発見。

ハナイバナ(ムラサキ科)

アメリカフウロ(フウロウソウ科)



チュウシャクシギ(シギ科)

ダイサギ(サギ科)、ヤエヤマヒルギ(ヒルギ科)

コサギ(サギ科)

アメリカフウロ(フウロウソウ科)、マルシラホシカメムシ(カメムシ科)

シマキツネノボタン(キンポウゲ科)

トキワハゼ(ゴマノハグサ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)



オオバコ(オオバコ科)、上で紹介した牧野富太郎氏の、明瞭な説明に、しかし、必ずしも合致しないかも、と素人目には思える、・・・、左上は、まだ、花は開きかけているが、雌蕊も伸び出してはいない段階、右上は、反対に、もう花時の末期、下の方は受精が終了、穂の上端近くまで雄蕊の開いたのが迫っている、右下は、この白く伸びた棒状のものが雌蕊なんだろう、確かに、穂の下の方では雄蕊も出始めているが、上端は、もっぱら雌蕊のみ、おや、オオバコは風媒花だから、蜜など、昆虫を誘うものが出はしないのに、ハエのようなものが、てっぺんにとまっているね、で、左下、穂の上端、その薄紫色の雄蕊の先端の葯、ととも、まだ伸び出している雌蕊が見える、牧野先生は、「このようにしてオオバコは自家受粉を行うことなく必ず他花授粉を行のうて種子を生ぜしむることができるのである」と断言されているが、いや、あるいは、他花授粉が出来なかった場合の「次善の策」として、自花授粉ができるような、「安全」な「システム」、を採用しているのではないか、と、僭越ではあるが、考えた次第だ。

ユウゲショウ(アカバナ科)



デイゴ(マメ科)、五月頃に咲き始めるんだと思っていた、「光陰矢の如し」と申しますか(笑)、時の流れの速さに、驚く。

イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス

クロツラヘラサギ(トキ科)、カワウ(ウ科)、背中に「隠して」ある、長い「へら」状嘴は、ずっとこの同じ姿勢で眠っておられたので確認できなかったが、顔つきから判断して、間違いなかろう、ここは、沖縄本島最南端の海岸、フィリピン、台湾から、南西諸島を経て、九州、本州、朝鮮半島へと、その旅の中で、宮古・八重山と沖縄本島間約300キロだけが、「島影一つない絶海」、おそらく一番の「難所」なのだと思われる、だから、秋の渡りの季節にここに来る者たちは、「腹ごしらえ」に余念がなく、そうして、春の場合は、こんな風に、もっぱら、文字通り「羽を休め」ている場合が多いのだ、そう解釈しているのだが、・・・。



セイタカシギ(セイタカシギ科)、この人たちも、春と秋の「渡り」の季節にだけ、見かけることが多いから、もっと南で越冬して、今は、旅の途中なのだと想像している、だからもちろん、栄養補給に、忙しそう。

オオバン(クイナ科)、ヒドリガモ・オス、ハシビロガモ・オス(カモ科)、「北」の繁殖地への「渡り」が近づくにつれ、「婚姻色」と呼ばれる、派手な衣装へと、徐々に「衣替え」が進むようで、だから、とりわけ色鮮やかになったオスのほうにばかり、目が行ってしまう、数もすっかり減ったから、この一団も、もう、今日明日にでも、出発なのかも知れないし、あるいは、ここに滞在していた者たちは、もうすでに去ってしまって、これらは、もっと「南」からの、旅の途中の団体なのかも知れないけれど。

タカブシギ(シギ科)





カワジシャ(ゴマノハグサ科)、渓流の畔(ほとり)で咲くと言われているが、この海岸でしか見たことがない、ここは、農業用に地下水を堰き止めた「地下ダム」の越流水が流れこむ場所、だから、確かに、淡水の流れの畔(ほとり)ではあるのだ、・・・、この島の南部は、隆起サンゴ礁地形で、それを構成する石灰岩、CaCO3、は、
CO2+H2O+CaCO3←→Ca2++2HCO3-
の平衡が、環境中の二酸化炭素分圧の変動に伴って容易にい右にも左にも移動するので、長年のあいだには、溶けたり、また再結晶したり、で、穴だらけになる、だから、これが構成する岩盤は、保水力が極めて乏しい、雨はたくさん降るのに、「水不足」に悩まされるのは、そういう理由だ、・・・、遠目には、白い小さな花、としか思えないが、こうして子細に見ると、うす紫色の筋が走っていて、何か不思議な丸みを帯びた花弁と言い、この飛び出した二本は雄蕊なんだろうか、そのせいか、何だが「笑っている顔」を連想させる風情は、確かに、同じゴマノハグサ科の、オオイヌノフグリやタチイヌノフグリに、似ている。





