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醍醐天皇の時代、左大臣「藤原時平」の讒言により、右大臣「菅原道真」は、 朝敵として、京の都から、福岡の大宰府に左遷されました。 「道真公」の無念は、推し量ることが出来ないほどでしょう。 北野天満宮には、臥牛の像が多く置かれています。 その訳は、丑年の説と、今ひとつ流される途次、備前岡山の辺りで、 道の真ん中で、牛が臥せて動きませんでした、従って道を変更されました。 後で判ったことは、時平配下の刺客が待ち臥せて居たのを、その難を 逃れられたと言う伝説も有るようです。 都を離れられるときに、菅神社(私邸)の梅の花に向かわれて、 東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ 都の真の春を忘れないで、良き香りを東風に乗せて送ってくれ。 とも受け留められる、菅公の歌でした。 その後、雷神として、京の都は、雷と稲妻が激しく襲いました。 時平は、恐れおののいて道真の怨霊が襲ったとして、狂い死に したそうです。 左大臣は、右大臣の上位に位置することで、権限を悪用した 時平の疾しい心が、道真の怨霊と思いつめての結果で、 地震・雷・火事・・・大自然の怖さが重なったと思われます。 北野天満宮では、学問の神様と同時に、雷の神様ともされています。 一の鳥居の側に、【影向松】(ようこうのまつ)が有ります。 道真公が、初雪の日に、この松にご来臨あり、歌を詠まれるとして、 社紋の梅と同じく社紋の「三蓋松」(さんがいまつ)の由来とされています。 良心の呵責により、怨霊と思うのでしょう。歴史には多く現れてくるようです。 現代も、学問の神様として、崇敬され親しまれています。 「春な忘れそ」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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