帚木 蓬生 「逃亡 上・下」
1945年8月15日、日本敗戦。国内外の日本人全ての運命が大きく変わろうとしていた――。香港で諜報活動に従事していた憲兵隊の守田軍曹は、戦後次第に反日感情を増す香港に身の危険を感じ、離隊を決意する。本名も身分も隠し、憲兵狩りに怯えつつ、命からがらの帰国。しかし彼を待っていたのは「戦犯」の烙印だった……。「国家と個人」を問う日本人必読の2000枚。柴田錬三郎賞受賞。敗戦とともに、お国のための「任務」は「犯罪行為」とされた。国家による戦犯追及。妻子とともに過ごす心安らかな日々も長くは続かなかった。守田はふたたび逃亡生活を余儀なくされる。いったい自分は何のために戦ってきたのか。自分は国に裏切られたのか。一方、男の脳裏からは、香港憲兵隊時代に英国民間人を拷問、死に至らしめた忌まわしい記憶が片時も離れることはなかったが…。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・熊谷曹長はまくしたてた。「俺が捕まって絞首台にのぼらされても<醜(しこ)の御盾(みたて)>にはならない。絵空事は絶対に言わん。大嘘つきの無責任野郎だと絶叫してやるね。戦犯ほど、あいつの言うことを誠心誠意実行してきたのだ。一国の頭を勤めた人間なら、マッカーサーと対等に論戦をいどみ、広島と長崎の原爆投下を追及しながら、戦犯の助命にお百度を踏むべきではないか。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「戦勝国に戦犯などひとりもいないだろう。所詮、戦犯というものは、勝った国が腹いせに敗けた国に報復をするリンチのようなものだ。見映えをよくするために、法律という台本と法廷という舞台はちゃんと用意してな。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・突然嗚咽がこみ上げてきた。自分は国からも、そしてあの天皇からも見捨てられたのだという思いが、涙とともに溢れ出してくる。赤紙一枚で兵隊にとられ、杭州湾に上陸、中国大陸を転戦した。来る日も来る日も行軍だった。日照りの日も、雨の日も、風の日も歩いて大陸の山河を移動した。二等兵から一等兵、そして上等兵になるまで、ずっと鉄砲を担いでの歩き通しだったのだ。長男の出生にも立ち会えなかった。もともと身体は強いほうではなかった。このまま兵隊で過ごせばいつかは落伍兵になるか、中国兵の餌食になると思った。農村を荒らし、自分と同じ農民たちを串刺しにする訓練も嫌だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・国からも天皇からも見捨てられたと、熊谷曹長は言い、大前は本間中将の例を上げて、軍部と天皇から見捨てられたと言った。事実はそうではなく、国も軍部も天皇も、こちらを眼中に入れてはいなかったというのが正確なのではないか。ひとりひとりの民、兵など、叢(くさむら)の虫けらの如く初めから無視されていたのだ。国の民、天皇の赤子(せきご)と喧伝(けんでん)され、信じこまされていたが、実体のない掛け声に過ぎなかったのではないか。