セッカ(ウグイス科)、「留鳥」なのだから、年中、この島にいるはずなのだが、もっぱら繁殖期のみ、「ちちっ、ちちっ、ちちっ、ちちっ」と、複雑な航跡を描きながら飛び交いつつ鳴く、多分、スズメより小さいから鳥だから、その声を追いながら、ごくまれに、草木の天辺や、電線で休憩した瞬間にしか、目撃できない、そんなわけで、この声、この姿は、「夏」の「風物詩」となるのだ。

キツネアザミ(キク科)





カエンボク(ノウゼンカズラ科)





ハシブトガラス(カラス科)、ヤシ科の一種

ハシブトガラス(カラス科)

アオサギ(サギ科)

イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス






他者について何事かを「知る」、それは常に「侵襲的」な眼差しかもと思う。




旧暦三月五日の月、月の入二時間前、「ラマダン」開始を告げる「新月」、春分後初の満月「過ぎ越し」の前だから、ユダヤ歴「新年」を告げる「新月」でもある、ようやく、五日になって初めて空が晴れ、目撃できたわけだ。



旧暦三月六日の月、月の入三時間前



旧暦三月七日の月、南中一時間後



旧暦三月八日の月、南中一時間後、ほとんど天頂だが、やや西に傾いているので、西に向かって撮影、だから、うさぎさんは、頭の方をのぞかせている。

旧暦三月八日の月、南中二時間後

旧暦三月八日の月、南中四時間後

旧暦三月九日の月、南中二時間前

旧暦三月九日の月、南中一時間後

旧暦三月九日の月、南中三時間後

旧暦三月十日の月、南中



旧暦三月十一日の月、月の出二時間後



旧暦三月十一日の月、月の出三時間後



旧暦三月十一日の月、南中

旧暦三月十二日の月、月の出二時間後









旧暦三月十二日の月、月の出五時間後

旧暦三月十二日の月、南中一時間前

旧暦三月十三日の月、月の出二時間後

旧暦三月十三日の月、月の出四時間後

旧暦三月十四日の月「待宵」、月の出二時間後



旧暦三月十四日の月「待宵」、月の出三時間後



旧暦三月十五日の月、月の出三時間後





旧暦三月十五日の月、南中二時間後、・・・、そう、これが、その「過ぎ越し」の満月、年に一度の「特別」な満月なんですよ、と言ってみても、ほら、絵面からは、それを証拠立てるものは何も得られない、もちろん、月自身が、「それ」を知っているかどうかは、わからないけれど、いや、知っている必要も、わかる必要もないかも、「証拠立てる」のは、「自分」ではなく、「他者」だから、「他者」の「言葉」によって、「しるし」がつけられて、「名前」が付けられて、それではじめて「時間」が流れていることがわかるのかも、・・・、でも、一方で、前に見た「あれ」と、今見ている「これ」は、同じものなんだ、と言えなければ、事物の「循環性」、「周期性」などというものを発見することさえできなかったはずでしょう?(笑)



旧暦三月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の出一時間後



旧暦三月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の出三時間後

旧暦三月十六日の月「十六夜(いざよい)」、南中三時間後

旧暦三月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の入一時間前



旧暦三月十七日の月「立待」、月の出一時間後

旧暦三月十七日の月「立待」、月の出三時間後、



旧暦三月十七日の月「立待」、月の入二時間前、再び、地表付近で、「赤味」を帯びている、空はすでに白みつつあるから、もうすぐ「有明」、写真を引き伸ばしてみてはじめて、うさぎの「右耳」、もちろん、こちらから見て、うさぎさんと一緒に逆立ちすれば、左側(笑)、のあたりがわずかに欠け始めているのに気付く、・・・、それにしても、昇った時と、こうして、ほぼ半円を描いて沈み始める頃、こちらを向いている月表面の絵柄が、「うさぎさんがつんのめった」、という風に、同一平面内の「時計回り回転」に終始している、つまり一向に「裏側」が見えないのは、月の自転が、地球まわりの公転と完全に「同期」しているのを意味するわけで、そんなとんでもなく奇跡的な「偶然」が、少なくとも、ここ数万年か、数千万年かそこら、持続しているってことだろ?いわゆる「神秘」、なる感覚にうたれて当然、とも思える







