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ねこログ

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2023.10.10
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クラカケモンガラ(モンガラカワハギ科)

キヘリモンガラ(モンガラカワハギ科)

タテハモドキ(タテハチョウ科)

ウスバキトンボ(トンボ科)

シマツユクサ(ツユクサ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/新・「ねこログ」、総目次(笑)/続・「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:「ここでの生活は、毎日、自分が正常さを失わないでいるための闘いなんです」・・・「アル・アクサの氾濫」作戦をめぐる、いくつかの記事。/「『トラウマ』経験の受・け・渡・し・/passing on of trauma」などについての私見、そして、「あなたは、○○人と言葉を交わしたことがあるのですか?」、という問い。/「鎮め」られなければならないのは、「私たち」の方かもしれないじゃないか?・・・「大綱引き」と奉納芸能。/あちらを立てれば、こちらが立たない、などという事態、と、「うるま」、「いのー」、「ひし/干瀬」について。/ことのついでに、セイディー・スミス「ホワイト・ティース」から、「サティヤーグラハ」、そして、「焼きおにぎり鳥」(笑)と、「等倫」再論。/喋り続けさせておいたら(笑)、いくらでも「うんちく」はあって、・・・、「新北風/みーにし」とサシバの渡り、谷川健一、「サークル村」同人、「秋」に鳴く蝉、など。/「今宵は舊暦の十三夜、舊弊なれどお月見の眞似事に・・・」、旧暦九月の月。/海の「川蝉」とは、これまた、異なことをうけたまわる(笑)、・・・、「モズク」談義、など。/少しばかり、「猟奇的な」、ところがあるかも知れない(笑)、あなた、と、「ファーストネーム」をめぐる「トラウマ」(笑)。/



「終わりかな、と思ったら、泣けてきた」、という歌が、昔、ございましたね。




ハマフエフキ(フエフキダイ科)、モンツキアカヒメジ(ヒメジ科)



クラカケモンガラ(モンガラカワハギ科)



シロブチハタ(ハタ科)

アオスジスズメダイ(スズメダイ科)

ミナミダテハゼ(ハゼ科)、モンツキテッポウエビ(テッポウエビ科)

ミナミダテハゼ(ハゼ科)、モンツキテッポウエビ(テッポウエビ科)、キビナゴ(ニシン科)



キヘリモンガラ(モンガラカワハギ科)

マトフエフキ(フエフキダイ科)

フウライチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)
・・・
・・・

久しぶりに「陸(おか)」に上がったら(笑)、おや?季節が変わっていた、そんな、「プチ・浦島」みたいな感じ。


「擬く/もどく」者と、「擬かれる/もどかれる」者(笑)。


おや?、やはり「おひとりさま」だったのですか?


「重力」に盾突いて「二足歩行」などを選んだ祖先に、恨み言の一つも言いたくなる(笑)。

「浮力」の助けを借りて(笑)、泳ぐことならいくらでもできそうなんだけど、「老骨」は、近頃、歩くことさえしんどくなってきてね、「重力」に盾突いて「二足歩行」などを選んだ祖先に、恨み言の一つも言いたくなる。それでも、本当に久しぶりに、近所の遊水地に散歩に出かけたのは、こいつらが目的だった、遅れてやってくる、やや、人慣れしやすい、ありていに言えば「態度がでかい」(笑)、ハクセキレイが渡って来る前に、この、臆病で、「シャイ」ともいうべき、キセキレイの方の、写真を撮っておきたかったのだね、川沿いに歩いていると、たしかに声は聞こえるから、いるのはわかるが、なかなかチャンスがない、・・・、少し離れたところにある別の川べりの方にも、行ってみたのだが、やはり、ちらりと後姿がよぎったばかりで、収穫はなかった。こちらの足音を聞きつけて、そそくさと隠れる、でも、どこに隠れたかは、だいたい見当がついた、ほら、あっさり見つかって、「彼ら」も、照れくさそうじゃないか?いや、そんなことはないか(笑)。ともあれ、未練たらしく、再び戻ってきて、やっと、こんな風に、公園の手すりの上で、ゆっくりしているところを、カメラに収めることが出来た。あちこち探しあぐねて、家に戻ってみると、「幸せの青い鳥」は、そこにいた、というお話、モデルとなっている鳥が、何という種なのか、調査した記憶があるが(笑)、結論は、忘れた。「青い鳥」ならぬ「黄色い鳥」、ということで。「夫婦和合」のシンボルとされるくらいだから、なるほど、仲がよい、ハクセキレイの方も、よく似ていて、どっちがどっちかいまだにわからないのだが、多少は、雌雄のデザインに差がある、こちら、キセキレイの方は、まったくの雌雄同体のようで、さえずったりしてくれない限り、たとえばこの写真でも、区別はつけられないな。
・・・
「青い鳥」談義、ついでに、「オズの魔法使い」の歌に登場する「青い鳥」についても・・・
「メーテルリンクにおける植民地主義」、というようなタイトルには、しない
「サムホェア・オーバー・ザ・レインボー」、再々論
・・・

ウスイロコノマチョウ(ジャノメチョウ科)

アキノノゲシ(キク科)、・・・、「常夏の島」は、季節感が希薄、ではあるが、ほお、ちゃんと「秋」の花が咲いたではないか!

カバマダラ(マダラチョウ科)

アオタテハモドキ(タテハチョウ科)

タテハモドキ(タテハチョウ科)

オニタビラコ(キク科)、・・・、近縁種の、タビラコ(キク科)、は、「春の七草」の「仏の座」、なんだけど(笑)。

シマツユクサ(ツユクサ科)

ベニトンボ(トンボ科)

イソシギ(シギ科)

ハラボソトンボ(トンボ科)

ウスバキトンボ(トンボ科)

イソシギ(シギ科)





キセキレイ(セキレイ科)




(訳注)「ハダシュ」は、「平和と平等を求める民主戦線The Democratic Front for Peace and Equality」、イスラエル共産党Israeli Communist Partyを中心に、左派、ないし、極左派、のいくつかの政党からなる連合組織
(訳注)シェバ・ファームズは、ベイルートの南南東50キロ、ダマスカスの西南西、同じく50キロあたりの、レバノン―シリア―イスラエル国境地帯

レバノン、シリア、イスラエル、西岸、ヨルダン
(訳注)ロスキルデ大学Roskilde University:デンマーク、コペンハーゲン西方30キロの同名の町にある大学、1972年創立、世界的な「学生反乱」の時代に、従来の教育システムへの批判として、設立された、という歴史を持つ。この図面、ベルトルト・ブレヒトの亡命先を調べたときにつくったものだが、では、右上に切れてしまっているが、「Sjælland/シェラン島」と書かれているところの先に、コペンハーゲンとロスキルデが、右と左に並んで、ある

デンマーク
(訳注)ガザ地区、地図↓南西側、エジプト国境に位置しているのが、ラファRafah

(訳注)「シャティラ・キャンプ」は、ベイルート中心部から南方2キロほどの街区、サブラSabraに位置するが、1982年、マロン派キリスト教徒Maronite Christianの民兵組織「レバノン軍Lebanese Forces」が、イスラエル国防軍(IDF)の認証、黙認のもとに、パレスチナ人、シーア派レバノン人に対する虐殺を行った場所として知られている。「ブルジ・エル・バラジネ」は、それよりさらに南側の海岸沿いの街区で、1983年、「イスラム聖戦Islamic Jihad」、これは、かつて存在したシーア派民兵組織で、現在も、ガザ、西岸で活動している、ハマス同様「ムスリム兄弟団Muslim Brotherhood」系、つまりスンニー派の、「パレスチナ・イスラム聖戦Islamic Jihad Movement in Palestine」とは、無関係の組織、が、駐留中の、米海兵隊を中心とする、多国籍平和維持軍への爆破攻撃を行った場所は、この地区の近傍のように思われる。

ベイルート市街図
(訳注)この記事のトップの写真は、今年4月の、ブルジ・エル・バラジネ難民キャンプにおける、「エルサレムの日al-Quds Day」記念パレードの模様を示しているらしい。軍服姿の戦闘員たちは、パレスチナ解放人民戦線総司令部派(PFLP-GC)、のメンバーである、とのこと。
(訳注)ここに記されている年号、「1921」、「1929」、そして「1936」は、第一次世界大戦の戦後処理として、この地域が、国際連盟による委任、という形態をとったイギリスによる統治、「イギリス委任統治パレスチナMandatory Palestine(1920-1948)」の期間に含まれる。wikipedia「History of Palestine」によれば、1920年に、エルサレムで、ユダヤ人入植者との間に争闘があったこと、アラブ人の独立を求める政党「イスティクラルAl-Istiqlal」が、遅くとも1930年ごろには、創立されていたこと、の記述はあるが、「1921」、「1929」、が何を指しているのかは、不明にとどまった。「1936」は、1939年まで続いた、「パレスチナ人による大反乱Great Palestinian Revolt」を指していると思われる、ゼネストに端を発し、武装闘争にまで至ったこの闘いは、パレスチナ民族主義形成に重要な役割を果たした、といわれる。イギリス当局は、その反乱の弾圧に際して、無令状逮捕、戒厳令施行、拷問、住居破壊、村落全体に対する「連座制」による報復、など、今日イスラエルが採用するあらゆる手法を、すでに用いているようである。「1987」は「第一次インティファーダ」の開始を指しているのだろう、ガザ北部ジャバリアJabalia難民キャンプ付近で、パレスチナ人労働者が、イスラエル軍の軍用車両にひき殺された事件に端を発し、1993年の「オスロ合意」に至るまで継続した。「2000」は「第二次インティーファーダ」開始の年であり、これは、アリエル・シャロンが、アル・アクサ・モスクに立ち入るという挑発行為がきっかけとなった。2005年まで継続。
(訳注)Ngũgĩ wa Thiong'o(1938-)、1967年に出版された、英語で書かれた、最初の作品は、濃厚にフランツ・ファノン的なマルクス主義の影響が見られる、といわれる、その後、彼は、植民地主義者の言語として英語で書くことをやめ、ギクユ語Gikuyuでの執筆を開始、1976年に発表した戯曲の内容が、当時の支配者層の逆鱗に触れ、ダニエル・アラップ・モイ副首相が、彼の逮捕を命ずるにいたる、1978年の釈放後、彼とその家族はイギリスへ亡命、アラップ・モイが大統領の座を退いた2002年以降、ようやく帰国することができた。

Wrestling with the Devil: A Prison Memoir(2018) wa Thiong'o
(訳注)アル・アハリ・アラブ病院al-Ahli Arab Hospital、ガザ市ゼイトウンZeitoun地区、下の地図では、アル・アクサ大学の北東2キロくらいの場所のようである、1882年創立の、地域最古の病院で、元来は、英国国教会の宣教団によって開設され、現在も、同じく英国国教会(アングリカン)系のエルサレム・中東聖公会が運営している。
(訳注)「qahr」に該当するアラビア語の単語は見つけられなかった、素人の耳には「カーヘル」と聞こえる以下の言葉は、「権力者、征服者、火星」の意味のようで、同じ言葉かどうかわからない
قاهر
同じく今回の事態の中で、別の新聞に寄せられた在外パレスチナ人の投稿にも、「qahr」という言葉が用いられていて、筆者は、「該当する英語の訳語はないが、あえて訳すとすれば、『あまりにも巨大な不正義に圧倒されている状態』を指す」としている。以下の記事参照↓
To be Palestinian is to constantly have basic facts of your existence denied/Saeed Teebi
(訳注)アシュドッドAshdod、は、ガザ市とテル・アビブ―ヤッフォTel Aviv-Yafo、のほぼ中間、ガザから北北東20キロ、に位置する海沿いの町
バイト・ジルジャBayt Jirja、は、ガザ市の北東15キロに、かつてあった村、1948年の「ナクバ」で完全に破壊、無人化された、現在、グーグル・マップに問い合わせても、「そのような地名は存在しない」との返答が出る
(訳注)Gloria Jean Watkins(1952-2021)、ペンネーム「bell hooks」、アメリカ合衆国の、人種、フェミニズム、階級に関する多くの著作を持つ著述家
(訳注)「移行期正義/トランジショナル・ジャスティス」:ある地域で生じた、大規模な人権侵害事件に対して、司法過程、真相究明委員会の設置、賠償計画の立案、政治改革などを通じた諸方策をとること。古くは、ニュルンベルク裁判、東京裁判に遡りうるが、刑事責任追及の司法過程以外に、「真相究明委員会」を通じた、対話に焦点を合わせ始めたのは、1983年のアルゼンチン、1990年のチリのものを、その嚆矢とするようである。
(訳注)スレブレニッツァは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ東部、セルビアとの国境近くの町