旧暦三月十七日の月「立待」、月の入一時間前「有明」、まわりがすでに明るくなっているのに、月自身もまだ光を失わない、そんな状態はごくわずかの時間しか続かない、「寝過ごさないでよかった」と胸をなでおろす次第である(笑)


「知覚の哲学:ラジオ講演1948年」モーリス・メルロ=ポンティ(ちくま学芸文庫)
たまたま「満月」が見えたから、またしても、「過越し」、「イースター」、そこに「パーム・サンデー」を加えて「聖書研究」となった
アル・ジャジーラ紙を読んでいたら、明日は「パーム・サンデー」だと書いてあった、それは、昨年、その日を期して、ある「テロ攻撃」が実行されたことについて語っている記事なのだから、またしても、見知らぬ「他者」に降りかかった不幸をきっかけとして、そのようなことを「知る」こと自体、「不謹慎」なことであるのは、おそらく間違いないが、しかし、考えてみれば、およそ「知る」という営み一般が、そのような性格を本来、帯びているのかもしれないではないか、ということにして、話を進める、・・・、上に書いたように、典故は、「ヨハネによる福音書第12章1~9」、「過越の祭の六日まえに」、「しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った」、日本語訳で「棕櫚しゅろ」とされているのが、英語では「Palm」、・・・、しかし、若干問題があって、素人なりの憶測を語れば、
1)「過ぎ越し」は、春分直後の満月、そこから遡った新月を、「ユダヤ歴」は新年と定める
2)太陽暦を採用したキリスト教は、この「ユダヤ歴」を参照するわけにはいかない、という判断があったのだろうか、「過ぎ越し」満月直後の「日曜日」を、「復活祭・イースター・サンデー」とした
3)したがって、「パーム・サンデー」は、上記「ヨハネによる福音書」の記述にもかかわらず、「過越」そのものの「六日まえ」ではなく、「イースター・サンデー」の前日、「聖土曜日」の「六日まえ」、になっている
ところで、そもそもユダヤ教が土曜日を、キリスト教が日曜日を、それぞれ「安息日」としている根拠は?
前回から引き続き、というか、改めて、「ブラック・ボーイ」と「アメリカン・ハンガー」、リチャード・ライトを、読む、・・・、「アドヴェンティスト」の関連で、「マルコムX自伝」も読み直す
で見たように、リチャード・ライトの祖母、マルコムXの母、がその熱烈な信徒であったところの「セヴンスデー・アドヴェンティスト」のように、「土曜日」を「安息日」とすることに固執する宗派も、存在するのであるから、・・・、今調べてみたところ、wikipedia日本語版「安息日」、によれば、「キリスト死後数百年も経てから」、「異教徒のローマ人」によって、土曜から日曜へと変更された、というのが、「アドヴェンティスト」側の主張であるらしい、・・・、これは、321年、これは当然「ユリウス暦」であるが、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の「日曜休業令」を指している、と思われる、・・・、また、「安息日」と「主日/聖日」が同じものか否かについても、宗派間で争いがあり、とりわけ、宗教改革期の、ルターもカルヴァンも、両者を同一視すべきでない、と主張しているらしい、・・・、
「主日」が、「日曜日」であることの典故は、(i)まず、「主の日/Lord's day」なる言葉が現れるのが、
「ヨハネの黙示録/Revelation」
1-10:ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。
1-10: I was in the Spirit on the Lord's day, and heard behind me a great voice, as of a trumpet,
そして、以下の重大な出来事、すなわち(ii)「主の復活」、(iii)「復活した主が弟子の前にあらわれた」、が生じたのが、いずれも「週の初めの日」と書かれていること、また、(iv)「ペンテコステ」、は「イースター・サンデー」から、数えて、ただし、「イースター・サンデー」自体を「1日目」として数え始め、「50日目」であるから、それは「49日後」であり、当然にも、同じく日曜日となる、ことを根拠としているらしい、
「マタイによる福音書/Matthew」
28-1:さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
28-6:もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。
28-1: In the end of the sabbath, as it began to dawn toward the first day of the week, came Mary Magdalene and the other Mary to see the sepulchre.
28-6: He is not here: for he is risen, as he said. Come, see the place where the Lord lay.
「ヨハネによる福音書/John」
20-19:その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20-19: Then the same day at evening, being the first day of the week, when the doors were shut where the disciples were assembled for fear of the Jews, came Jesus and stood in the midst, and saith unto them, Peace be unto you.
「使徒行伝/Acts of the Apostles」
2-1:五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
2-1: And when the day of Pentecost was fully come, they were all with one accord in one place.
上の「マタイ28-1」、「安息日が終って、週の初めの日」とあるのは、「使徒」たちはユダヤ人である以上、その「安息日」が土曜である、ことを当然の前提としているわけで、なるほど、「安息日」と「主日」は、少なくとも当初は別の概念であったことが想像される、
では、ユダヤ教の「安息日」が土曜日であることの典故は、
「出エジプト記/Exodus」
20-8:安息日を覚えて、これを聖とせよ。
20-9:六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
20-10:七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
20-8: Remember the sabbath day, to keep it holy.
20-9: Six days shalt thou labour, and do all thy work:
20-10: But the seventh day is the sabbath of the LORD thy God: in it thou shalt not do any work, thou, nor thy son, nor thy daughter, thy manservant, nor thy maidservant, nor thy cattle, nor thy stranger that is within thy gates:
「申命記5-12~14」も、ほぼ同じ内容と思われる