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
(訳注)「リフューゼニクrefusenik」、英語の「refuse/拒否する、却下する」に、「~する人」を表わすロシア語語尾を付したと思われるこの言葉は、かつては、ソ連当局によって、出国、多くはイスラエルへの移住、を拒否されたソ連領内ユダヤ人を指す用語であったようだが、後には、ここでのように、イスラエル軍への服務を拒否する、「良心的徴兵拒否者conscientious objector」のイスラエル国民、を指す言葉に転用されたようである。
(訳注)「antisemite」を「反ユダヤ主義者」と、訳すことについて・・・この英単語、およびそれに類するヨーロッパ語を、字面通りに見れば、「セム系の人々への反感」を意味することになり、今日的な言語―民族分類に立脚すれば、「セム系Semitic」とは、アフロ―アジア語族Afro-Asiaticセム語派Semiticに属する諸言語、および、それを話す人々を含むことになり、ならば、そこには、ヘブライ語のみならず、アラビア半島起源のアラビア語、「アフリカの角」地域のアムハラ語、なども含まれることになるだろう、その言葉がどうして、「ユダヤ人」のみを特定して名指すものに変容したのだろう、と以前から疑問であったが、どうやら、19世紀中ごろ、ドイツの歴史家、ハインリヒ・フォン・トライチュケHeinrich von Treitschke、この人物は、後のナチの人種理論に、多大な根拠を与えたと言われているが、などが「ユダヤ人」排斥の論陣を張る際に、もっぱらこの用語を用いたことが由来となっているようである。この日本語の訳語には、しかし、そのような、いわば「誤用」の歴史も含めたニュアンスが失われてしまっているのでは、という感じは、依然として残る。

セム語派Semitic languages分布図
wikipedia英語版「Antisemitism」
(訳注)Denkverbot:「Denk」は、英語の「thinking」、「思考、考えること」、「verboten」は「verbieten/禁止する」、英語なら「forbid」、の過去分詞
(訳注)アダニア・シブリAdania Shibli:1974年、パレスチナ生まれ、英国ノッティンガム大学講師、ヨルダン川西岸地区のビルゼイト大学Birzeit Universityでの、非常勤講師も務め、ベルリンと、エルサレムを往復する生活を送っている。
Minor Detail(2017)/Adania Shibli
(「アマゾン」による紹介記事から)「些細なディテイル」は、1949年の夏の光景から始まる、パレスチナ人が、70万人以上が排除され、移住を強要された「ナクバ」の惨状を嘆き、イスラエル人が「独立戦争」の勝利を祝った一年後のことである。イスラエルの兵士たちが、パレスチナの少女に集団暴行を加え、殺害、砂漠に遺体を埋めた。それから多くの歳月が流れ、一人の西岸ラマラ在住の女性が、ほとんど「オブセッション/固執」と呼べる程度にまで、その事件、歴史の「些細なディテイル」に過ぎないその出来事に深い関心を抱くことになる。

(訳注)アニイ・エルノーAnnie Ernaux(1940-)、フランス、ノルマンディー生まれ、「BDS/ボイコット、資金引き上げ、経済制裁」運動を支持する活動家でもある
オルガ・トカルチュクOlga Tokarczuk(1962-)、ポーランドの左翼、フェミニスト作家、ポーランドにおける「反ユダヤ主義」、「人種主義」を批判する彼女の言論に対しては、同国の民族主義的右翼から激しい反発が起こっていると言われる
(訳注)ヤエル・ロネンYael Ronen、wikipedia英語版には、この名前でのエントリーはなく、Yael Renan(1947-2020)という、サルトルやジョイスの翻訳で知られる、テルアビブ生まれの著述家の項目はあるが、これは、別人であろう、一方、ユーズフ・スウェイドYousef Sweid(1976-)という、ハイファのキリスト教徒アラブ人の家庭に生まれたという俳優の項に、一時期、テルアビブの「カメリ劇場Cameri Theatre」の監督であるユダヤ系イスラエル人、ヤエル・ロネンYael Ronenと婚姻関係にあった、との記述があるから、この人物に該当するとも思われるが、それ以上の詳細は不明に終わった・・・(追伸)アマゾンで検索したところ、同名のイスラエル人の、比較法学者が存在することもわかったが、それ以外に、「ドイツ系イスラエル人劇作家German Israeli playwright」として、Yael Ronenが見つかった、記事で触れられている人物はこちらに間違いないと思われるので、以下にその紹介の抜粋を掲げる↓
ヤエル・ロネンは1976年、エルサレムに生まれた。ロネンの戯曲「第三の世代」は、ドイツ人、イスラエル人、そして、パレスチナ人の俳優たちによって演じられ、さまざまなフェスティバルに招請された。・・・「状況」は、彼女が、6人の俳優からなる集団と共に生み出した作品で、中東における政治状況を主題としており、「今日の演劇」誌の批評家による投票で、2016年を代表する作品として選ばれた。・・・
Yael Ronen was born in Jerusalem in 1976. Ronen's play Third Generation, featuring German, Israeli and Palestinian actors, was invited to numerous festivals. ... The Situation, which she developed together with the six-actor ensemble, negotiates the political situation in the Middle East and was selected by the critics in the annual survey from the Theater heute journal as the play of the year in 2016. ...
(訳注)モーサ・ピジャーデMoša Pijade(1890-1957)、セファルディム・ユダヤ人(イベリア半島由来のユダヤ人)の家庭に生まれる、経歴の中に、1948年、チトーを説得して、ユーゴスラビア在住ユダヤ人のイスラエル移住を許可させた、などの記述がある
・・・

(訳注)私見、というほどでもない、断片的な印象のようなものを、備忘として書きとどめておくが、「入植者植民地主義Settler-Colonialism」という言葉を初めて聞いたのは、やはり、パレスチナに関する報道記事だったと思う。「原住民」の労働力を用いて大規模プランテーションを経営すべく、少数の入植者が現地に居住、彼らは、いつでも「帰る」ことのできる祖国を持っている、というタイプの植民地主義とは異なって、もっぱら、「誰も住んでいない」土地を掠奪して、そこに本国から、大量の移民が流入、彼らは、すでに「帰る」べき祖国を持たない、「棄民」であることが多く、何世代にもわたって、その地に住み着くことになる・・・アルベール・カミュの「ペスト」を読んで、そこに、ほとんどただ一人の「原住民―アラブ人、ベルベル人」も登場してこない、という、異常な事実に初めて気付き、こんなことを考えるようになった、・・・、フランスが、アルジェリアを領有し始めるのは、1830年、当初の入植者の大部分が、1948年のパリを始めとする革命に決起して敗北した、プロレタリアートであったと言われる、カミュ自身の祖先も、それに近い時期に移住していたはずだ、最近、マルクスの「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」を読み返したのだが、「アルジェリアに送られた」とか、「流刑」といった言葉が、何度も用いられていた、・・・、あるいは、これも最近、山崎朋子「サンダカン八番娼館」と森崎和江「からゆきさん」を読み直したのだが、キリシタンの一揆に対する弾圧で疲弊し、貧困化した、天草、島原地方を出身地とする人々が、「からゆきさん」として、上海、シンガポール、ウラジオストック、等々へ、売られていった人々の圧倒的多数を占めていた、という事実も、このような文脈の中においてみると、違った色合いを帯びてくるかもしれない、・・・、アルジェリアのユダヤ人に関する記述があったが、これもカミュの「最初の人間」を読んだときに調べたのだが、フランス植民当局は、「原住民」たるアラブ人、ベルベル人をその居住地から追い出し、「入植者」のみからその人口が構成されるような都市を建設した、「ペスト」の舞台となるオランは、その典型だったと言われる、これに対して、その地のユダヤ人に関しては、かなり寛容な政策を採用していたようで、都市に居住することが許され、フランス市民権も与えられていたようである、たしかに、アルジェリア独立以降、これらの大部分が、イスラエルへ移住した、とも、どこかに書かれていた記憶がある、・・・、今回の事態について、ハマスの英雄的な決起を称賛するいくつかの記事とは異なって、これが目にとまったのは、ある種の「絶望」に満ちたそのトーンのせいであろう、「『トラウマ』経験の受・け・渡・し・/passing on of trauma」という表現など・・・スーザン・アブルハウァ「ジェニンの朝」には、「ナクバ」に際して、パレスチナ難民支援に駆けつけてきたカトリックの尼僧が、銃を構えたシオニスト民兵に向って語りかけるシーンがある、「あなたが今やっているのは、ほんの数年前、あなたたちを匿おうとした私たちの前に立ちはだかったナチスの兵士と同じ行為なのよ!」、イスラエルという国家は、「ユダヤ人」として、自らが受けた迫害を、「他者」の上にそのまま「転嫁」してみせる身振りによって、ここで言われている「暴力の持つ『カタルシス』的作用」を、反復強迫的に味わうことを、アイデンティティー、「国是」にまで祭り上げてしまった国家かもしれない、一方、「ヨーロッパ/西洋」は、「ユダヤ人」大量虐殺は、「ほかならぬ自分たちが行ったのかもしれない」、という「罪悪感」という、これまた「トラウマ経験」にとりつかれているように見える、今回のような事態の際に湧き上がる「イスラエル支援」の言論は、ほとんど常軌を逸した「ダブル・スタンダード」に根差しているように思えるから、そんな風に「診断」せざるを得ないように思われる。
関連記事↓
いずれにせよ、「描かれていな・い・」人たち、を探求する作業、という意味で、なるほど、「つながり」は、見えて来はしたのである・・・アルベール・カミュ「ペスト」を読む
60年前の、パリのサンミッシェル橋の事件、の記事から、アルベール・カミュの葛藤、「板挟み」に「身を寄せて」みること、「最初の人間」を読み、観る
「黒い皮膚・白い仮面」フランツ・ファノン
・・・
(訳注)また、誰も聞いていない「私事」を語ることになるが、「民族差別、人種差別反対」といった言葉を、長年にわたって口にしてきたにもかかわらず、自分自身の、いわゆる「生身の」、「生きられた」経験としては、「他民族」、「他人種」の人たちと、言葉を交わしたり、ましてや、「友達」になったりする、ことが、ほとんどなかったことに気付く、・・・、人間の「友達」自体が、ほぼ、いないのだから(笑)それも当然であろうが、・・・、あなたは、「黒人」と言葉を交わしたことがあるのですか?と問われれば、ただ一人だけ、思い出す姿があるのだが、それは、顔から火が出るほど恥ずかしい、むしろ検閲をかけたくなるような経験だ、「トロツキスト暴力集団」の巣窟(!)として聞こえた学生寮に住んでいたのだが、おそらく、「アフリカ連帯運動」に従事していた年配の学生活動家が、独立闘争のさなかの弾圧をかいくぐって、「亡命」同然の形で日本にやって来た人に、いわば「隠れ家」を提供した、といった事情だったのだろうと思う、西アフリカのある国の出身者だった、が、相部屋の居室の一つに、何か月か暮らしていた、・・・、彼がベッドで眠ろうとしているのに、私たちは、い・つ・も・の・よ・う・に・、その部屋で、浴びるほど酒を飲んで宴会をしていたのだ、「彼」は、ずいぶん我慢したのだと思う、ようやく、私たちには聞きとれない言葉で、なにか不満を漏らしたようだったが、とくに声を荒げることもなく、また、静かに横になった、・・・、「革命」を呼号する日本の「左翼」学生が、この程度のものなのか、と彼は、きっと失望したにちがいなく、不快な印象を、生き延びれていたとしたら、独立した祖国に持ち帰ったかもしれない、と思うと、いまだに、消え入りたいほど恥ずかしい、・・・、可能性としては非常に高いと思うのだが、彼は、「ムスリム」であったかもしれず、部屋に立ちこめる酒の匂い自体が、彼にとっては「暴力的」なものであったかもしれないのに、気づくことさえしなかったのだから。・・・、「ユダヤ人」と自ら公言している人には、一人だけ、知り合いがいた、20年前、辺野古が、まだ計画段階だった頃、環境保護運動の活動家の一人として、沖縄に来られていたのだと思う、プライバシーに触れることはしたくないので伏せておくが、彼女の「国籍」、つまり、どの国がパスポートを発給しているか、は、イスラエルではなかった、と思う、かなり流暢な日本語を話されたから、名護の東海岸の小さな村の公民館で開催された講演会などにも、まめに顔を出されていたので、会うたびに、多少の立ち話をするくらいの親しさにはなった、まだ、「SNS」などというもののない時代であったが、メールはしばしばやり取りしたし、彼女の参加する「メーリング・リスト」にも、加えてもらったのではなかったかな?、私がへたくそな英語で作ったウェッブ・サイトを、ご自分の知り合いたちに、伝えてくださったり、・・・、普段は、笑顔を絶やさない、柔和な印象の方だったけれど、今思えば、「第二次インティーファーダ」開始の、直後頃になる、彼女が、メーリング・リストへの投稿の中で、激しい調子で、イスラエル国家を非難しているのを見て、正直、衝撃を受けたのをありありと覚えている、・・・、「自己否定」などという用語をやすやすと口走ってしまう「時代」に育ったけれど、そのように、自己の「アイデンティティー」の根拠と、否応なく対立をきたしてしまうような、・・・、もちろん、彼女が、どこで生まれ、どこで育ったか、などは知り得ないから、望・み・さ・え・す・れ・ば・、ただちにその国籍を取得することができるであろう、イスラエル、という国に、どれほどの、「近しさ」を感じていたのか、は想像だにできないけれども、・・・、そんな「政治的立場」を、選択する、という行為に伴うだろう、苦痛や困難を、その行間から、はじめて感じ取れた気がしたからだろう、もちろん、その後私は、辺野古の運動から、逃亡したから、彼女とも音信不通になったけれども、こんな風にして、たとえば、この記事を読んだときなど、思い出してしまうのだ。