上の表は、去る5月8日、VE-Day、第二次世界大戦のヨーロッパにおける戦闘が終結してから75年が経過した・・・ある「ナチ党員」、への、手紙、から立ち上る、また一つの「悪の陳腐さthe Banality of Evil」/2020年5月アル・ジャジーラ、で、レムベルクLemberg、現・ウクライナのルヴィヴLvivの知事であった「ナチ党員」夫婦の、行動を追跡すべく、だから、1939年という年を選んだのだが、今年の版も、作ってみた、・・・、

・・・
「テルミドールの反動Thermidorian Reaction」、マクシミリアン・ロベスピエール失脚、が、「1794年7月27日/27 July 1794」、これが「革命暦2年、テルミドール9日/9 Thermidor II」
「ブリュメール18日のクーデターCoup d'état of 18 Brumaire」、ナポレオン・ボナパルトによる権力掌握、「1799年11月9日/9 November 1799」、これが、「革命暦第8年、ブリュメール18日/18 Brumaire VIII」
1848年の革命に対する反革命としての、ナポレオン3世のクーデターは、1851年12月1日から2日にかけて、・・・、これを題材にしたカール・マルクスの著作が、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日/Der 18. Brumaire des Louis Bonaparte」、ここでは、「義父」にあたるナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)による「クーデター」という故事にいわば「あやかって」そう呼んだわけで、そもそも「革命暦」は、1805年には廃止されているわけだし、ただし、1871年の「パリ・コミューン」後に短期間復活したそうである、・・・、実行の日付をあらわしたものではない、ということは、多分、高校の「世界史」で学んだころから知っていたと思う、・・・、ゴーリキー「イゼルギリ婆さん」、「クリミア戦争」とおぼしき記述があったことから、ナポレオン3世の名が浮かび、この際、「暦」ついでに、調べてみることにした、もちろん、「何の役にも立たない」ことは、言を俟たない、・・・、

「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」カール・マルクス(平凡社ライブラリー)
フランス革命暦calendrier révolutionnaire français
1)「秋分」を、「年」の始期とする
2)「月」は、一律「30日」、とする
3)30×12=360、であるから、5日、「閏年」ならば6日、「余る」ことになるが、それは、年末に集めて「休日」とする
4)「月」の名称は、農事、自然の風物、から採用されている
  1. 9月~10月・Vendémiaire:vendange(仏)/vintage(英)/(ブドウの)収穫
  2. 10月~11月・Brumaire:brume(仏)/mist(英)/霧
  3. 11月~12月・Frimaire:frimas(仏)/frost(英)/霜
  4. 12月~1月・Nivôse:neigeux(仏)/snowy(英)/雪
  5. 1月~2月・Pluviôse:pluvieux(仏)/rainy(英)/雨
  6. 2月~3月・Ventôse:venteux(仏)/windy(英)/風
  7. 3月~4月・Germinal:germination(仏)/germination(英)/発芽
  8. 4月~5月・Floréal:fleur(仏)/flower(英)/花
  9. 5月~6月・Prairial:prairie(仏)/meadow(英)/牧草地
  10. 6月~7月・Messidor:moisson(仏)/harvest(英)/収穫
  11. 7月~8月・Thermidor:thermo-(ギリシャ語)/heat(英)/暑熱
  12. 8月~9月・Fructidor:fruit(仏)/fruit (英)/果物