「夢」の中の出来事と同じように、「主体」と「対象」は、いとも簡単に入れ替えられてしまったりするものだからね。

もちろん「花火大会」みたいな人混みに、出掛けるわけはないさ(笑)、それでも、ボーン、ボーン、と音が聞こえ始めるとやはり心浮き立ち(笑)、カメラをぶらさげて、屋上へ駆け上る、・・・、花火の撮影、ってのは、難しいもんだね、カメラの「モード」の設定、とかに手間取っている間に、あっという間に、終わってしまったよ(笑)、・・・、明後日は、十月十日、恒例、那覇の「大綱引き」だ、その直前の日曜だから、綱引き会場にも近い、この、奥武山(おうのやま)公園で、花火、という段取りなんだと思われる、・・・、怪しい民俗学的う・ん・ち・く・(笑)を開陳すると、この「綱引き」も、たとえば京都の祇園祭なんかと同じ、暑気払い、夏に蔓延しがちな疫病を「払う/祓う」ことを目的とした、奉納芸能、なんだろう?現に、沖縄でも、他のいくつかの町では、もっぱら、八月、とか、夏の終わりごろに開催されるものなのだが、那覇だけは、十月十日、になっているのは、もちろん理由があって、1944年のこの日、米空軍の大部隊がこの町の上空に現れ、街区の大半が灰燼に帰すまでのはげしい爆撃を行った、たくさんの犠牲者が出た、・・・、その鎮魂と、戦後復興への希望を込めて、この伝統行事が、この日に移された、という事情だったんだと聞いた記憶がある。「死者の魂を鎮める」、というが、もちろん、その「名宛人」は、「生者」の方なのであろう、・・・、「夢」の中では、いとも簡単に、「主体」と「対象」が入れ替わってしまい、「能動態」と「受動態」が混同されることがしばしば生ずるが、それと同様、「鎮め」られなければならないのは、「私たち」の方かもしれないのである、・・・、とても「逆説的」なことだが、死への恐怖そのものが、「生者」をして、さらなる「殺害」へと駆り立てる、のかもしれない、「躁的防衛」というやっかいな心的メカニズムを考えれば、それは、とても、ありうることだ。およそあらゆる「儀式」、「神事」が、「死者」たちとの「和解」を目的として企図されているかのように見えるのは、そうでもしなければ、この社会を成立させている紐帯が、ほころびてしまう、うまく解決できたか否かはさておき、先人たちが、そのように考えた、ということの証なんだろう。
・・・
もともと各地の氏神では、稲作農耕の暦に合わせて、正月、春、秋と年三回の氏神様の祭りが定例だった。中世に入ると、大きい神社では梅雨を過ごした七月中旬に夏越なごしの祭りを行うようになり、これを加えて室町期には年四回の祭礼となった神社が多かった。
旧暦の六月に各地で催された御霊会は、「夏越しのはらえ」と呼ばれた。夏に流行する疫病を防ぐために怨霊の祟りを抑え、疫神の怒りを和める儀礼であった。
よく知られているのが京都・八坂神社の祇園御霊会(祇園祭)と、菅原道真を祀る大阪・天満宮の天神祭である。その祭りでは、神輿渡御しんよとぎょが行われ、山車だし曳山ひきやまを繰り出した。趣向を凝らした作り物や仮装を伴う群舞が奉納された。
夏に大量に発生する害虫の災禍を防ぐために、松明をともして鉦鼓を鳴らして、村はずれまで害虫と作り物の実盛人形を送り出す「虫送り」の行事も、やはり夏の民族芸能の一つであった。斎藤実盛は木曾義仲軍との戦闘で稲株につまずき討ち死。実盛の怨霊が稲の害虫になったという故事にもとづく民俗行事である。
「旅芸人のいた風景―遍歴・流浪・渡世」沖浦和光(河出文庫)



・・・



コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)



ヒレナガスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚

ヨコシマタマガシラ(イトヨリダイ科)、ニセカンランハギ(ニザダイ科)

ニセカンランハギ(ニザダイ科)

フウライチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)

ミスジリュウキュウスズメダイ、ルリスズメダイ(スズメダイ科)、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

ヤリカタギ(チョウチョウウオ科)

シチセンムスメベラ(ベラ科)・幼魚

スズメダイ科の一種、コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)

ノコギリダイ(フエフキダイ科)

ノコギリダイ(フエフキダイ科)、オジサン(ヒメジ科)

ホウライヒメジ(ヒメジ科)、コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)

コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)

ネッタイスズメダイ(スズメダイ科)、ミスジチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)

ネッタイスズメダイ(スズメダイ科)、ミスジチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)

ナメラヤッコ(キンチャクダイ科)、ロクセンスズメダイ(スズメダイ科)、ミスジチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)、コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)

スミツキトノサマダイ(チョウチョウウオ科)、ヒレナガハギ(ニザダイ科)・幼魚、ヤエヤマギンポ(イソギンポ科)、カザリキュウセン(ベラ科)、コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)

スミツキトノサマダイ(チョウチョウウオ科)

スミツキトノサマダイ(チョウチョウウオ科)、カザリキュウセン(ベラ科)、ホソエダミドリイシ(ミドリイシ科)

カンムリベラ(ベラ科)、ヨコシマタマガシラ(イトヨリダイ科)、ロクセンスズメダイ(スズメダイ科)

ヒレナガハギ(ニザダイ科)・幼魚

ハマクマノミ(スズメダイ科)、タマイタダキイソギンチャク(ハタゴイソギンチャク科)

ハマクマノミ(スズメダイ科)、タマイタダキイソギンチャク(ハタゴイソギンチャク科)、カザリキュウセン(ベラ科)

ハマクマノミ(スズメダイ科)、タマイタダキイソギンチャク(ハタゴイソギンチャク科)、クロスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚
・・・




ゴイサギ(サギ科)



チョウゲンボウ(ハヤブサ科)

シロオビアゲハ(アゲハチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)



モンシロチョウ(シロチョウ科)、ランタナ(クマツヅラ科)



ウスキシロチョウ(シロチョウ科)、ランタナ(クマツヅラ科)

アオアシシギ(シギ科)

タカブシギ(シギ科)

コチドリ(チドリ科)

ヒバリシギ(シギ科)

タカブシギ(シギ科)

ハマシギ(シギ科)

ヒバリシギ(シギ科)

手前、ヒバリシギ(シギ科)、奥、ハマシギ(シギ科)

ヒバリシギ(シギ科)、・・・、正直なところ、ここに掲げたシギ類の命名は、かなり、怪しい(笑)、太陽がまぶしいし、老眼だし、撮っているときは、ほとんど見えておらず、あてずっぽうでシャッターを押している、コンピュータの画面に並べてみて、ようやく、どうやら、おそらく、三種のシギ類と、一種のチドリ類が、写っていることが判明した、という次第なのだ(笑)、あまり鮮明に撮れていないこともあるし、この季節、まだ、「渡り」の初期であるから、必ずしも、この地で越冬するつ・も・り・の者たちばかりでなく、もっと南へ向う途中に、休憩と栄養補給に立ち寄っただけ、という、「旅鳥Passage Visitor」も含まれているだろうから、冬のあいだ見慣れたのとは異なる、珍しい種が含まれている可能性もあるし、加えて、繁殖期が終わったばかりだから、派手な「夏羽/婚姻色」から、地味な「冬羽」に、生え変わる途中の、中間的なデザインになってしまっているから、なおさら判別しにくいわけだ、胸のところに、まだら模様が見えるのがあるだろう?きっと、「夏羽」では、黒っぽい一色だったのが、「冬羽」の白、に変わりつつある途中なのだと思う、・・・、で、かろうじて識別した、その三種のシギ類、仮にA、B、C、と呼んでおくと、Aは、やや大きめ、くちばしが、長く、脚はオレンジ色、Bは、小さい、全体が灰色っぽく、くちばしは黒くて短い、Cは、Bと同じくらいの大きさで、くちばしも黒く短いが、羽毛の色合いは、茶色がかっていて、脚も黄色っぽい、・・・、これらを、図鑑の写真を眺め、説明の記事を読み、ひとしきり対応付けに悩む(笑)ことになるわけだ、あちらを立てれば、こちらが立たない、などという事態が生じ、めんどくさくて投げだしてしまいたくもなるが(笑)、別に誰に頼まれて鳥の写真を撮っている訳じゃない(笑)、そんなことで苛立ってどうする(笑)?気を取り直し(笑)、とりあえず、Aは、翼の模様が、やや特徴的に見えなくもないので、タカブシギ、Bは、おそらく間違いない、ハマシギ、Cが、一番怪しいのだが(笑)、似ているような気がする、という程度の薄弱な根拠で、ヒバリシギ、としておくのだ、間違っているにせよ、大げさに言うならば(笑)、「他者」に言及するには、暫定的であっても、「呼び名」が必要なのだからね。
・・・
琉球諸島は、十八世紀ごろから「うるま島」とも呼ばれています。「うるま」の語源については、「砂礫島」など諸説ありますが、私は次のように考えています。「うる」とは珊瑚礁が砕けてできた小石や砂のことです。宮古島では「砂川」という地名を「うるか」と発音しています。すると「うるま」とは、「珊瑚礁の間」、「珊瑚礁の島」という意味にも解釈できます。・・・
沖縄の海岸には、白いうるまの砂浜が発達しています。渚は「スーグチ(潮口)」と呼ばれています。この渚から、沖のリーフの間は「イノー」と呼ばれる遠浅の礁湖や礁池になっています。このイノーは、干潮のときは一メートルか五十センチメートル以下まで干上がります。海藻群落や珊瑚礁がよく発達しています。沖のリーフは「ヒシ(干瀬)」と呼ばれ、外洋からの大波はここでいったん崩れます。したがってヒシではいつも「スーバナ(潮花)」と呼ばれる白い波の花が咲いています。
リーフの外側は「フカトウ(深渡)」と呼ばれ、さらに深い所は「オードー(青渡)」と呼びます。それよりも外洋の海は「トゥケ(渡海)」と言います。・・・
「沖縄生活誌」高良勉(岩波新書)
・・・





ギンパラ(カエデチョウ科)
・・・

いつも「後ろ姿」ばかりでしたけど、今日は、こちらを向いてくださいましたね。






キセキレイ(セキレイ科)、・・・、いつも、逃げ去るところを、慌てて、追いかけて撮ることが多いものだから(笑)、もっぱら「後ろ姿」になってしまいがちなのだが、今日は、ほら、こちらを向いてくれましたね!

ミツボシキュウセン(ベラ科)

ブダイ科の一種、デバスズメダイ(スズメダイ科)

ヒレナガハギ(ニザダイ科)・幼魚

テングカワハギ(カワハギ科)、ホソエダミドリイシ(ミドリイシ科)

ハマフエフキ(フエフキダイ科)

シチセンムスメベラ(ベラ科)

ミスジチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)、ホソエダミドリイシ(ミドリイシ科)

スミツキトノサマダイ(チョウチョウウオ科)、スギノキミドリイシ、ホソエダミドリイシ(ミドリイシ科)

ヒレナガスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚、ホソエダミドリイシ(ミドリイシ科)

ヒレナガスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚、ヤリカタギ(チョウチョウウオ科)・幼魚、ホソエダミドリイシ(ミドリイシ科)

ヤリカタギ(チョウチョウウオ科)・幼魚、ホソエダミドリイシ(ミドリイシ科)

カンモンハタ(ハタ科)

ネッタイスズメダイ、ルリスズメダイ(スズメダイ科)、ヨコシマタマガシラ(イトヨリダイ科)・幼魚、ユビエダハマサンゴ(ハマサンゴ科)、後方に見えるのは、ダンダラトラギス(トラギス科)


「歯の根も合わぬ」、などと申しますが、・・・。








ユビエダハマサンゴ(ハマサンゴ科)、淡いブルーは、デバスズメダイ、黄色が、ネッタイスズメダイ、少し濃いめのブルーは、ルリスズメダイ、いずれもスズメダイ科、白地に茶色のストライプは、おそらく、テンジクダイ科の一種

ダンダラトラギス(トラギス科)
・・・




ショウジョウトンボ(トンボ科)、・・・、「赤とんぼ」の話をして、「本土」、「内地」、では、トンボ科のナツアカネ、アキアカネが、その歌に歌いこまれた「赤とんぼ」になるのだけれど、当地には、この二種は生息せず、こちらで「赤とんぼ」といえば、もっぱら、この、ショウジョウトンボ、になる、と口走ったので、では、その、ショウジョウトンボ、・・・、「猩々/しょうじょう」とは、伝説上の、酔払って顔が真っ赤な怪物(笑)、あるいは、実在の動物としては、「孫悟空」のモデルとも言われる、ハヌマン・ラングール、というお猿さんに比定されてもいるらしい、・・・、の写真を撮ろう、と思っていたところ、いざ、探し始めると、ちっとも見つからない、というのが世の習い(笑)、ごく最近、といっても、1980年代、以降、どこからともなく、おそらくもっと南から?渡ってきて住み着いた、といわれる、同じくトンボ科、ベニトンボ、ばかリが目にとまる、こちらは、羽の付け根も、オレンジ色に染まっているところが、おそらく、識別ポイント、そうして、ようやく今日、これは、海岸の防波堤のコンクリートだ、羽の付け根が赤くないから、多分(笑)そうだろう、ショウジョウトンボ、発見。


そのような「知識」は、もちろん(笑)、何の役にも立たなかったわけだ(笑)。






イチモンジセセリ(セセリチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)、・・・、沖縄には、バナナセセリとか、オオシロモンセセリとか、固有種がいくつかあって、「やんばる」に行った時、とか、何度か見かけることもあったが、これは、一番「平凡な」(笑)、イチモンジセセリ、前翅から後翅にかけて連なる白い斑点の列が、「一文字」、なんだろう、子供の頃からよく知っていた、「昆虫図鑑」アディクトだったから(笑)、多分、セセリチョウ科各種の識別ポイントとか、諳んじていたのだろうけれど、野山を駆け回るような子供ではなかったから、住宅地のごく近所でも、見ることのできるこの種しか知らなかったはずだから、そのような「知識」は、もちろん(笑)、何の役にも立たなかったわけだ(笑)。
せせる/挵る:とがった物でくり返しつつく、からかい、もてあそぶ、細かいことをあげつらう
:ロウ、もてあそ(ぶ)、「弄」の異字


「あなた、今、こっちを見たでしょ?」、とは言っても、別に、いわゆる「因縁をつける」わけじゃございませんから(笑)。






ハラボソトンボ(トンボ科)、・・・、こんなでっかい「複眼」、どこを見てるかわからない、と思っていたが、おお!こんな風に頭全体の向きを変えて、「こちらを見る」、ことができるのだね、もちろん、「こちらを見て」くださったのを知ったのは、あとから、コンピュータの画面で、引き延ばしてみてから、なんだけど。
・・・
で、「あなた、今、こっちを見たでしょ?」、で思い出したのだが(笑)、セイディー・スミス「ホワイト・ティース」、ノース・ロンドンの街路には、多様な「狂人Mad」が徘徊して、しかし、しばしば、深遠な「真理」を開陳してくれる、カリブ海の島嶼域出身とおぼしき「マッド・メアリー」、ブードゥーの導師、かも知れない、「黒人Black/アフリカ系市民」、が、「茶色い人/Brown」のベンガル人ムスリム、サマード・ミアー・イクバルと、あるいは、アイルランド系かもしれないカトリックの「白人」、ポピー・バート・ジョーンズの前に、ものすごい勢いで、近づいてくる、・・・、路上で、いわば「因縁をつけ」てくるきっかけの言葉が、
What you looking at?
大阪弁で言えば、「おんどれ、どこ見とんじゃ?」、洋の東西で、共通していることを知ったのだが、それを思い出した(笑)。・・・「マッド・メアリー」の、「WHAT'S DE SOLUTION?/どうやって解決するつもりなんだ?」という、もちろん、何ら答えなど求めていない修辞的な疑問文の体裁をとった「言いがかり」に、サマード・ミアーが、「狂人」以上に含蓄のある言葉で返すのである、・・・、
'Satyagraha,' said Samad, surprising himself with his own calmness.
Mad Mary, unused to having her interrogations answered, looked at him in astonishment. 'WHAT'S DE SOLUTION?'
'Satyagraha. It is Sanskrit for "truth and firmness", Gandhigee's word. You see, he did not like "passive resistance" or "civil disobedience".'
「『サティヤーグラハ』です」とサマードは言ったが、自分自身の冷静さに驚いたほどの口調だった。
「マッド・メアリー」はと言えば、問い詰めた他人から返答を受け取る、などということに全然慣れていないので、驚愕して彼を見つめるばかりだ。ようやく、こう叫んだ、「で、どうやって解決するつもりなんだ?」
「『サティヤーグラハ』です。サンスクリットの言葉で、『真実と堅固さ』を意味します。ガンディー先生の言葉です。御存じの通り、彼は、『受動的抵抗』だの、『市民的不服従』だのの言葉を、あまり気に入ってはいなかったのです。」
White Teeth/Zadie Smith
wikipedia「サティヤーグラハ」には、次のガンジー自身の言葉が引用されている、この言葉は、マハトマ・ガンディー(1869-1948)が、弁護士として、英領南アフリカに在住した時代、1893年から1915年まで、に、作り出した言葉だと言われている、・・・
But the movement was then known as passive resistance. As it was incomplete, I had coined the word satyagraha for the Gujarati readers. When I saw the title of Thoreau’s great essay, I began the use of his phrase to explain our struggle to the English readers. But I found that even civil disobedience failed to convey the full meaning of the struggle. I therefore adopted the phrase civil resistance. Non-violence was always an integral part of our struggle.
この運動は、「受動的抵抗」として知られるようになりました。しかしその表現は正確ではないので、私は「サティヤーグラハ」という言葉を、「グジャラティ」誌の読者のために作りだしたわけです。ソローの偉大なエッセイを読んだとき、私は、彼の言葉を使って、英語の読者にこの言葉の説明をしたのです。だが、「市民的不服従」という言葉さえ、闘いの意味を全面的に開示してくれるものではないのです。だから、私は、「市民的抵抗」という言葉を採用することにしました。「非暴力」であることは、私たちの闘いの不可分の一部ですから、それは言うまでもないことなのです。
Henry David Thoreau(1817-1862)、米墨戦争時のマサチューセッツ州に対する納税拒否運動を主張したことが、「市民的不服従」の思想の嚆矢とされる、「ウォールデン―森の生活」の著者であり、環境保護運動の先駆者、奴隷解放論者であるが、一方、「ティーパーティー運動」等保守派からも、自派の先駆者とみなされている、という。
・・・

アシブトヒメグモ(ヒメグモ科)、網を張っているのは、オオハマボウ(アオイ科)、の葉

グンバイヒルガオ(ヒルガオ科)


嘴の黄色い奴め!・・・「焼きおにぎり」鳥、クロニクル(笑)。














イソヒヨドリ(ツグミ科)、・・・、都会の、たとえば、ショッピングモールの立体駐車場、みたいなところでもよく見かける、だから、「都会」の「住人」なんだ、と思ってきたが、元来は、その名の通り、「磯」を好むのである、考えて見れば、「コンクリート」というのは、CaCO3、石灰岩と成分は同じなんだからね、ほら、ここでも、テトラポッドの積み上げられた防波堤のコンクリートにとまっている、ずいぶんそこでゆっくりしているみたいだが、どういう事情だろう?、ああ、嘴がまだ、黄色い、今年生まれた「子供」なんだ、そう思ってみると、「不安でいっぱい」、どきどきしている表情に見えるね、飛ぶのにまだ自信がないのかな?ずいぶん長い時間かけて、ようやく決断したように、すぐそばの木の上に飛び上がった、・・・、「生きづらい」世の中かもしれないけど、頑張ってね!なんて、私如きが言えることじゃないけど(笑)!川上未映子のどれかの小説に、「それから、名前知らんけど、よう見る、焼きおにぎりみたいな鳥」、っていう一節があって、「バードウォッチャー」になったばかりの頃だけど(笑)、きっと、こいつ、イソヒヨドリのことを言っているに違いない、と直感した(笑)、ね、おなかの模様が、そんな感じでしょ?



ウスバキトンボ(トンボ科)、・・・、で、当地、沖縄の「赤とんぼ」は、もっぱらショウジョウトンボなのであるが、よくあることだが、ショウジョウトンボも「赤い」のは、オスばかりで、メスは、黄色っぽい色をしている、他に、これ、ウスバキトンボ、というのが、これも、「本土」にも広く生息する、やはり、黄色っぽく、あまり簡単には区別がつかないようである、だから、そのどちらなのか、怪しいものだけれど(笑)、一応、こうしておく。


なんだか、訳もなく気分が盛り上がる(笑)のは、やはり、その「等倫を絶した」彩色のゆえであろうかね・・・「倫」は「人」、「等倫」は「同等のともがら」、比較できるような似たものが全然ないってこと。










カワセミ(カワセミ科)、・・・、十月中旬、旧暦九月初めの「新月/朔」の「大潮」、酔狂極まりない(笑)「シュノーケリング」の、帰りだから、もう、夕刻で、光が足りないけれど、いつものように、イソシギやキセキレイの姿を求めて、遊水池の堤のところまで、「点検」に行く、と、対岸のコンクリートの上に、何やら、オレンジとブルーの、丸っこいものが、鎮座している、というより、なにかが、置き忘れられたように、そこにあ・る・、じっと川面を見つめているのは、もちろん、魚影を探しているのだろうが、もう、一日も終わりだし、やや、お疲れでもあったのだろうか?(笑)、あまり、活発に動かない、あるいは、くつろいだ状態だったのだろうか、こちらが対岸で、うろちょろ動き回って、カメラをあちらこちらから向けては、シャッターを押しても、別に気になる気配がない、・・・、正面から見ると、しかし、なんだか、だるまさんのようにずんぐりとしてもいるし、今まで気づかなかったが、首のところに、毛の白い部分があって、サンタのおじさんの、髭のようにも見える、・・・。この鳥を見つけると、なんだか、訳もなく気分が盛り上がる(笑)のは、やはり、その「等倫を絶した」彩色のゆえであろうかね。
あの声あの飛び方の奇抜きばつなるは別として、その羽毛の彩色に至っては、確かに等倫とうりんを絶している。これは疑う所もなく熱帯樹林の天然から、小さき一断片の飛散とびちってここにあるものである。
「翡翠の歎き」柳田国男(「野草雑記・野鳥雑記」所収)
・・・

「新北風/みーにし」というのが吹くと、この「常夏」なはずの島も、「冬」になる、だから、もはや「酔狂」(笑)も、これまでか?


ネッタイスズメダイ、デバスズメダイ、ミスジリュウキュウスズメダイ(スズメダイ科)

デバスズメダイ、ルリスズメダイ(スズメダイ科)

コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)、ミスジチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)、クラカオスズメダイ(スズメダイ科)、キクメイシ科の一種

ミスジチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)、クラカオスズメダイ(スズメダイ科)

フタスジタマガシラ(イトヨリダイ科)



ヤシャベラ(ベラ科)

デバスズメダイ、ネッタイスズメダイ(スズメダイ科)

フウライチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)
・・・


毎年この季節恒例の、「どうして『北』が『にし』なのか」談義とか、「『残り時間』が足りるかどうかわからない」とかいうおなじみの「愚痴」とか(笑)。

もうしばらく前から、あの、「ぴっ、ぴゅいーぃ」、という、哀愁を帯びた声が、あちらこちらから聞こえてきたから、すでに渡って来ていることは知っていた、森の上空を、螺旋状に旋回して高く高く昇りつめる様も、見えたこともある、・・・、海岸沿いの国道の旧道を走っていたら、真上から、かなりの音量で、その声が「降ってくる」ではないか、しかも、「ドップラー効果」がかかっていない、ということは、電柱の天辺などにとまって、鳴き続けているに違いない、道路わきに車をとめ、しかし、うかつにドアの開け閉めの音などを立てれば、警戒して飛びたってしまいかねないから、狭い車内をもぞもぞ移動して、窓からカメラを突き出す、いったん去ってしまったものの、未練たらしく、待っていると(笑)、また舞い戻ってきてくれたりして、こうして、その、「猛禽類」らしい猛々しい(笑)口を全開にして、鳴いている姿は初めて見た、を、ゆっくり撮影することができたのだ。真っ青な空に、白いコントラストを演出してくれたのは(笑)、多分、この地区の、防災を兼ねた広報用のスピーカー、と思われる、「本日、〇時より、△△区公民館前におきまして、『エーサ―大会』が行われます」、とか言った放送が、海の上でも聞こえたことがあるな、・・・、サシバ(タカ科)、当地では、「新北風/みーにし」が吹けば、やって来る、と言われている、・・・、沖縄の中学生たちも、そう習うのかな?「『西高東低』の冬型の気圧配置」っていうだろ?でも、その表現もまた、度し難く、「『本土』中心主義」的、と言わねばならない(笑)、この「南」の辺境から見れば、中国大陸の「高気圧」も、太平洋沖の「低気圧」も、ともに、遠い「北」ということになるだろうからね、その、「西高」の方、高気圧だから、台風とは逆に、風が外へ噴き出す、海を渡る距離が短いから、乾いているんだそうで、それが、南西諸島方面に吹き込んでくる初めのものを、「新北風」と言い、だから、やはり、「冬」の到来を告げてくれるものなのだ、・・・、「本土」で夏の繁殖期を過ごしたサシバたちは、愛知県の伊良湖岬に集結し、「中央構造線」に沿って南下、鹿児島県の大隅半島佐多岬で、しばらく休息したのち、南西諸島の島伝いに、当地へやって来る、「越冬地」としての最終目的地は、宮古島や、その西隣の伊良部島であるらしい、沖縄本島と宮古島を距てる300キロの「絶海」は、渡り鳥にとって最大の「難所」だから、体力に自信のない者たちは、ここ、沖縄本島で、冬を過ごすことにもなるのだろう、おそらく、それらを指して、「うてぃだか/落ち鷹」と呼ぶんだと思う、・・・、喋り続けさせておいたら(笑)、いくらでも「うんちく」はあって、では、なぜ「北」が「にし」なのか?伊波普猷は、最晩年の著書「沖縄歴史物語」だったと思う、その当否の判断を留保したまま、ある学説を紹介していて、「にし」は「居にし」、つまり、かつて「居た」場所、を指し、日本本土の支配階級を形成することになった人々は、朝鮮半島から、九州北部を経て、奈良盆地に入った、だから、彼らの「居にし」土地は、「西方」にあるのである、・・・、琉球王朝を形成することになる人々は、九州沿岸部の「倭寇」に由来する海民だと言われており、だとすれば、今度は、彼らの「居にし」土地は、「北方」を指すことになって、辻褄が合うわけだ。沖縄の言葉で、東西南北は、「東―あがり」、「西―いり」、そして今見た「北―にし」、そして、「南―はえ」、最後のものは、必ずしも沖縄固有ではなく、海に暮らす人々の間では、広く、「南風」が「はえ」と呼ばれるようである、・・・、毎年、この季節には、同じ話を繰返すのだが(笑)、サシバの渡りについての知見を深めることになったのは、去年読んだ、谷川健一「神に追われて―沖縄の憑依民俗学」(河出文庫)、だった、・・・、水俣生まれのこの人の、弟にあたる人が、ついぞ読んだことはなかったけれど、「全共闘」世代の「アイドル」的存在だった谷川雁、そして、この人が中心になって組織した雑誌「サークル村」のメンバーに、「からゆきさん」の森崎和江、「苦海浄土」の石牟礼道子、がいたんだね、やっと今頃になって、その時代の、その土地の、「三池闘争」や「水俣病闘争」も含めた諸々の事柄のつながりに、焦点が合い始めた気がするよ、「残り時間」が足りるかどうかわからないけど(笑)、出来る限り、探究してみたい、と思っている、・・・、ところで、今、写真を編集しながら、初めて気付いたんだけど、ここに写っているサシバ、羽毛の色も鮮やかで、若々しい、とは思っていたが、くちばしの付け根、「黄色」っぽくないか?あるいは、この夏、「北」で生まれたばかりの「当年子」、初めての渡りを経験したばかりなのかもしれないね、だから、ちょっとはしゃいで(笑)、こんな風に、「ぴーぴー」子供っぽく鳴いてるんじゃないか?と納得したが、どうだろう?

















サシバ(タカ科)

猛禽類、分類表
なぜ、「北」、が、「にし」、なのか?何度もした話だけれども。
・・・

ツマベニチョウ(シロチョウ科)、ブッソウゲ(アオイ科)
・・・

この声も、まもなく、聞かれなくなるかと思うと、「未練」が残りましてね(笑)。

これは、リュウキュウマツ、であろうか、なかなか交通量の多い道路わきに植栽されている街路樹、だから、通り過ぎる自動車の騒音も拾ってしまっているけどね、さかんに声が聞こえるから、その、高い高い幹や枝を見上げて、鳴いている姿を探すのだが、うかつに近づくと、ぴたりとやんでしまう、そういう時は、きっと、蟹のように「横歩き」をして、幹や枝の裏側、こちらから見えない方へと、こそこそと(笑)隠れてしまうんだと思われる、そんなわけで、しばらく我慢したのだけれど、上を見上げ続ける作業は、「老骨」(笑)への負担が大きく、諦めて、「音」だけ採集することにした、・・・、クロイワツクツク(セミ科)、と申しまして、当地では、最も遅く鳴き始め、11月ごろまで、聞こえることもある、一番早いのが、同じく、その黒岩さん、という、まだ、琉球処分から程ない頃の、師範学校の先生だった人、の命名になる、クロイワニイニイ、これは、5月ごろから鳴き始める、こちらの方は、一度見たことがあるきりで、声にも、記憶がないな、・・・、クロイワツクツク、は、その名の通り、セミ科ツクツクボウシ属で、同属の、オオシマゼミ、こちらは、初めて聞いたときは、セミの声とは思わなかった、「けーん、けーん」というか「ひゅん、ひゅん」というか、そんな鳴き方なのだが、と、「里/山」で、住み分けているらしい、もう、あまり、「やんばる」の山の方とか、行かなくなったので、オオシマゼミの方の声は、長らく聴いてないな。というわけで、去年、同じ場所で、この時は、やはり首が痛くなったものの(笑)、見つけられたのだ、撮影したものを、「資料映像」として末尾に伏しておいた。
沖縄本島のセミの出現時期、黒岩さん、に関する調査、等々は、以下の記事参照(笑)↓



資料映像(笑)、去年の今頃のものだ、クロイワツクツク(セミ科)

沖縄本島、セミの出現時期
もちろん、それこそが、この「沖縄」という土地の、「とんでもなさ」、すなわち(笑)、「他者性」、への、忌憚ない賞賛の表現であることを、私は知っているから、そうやって、「難詰」されるのが、とても心地よかったのだな
秋に鳴き始めるセミの命名者に始まって、比嘉春潮、伊波普猷、謝花昇、「琉球処分」以降の沖縄史を瞥見することに。

まるで、虫取り網を携えた自身のお孫さんたちにでも話しかけるような、ごく自然な口調だったから、・・・。・・・これも、去年の今頃、同じ場所、この時は、かろうじて、その姿を発見できたのだ。




「十三夜」のお月見、翌「待宵」は「部分月食」、なにかとイベントの多かった旧暦九月の月、「狩人の月」、「血の月」。










旧暦九月三日の月、月の入二時間前







旧暦九月四日の月、月の入三時間前



旧暦九月五日の月、月の入一時間前



旧暦九月七日の月、南中

旧暦九月七日の月、南中一時間後

旧暦九月七日の月、月の入二時間前

旧暦九月八日の月、南中二時間後

旧暦九月九日の月、南中

旧暦九月九日の月、南中一時間後





旧暦九月十一日の月、月の出三時間後

旧暦九月十一日の月、南中一時間後



旧暦九月十二日の月、月の出三時間後

旧暦九月十二日の月、月の出三時間半後

旧暦九月十二日の月、南中

1旧暦九月十二日の月、南中二時間後

旧暦九月十二日の月、月の入二時間前
・・・

今宵は舊暦の十三夜、舊弊なれどお月見の眞似事に團子(いしゝ)をこしらへてお月樣にお備へ申せし、・・・。






旧暦九月十三日の月、月の出三時間後



旧暦九月十三日の月、南中二時間前
・・・
今宵は舊暦の十三夜、舊弊なれどお月見の眞似事に團子(いしゝ)をこしらへてお月樣にお備へ申せし、これはお前も好物なれば少々なりとも亥之助に持たせて上やうと思ふたけれど、亥之助も何か極りを惡がつて其樣な物はお止(よし)なされと言ふし、十五夜にあげなんだから片月見に成つても惡るし、喰べさせたいと思ひながら思ふばかりで上る事が出來なんだに、今夜來て呉れるとは夢の樣な、ほんに心が屆いたのであらう、自宅(うち)で甘い物はいくらも喰べやうけれど親のこしらいたは又別物、奧樣氣を取すてゝ今夜は昔しのお關になつて、外見(みえ)を構はず豆なり栗なり氣に入つたを喰べて見せてお呉れ、・・・
「十三夜」樋口一葉
・・・
旧暦八月十五日の「仲秋の名月」のみならず、その約一月後の、旧暦九月十三日の月、をも、「月見」として祝う習慣が、かつてはあったようですね。ここで、「母様」がおっしゃっているように、その二つの「月見」の、どちらかを欠かしてしまうのを、「片月見」といって、縁起の悪いものとして忌み嫌ったようです。「舊弊なれど」とあるように、この作品が書かれたのが、1895年/明治28年、「旧暦」から「新暦」への移行が、1873年/明治6年、だから、もう四半世紀を経て、旧暦行事も、急速に廃れつつあったのでしょう、同じく一葉の「大つごもり」(1894)は、その名の通り、大晦日の出来事を描いているが、もちろん、これは「新暦」、でも「つごもり」という言葉は、「月・籠り」、つまり、月が隠れる、「新月」を指すのだから、本当は、陰暦じゃないと、意味をなさないのだけれどもね。
二つ目の「月見」が、なんで「十五夜」でなく「十三夜」なんだろう?24時間を、「朔望月」29.5で割ると、約48.8分、「月の出」時刻は、日々、ほぼそれだけずつ遅くなっていく、だから、「十三夜」の月は、「十五夜」のより、一時間半くらいは、早く昇る計算になる、季節の方は、一月分、秋が深まっているのだから、「日の入」時刻の方は遅くなっている、ちょうど、同じくらいの空の明るさの中で、二つの月が昇るさまを見ることができる、ということにはなる、それが理由なのかどうかは知らないけれども。ちなみに、今年の「仲秋の名月」、および、「十三夜」の日の、那覇市における、「月の出」、「日の入」は、以下の通り。
旧暦八月十五日/グレゴリオ暦2023年9月29日:月の出18:22、日の入18:19
旧暦九月十三日/グレゴリオ暦2023年10月27日:月の出16:52、日の入17:52
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樋口一葉の「ファン」、そのチープな表現がふさわしい、文字通り「ファン」だ(笑)、になったのは、そんなに古いことではない、沖縄に来てから、「うつ」発病してから後、高橋源一郎「日本文学盛衰史」をきっかけにして、「明治」の作家ばかり集中的に読む時期があった、もちろん、これも一つの「検閲」作用であって、百年前に書かれた小説に没頭することで、何か、もっと生々しい、他のものを読・ん・で・し・ま・う・、ことを回避しようとしていたのに違いないけれど、・・・。一葉とほとんど同年代で、労働運動活動家、晩年は、「転向者」として生きることになるが、横山源之助が、この「十三夜」が書かれる年の秋、本郷丸山福山町の一葉宅を訪問した、ということが、日記などから、知られているそうだ、二十代前半の二人が、何を語り合ったのか?については、諸説あるようだけれど、その前年、一葉は、怪しい相場師の男に接近して、「妾になるのと引き換えに」であってもいいから、多額の金銭を引きだそうとした形跡があるらしい、私は、これらのエピソードがとても好きで、こんな風に「解釈」したい、と思っている、「たけくらべ」執筆の頃は、吉原遊郭の門前に住んでいた、引越したのちも、「銘酒屋」で働く女たちのために、営業用の手紙の代筆をしたりしている、・・・、相場師から引き出そうとした金銭は、「苦界」の女性たちの、「駆け込み寺」のようなものを設立する資金、と思い描かれていたのでは?、横山源之助と大いに話が盛り上がったというのは、そのような「ユートピア」的な「社会運動」への抱負を熱く語り合ったのでは?、そんな風にして、最晩年の樋口一葉は、この時、もっとも「社会主義」に接近していたのだ!、みたいな「物語」を、勝手に組み立てたがっているだけのことなんだけどね・・・。
「月の出」の頃は、空全体を、うろこ雲みたいなのが覆っていて、その隙間に、お月様が顔を出してくれるのを、屋上で、蚊に刺されつつ、・・・、カラスの「お友達」は、もう、森のねぐらに帰ってしまったみたいだしね(笑)、辛抱強く待たねばならなかった、中天に至ることには、ずっと晴れ間が広がったから、「月見」らしい雰囲気も盛り上がってきた、「團子(いしゝ)」は、ないけどね(笑)。写真は、最初の三枚が、月の出三時間後、あとの二枚が、南中少し前。
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樋口一葉(1872-1896)
横山源之助(1871-1915)
「明治維新」後、旧暦から新暦への「改暦」は、以下のように実施された、
明治5年12月2日(旧暦)―グレゴリオ暦1872年12月31日
明治6年1月1日(新暦)―グレゴリオ暦1873年1月1日

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旧暦九月十三日の月、南中二時間後

旧暦九月十三日の月、月の入二時間前
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旧暦九月十四日の月「待宵」、月の出二時間後