「6月~7月」が「収穫」、というのは、小麦のことだろうか?中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」(岩波新書)で見た記憶があるが、小麦の原種は、「秋播き小麦」、発芽までに低温期間が必要、春に発芽して、夏に収穫、小津安二郎の映画のタイトルでもある「麦秋」は、「麦」にとっての「秋」すなわち「収穫期」であって、「初夏」を指している、

さらにどうでもいいことであるが、上の「テルミドール反動」、「ブリュメール・クーデター」の日付を調べてみたいのだが、残念なことに、エクセル互換表計算ソフト、の「日付関数」の起算点は、1900年1月1日、それ以前には対応していないのだ、・・・、大げさだが、乗りかけた船だ、「ユリウス日」でやってみようか、・・・、月齢・干支付きカレンダー、も使って、日本の「元号」と「旧暦」も、ついでだから、・・・、それぞれの事件の直前の、「秋分」これは、9月20前後、としか決められないが、それを基準日として、「ユリウス日」から、日数差を算出、さいわい、一月は一律30日なのだから、それで除すれば、「商」から「月名」が、「剰余」から「日付」がわかることになろう、・・・、「テルミドール反動」が、「テルミドール9日」であるためには、その年、「グレゴリオ暦」上はその前年だが、の、「秋分」が9月21日でなければならず、「ブリュメール・クーデター」が「ブリュメール18日」であるためには、今度は、その年の「秋分」は9月22日であったことがわかる次第だ、・・・、ついでに、さらに無意味を重ねると、1851年のナポレオン3世のクーデターまで、「革命暦」が続いていたら、そのクーデターは、何と呼ばれたであろうか?「秋分」の日付によって一日二日の誤差がありうるが、「フリメール/霜の月、11日」クーデター、と呼ぶべきだったのである、・・・、「パリ・コミューン」時に、「革命暦」が復活されたというから、その蜂起初日は、どう呼ばれることになったのだろうか、「ヴェントーズ/風の月、28日」蜂起、というわけであった、・・・、











お食事がすんだら、ちゃんと身づくろいをして、そうして、屋上で遊びましょう。
おねえさん、おにいさんたちのうしろにこっそりついて階段を登って、おや、こんなところにごはんが出ているぞ?そうやって、うちの新たな「常連さん」になった、その「主人」が「ごちそう」の皿とか持って出てきたりすると、「脱兎のごとく」逃げ、でも、最近は、慣れてきて、ということはつまり、もう、そんなに、恐くはないかもしれない、と、「なめて」きて、「逃げる」のも、数歩だけ、いわば「儀礼的」に、「まだ、心を許したわけじゃ、ありません」と、念のため、表示しているつもりなんだろう、「主人」が背中を向けるや否や、おにいさん、おねえさんたちを、押しのけんばかりにして、お皿にかじりつく、「成長期」なんだから、食欲旺盛なのも当然ではあるが、そうして、こういう「経験」の積み重ねで、「大胆さ」と言うか、「怠惰さ」とも言えるが、が増大、この頃は、もう、目が合っても、逃げない、でも、もちろん、にこりともしない、ときには、唸り声を挙げさえする、そうやって、「なじんで」くれるのは、「愛薄く」育った(笑)、と少なくとも、思い込んでいる「主人」には、大変喜ばしいことなんだが、同時に、「愛の対象」を得る、ということは、そのまま、「失う」ことを、日々恐れ、「心配」しなければならない事態を引き入れることになる、ということを、もう、よく知っているから、「メランコリー者」のならいで、未来における確実な「絶望」を遡及させて、現在をも、憂鬱に彩る、ことになることも、もちろん「受け入れ」なければならないのです、・・・。












ヒカンザクラ(バラ科)

セイタカシギ(セイタカシギ科)

ヘビイチゴ(バラ科)、ルリハコベ(サクラソウ科)

キウリグサ(ムラサキ科)





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Last updated  2022.04.18 11:23:24



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