旧暦九月十四日の月「待宵」、月の出三時間後

旧暦九月十四日の月「待宵」、南中


「メランコリー親和型」にとっては、あらゆる「ニュース」が、あらかじめ、よからぬ「ニュース」なので(笑)。


4:55、左上が欠けている

5:14、もっとも大きく欠けた状態

5:41、欠けている部分が、次第に、左下へ移っていく

5:57、おや(笑)?もう「終わってる」はずの時刻なんですけど、まだ、左下が、少し欠けている

6:00、肉眼で見ると、もう、完全な、まんまるお月様なのだが、こうして写真にとると、まだ、左下が、やや黒ずんでいる

ほとんど「病的」、「偏執的」(笑)、ともいうべき「月見」アディクト(笑)、であるにもかかわらず、「ニュース」というものをまったく見ないし、「ニュース」を伝えてくれるような、人・間・の・(笑)「友達」もいないから、・・・、「メランコリー親和型」にとっては、あらゆる「知らせ」は、ことごとくよ・か・ら・ぬ・こ・と・の「知らせ」に、あらかじめ、決まっているので、「ニュース」には、耳をふさぐのである(笑)、・・・、たとえば、今夜、旧暦九月十四日「待宵」であるが、「月食」が生ずる、などということも、ちっとも知らなかった(笑)。眠りこけていて、老人は、「明け方」とんでもなく早くに目を覚ますものだ、おお、月が沈んでしまう!、と、カメラをつかんで慌てて屋上に駆け上がると、おや?、昨夜とは打って変わって、全天雲一つないのに、月の「左端」、うさぎさんの、お尻から、「臼」のあたり、・・・、くどいけど(笑)、柳田国男の受け売りを繰返しておけば、うさぎさんが手にしているのは、「縦杵」であって、回転によるモーメントを借りてより大きな破壊力を実現した「横杵」発明以前のものであるから、これでは、「餅を搗く」ことはできず、ここでうさぎさんが従事されている仕事は、「脱穀」なのである、・・・、「欠けている」ではないか!慌ててスマホを取り出して検索すると(笑)、本日の「部分月食」は、午前4:34頃に始まり、もっとも大きく欠ける、月の直径の約13パーセントが欠ける、のが、午前5:14頃、そして、午前5:53頃には、終わる、とのこと、・・・、たまたま、私が目を覚まして、屋上に駆け上がったのが、写真のタイムスタンプを見ると、ちょうど午前5時ごろ、すでに左上がかなり欠けており、「食」が最大となるとされる、午前5:14頃、には、左側中央部が、たしかに大きく欠け、そして、次第に、左下の方に移って、ふたたび丸い「満月」が、回復される、という次第であるらしいのだが、ちょうど沈む方向に残念なことに高層マンションが建っていて、うちの屋上からでは、そこまでは、追跡できなかった、肉眼では、もう、全円に見えるのに、写真に収めてみると、左下の端に、やはり、黒っぽい曇りが残っているのだな。
「月」というスクリーンに、映っているは、地球の「影」、その輪郭が、ぼやけているのは、「回折」現象と説明されるべきなんだろうか、障害物のサイズが、波長と同程度か、それより小さいときに、回折の度合いが大きくなる、といわれるが、ここでの「障害物」は、地球なのである、・・・、電球やろうそくの炎のような「点光源」だと、たとえば、障子に映した、狐の形を模した手指、とかの影は、実物より拡大される、光源が大きくなるにつれて、その拡大の度合いは減っていき、「平行光線」とみなせる段階で、実物大となる、月よりはるかに大きな地球の影が、月とほとんど同じ大きさ、というのはどういうことだ?、太陽という光源が、無限遠ともいうべき遠くにありながら、なおかつ、あまりに巨大だから、と解釈すべきなんだろうか?、・・・、こんな体たらくで、よくも、「物理の先生」でございます、なんてやってられたものだ(笑)、遅まきながら、顔から火が出る思い(笑)、・・・、気を取り直して、では、直径の13パーセントが欠ける、というが、それは、月全体面積に対する、欠けていない、光っている部分の割合、としたら、どのくらいなんだろう、賢い子供なら小学生でもできそうな(笑)、計算をしてみて、扇形の面積の導出など、まだ辛うじて、記憶に残っていることに、老人は少し胸をなでおろしているところ、・・・、結論は、92.36パーセント、であった(笑)。

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その「問い」に、答えることが出来た気がして(笑)、なんか、ちょっと、肩の荷が下りた気がする。

屋上に上がってみると、東の空の低いところの一角が、異様に明るい、まるで、その先に、ラスベガスだか何だか(笑)、大都会が広がってるみたい、まもなくあそこから昇るんだな、と分かったから、待ことにする。水平線や、山の端から、ではなくて、ビルの屋上から顔を出すなんて、あまり「風情」は、ないかもしれないが、やむを得まい、二度反復しているのは、「観測者」が高さを変えたからだ、最初は、待ち遠しくて、少し背伸びして、手をのばしてカメラを支えつつ、そして、二度目は、もう少し高くなった時点で、屋上の地面に据えた三脚の上から、・・・、「満月が昇るところを、あと何回見ることが出来るだろう?」、「シェルタリング・スカイ」の中のポール・ボウルズの言葉を、最晩年の坂本龍一が引用したわけだけれども、龍一氏は、「昇るところ」、とは言ってないけどね、・・・、「はいっ、これで、一回、見たよ!」、と、その「問い」に、答えることが出来た気がして(笑)、なんか、ちょっと、肩の荷が下りた気がする、なんでか、よくわからないけれども(笑)。


旧暦九月十五日の月、月の出二時間後

旧暦九月十五日の月、南中二時間後

旧暦九月十五日の月、南中三時間後


「昇る」ところを撮ったからには、「沈む」方もなくっちゃね!(笑)、それこそ、「片月見」になってしまうよ。または、「356回目の満月」。

国語辞典で「有明」を引くと、「十六日以降の月」、と特定してある、たしかに、日の出以降にまだ、西の空に残っている、ということが生ずるのは、太陽と月が、きっちり「交替」して出入りすることになるはずの「満月」以降であることが多いだろうけれど、月の出入りが、24時間を朔望月29.5で除した、約50分ずつ、きっちり遅れていく訳でもく、さまざまな要因があるようだが、一つには、出入りの「方角」も、また別の周期をもって変動するから、月が空に出ている時間も、それによって変わる、以前、ちょいと「研究」してみたことがあるのだが、結局わからずじまいになって退散した、・・・、そんなわけで、この「満月」、南中時の仰角も大きかったし、その「滞空時間」がかなり長い部類だったのだろう、ほら、もう、完全に明るくなっているのに、まだ沈まないのだ。・・・「満月」の前後になると、「昇る」ところを見なければ(笑)、「沈む」直前の「有明」も、・・・、と、ほぼ一晩中、「月様」に翻弄され、寝る暇もない(笑)、まことに「ルーナティックLunatic(月の/気のふれた)」と言うべきだ、・・・、なんでこんなに、「満月」に、偏執的にこだわっているのか?、・・・、「満月の夕べ」という曲を聞いたのは、神戸の震災から一周年に、長田神社の境内で催された復興イベント「つづら折りの宴」でだった、ソウル・フラワー・ユニオン、なんて聴いたことはなかったが、そのバンドのメンバーが、三線、アコーディオン、チャンゴ(朝鮮の太鼓)、など、持ち運びやすい楽器に持ち替えて、「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」と名乗り、被災地の避難所、テントめぐりの「出前ライヴ」をしているらしいことは、あちらこちらの電柱に貼られているチラシで知っていた、・・・、
風が吹く、港の方から、焼け跡をつつむように、おどす風・・・解き放たれ命で笑え、満月の夕べ
「満月の夕べ」ソウル・フラワー・モノノケ・サミット
正確にいえば、1995年1月17日は、旧暦12月17日、未明にその地で地震が発生したとき、おそらく西の空に浮かんでいたのは、前夜旧暦12月16日の「十六夜(いざよい)」の月だったことになる、林立するガスタンクに隣接した公園のテント村、その頭上に、ぽっかりと「満月」が浮かんでいるイメージが、今でも残っているのだが、私が、ほとんど何の役にも立たない無能な、「ボランティア」なるものの一人として、そこに足を踏み入れたのは、もう、二週間も後、「新月」の頃のはずだから、もちろんこれは、事後的に行われた記憶の、「改竄」、「偽造」なのである、・・・、その場にい・な・か・っ・た・こ・と・、本当は「被害」を受けるべきであったのに、自分だけが免れてしまったこと、もちろん、それが「事実」であるか否かは問わず、そのような「思い込み」が、「サヴァイヴァーズ・ギルト/生きのびた者の罪悪感」を構成する、・・・、「その場にいなかったこと」、が、「その日の『満月』を見・て・い・な・い・こと」、へと、代理的に象徴されることになったのでは、と、自分では「分析」しているのだが、もちろん、そんな、「精神分析」的粉飾を凝らした戯言が噴飯ものである可能性は高い、でも、ゆずれない「事実」は、ほかならぬ私自身が、そのように「解釈」されることを望んでいる、ということぐらいかな?
「エクセル互換表計算ソフト」は、その「日付関数」の起算日を1900年1月1日に定めている、すると、神戸の震災の二日前の「十五夜」は、シリアル値として「34714」、一方、昨日の「十五夜」は「45228」、その差「10514」を、平均朔望月29.503で除すると、ちょっと端数が大きいので気になるが、約356、を得る、この「月」は、あの「月」、私が見・る・こ・と・が・な・か・っ・た・あの「月」、から、「356回目の満月」、なのである。






旧暦九月十五日の月、月の入二時間前

旧暦九月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の出二時間後

旧暦九月十六日の月「十六夜(いざよい)」、南中二時間前







旧暦九月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の入三時間前「有明」

旧暦九月十七日の月「立待」、月の出二時間後

旧暦九月十七日の月「立待」、南中一時間前







旧暦九月十七日の月「立待」、南中二時間後「有明」

旧暦九月十八日の月「居待」、南中二時間前

旧暦九月十九日の月「臥待」、月の出三時間後





旧暦九月十九日の月「臥待」、南中二時間後「有明」

旧暦九月十九日の月「臥待」、南中三時間後「有明」

旧暦九月二十日の月「更待」、南中一時間前





旧暦九月二十日の月「更待」、南中一時間後「有明」

旧暦九月二十一日の月、月の出三時間後



旧暦九月二十一日の月、南中「有明」

旧暦九月二十一日の月、南中一時間後「有明」

旧暦九月二十二日の月、月の出三時間後





旧暦九月二十二日の月、南中一時間前「有明」

旧暦九月二十三日の月、南中一時間前

旧暦九月二十三日の月、南中一時間後「有明」

旧暦九月二十四日の月、月の出三時間後



旧暦九月二十四日の月、南中二時間前「有明」

旧暦九月二十五日の月、月の出三時間後

旧暦九月二十五日の月、南中三時間前「有明」



旧暦九月二十五日の月、南中二時間前「有明」

旧暦九月二十六日の月、月の出三時間後







旧暦九月二十六日の月、南中三時間前「有明」、翌日は明け方から曇天で、だから、旧暦九月の月、「狩人の月」、「血の月」は、これで見納めとなった・・・





海はもはや、その「中」に入って「親しむ」ものではなく、「外」から、幾分よそよそしく、「眺める」ものになってしまった季節。




イソシギ(シギ科)



キセキレイ(セキレイ科)

シロガシラ(ヒヨドリ科)


海の「川蝉」とは、これまた、異なことをうけたまわる(笑)、・・・。






















カワセミ(カワセミ科)、・・・、海の「川蝉」とは、これまた、異なことをうけたまわる(笑)、・・・、「カワセミ」の「セミ」は、「蝉」ではなく、「ソニ/青土」の音韻変化で、同科のアカショウビンの「ショウビン」も、同根だ、古い時代の和名は「そにどり/翠鳥/鴗」で、漢名「翡翠」は同じ色彩の宝石「ヒスイ」、・・・、ナトリウム、カルシウムなどの金属イオンを含む、ケイ酸化合物、に由来するが、その字を宛てるようにもなった、柳田国男の「翡翠の嘆き」のタイトルも、それを踏まえているのだね、という話は、前もした(笑)。で、通常、「川辺」にいるからそう呼ばれるようになったのだろうが、「海辺」にもしばしば現れることは、以前から知っていた、古代のサンゴに由来する巨大な石灰岩の突起部に、その「等倫(とうりん)を絶する」色彩(笑)、を初めて発見したときは、驚いたけどな、・・・、ここは、遠浅の砂浜で、モズクの養殖を行っているらしい、砂地に鉄パイプを突き立てて、そこに、目の粗い網を張り、これは、あるいは、「ゴーヤー」、つまりウリ科ツルレイシ、の蔓を這わせるためのネットかもしれない、そこに、モズクを着生させているのであろう。モズクは、褐藻綱シオミドロ目ナガマツモ科の海藻、これは、同じく褐藻綱のホンダワラ(ホンダワラ科)などの、大型の海藻に着生する性質をもっていて、それが「藻・着く」と、命名の由来になったのだろう、と言われている、ただし、「沖縄産モズク」の名で、広く食品として流通しているのは、同科であるが別属の、南西諸島固有種、オキナワモズク、だそうで、こちらは、他の海藻に付着することはなく、古いサンゴの群体などに着くらしい、・・・、そんな風に、モズクが密生していれば、当然、小さな魚たちが、そこを「隠れ家」にすべく集まってくるだろうから、捕食者であるカワセミにとっては、格好の「狩場」となるのであろう、だから、こうして、同じ場所に居続けてくれたから、こちらも、砂浜の上にどっかと腰を下ろし、何枚も、何枚も(笑)撮影することができたわけである、ちょうど、トンボみたいに、魚を捕らえるべく飛び立って、水面すれすれのところを「ホバリング」してきて、またほとんど同じ場所に戻ってきてとまる、という性格があるみたいだから、飛び去ってしまって、画面から消えても、慌てて追ったりせず、同じ向きに構えていると、また、ぴったり元の構図の真ん中に収まってくれる、ということもあるのだ、・・・、長らく、雲一つない晴天が続いていたが、今日は、久しぶりの曇天で、夜には、雨まじりの北風が吹いて、一段と冷え込み、「冷房器具」を持ったことのない貧乏人は、部屋の中では一年の三分の一くらいを「半裸」で過ごす(笑)のだが、ようやくシャツを引っ張り出してきたところだ。サシバ(タカ科)は、もう、とうに渡ってきているが、あるいは、これが「新北風/みーにし」ではないのか、と思ったくらい。つい一週間前までは、酔狂にも(笑)、海に潜ったりしていたなんて、信じられない気もする、海は、もう、「中」に入って「見る」ものではなく、「外」から、やや、よそよそしく(笑)、「眺める」季節になってしまったのだね。だから、光が足りなくて、あまり鮮明ではないが、それはそれで、さしもの、その「等倫(とうりん)を絶する」色も、ややくすんで、・・・、ちなみに(笑)、「くすむ」は和語のようで、漢字表記がないようである、それもまた、なんといいますか(笑)、「さび/寂」があってよろしかろう、・・・、「わび/侘」は、「茶の湯」で重視された美意識、「さび/寂」は、「蕉風俳諧」の理念、のちに、合わせて「わび、さび」と呼ばれるようになった、とのこと。
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「焼きおにぎり鳥」・クロニクル、続編・・・「鳴かぬなら」、ええ、もちろん、「鳴くまで待ち」ます(笑)。




イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)


天気がよくないと、さしもの「エメラルド・グリーン」のはずの海も、水墨画のごときモノトーンになってしまう、いや、「水墨画」って、見たことないんだけどな(笑)。






キョウジョシギ(シギ科)

コサギ(サギ科)

ダイサギ(サギ科)

キョウジョシギ(シギ科)

コサギ(サギ科)





ダイゼン(チドリ科)

キョウジョシギ(シギ科)

ダイゼン(チドリ科)



キョウジョシギ(シギ科)

ダイゼン(チドリ科)



コメツキガニ(スナガニ科)



イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス





アカモズ(モズ科)、・・・、二十年になんなんとする(笑)、「バードウォッチャー」歴(笑)、の中で、二三度、見たことがある、だが、そのうちのほとんどが、梢にとまっているのを、「シロガシラかな?珍・し・く・も・な・い・けど、まあ、一応撮っておくか」、なんて、シロガシラ(ヒヨドリ科)に対しては大変失礼な(笑)心構えで、シャッターを切り、あとで写真を再生してみて、大変珍しい(笑)、・・・、私にとって「珍しい」だけでなく、「冬鳥」として当地に渡ってくる個体数自体が、そう多くはないらしい、鳥であったことに気付く、せっかく目撃しているのに、その瞬間の姿、つまり「アウラ」として経験することができなかったことに、悔しい思いをしたものだった、今日もそうだったな、・・・、言わずもがななことだが(笑)、ここは、米軍基地の敷地で、被写体と撮影者との間には、有刺鉄線を冠したフェンスが横切っている、皮肉な事実なのだが、広大な基地のうち、軍事的に枢要な施設、などというものは、面積としては、ごく小さな割合しか占めておらず、あとの敷地は、まさに、「手つかず」の自然、亜熱帯の旺盛な植生が繁茂するままに放置されているらしいので、自然と、「野鳥の楽園」と化すのである、だから、カメラの液晶画面で、おお、これは!と気づいて振り返ってみても、もう、そいつは、もちろんフェンスの向うの、どこか深い茂みの中に、飛び去ってしまっている、という次第なのだ。大阪に、そんな地名があるから、「百舌鳥」と書いて「モズ」と読むことは、知っていたが、「百種類もの」別の鳥の鳴き声をまねることが出来る、という意味なんだそうだ、ということを、今日初めて知ったが、もちろん、そんな「出会い」しかしていないのだから、鳴き声を聞いたことはない。




少しばかり、「猟奇的な」、ところがあるかも知れない(笑)、あなた。

うちのベランダに現れて、まるで、もう何年来の「知己」(笑)であるかのように、親しげに近寄ってきてくださったのが、写真の日付を見ると、もう、三週間ばかり以前なのだね、以来、声がするたび、・・・、いや、鳥の鳴き声で「個体識別」することになろうとは思わなかった(笑)、部屋の中のうちの猫さんたちなら、問題なく、声が聞こえただけで「誰」なのか、特定できるのだけど、・・・、ベランダに出てみるものの、姿は見えず、まあ、元気にしているんだろう、と、一応安心、やや「寂しく」感じているところもあった、・・・、人間の「友達」のいない(笑)独居老人は、こうしてなじんでくださるのはうれしいのだけれども、なにせ、相手が「鳥類」というのは、初めてのこと(笑)であるから、どう対処してよいのかわからず、しきりにくちばしで突っついてくるのも、「親愛の情」の表現なのかもしれないが、子供の頃にテレビで見た、ほとんど覚えていない(笑)ヒッチコックの映画を思い出したりして、ちょっと「恐怖」感もあって、腰が引けてしまう、・・・、子猫にするのと同じように、そこら辺の小枝や草の茎を拾って、頭の上あたりにかざしてやれば、子猫ならば、「手」、いや、「前足」か(笑)、を出してきて、飛びつこうとする、カラスならば、「くちばし」で、咥えようとする、そんなところは、そっくりなので(笑)、しばらく、遊んであげる、いや、遊んでくれているのかもしれないが(笑)、ことはできる、そのうち、飽きてしまったのか、ぷいっと、どこかへ去ってしまうのも、猫と同じ、だが、「翼」を持った生き物であるだけに(笑)、「今頃、どこにいるのかしら?」などと思い浮かべようとしても、三次元的な広がりを持ってしまうので、うまく想像することができない、・・・、旧暦九月十一日の月が、東の空にぽっかり浮かんだところの写真を撮ろうと、屋上に三脚を立てていたら、音もなく(笑)、また、ふらりと現れて、なにごともなかったかのように、近寄って来る、「子供」の特性だろうが、いろいろなものに「興味」を示し、くちばしで突っついてくる、カメラを突っつかれても困るので、代わりに(笑)、右腕を差し出すと、前回同様、ぱくりと、食いついてきて、つまもうとする、まさか本気で食いちぎろうとしている訳ではなかろうと思うものの、まったく痛くない、と言えば嘘になるし(笑)、やはり、不気味で怖い、という気持ちも、依然として残る、おやおや、軽く振り払おうとすると、今度は、翼を開いて、ふわりと、その右腕の上に、飛び乗って来たではないか?・・・だから、これは、しゃがみこんだまま、右腕にカラスをのせつつ(笑)、ご覧のように、猛然と咬みつかれつつ(笑)、左手で、手探りでカメラの操作をしているのである、まあ、それにしては、よく撮れているであろう?・・・クロード・レヴィ=ストロースの、最晩年の頃なんだと思う、スナップ写真を見たことがあって、肩に、猛禽類、サシバなんかよりずっと大きいの、を一羽、のせたまま、柔和に微笑んでおられる、「かっこいい」、と思った(笑)、よかったじゃないか、「師の衣鉢を継ぐ」ことになって(笑)?
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The Birds(1963)/Alfred Hitchcock


今日も、窓の外から、あたりはばからぬ大声で、呼・び・出・さ・れ・る・(笑)。

かぁーあっ、かぁーあっ、って(笑)!あの家の、「不審」な独居老人は、のら猫たちに餌を出すだけでは、飽き足らず、今度は、カラスまで飼い始めたのか?・・・なぁーんて、ご近所からまた一層の顰蹙を買いかねないことを恐れる小心者であることを(笑)、まるで、ちゃんと見抜いているかの如き振る舞いではないか?今日も、そうして、しばらく、遊んでもらいましたよ、もう、私の右腕は、くちばしで突っつかれて、傷だらけですよ(笑)、うっかり振り向いたら、背中に飛び乗って来て、耳たぶをかじられました、さすがに痛くて(笑)、大声を出してしまったじゃないか!






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「今日の『カー君』」、なんてタイトルは、趣味ではないのだが(笑)、それも、ある種の、「和解」の身振りだとすれば、また、よし、ということで。

沖縄に来て、予備校講師みたいなことを始めて、最初に驚かされたことの一つは、生徒同士はもちろん、教師が生徒を呼ぶ時すら、「ファーストネーム」を用いていることだな、そんな「馴れ馴れしい」振る舞い、とてもできそうになかったから、自分だけは、律義に苗字に「さん」付け、にしていたけど、あるいはこれもまた長きにわたる「米軍占領下」で「アメリカナイズ」された名残りに違いない、などと当時は思い込んでいたが、それもどうだか怪しいものだ・・・出席簿を見れば一目瞭然、王朝時代の「士族」階級では、自分の「領地」の地名がそのまま苗字になったからだ、という話も聞いたが、苗字にされる「語彙/ボキャブラリー」がきわめて限られていて、たとえば、「比嘉」さんや「宮城」さんなど、同じクラスに数人いることだって珍しくないのだから、なるほどこれでは、「ファーストネーム」で呼ばない限り識別できないことにはなってしまうだろうな・・・でも、今になって胸に手を当ててみれば(笑)、これもちっとも「カルチャー・ショック」なんかではなくて、あくまでも「パーソナル」な、それこそ「幼少期トラウマ」に根差した「違和感」だったかも知れない。自分の「ファーストネーム」が、子供の頃から、非常に嫌いだった、そうなると、もちろん、それは、そのように名付けてくれた人たち、両親との関係の齟齬、失敗、を、疑わざるを得なくなるだろう?私の父親は、北陸地方の、真宗大谷派寺院の長男で、京都の大谷大学で教学を学び、僧侶となって「跡を継ぐ」ことを当然に期待されていたにもかかわらず、これを拒み、「学問」の道をめざすと言って、植民地下朝鮮の、京城帝国大学に進学してしまった。こんな「気まぐれ」、「わがまま」によって、自分たちの人生計画を大幅に変更しなければならなくなった次男以下の兄弟姉妹たちが、長兄に対して面白からぬ感情を抱き、そのはけ口が、同じく京城、現・ソウル、で学校教師をしていたから出会うことになったのだろうか、私は、彼らの「馴れ初め」などというものを、何も聞き出そうとしなかったから、はっきりしないが、後に妻となる私の母へと、「転嫁」され、めぐりめぐって、父母の夫婦関係の「冷却」、「破綻」、あるいは、母親の、私の素人診断だけれども、明白な「うつ病」発症、を帰結した、ということがあったとしても不思議ではないだろう。で、私の「ファーストネーム」であるが、父が「青春」を過ごした朝鮮半島のどこかに、その字で表されるとても風光明媚な土地があったそうで、それにちなんで、選んだのだ、と聞かされた。なんだ、それは?世の中には、子供の将来の、出世なり栄達なり、幸運なりを願い、しばしば過剰ともいえる思い入れを込めて子供を名付ける親がたくさんいるというのに、あんたはといえば、自分の「青春」とやらを、ただ、人の名前に投影させてみただけなのかい?・・・プチ・「紅衛兵」、プチ・「全共闘」、みたいな子供は、「マサシクゥ、ソノヨウナァ、植民地主義ヲ礼賛スルいでおろぎーヲォ、断固トシテ粉砕シィ」、アジ演説みたいな言葉使いで、詰りたい気持ちだった。もちろん、今は、少し違う考えを持っていて・・・古山高麗雄、という作家は、朝鮮半島の付け根、中国国境に近い新義州という町で、日本人植民者の家庭に生まれている、彼の親は、その地が、永久に日本の領土であり続けることを少しも疑わずに、そんな名前を選んだのであろう?それはそれで、仕方のないことだ、とも言える、なんといっても、「名前」というのは、呼・ば・れ・る・者、ではなく、呼・ぶ・者の側の「利益」のために存在しているものなのだからね、一方、自分の子供、とりわけ、男子の家督相続者に、非常に立派な、めでたい、麗々しい文字を並べて名付けるのは、「武家」支配階級の習慣がのちの時代に一般に拡大し、資本主義下の「核家族」にまで引き継がれたもの、かも知れず、そうではない「庶民」は、「太郎」、「次郎」なんて、ほとんど一般名詞、「順序数」ではないか、その程度の、「識別記号」をもってよしとしていたはずなのである・・・ごく最近になって、もちろん両親ともに鬼籍に入ってからずいぶんのちに、ようやく、その、私の「ファーストネーム」の由来になっている土地が、一体どこにあるのか?グーグル・マップで(笑)、探してみる気になった、てっきりソウルの近郊だと想像していたので、同名の土地が何か所かあるのだが、結局断定することはできなかった。またしても、素人が「精神分析」のまねごとをもてあそぶことになるが、自分の「ファーストネーム」をこれほどまでに毛嫌いしてきたのは、そのような、いわば「やる気のない」(笑)名付け方をした父親に対する「憎悪」に淵源するに相違ないが、一方で、私は、「親に愛されなかった子供」という「物語」を組み立てる際の、「補強証拠」として、それをちゃっかり(笑)、利用しているわけである。もちろん、内田樹の言うとおり、人間は、重要な事柄に限って、「因果」を逆転させてしまうのであって、同様に、受動態と能動態も容易に混同される・・・「愛さ・れ・なかった」といい募ってみせるのは、「愛せ・なかった」ことを隠蔽するための「躁的防衛」だったかも知れないのだ。・・・「親に愛されなかった子供」の「物語」が、必要とされたのは、私自身の、「うつ病」からの、「回復」でないまでも「馴致」の過程であって、身体も動かないほどの無気力、耐えがたい不快感、等々が、たんなる、よくある「病気」の一症候にすぎない、と認定してもらえることが、当初は、まず何よりの「救済」であったから、精神病院に通うことが、ほとんど「楽しみ」でさえあったが、その「幸福」な(笑)一時期が過ぎると、今度は、どうして、私は、こんな病気に罹らなければならなかったのか?を、否応なく問い詰められる段階がやってくる、自分の生き方が「間違っていた」、それは認めよう、だが、そのすべての「責め」を自分で背負いきるのがつらくなった時、耳元で囁いてくれるのが、「アンタハチットモ悪クナイ、ミンナ○○ノセイナノダヨ」、という声なのだ、「○○」には、およそ、あらゆるものを「代入」することが可能だ、こうして、しばしば、「幼少期トラウマ経験」が、遡及的に、「発見」されることにもなる。私は、「二十四節季」の「大寒」、一年で一番寒い日だ、のあたりに生まれた、当時、そろそろ、裕福な階級の間では、「病院で出産する」というのが一般化し始めていたのかもしれないが、うちでは当然に、借家の一室で、助産師さん、当時は「産婆さん」と呼んでいた、に来てもらうことになっていた、明け方、産気づいた母は、かたわらで寝ている父を揺り起こし、「産婆さんを呼びに行って!」と懇願したにもかかわらず、その日はとりわけ冷え込みが厳しく、父は、ぐずぐずと布団から離れようとしなかった、もちろん、これは母サイドの証言である・・・うちにはまだ電話などというものはひかれてないし、朝早くだから、近所の家で借りることもできない、「産婆さん」の家まで、走って呼びに行くしかなったのだな。そうこうするうちに、結局、私は、「産婆さん」の到着を待たず、自力で(笑)、母の産道を這い出して、この世の最初の光を浴びることになった。それ自体は、いわゆる「結果オーライ」であるから、ちょっと笑える「いい話」なのである、だが、母は、この話を、私の誕生日がくるたびに、執拗ともいえるほどに、繰返した、夫婦関係は、すでに「冷却」していることは子供心にもわかっていて、「会話が弾んだ」ためしなどない食卓に、その話題が提供されると、父も笑ってやり過ごそうとしていたみたいだけれど、子供心にも、笑えない「異物感」が残った。この話を執拗に反復することで、母が伝えようとしていた「メッセージ」が、「だから、あなたは、お父さんに、愛・さ・れ・て・い・な・か・っ・た・のよ!」というものであることを、当時から、うすうす勘付いていたような気がするが、今度は、私の方が、同じ話を、自分の誕生日が来るたびに、老境に達した今に至るまで(笑)、執拗に、思い出さされることになってしまった。もちろん、私もまた、そのエピソードを、「親に愛されなかった子供」論の、有力な「証拠」の一つとして、ちゃんと「計上」してきたのだ・・・なんでこんな話になったの?(笑)、今日も、また、ベランダから、あたりかまわぬ大声で、呼びつけられる(笑)、のら猫に餌を出すだけでは飽き足らず、今度は、カラスまで飼い始めたのか?などとご近所に思われてしまうことを、小心に恐れていることを、見抜いているかの振舞い(笑)、今度は背中に飛び乗られて、背後から耳たぶをかじられた(笑)が、それでも、「友達のいない」老人には、この訪問が、嬉しくて仕方ない、そうなると、やはり呼び名が必要であろう?「カー君」、などという凡庸な、芸のないものしか思いつかないことに苦笑を禁じ得ず、「名前」談義になった、もちろん、これだけ愚にもつかぬ話を並べなければ気がすまないのは、この話題自体が、ほかならぬ私自身にとって、「トラウマ」的なものになっているからなのであって、「かーくん」、「まーくん」、「たーくん」、そんな感じの、いやが上にも仲睦まじい「親子関係」、を表象するかの如き名付け方に、私は、強くあこがれている(笑)からこそ、その裏返し、強く憎悪することにもなっているのは、見やすい道理だ。だったら、いいじゃないか?「カー君」にしときなよ、そう呼ぶことが、ある種の「和解」の身振りになるかもしれないじゃないか?「誰」と「和解」するつもりなのか、よくわからないけれども(笑)。
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しばらく姿を見せてくれなかったから、しても仕方のない(笑)「心配」をしていたのだが、今朝、ベランダに出てみると、さまざまなものの位置が変わっていて、誰かが「乱暴狼藉」を働いたことは明らかであった(笑)、とりわけ、食べ散らかした猫用のエサ皿が、雨に濡れないように設置した、ベニヤ板の「屋根」から、引き出されている、このヴィデオにも出てくるように、なんと、こいつ、そう「カー君」(笑)、くちばしで、お皿を手もとにまで引きずってくることもできるのだ!、じゃあ、元気にしているんだね、よかった、と胸をなでおろしていると、その瞬間、ふわりと、音もなく飛来、待たしばし遊・ん・で・も・ら・う・ことになった、あるいは、「反省」したのか(笑)、あるいは、単に飽きたのか、ようやくかさぶたが固まり始めた私の腕を、突っつくことは、少し控えてくれたようである。






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「くちばしの黄色い奴」ではなくて、「喉の奥が赤い奴」なんだって!




「カー君」(笑)
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チェーン店の古書店で、100円で投げ売りされていたので、それに、イラストがあまりに愛らしかったものだから(笑)、「カラスの教科書」松原始(講談社文庫)、というのを買ってきた。著者は、京大理学部の生態学教室、の出身、動物行動学専攻、というから、わが師、いや(笑)、一面識もないのに、研究室に押しかけて、「造反教官」、「赤ヘル」シンパサイザーのよしみで、一度も出席していないのに単位を出してくれ、と、「おねだり」することをもって、「師弟関係」と呼ぶとすれば、の話だが、故・日高敏隆氏の、「教え子」ということになるのかもしれない、いや、私よりも一回りくらい若い方だから、あるいは、その頃は、日高先生は、滋賀県立大学の学長職に転任されていたかも知れないな、・・・、日本に生息するカラス科カラス属、は、数種あるらしいが、もっともふつうにみられる二種が、ハシブトガラスとハシボソガラス、その識別が、なかなか難しいことは以前から話に聞いていたが、ここ沖縄では、稀な渡り鳥としてやってくる以外、ハシボソガラスを見ることがないので、だから、たとえば、この「カー君」(笑)が、ハシブトガラスであることも、たちどころに断定できるのである、面白い話題がたくさんあって、またそのうち小出しにして紹介するつもりだが、だから誰も聞いてないって(笑)、一般に、「くちばしの黄色い奴」というのが、「若輩者」をなじる常套句であることは、子供の頃から知っていたが、もちろん、巣立ったばかりの幼鳥の、くちばしが、本・当・に・黄色いことを知ったのは、こちらに来て、諸般の事情で(笑)「バードウォッチャー」になった、ならざるを得なくなった(笑)、後のことであるが、カラスでは、これが、「のどの奥の赤い奴」、になるんだそうだ、たしかに、腕をつつかれるのが痛いから、草の茎なんかで、気を逸らそうとすると、ぱくりと咥える瞬間、のどの奥が真っ赤なのがはっきりわかる、・・・、猫の体温が、38度くらいで、人間よりやや高いことは、もちろん長年の経験で(笑)熟知していて、これは、霊長類から、おそらくゾウリムシのレベルに至るまで、細胞を構成する化学組成はほとんど変わらず、したがって、代謝に必要な酵素反応の最適温度を維持しようとすれば、身体サイズが小さいほど、体表の温度は、高く設定しなければならない、表面積は長さの二乗、体積は三乗だから、表面積/体積比は、長さに反比例することになる、小さいものほど、体表からの放射で失われる熱が大きいから、これを補わなければならないんだね、ということぐらいは、そりゃ元・「ばったもん」物理の先生だから、理解していた、・・・、鳥の体温は平均的に40度ぐらい、それを維持するには、猫や人間以上に、エネルギー摂取を要することになる、その上、空を飛ぶには、身体を決して重くしてはならない、という理由から、彼らは、少しずつの食事を、実に頻繁に行うらしいのである、なるほど、海辺で見るシギ、チドリたちが、どうしてあんなにもせわしなく(笑)、いつでも「食事中」なのか、やっとわかった、そして、うちの「カー君」が、こうして、一日に何度も何度もやって来て、「キャット・フード」を食べ散らかさなくてはならない訳も(笑)。去年始まった、ヨーロッパの穀倉地帯を舞台とする戦争以来の物価高、キャット・フードも、パッケージの容積が2割減、値段が2割増、などという「小賢しい」方法で(笑)、1.2/0.8=1.5、5割増しの値上げされてしまって、「家計」に大きく響いているのだが、こうして、のら猫以外にも、食事をもてなす「お友達」ができたことをよしとして(笑)、けちけちせずに、お出しすることに致しましょう。・・・この本にも触れられていたから思い出したのだが、コンラート・ローレンツも、コクマルガラスを、「お友達」にしていたのだった、「ソロモンの指環」、読み直してみよう、それから、カラス科ではあるが、カラス属以外の鳥として、オナガ、沖縄にはいないようなので見たことはないのだけれど、のことにも触れられていて、そう、山川菊栄「武家の女性」、水戸藩の家臣の家に生まれた祖母の話の聞き書きだが、庭にオナガがやって来て、人なれしやすい鳥だから、「子守」を任せていた、なんて記述があったのを思い出した。

「カラスの教科書」松原始(講談社文庫)/「ソロモンの指環―動物行動学入門」コンラート・ローレンツ、日高敏隆訳(ハヤカワ文庫)/「武家の女性」山川菊栄(岩波文庫)
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・・・一番違うのは鳴く時である。ハシブトガラスは「カア、カア」とごく普通の「カラスの声」で鳴く。一方、ハシボソガラスは「ガー、ゴア―」としゃがれ声で鳴く。・・・
確実に見分けがつくのは鳴くときの姿勢である。ハシブトガラスは体を水平にし、頭を前に突き出し、尻尾をヒョイヒョイと振るようにして鳴く。一方、ハシボソガラスは胸をふくらませてグッと顎を引き、うつむいた姿勢から一気に頭を振り上げて、「ゴア―」と搾り出すように鳴く。・・・
地上に降りた時にピョンピョン飛び跳ねるか「よいしょ、よいしょ」と大儀そうに歩くのがハシブトガラスで、脚を伸ばしてスタスタ歩き、急ぐ時は早足になるのがハシボソガラス。さらに、顔を正面からアップで見た時に目がちょっと出っ張ってバルタン星人みたいに見えるのがハシブトガラス、ごく普通の鳥の顔をしているのがハシボソガラスだ。・・・
「カラスの教科書」松原始(講談社文庫)
その「ピョンピョン飛び跳ねる」ようにして、たとえば階段を登って行く後姿が、たとえようもなく愛らしい(笑)のだが、カメラを向けると、そんなところも猫と同じで、カメラに興味を持って顔を近づけてくるから、うまく撮れない、「『よいしょ、よいしょ』と大儀そうに歩く」の方は、少し、写っているだろう?それから、のどの奥が赤いのも、一瞬だけ!



クラカケモンガラ(モンガラカワハギ科)

キヘリモンガラ(モンガラカワハギ科)

タテハモドキ(タテハチョウ科)

ウスバキトンボ(トンボ科)

シマツユクサ(ツユクサ科)





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Last updated  2024.01.14 14:17:48



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